もう片方の手提げ袋 |
『もう片方の手提げ袋』
それは七月の初め、空一面が曇った蒸し暑い午前中の事だった。背中にランドセルを背負い、左右両手それぞれ別々に荷物を提げて、三時限目の途中から学校に登校して来た小学五年生の女子児童がいた。だが彼女は別に寝坊等で遅刻したわけではなく、毎月二回、ずっと通院している病院へ行っていたのでそんな時間になってしまったのだ。
いつもは放課後に一旦下校して家から通院しているのだが、その日の女子児童は都合で朝一番に診てもらわなければならなかった。そしてそれはもちろん担任の先生にも前もって伝えられているはずだった。学校に着いた彼女は靴を上履きに履き替えるとまず職員室へ向かった。登校した事の報告と、教室の鍵を借りる為だ。その日の六年生の時間割りは、三時限目と四時限目がプールで学年全体での水泳の合同授業だったので、授業中でも教室の戸が閉まっていたのである。
女子児童は戸口で一礼してから職員室に入り、中にいた学年主任の先生に事情を話して教室の鍵を借り受けると、すぐに自分のクラスのある校舎へと向かった。そこの小学校では水泳の授業の時は、奇数組の男子が次の偶数組の教室へ、偶数組の女子が反対に一つ前の奇数組の教室へ移動して男女が別々に着替える様になっていた。学年のクラス数が奇数だと一学級余る事になるが、そんな場合には最後の組の学級の児童だけプール内にある男女別の更衣室の中で着替えられるのだ。彼女は五年一組なので着替えの為に移動する必要はなく、だからランドセルを背負ってそのまま自分のクラスの教室へ直行するだけで全て済むのだった。
施錠された戸を開けて後ろ手にそれを閉めた女子児童は、外側から見えなくする為のカーテンが南側の窓一面に引かれて薄暗がりになっている教室の中全体に目線を走らせた。それからまず自分の席のある方を見て、そこの机の上が空いたままなのを確認した。どうやら彼女が遅れて登校する事はちゃんと伝えられていたらしく、隣の教室から来た女子の誰かが勝手に着替え置きに使ったりはしていない様子だった。その事にほっとした彼女は、一人で電気を使う事に気が引けたのか、出入り口のすぐ横側の蛍光灯のスイッチを入れずに、並べられた席の間を縫ってそちらの方へと歩き始めた。そしてその途中、長く閉め切った空間の中に籠っている、それぞれの席の衣服から発散される湿気と匂いとに、思わずむっと呼吸を詰まらされた。
同性だけの着替えなので、男子達に見られる心配がないと思いみんな気を抜くのか、机の上はほとんどどれも女子の脱いだ服が乱雑に積み上げられたピラミッド状態になっていた。そして大概その頂点には彼女等のパンツがちょこんと乗っかっているのだ。それでも中にはちゃんとビーチバッグに仕舞い入れて隠していたり、たとえ机の上へ直に置いてはいても、きちんと折り畳んだ服を上に重ねて脱いだ下着が周りから見えない様に気を使っている子もいるにはいた。しかしそれはほんの一、二割の、教室全体でちらほら見える程度の人数だけであって、後は低学年の児童と余り大差ない位の野放図さなのであった。それ等服に付いた人数分全ての体臭が入り交じって漂って来るせいで、己自身も女の子ながら多少性的な、変な気持ちになりつつ女子児童は自分の席へ辿り着いた。そして自分も水泳の授業に途中からでも出るつもりだったので、教室の後ろの棚に行ってそこにランドセルを入れた後、家から別の手提げ袋と一緒にその反対側の手で持って来た水泳のビニールバッグを開けて中からスクール水着を取り出した。
教室の中には男子どころか自分がたった一人いるだけなので体を隠す必要も全然なく、家での時と同じくらいに素早く着ていた服を脱いで着替えを済ませられた女子児童は、上端に穴を開けて紐を通した「水泳参加許可カード」とバスタオルとを片手に持ち、水泳とは関係ない手提げ袋を肘の内側に引っかけると、すぐに教室の外に出て戸締まりをし直した。実は彼女にはそれとは別に途中で立ち寄らなければならない所がもう一つあったのだが、取り敢えずは鍵を返しに職員室へと、再び本館校舎の方へ向かって戻って行った。その時は他の多くの女子達がする様に体をタオルで隠すという事もせず、廊下の緑色のリノリウムの表面を上履きなしの裸足のままでぺたぺたと軽快に進んでいた。しかしそこの一階から二階へ階段を上がったすぐの位置にある窓の外から、今、正にクラスメート達が水泳の授業を受けている最中の学校のプールがちらっと見えると、その足の歩く速さはなぜか段々と遅くなり、何メートルか進んだ後の職員室の手前の位置でとうとう立ち止まってしまった。
まるで女子児童は何かの不意打ちにあったかの様に、しばらくの間じっとそこに立ち尽くしたままになっていた。だがやがておもむろに首から下に続く背骨をゆっくりと捩じ曲げて行き、動かせる限界の所まで来て止めると、すぐ横の窓ガラスへ映った自分の上半身の後ろ側をまじまじと見据えた。すると突然、両手を交差させて左右の二の腕を抱き締めながら、いきなり床の上へしゃがみ込みかけた。そんな何かが急に怖くなったらしい感じの動作からの半端な中腰の体勢で再び動かなくなった彼女は、少し時間が経つとようやく体の強張りが解けたみたいだったが、そうなると次は何かについてとても焦り始めた。そして今さら気付いたという風な仕草で、持っていたバスタオルをとてもぎこちない手付きで胸元から下に巻きつけて「他の多くの女子達がする様に」、体の大部分をきっちりと隠した。その後すぐにくるりと体を反転させて、そこまでの道順を、来た時の調子とはまったく違うとても覚束ない感じの歩き方で、元の教室の方まで急いで引き返した。
もう一度鍵を開けて中に入り、そこの戸を今度は凄い勢いでピシャリと閉めた女子児童は、先ほど最初に入った時と変わらず薄暗がりになっている教室の中をやはり天井の照明も点けずに進んだ。ところが今度は並んでいる机の間を、目もあまり良く見えていない手探りするみたいな格好で通り抜け、辛うじてという感じで、やっと自分の席まで辿り着いた。そしてよろけながら彼女は椅子に斜め向きの不恰好な形で跨ると、ついさっき脱いだばかりの自分の服に視線を移しながら、沈んだ顔付きで何かを考え込み始めた。しかしやっと何か意を決したのか、気怠そうにしながらもやがてふらふらと立ち上がり、最初に着た時と同じでやはり誰か人に見られる訳ではないので、肩掛けの方から外した濃紺の水着を足元まで一気に脱ぎ下ろして、一度そのまま全裸になった。そうやって教室の中で再び素っ裸の状態に戻った彼女は、机の上に置いてあった下着を取ってゆっくりと身に着けて始めた。そしてビーチバッグを持っていた手の反対側にずっと提げて来ていた方の手提げ袋の口を開け、プールへ行く前に保健室で預かってもらうはずだった、自分で装着出来る骨格矯正用の装具を取り出した。
金属とプラスチック、厚手の布で作られたその矯正器具について女子児童は、効果が薄れるので運動する時以外は出来るだけ着けていなさい、と普段から言われていた。でもどうせ今日は学校に着くとすぐにまた外さなければならないのだから、と思って横着がり、病院で一度外した後は装着せずに、ずっと手提げ袋に入れて教室まで持って来たのだ。そんな本人にとっての「異物」を、慣れた手付きで下着の上へかっちりと挟み込んだ彼女は、次に重ねてブラウスを着込むと、淡々としたリズムで残りのスカートや靴下も穿いて、そのまま無造作に全ての身支度を整えた。そして空になった手提げ袋と、先ほどそこへ戻って来た時に体を隠すのに使っていたバスタオルとを机上に残すと、再びさっきの手順を繰り返して戸締まりをし、もう一度鍵を戻しに本館校舎の方へと向かった。今度は裸足ではなくちゃんと上履きを履いていたが、足取りの方は見るからに力無い感じでとぼとぼと廊下の上を歩いて行った。
どうやらこの日もプールで担任の先生に「水泳参加許可カード」を手渡しながら、「体は別にどこも悪くはないので本当は出るつもりだったんですけれど、やっぱり今日も見学させて下さい。」と正直に言わなければならなさそうだ。歩きながらそう思って思わずため息をついた女子児童は、実は夏の時期の水泳だけではなく、普段学校での体育の授業をほとんど見学していたのだ。にもかかわらず出欠簿上ではそれで全て出席扱いという事になっていた。しかし彼女が通院している理由は内臓器官の病気とは違っているし、特に運動を控えるべき外科的な疾患、または機能不全や手術の影響等があるわけではなかった。そして水泳の授業に参加するのが可能かどうか事前に受ける学校での集団検診には全く引っ掛かってはおらず、さらに当日の体調を朝、保護者にチェックしてもらうそのカードの項目も残らず問題なしの記述で、最後の欄に「はいります」の方へ油性ペンで母親が書いた濃い丸と署名が入り、横に捺印がされた完全な内容だった。また初潮前なので生理という理由でも非該当なのである。
その本当の理由というのは、水着や体操服越しではくっきりと外に浮き出てしまう矯正器具の支えのない素のままの骨格の形状を、この女子児童が人目に晒すのをずっと拒んでいるからなのだ。
ただこれは女子児童が独りでやっているずる休みの類とは異なり、通院している病院の主治医の先生から前もって学校の方に要請があったので、彼女に限って特別に許されている処遇なのである。むしろ逆に器具を着用する方を疎ましがられると治療矯正自体が上手く行かなくなるのでそちらよりはまだましであるとして、今は本人が自分の身体を周りに出す事へ自然に馴染んで行くのを、周りの大人達が気長に見守っている様な状況なのだ。
私の体もこの矯正器具みたいに取り外せたら…と思っても、しょせんは自分の一部なのだから諦めて付き合っていくしかない。
それが正解なのだと女子児童は誰よりも自分自身で良く理解していたし、いまだそう割り切れずについ隠そうとしてしまう事にとても情けなさを感じていたりもした。それにいつまでもこんな理由で休んでばかりいては、近い内に体育の授業の見学を先生が認めてくれなくなるのではないかと、別にしなくても良い心配をして不安になるくらい憂鬱な気分にもなっていた。だが、ようやく思春期に差し掛ったばかりのこの十一歳の少女が、他の児童達とは違って見える自分の身体をそのありのままに受け入れられる様になるまでには、もう少しの時間と心の成長とが多分必要なのであった。
〜終り〜
説明 | ||
原稿用紙、約四枚分の作品です。なお作中での女子児童に関しての描写は、実際に存在する特定の病気や障がいを表現しているわけではなく、また病院、学校側の彼女に対する対応措置も全て架空のものであるということを、一言お断りしておきます。 | ||
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