死者の恋 |
時折入り込む冷たい風が、石壁に設けられた松明を揺らしている。 243年ぶりに復活した冥王ハーデス。まるで迷路のような城内の奥深く、隠されたように存在する円形の小さな部屋……その中で、サガはひとり膝まづいていた。目の前の祭壇に向かって静かな祈りを捧げている。
キューブは、扉の開け放された部屋の入り口からこの様子を覗き込んでいた。向こうをむいたまま動かないサガの様子に苛立ちを覚え、わざと聞こえるように舌打ちしたり、かと思うと、表情の読み取れない覆面の裏側から、品定めをするような視線を送っている。
気まぐれに視線を廊下へ戻すと、いつの間にか目の前に巨大なシルエットが立ちはだかっていた。背後の羽根がさらにその影を大きく見せている。
「まだここにいるのか。」
「は、はいラダマンティス様……ずっとあんな様子で……」
キューブは慌てて姿勢を正した。部下の言葉が終わる前にラダマンティスは部屋に入り、後ろ手に重い扉を閉めた。
「祈りか…いつ見ても滑稽な姿だ。無駄な事はやめるんだなサガ。」
ラダマンティスは余裕の笑みを浮かべてサガの背後に近づいた。もちろんサガはやめるつもりはなく、ただ無言で祈り続けている。ラダマンティスはそっとサガの長い髪を一房手に取り、指に巻き付けた。
「なかなか似合うじゃないか。この髪色、そしてその冥衣…冥府の者にふさわしい。もとの鮮やかな蒼銀の髪も捨てがたいが、冥界に生きるオレの目には少々眩しくてな。この色がいい。オレの好みだ。」
そう言いながら、髪を少し強めに引っ張ったりして弄ぶが、それでもサガは無言のままぴくりとも動かない。あくまでも挑発に乗らず、頑なに沈黙を守るサガに、ラダマンティスは髪をはらはらと放すと、サガのすぐ横で片膝をつき、その横顔を覗き込んだ。視線を感じたサガは、うっすらと瞼を開いたが、正面のままで彼の方には顔を向けない。長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳。その素晴らしい翡翠の色を見て、ラダマンティスは満足げに口を開いた。
「何故こっちを見ない…オレが嫌いか?…このオレがお前を助けてやったのだぞ。」
永遠だったはずの眠りから徐々に浮上してくる意識。かすかに人の声が聞こえてくる。何かを削るような音……突然、自分に覆いかぶさっていた闇が消え去り、こちらを覗き込んでくる数人の影がぼんやりと見えた。
「おい、見ろよ……こいつ、すげえいい顔をしてやがる…」
冥界の墓掘り役に追い立てられ、サガは朦朧とした感覚のまま、冷たい石畳の廊下を歩いていた。他の仲間たちもいるのだろうか…? 覚醒したのは自分だけなのか…白い経帷子の裾に時折足をとられ、つまづきながらサガは頭を抱えて歩いた。しばらく廊下を進んだ頃だった。サガを連れていた雑兵たちが、急に彼を小さな石牢へ押し込み、襲ってきた。暗くてよく見えない。力もうまく入らない。しかし、何が始まったのかすぐにわかった。必死で抵抗したが、数人が相手なので、今の自分ではとても叶わない。衣を裂く音、野卑な笑い声が大きく響いて聞こえる。あわや…の場面で、突然、牢の中に閃光が走り、一瞬悲鳴が上がったが、それっきり静かになった。突き抜けた光は、雑兵の冥衣も命も同時に吹き飛ばしていた。
「大丈夫か?」
足下にわずかにみえる影を辿って見上げると、そこには巨大な羽根を持つシルエットが立っていた。鋭い眼光がサガを見返してくる。
「オレが見張ってないとすぐこれだ。冥界は極端に女がいなくてな…まあ、どんな理由であれ、掟を破った者は始末されて当然。まして雑兵ごとき…」
言葉の途中だったが、サガは不覚にも力つき、自分を助けてくれた男の前で気を失った。その後、遠い意識の中で抱きかかえられ、汚れた衣を脱がされ、身体を水で清められた。その人物の放つ言葉とは不釣り合いな、どこか優しい小宇宙…
「さぞ、その者が恋しいことだろうな。」
ラダマンティスの声に、サガはハッと我に返った。そして、目の前にしつらえられた祭壇を見上げた。不気味なガーゴイルのレリーフが施されたその台の上には、身体を黒い布に包まれたアイオロスが横たわっていた。
「13年分の年月を経た恋人の姿はどうだ?本来なら、そいつも冥闘士にするつもりだった。かつて次期教皇の指名を受けたほどの戦士だ。シオンやお前と並ぶ強力な駒となる。しかし…このような仮死状態の方がいろいろ使い勝手がいい事に気づいてな。この事はパンドラ様には秘密にしている。こいつを利用すれば、お前を簡単に動かせるからな。」
サガの祈る手が震える。微かな動揺だったが、ラダマンティスは見逃さなかった。
「幼い頃から、随分こいつに愛されていたそうだな。しかし、お前の過ちでこいつを死なせたのだろう?……知っているぞ、かつてのお前の罪を。悪霊に魅入られ、死の神と同じ白銀の髪と瞳をもって、聖域を混乱に陥れたお前の所業を。」
「あぁ……」
サガは握りしめた拳に額を当てて苦悶の表情を浮かべた。アイオロスの事だけは、サガを無気力にさせる絶好の話題だ。
「……こんなやり方は本来オレの性に合わんが、お前を従わせるには必要だと思ってな。まあ、これから先はお前次第だ。アイオロスを生かす事で、その罪も幾分か軽くなるだろう。償いのチャンスをハーデス様が与えて下さったと思え。お前はハーデス様とこのオレの命令をよく聞いて、二度とアイオロスを失わないよう、いい子にしていればいい。」
馬鹿なことを…サガは心の中で叫んだ。私に償いのチャンスを与えて下さるのは、ただ一人、女神アテナのみ。それに、聖域の聖闘士に、ハーデスが与える永遠の命になど本気で目が眩む者などいない。…まして、このアイオロスは聖域随一の英雄。たとえこのような仮死状態だろうとも、志は我々と同じ。いざというときは、アイオロスの魂も道連れにして、必ずやハーデス軍を倒す。
サガは、心の中で幾重にも意識の壁を張り、常に入り込もうとしてくるラダマンティスに読み取られないようにしていた。今は、個人的な感情で動くわけにはいかない。そんなサガの様子を気にもせず、ラダマンティスは一人で喋り続けた。
「かねてから、女神の聖闘士を従者にしてみたかった。オレはもともと美意識だの風情だのに興味がなかったが、お前を見て、初めて考えが変わった。」
そして、サガの耳元に顔を近づけて、思いがけない事を口にした。
「ところで…お前には弟がいるそうだな。お前そっくりの、双子の美しい弟だ。出来ればオレはその弟もほしい。その男、神をも欺く相当の強か者と聞いている。従順なお前も可愛いが、その容姿で反抗的な性格もまたオレの好みだ。」
「弟は、13年前に私が牢に閉じ込めました。その後、彼の行方を知りません。生きているのかどうかも…」
「冥界の者にとって、生死などたいした差はない。お前が知らなくても、こちらで追うとしよう。」
「しかし、弟を従者にするのはいかがなものでしょうか。あれは貴方が思っている以上に素行も悪く、反抗的で、しかも聖闘士の中でも屈指の小宇宙を持つ戦士。貴方の手を煩わせるだけです。私だけで充分かと…」
サガは飄々として答えたが、内心は穏やかではない。カノン…お前が頼れる存在として、今、女神や仲間たちの傍にいてくれたら…この兄はどんなに嬉しいことか。
カノン…お前は今どこに…
カノンの生存と改心を未だ知らないサガは、つくづく自分たち兄弟の宿命を悲しく思った。
「弟をかばう気だな。隠そうとしても無駄だ。そういえば、ミーノスも従者を欲しがっていた。しかし、あいつはやめた方がいい。あれは物腰が柔らかいくせにひどく嗜虐的だ。お前たちを人として扱うかどうか疑わしい。オレの方についていた方が安心だぞ。」
高らかに笑った後、ラダマンティスは急になだめるような声を出した。
「…お前を失いたくない。だから、護衛をたくさんつけてやる。お前たちが任務を遂行できるか、その見張りという名目でな。もしこの事をあの醜い小癪なガマガエルに知られたら嘲笑されるからな……とにかく手柄を立てればいい。12時間以内に女神の首さえ取ればいいのだ。すべてが終わったら、パンドラ様にお許しを得て、このアイオロスにも命を与えてやる。優れた冥闘士として、そして、お前を操る道具としてな。楽しみにしているぞサガ、オレの側近にふさわしい美しい衣を着せて、お前たち兄弟を永遠にオレの両側において、思いのままに使ってやる。」
耳元に響く柔らかな声に、助けてもらった時の優しい感触が蘇る。あの時と同じ、言葉とは裏腹な、引き込まれそうになる小宇宙……サガは、この男の未だよく見えない本性に不安を覚えた。
急に扉が軽くノックされた。
「あのう…ラダマンティス様」
「なんだ?」
ラダマンティスがイライラした口調で返事をしたので、その様子に少し怯えたようなキューブの声が返ってきた。
「あの、パンドラ様がお呼びだそうです。」
チッと舌打ちして立ち上がると、ラダマンティスは今までの笑みを打ち消し、まるでキューブにも聞かせるように大声を出した。
「期待してるぞサガ!オレを怒らせないよう、せいぜい努める事だな!」
勢いよく扉を開け、ラダマンティスは羽根を翻して颯爽と廊下を歩いていった。
再び部屋にひとり残されたサガは、眠りについたままのアイオロスをじっと見つめた。蝋燭の明かりに照らし出された、27歳の彼の横顔。ラダマンティスの呪縛により、瞼が開きそうで開かない。アイオロス……お互い生きていれば、聖域の澄みきった青空の下で、この横顔を見つめていられたのに。優しい優しいアイオロス。きっとその両腕で、私が望む限りずっと抱きしめてくれただろう。オリーブの瞳はいつも私の姿を辿り、その唇は私への愛を語る。この世で、誰よりも愛しい存在……
サガは床に両手をつき、嗚咽をもらした。
すまないアイオロス……
この状況を作り出した私の罪を、どうか…どうか許してほしい。お前の尊い魂を守りたい。ああ、女神アテナよ、どうか、このサガにお力を…!
彼の魂に、神の祝福を…!!
無情にも、その祈りを打ち壊すようにキューブの怒鳴り声が響いた。
「立てサガ、時間だぞ!さっさと……」
サガを連れ出そうとキューブは部屋に入ろうとしたが、廊下の向こうから再び足音が聞こえてくるのがわかり、また慌てて姿勢を正した。現れたのは、漆黒のローブに包まれた男だった。ラダマンティスと勘違いしていたキューブは、途端に大きい態度に出た。
「何の用だ。お前も集合する時間だろう!」
ローブの人物は答えない。その隙間から、澄んだ紫の瞳がのぞいた。
背後で小さな衝撃と倒れる音がした。振り返ると、自分に与えられたものと同じローブを身につけた男が静かに入ってくる。
「シオン教皇…」
そう呼ばれた男は、フードを脱ぎ、懐かしい微笑みを浮かべた。サガはすぐに片膝をついて一礼した。
「見張りは気絶している。さあ、みんな集合している。お前も行け。私も用が済んだらすぐに合流する。」
「教皇、用とは…」
「お互い12時間を耐え抜くのだ。お前たちには十二宮を行く以上に大事な役目が待っている。さあ、仲間のところへ行け、サガ!…あいつが目を覚ます前にやらなければならん。」
口ごもるサガにきつく言い渡し、シオンは彼を扉へ押しやった。
ハーデス城を遠い頂きに臨む場所に、復活した黄金聖闘士たちが集っていた。皆、不気味な黒いローブに身を包んでおり、顔の表情もほとんどわからない。ただ、その小宇宙だけが、お互い特別な仲間としての懐かしさを呼び起こす。
ふと、誰かの声を聞いた気がしたサガは、その碧の瞳を夜空に巡らせた。
「なんだあれは。」
サガが見上げたすぐ後に、デスマスクが気づいて声を上げた。夜空を一条の光が突き抜けていき、そのまま宙にとどまり、小さく光っている。
「何の光だろう。それに不思議だ。どこか懐かしいような…」
サガと共に、カミュ、シュラ、アフロディーテも、その光に魅入られたように一点を見つめていた。
「全員そろったか。」
シオンの登場に、皆が片膝をついた。かつて偉大な教皇として君臨していたシオン。その威厳は復活した今も絶大だ。これから始まる壮絶な運命も、強力なシオンがいるだけで士気が上がる。まだ見張りが来ていないのを確認してから、シオンは全員に語りかけた。
「どんな状況になろうと、自分が何者か忘れるな。かつての同胞に、偽りの姿を見せる事を恥じてはならぬ……これもすべては女神のため、地上の愛と平和のため。お前たちの想いが一つである限り、必ずや最後の地に全員が集結できるだろう。」
全員の瞳が、強い意思をもってシオンに応えた。
立ち上がるサガに、シオンがさりげなく近づき、囁いた。
「アイオロスの魂を解放した。」
「えっ……」
「彼は最後の役目を果たす時まで、もうしばらくの休息が必要だ……それだけの小宇宙を要する重大な任務なのだ。」
シオンの紫の瞳に少し翳りが見える。あのラダマンティスの強い呪縛を解くためには、おそらく半分近い小宇宙を使い果たしただろう。シオンの決死の覚悟に、サガは涙を浮かべた。その頬に、シオンは優しく指で触れる。
「可哀想に……しかし耐えろサガ、必ず約束の地で彼に会え。」
シオンは、いつもの微笑みを浮かべ、小声だが強く言い切った。
「アイオロスは、お前が来るのを待っている。彼は、はっきりとそう言った。」
サガの濡れた瞳が見開かれた。シオンは頷くと、さっとフードを深くかぶり、先頭に立って歩き出した。漆黒の一軍は、空にまたたく光に守られながら、暗闇の中を十二宮の方角へ消えていった。
「様子がおかしい……なんだこの感覚は。」
黄金聖闘士たちの一軍を城の窓から見送っていたラダマンティスは、どこからか放たれるプレッシャーに不安を感じていた。何気なく夜空を見上げると、見たことがない小さな光を発見し、背中に冷たいものが流れる。急いで祭壇がある部屋へ向かうと、横たわっていたはずのアイオロスの姿がなく、身体を包んでいた黒い布が床に落ち、大きく広がっていた。
「…チッ…なんて事だ…!!…」
部屋に残る強大な小宇宙。これはサガのものではない。あの呪縛を解ける力を持つ者などそういないはずだ。キューブは恐れをなしたのか、ラダマンティスに何も告げず、逃げるように黄金聖闘士たちを追いかけていったのだろう。この事は、パンドラに内密に行っているため、騒ぐわけにもいかない。ゼーロスも気づいていないはずだ。
「…一体誰が……しかし、絶対に失敗するわけにはいかぬ……!オレは…お前の事を諦めんぞ……」
ラダマンティスの鋭い眼光に怒りが宿る。そして、勢いのままに拳で祭壇を叩き壊すと、足早に部屋を去っていった。
説明 | ||
ラダマンティスは双子より1cm背が高い。 少しラダカノ、シオサガ。なんか申し訳ない気持ちでいっぱいに…(笑) |
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