うつろぶね 第十七幕 |
カクは戦いながら、亡者たちを分断するように、小路に駆け込んだ。
狭い通路に、亡者が殺到し、入口で押し合いへし合いを始めたのをちらりと見て、カクは更に小路の奥に駆けだした。
妙な話だが、死を受け入れない類の亡者は、肉の身を持たぬくせに、壁を抜けたり、空を飛んだりはしようとしない。
自らが、「人では無い」事を証立てるような真似はしない……いや、そもそも彼らは、自分にそれが出来ると、毫も思っていないのだ。
彼ら、既に死したる亡者達が、それでもなお、人として生き、動こうとしている。
肉も無いのに押し合い。
押されれば転び(まろび)、痛い痛いと泣く。
そんな、残酷な、思い込みにまやかされた死者達の演じる、滑稽な人の振り。
これもまた、この舞台をしつらえた奴の、悪趣味な趣向なのか、それとも意図せず生じた結果なのか。
細い道を走り抜ける。
妙な小路であった。
大路と違い、奥まったこういう区画は、普通なら人家や雑多な小屋がごみごみと立ち並び、生活感に満ちた人の暮らしが在るべき所なのに、その気配どころか、それらしい建物の存在すらない。
……まぁ、実際に住んだ事も無く、海から人の街を眺めるだけの蜃では、細部が甘いのは無理も無いか。
蜃の知識では、建物や街の細部までは判らなかったのだろう、小路は、何か良く判らない、のっぺりした高い壁のような物が左右に続く、小路と言うより、迷路のような場所になっていた。
灯りが漏れぬ壁。
そんな壁に囲まれた、周囲からのしかかるような闇の中を、カクは走り続け、追いすがる亡者たちを叩き伏せ続ける。
走り続ける中で、ふっと、光が見えた。
かすかな光。
闇の道の先に、妙に白っぽく見える世界が垣間見えた。
隧道の先に見える光景に、それは少し似ていた。
大路か。
灯りを求めるように、カクは走り続ける。
目の前が、ぱっと開けた。
雲霞の如く群れていた幽鬼達が嘘のような、とても静かな場所に、カクは立っていた。
多くの人に踏み荒らされた道のそこかしこに衣類が散乱し、そして宝物や銭がにぶい光を弾く。
これが、あの漁師たちが逃げ出した場所だと、一目でわかるほどに、そこは、この生気乏しい、死の気配満ちる海市の中で、騒々しさと猥雑さの名残が……そう、生きた空気が、色濃く残っていた。
その真ん中に。
「おっちゃん!」
男が一人倒れていた。
夕闇の中で、ちらと見ただけだが、間違い無い。
あの洟垂れ君のととさんだ。
僅かに上下する胸と、半開きの口を見るに、死んではいない。
彼に駆け寄ろうとして、カクは僅かに躊躇った。
罠を疑った、勿論それは有る。
だが、それ以上に、演劇人である彼女には、今自分が置かれた立場という物が、その場の空気から、本能的に理解できた。
「場」が変わった。
カクの戦いの幕は、彼女らが知らぬ内に下ろされ。
今、別の幕が、誰かによって、人知れず上げられた。
舞台の中央に、これ見よがしに倒れた人。
自分はさしずめ、袖から何か言いながら彼に駆け寄る役回りという所か。
問題は、この出来損ないの劇において、誰も自分が主役なのか脇役なのか知らされていない事だろうか。
はて、自分は間抜けな三下なのか、それとも主役格なのか。
(ふざけるな……何様のつもりだい!)
人を玩具にする相手への。
そして、自分が心魂傾けて極めんとしている生業を汚された。
カクの目の中に怒りが、だが今までと違う、もっと冷徹で激しいそれが燃える。
倒す……この悪趣味な舞台を仕組んだ奴だけは。
絶対に許さない。
一方の仙狸もまた、大路での乱戦を嫌い、カクと同じように小路に戦場を移していた。
ひとしきり追いすがる亡者を叩き伏せ、攪乱し、走り回った仙狸の身にも、一時の静寂が訪れる。
油断なく辺りに気を配りながら、彼女は疲れたように大きく息を吐いた。
「ふぅ……」
しんどいのう。
個々には大した力が無くとも、遠慮なく叩きのめせる敵とは違い、この手の亡者はどうもやりづらい。
頭では、さっさと現世から解放してやるのが彼らの為だとは判っているのだが、それを自分の手でやるのはどうも気が進まない……。
本来なら、執着を断ってやるなり、自らが死んでいる事を示すなりしてやって、納得ずくであの世に送ってやるのが、一番良いのじゃが。
(餅は餅屋というが、こんな時に夜摩天殿さえ居ればのう)
最近、大騒動の末に仲間になった、冥府の王たる彼女ならば、本業だけに、彷徨う亡者の扱いなど慣れた物である。
この程度の亡者の群れ、纏めて冥王の炎で焼き払い、自分が「死んだ」事を納得させた上で、迷わせずに、裁きの場に送ってしまうのだろうが。
炎か。
夜摩天の操る炎ならずとも、火で焼かれた物は、その煙に乗って、精髄があの世に送られる。
いわゆる、御焚き上げと呼ばれる行為は、冥府に何かを送り届ける為の儀式。
だが、あれだけの亡者を焼く力を持つ炎を操る術は、カクにも仙狸にも無い。
乱暴な話だが、彼らを住処さら焼き払うべく、火事を起こしてやるのも一つの手だが、幻と神の力でかりそめに建つ、この海市の建物では、火を付けた所で燃え広がるどころか、焦げがつくかも怪しい物である……。
この手は使えない。
(やれやれ、無い物ねだりを始めたら、人間も式姫も御仕舞じゃな)
首を振って、仙狸は周囲をぐるりと見渡した。
カクも迷い込んだ、壁で区切られた妙な迷路状の空間。
(その造形の細部に神宿る……とは行かぬようじゃな、まぁ無理も無いか)
大路はそれなりに見られた物になっていたが、知識の無い場所に関しては、こんな物になってしまうのは無理からぬ物。
化かしの達人、かぶきりひめの言葉を借りれば、「知らぬ物には化けられない」のである。
仙狸もまた、カクと同じ結論に達し、一つ肩を竦めた。
「さてと……行くか」
静かに、さながら街を行く猫のように、彼女は陰の中にするりと身を潜らせて、歩き出す。
迷路を行く。
狭く、暗く、先の見えない小路を、密やかに行く。
だが、仙狸はカクと違い、時折、通路の向うに見える光には目もくれず、その逆の闇の方、闇のより深い方へと歩を進めていた。
光は、生ある存在を誘う、導き。
安らぎ、命、快美、そういう物の象徴。
光差す、その方向には、生者にとって心地よい物があるのだろう。
例え、それが戯画であれ、海市はそれでも明るい場所であった、人が集い、商いをする、生ある営みの場所。
であれば、その逆の場所には、この島の真実が、彼女たちに見せたくない物が、隠されているのではなかろうか。
不安や死、醜悪で哀しく惨めな、隠したい、隠さねばならない、そんな密やかな闇の中の営みが。
確信では無かったが、そんな、微かな期待があった。
光差す場所が表舞台ならば、彼女が目指すのは舞台裏。
夜目の効く彼女でも、辛い程に光が少なくなっていく。
目を凝らし、ゆっくりと歩を進めて行くと、それまで、僅かに白っぽく見えていた壁すら見えなくなる。
迷路の終点が、蜃の作り上げた幻影の、限界点が近い。
では、その先にある物は一体。
そう仙狸が思った時だった。
「む……」
踏んでいた足元の感触が変わる。
それまで堅い土の地面だった物が、急に違う物に変わった。
かりかりと、時にきゅうと、硬い物が擦れる音が足下で響く。
(これは玉砂利か)
ここは、高貴の人の屋敷か、はたまた寺社の境内か。
そもそも、海市の一部にこんな場所が、何故。
周囲を探ろうと、更に目を凝らそうとした仙狸の、少し離れた所で、声が立った。
「誰(たれ)じゃ、父上かや?」
その言葉に、仙狸は思わず身を伏せた。
「おお、姫よ、私だよ」
だが、その言葉は仙狸に掛けられた物では無かった。
きしきしと板張の床を踏む音と共に、低い壮年の男の声が響く。
「まぁ……本当に来て下さるなんて」
「大事な娘だ、当たり前ではないか」
「うれしゅうございます、『父上』」
二人の声が交わされる毎に、周囲に人が、景色が現れていく。
まるで、仙狸が、上演中の舞台にひょっこりと迷い込んでしまったような、妙な場所であった。
仙狸が身を伏せた場所に、月光の中、青い光を帯びた、柘植の植え込みが現れる。
小体だが、品よく作られた、貴族の別宅だろう屋敷の中庭に、仙狸は身を置いていた。
(これは……一体何じゃ?)
気配を殺し、顔を上げる。
先ほど声を発した姫だろうか、厚く重ねた衣の上からも、その豊かさを隠しきれない体をした、妙齢の美女。
小さく白い顔、そして、その顔を縁取る、長く緩やかにうねる、どこか赤みを帯びて見える髪。
まさか、これは、あの先代住職を狂わせたという姫か。
確かに、今の住職が異形の美だと言ったのも判る気がする、異国の血が混じっているという言葉が頷ける、この日ノ本では見ない、妖しく豊麗な美しさだった。
(これは、確かに凄まじい)
式姫達は美姫揃い、中には傾城傾国を謳われる妖艶な姫も居るが、この姫はそういった存在とは明らかに違っていた。
人という、定命の。
腐る事の出来る果実だからこそ持てる、発酵から腐敗に至る刹那の時に、甘く、そして濃く狂い咲く……同じ人の雄を誘い狂わせる獣の匂い。
その顔が、父と呼んだ男の顔を、下から見上げる。
その目。
遠間から見ただけだが、仙狸はその眼の中に見えた光に、背筋が寒くなるのを覚えた。
親子の情愛などというより、そこにあったのは、まるで……。
この娘は。
いや、この親子は。
「今日は、占いの結果が悪(あ)しぅて……急にあのような文を出してしまいました」
宮中の大事なお役目がお忙しい父上に、ご迷惑を。
殊勝げだが、自分には、その迷惑をかけるだけの価値があると、それを知っている驕慢な声。
「よいよい、慣れぬ都で占いの結果が悪いとなれば、さぞや不安だったろう、だが大丈夫だよ、この通り、陰陽師から札を貰って来た、これをこれ、この様に蔀(しとみ ※板の上げ戸)を下ろして、表に貼って、中で一晩籠もっていれば」
そう口にした男の喉が、飢えた人がご馳走を目の前にしたように、音高くぐびりと鳴った。
それを聞いた、姫の目が、うっすらと笑みを浮かべる。
軽蔑するような、だが、相手に媚びるような。
「籠もっていれば?」
遠くから聞いている、同性の仙狸の脳すら痺れそうな位、声音その物に媚香が纏いつき、漂い出すかと錯覚するほどに蠱惑的な響き。
「災いなど」
男がもどかしげに、傍らの棒を手に、部屋の蔀を下ろし、慣れぬ手で糊をつけ、札を張っていく。
にちゃりと手に付く糊に、皺が寄る不格好な札に苛立ちながら、彼は、蔀を落としながら札を張って行った。
その気ぜわしげな様を、面白がるような顔で見ながら、姫はどこか無邪気な声で男に問いかけた。
「災いなんて?」
そう言いながら、姫は実の父親の腕にしなだれかかった。
「翌朝には何の心配も……」
熱に浮かされたような、掠れた声。
彼は最後の蔀を下ろして、そこに札を張った。
「翌朝まで?」
居て下さいます?
そう目で問うた姫を、父親が被さるように抱きすくめ、二人の姿は蔀の向うに消えた。
暫くして、四方を板戸で覆われた部屋から、それを通しても尚聞こえてくる音が立ちだしたのを確かめて、仙狸はその場所に背を向けた。
これ以上、聞きたくも無い。
悍ましい。
これもまた、まやかしなのか。
だが、心のどこかで判っている。
これは、過去に実際に有った事。
この海市の深奥、蜃が喰らった人々の想いが沈殿して作られた、深い深い闇の中に封じられ、秘め隠された過去の一部。
流石の仙狸が、余りの気分の悪さに、顔をしかめて、最前まで見ていた光景をふり捨てるように首を振った。
この様な事は、人の営みの中ではままある事と、彼女の知識や理性は知っている。
だが、これは余りに。
「畜生共が……」
抑えきれないやるせなさが心から溢れ、囁くように声になって、仙狸の口から零れた。
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。 前話:http://www.tinami.com/view/958047 |
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