痕 肉じゃがはいかが?
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「ここが耕一お兄ちゃんのアパートか」

 メモを片手に初音はとあるアパートの前へとたどり着いていた。

 初音は背丈の半分ほどもある荷物を持っている。それもパンパンに膨れて。一体何が入っているというのだろうか。

 耕一の住んでいるアパート、初音はゴールデン・ウィークを利用して耕一の元へと遊びに行くことにした。

 もちろん三人の姉には内緒である。友達と一緒に旅行に行っていることになっている。

 初音の目的はたった一つ、耕一に肉じゃがを食べてもらうことであった。

 この日の為に初音は一生懸命肉じゃがの練習をしていた。そのため、柏木家の最近の食卓には肉じゃが欠かさず出ることになったのだが。

「耕一お兄ちゃん、おいしいって言ってくれるかな……」

 初音は耕一の部屋の玄関前まで足を進めたが、インターホンを押せないでいた。

 扉一つ向こうに耕一がいると思うと緊張が表に出てきてしまうようだ。先走った不安で心が苦しくなってくる。

 初音は指をインターホンへと持っていく。持ってはいくが、あと1センチというところで指が動かなくなってしまう。

 そんな行動が何度も続いた。

 時間にして10分ほど経った頃であろうか。不意に状況に変化が起きた。

 

 ガチャッ ゴチン!

 

 最初の音は耕一の部屋の玄関の扉が開く音、次の音は初音の顔面に扉がぶつかることである。

 初音はインターホン押そうか迷っていた。つまりずっと扉の前で立ち尽くしていたということである。

 扉を開けた者はそこに人が居るとは思わず、勢いよく扉を開けてしまったのだから初音にとってはたまったものではない。

「あっ、ごめんなさ……あら、初音じゃない。どうしたの?」

 扉を開けて耕一の部屋から出てきた人物は柏木家長女の千鶴であった。

 最初は扉を当ててしまい申し訳なさそうな口調だったが、相手が初音と知るとその口調は怪訝なものへと変わった。

「千鶴お姉ちゃん?」

 扉が顔面直撃したせいで初音の視界はお星様でいっぱいだったが、声からそれが千鶴だとわかった。

 初音は足下ふらふらで目の焦点も合っていない。

「お姉ちゃんこそ、どうしてここに……なに?この臭い」

 今まで痛くて他の感覚が機能していなかったのか、痛みがある程度治まったら強烈な臭いが鼻を付いた。

 よく見ると開かれた玄関の上部からは真っ黒な煙が出ている。

 煙に巻かれたのか、千鶴は涙目でコホコホと咳をしている。

「火事?」

 初音が慌てて尋ねる。

「そう、家事をしてたんだけど……」

 千鶴が答える。初音の顔が一瞬で蒼白になる。

 冷静に考えれば千鶴との会話が噛み合っていないということに気付いたのだろうが、耕一絡みのせいだろうか、初音の頭の中は一瞬でパニックに陥っていた。

 初音の頭の中は耕一を助け出すことでいっぱいになっていた。

 初音は千鶴を押しのけるように、耕一の部屋の中へと入って行く。

「耕一お兄ちゃん、どこ!」

 部屋の中は完全に煙が充満していて視界が悪い。しかし、部屋が小さいこともあり初音の視界にすぐに耕一が確認できた。

 耕一はちょうど部屋の真中でうつぶせになって倒れていた。

「耕一お兄ちゃん!」

 その体のどこにそんな力があるのか、初音は耕一を抱えると外へを運び出した。

 外では千鶴が相変わらずコホコホと咳をしていた。

「千鶴お姉ちゃん、消防車!」

「消防車?」

 急かすように千鶴に指示を出す初音。

 千鶴はそんな初音に対してキョトンとした表情を返すのみだった。

「だって火事……」

 そこまで言って千鶴の格好に気付く。エプロン姿で両手に鍋掴みを着けている。

 初音は先ほどまで入っていた部屋の状況を思い出す。そういえば部屋の真中にあったテーブルには鍋があったような気がする。煙はその鍋から出てはいなかったか、初音の頭の中が急速に整理されていく。

「お姉ちゃん、もしかして料理作ってた?」

 恐る恐る初音が尋ねる。

 そういえば前にも似たような事がなかったか、初音は自問する。

「だから家事をしてたって言ったでしょ……」

 申し訳なさそうに言い返す。口調が静かなのはこの煙が自分のせいだとわかっているからだろう。

 前にも千鶴が料理したときに、ものすごい煙が発生したことがあったのを思い出す。

 その時は柏木家の台所の換気扇が優秀だったためにこれほどのことにはならなかった。

 それでも火事騒ぎで近くの住人がバケツリレーを始めようとしたという逸話があるのだが。

 初音は呆れたようにため息をつく。

 ホッとした瞬間、耕一の体重が初音に重くのしかかる。

 今まで耕一の体重を支えていられたほうがすごいと言った方が良いだろう。普段の初音の力では耕一を支えることなど出来ない。

 初音は耕一の重さに潰されるように、その場で押し倒されていった。

「それじゃ、耕一お兄ちゃんは……」

「千鶴さん…料理……食べた……」

 初音の問いかけにと応えるように耕一が口を開く。

 単語しか話せないほどに衰弱しているのだろう、息も絶え絶えなのがよくわかる。初音の問いかけに応えられただけでもたいしたものだ。ほとんど押しつぶされている状況で訊ける初音も初音だがる

「おかしいのよね、ただの煮込み料理なのに煙が出るのよ」

 千鶴の咳はどうにか止まっていた。

 千鶴は右手の人差し指を頬に当てて考えこむように首を傾げる。自分の料理が殺人兵器の域に達しているということは自覚していないらしい。

 とりあえず火事ではないとわかりホッとする初音。耕一を動かしてもらおうと千鶴に声をかけようとする。

 

 バシャーン

 

 そんな初音に向かって大量の水がかけられた。もちろん初音に覆い被さっていた耕一も同様である。

「火事は大丈夫か?」

 水をかけた人物、それは梓であった。

 梓の手には、どこから手に入れたのか手にはバケツが握られていた。今はすでに空になっているバケツが。

「次です……」

 空になったバケツと取り替えるように梓に水の入ったバケツを渡そうとする人物がいた。楓である。

 梓との力の差なのか、それとも他にバケツがなかったのか、梓が持っているバケツよりも一回り小さいが水が満杯に入っているバケツである。

「違う……火事じゃな……」

 耕一が訴えるように声を発するが、か細過ぎて梓には聞こえなかったようだ。二杯目の水を全身に浴びるのを防ぐことは出来なかった。

「楓、消防車!」

 梓の指示に従うようにコクンとうなずく楓。

 ガソゴソと楓は荷物をあさる。すると荷物から黒電話が取り出されていた。

 梓は楓の持つ黒電話の受話器を上げ、119をコールする。

「ん?」

 コールしてしばらく待ってから梓は何かおかしいことに気付く。コール音が全然してないのだ。

 よく見ると黒電話から伸びる電話線は楓の荷物の中に消えていっている。

 梓は電話線を手繰り寄せる。

 すると何の抵抗もなく梓の手の中にコードが全て手繰り寄せられてしまった。もちろん電話線はどこにも繋がっていない。

「この電話は?」

「……家から持ってきました」

 梓の問いかけに、さも当然のように答える楓。

「携帯用の黒電話なんて無ぁい!」

 叩きつけるように受話器を置く梓。

 楓は何事もなかったかのように黒電話を荷物に仕舞い込む。

 梓は近くに公衆電話が無いかキョロキョロと顔を動かす。

「いいのよ、火事じゃないんだから」

 そんな梓に向かって千鶴が声をかける。

 運良く千鶴は水を浴びずにすんでいた。梓と楓の漫才のような展開に言葉を失ってはいたが。

「あれ、千鶴姉、それに耕一に初音か」

 梓は、今はじめて千鶴たちに気付いたようだ。遠くから煙が上がっているのを見て家事だと思い込み、駆けつけたためにここが耕一のアパートだとは気付いていなかったようだ。

「なにやってんだ、こんなところで?」

「そっちこそ」

 千鶴と梓は言い争いをはじめていた。

 二人ともゴールデン・ウィークがどうのこうの、耕一さんがどうのこうのと一生懸命自分の行動を正当化しようとしている。

 そんな二人を尻目に、楓はさっきまで水の入っていたバケツを荷物の中へと入れようとしていた。

「そのバケツも持ってきてたのか!」

 言い争いをしていたはずの二人が、楓に向かって同時にツッコミを入れていた。

 良く見るとバケツには『鶴来屋』と書かれていた。

「あのさ、そろそろ助けてくれるとありがたいんだけど……」

 初音が耕一の下から声を出す。

 耕一は完全に気を失ってしまったらしい。千鶴の料理で衰弱していたところにバケツで水をかけられたのだからかなりの衝撃だったのだろう。

「ごめんなさいね」

「わりぃ、わりぃ」

「……大丈夫?」

 千鶴と梓で耕一を、楓が初音を抱えて耕一の部屋へと移動する。

 初音は楓に抱えられたまま意識を失っていった。

 こうして、図らずも四姉妹は耕一のアパートに集結していた。

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「ここは……」

 初音はゆっくりと目を開く。

 布団に入って眠っていたらしい。最初、自分の部屋かと思っていたがどうやら違うようだ。

 そこは見たことのない部屋だった。

 そっか、耕一お兄ちゃんの部屋か、初音は今まで耕一の部屋は見たことなかったがなぜかそうだとわかった。

「初音ちゃん、大丈夫?」

 すぐ目の前に耕一の顔が現われた。初音は気がつかなかったが、すぐとなりで看病してくれていたようだ。

 息が届きそうなくらいの距離、初音の顔が一瞬で赤くなる。

 初音は現在の状況を理解しようと頭をめぐらせる。

「初音ちゃんも気を失っちゃったんだよ」

 そんな初音の考えがわかっているのかいないのか、耕一は説明を始める。

「大丈夫?顔赤いみたいだけど風邪引いちゃったかな?」

 耕一はそう言って自分のおでこを初音のおでこに当てる。

 初音の顔はさらに赤みを増す。

 目が覚めたばかりなので多少思考能力が低下していたかもしれないが、耕一の行為のせいで初音の思考能力は修復不能なレベルまで落ちこんでしまった。

 すぐ目の前に耕一お兄ちゃんの顔があるよ、あと1センチでキスできちゃうよ、初音のパニクッている思考の中ではそんなことがぐるぐると回っていた。

「ん〜〜、ちょっと熱があるかな」

 パッと耕一の顔が遠ざかる。

「あっ……」

「ん?どうかした?」

 初音が残念そうに声を上げると耕一が聞き返してきた。

「……なんでもない」

 うつむいて頭を降る初音。

「そう、もう少し寝ているといいよ。今、梓がご飯作ってるから」

 耕一は優しく初音の頭にとを置く。

 ご飯と聞いて初音の思考が一気に覚める。

「えっ、この臭い……肉じゃが!?」

 部屋には肉じゃがのおいしそうな匂いが充満していた。最近毎日嗅いでいた匂いである。

 布団からガバッと飛び起きる初音。

 耕一の目が一瞬点になる。そしてすぐに初音から視線を外す。

 耕一は耳まで真っ赤になっている。

 そんな耕一を不思議がって初音は自分の体を見る。そしてすぐに布団にもぐりこんでしまった。その勢いと言ったら物凄いものである。

「ななな、なんで下着姿なの!!!」

 初音が悲鳴を上げる。

 耕一お兄ちゃんに見られちゃったよ、初音は恥ずかしさでいっぱいになっていた。

「初音、荷物の中に着替え入れてなかっただろ……」

 呆れたような口調で梓が言う。手にはできたばかりの肉じゃがが入った鍋を持っている。

 水を全身にかぶってしまっていたので着替えさせようと思ったのだが、初音の着替えがなかったのでタオルで拭いて下着姿のまま寝かせていたのだ。他の三人は日帰りのつもりで来ていたらしく着替えのたぐいは持ってきていなかった。

 初音は確かに着替えのたぐいは入れてなかったことを思い出す。耕一に肉じゃがを食べてもらうことしか考えてなかったので着替えのことはすっかり忘れていた。日帰りがどうのということも全然考えていなかったと言った方がいいだろう。

「荷物って……もしかして」

 初音の脳裏に嫌な考えが浮かぶ。

 初音の荷物には耕一に食べさせようと思って買っておいた肉じゃがの材料が入っていたはずである。もちろん肉などの傷みやすいものは来る途中で買ったのだが。

「悪いとは思ったんだけどさ、ここの冷蔵庫の中身全部千鶴姉がダメにしちゃったんだって」

 梓は初音が何を言いたかったかわかったようだ。

 もちろん冷蔵庫の中身とは、火事騒ぎの時の鍋の中身のことである。

 梓は、初音が何のために肉じゃがの練習をしていたかも知っているし、ここにきた理由も荷物の中身を見た時点でわかっていた。それでもその材料を使ったのは初音の体力を回復させたかったからである。いじわるで材料を使ったのではない。

 それは初音もわかっていた。いや、わかろうと努力した。

「梓お姉ちゃんのバカァァァ!」

 思考でいくら理解しようとしても感情の爆発を防ぐことが出来なかった。初音は近くにあるものを手当たり次第に放り投げた。

「初音、悪かったって」

 梓は言い返さずに、ただ立ち尽くすだけだった。

 初音の顔は涙でボロボロになっていた。上半身を起こして、すでに布団で下着姿を隠そうとさえしない。

「初音ちゃん、落ち着いて」

 耕一は初音をギュッと抱きしめる。

 顎で梓に指示して台所へと移動させる。

 耕一に抱きしめられて物を投げることはなくなったが『梓お姉ちゃんのバカ』という言葉を連発して泣き止もうとはしない。

「初音ちゃんの気持ちわかっているから……」

 耕一は優しく初音の頭を撫でる。

 誘われるように初音は頭を耕一の胸に預けた。

「グスン…耕一お兄ちゃんに…グスッ……おいしい肉じゃが…食べてもらいたかったのに……」

 段々と落ち着いてきたのか、初音はゆっくりとだが耕一に話しかけてきた。

「うんうん、わかってるよ」

 耕一は頷きながら優しく優しく初音の頭を撫で続ける。

 

「どうする?」

「どうするって言ってもねぇ」

 台所へと押しやられた梓。

 台所にはにはすでに千鶴と楓がいた。こうなることを予期して待機していたのかもしれない。

「見た感じ体調悪そうだったけど」

 梓から見ても、初音の体調が良さそうには見えなかった。と言っても風邪の引きはじめと言った程度だったが。

「梓が水なんてかけるから……」

 千鶴が人事のように非難する。

「なっ、元はと言えば千鶴姉の料理があんなに煙出してたのが行けないんだろ!」

 梓は怒ったように反論する。

 それに反論しようと千鶴が口を開いたとき、耕一も台所へとやってきた。。

「静かにしてくれないか……」

 シーっと耕一は指を口に持っていく。

 千鶴と梓の声は知らず知らずのうちに大きくなっていたらしい。

「初音は?」

 心配そうに千鶴が尋ねる。

 他の二人も耕一に注目する。

「泣きつかれたのか寝むったところです。びしょ濡れになったせいか熱もちょっとあるみたいで……」

 良く見ると、耕一は手にタオルを持っていた。冷凍庫からアイスノンを取り出すとタオルで包む。

 梓は申し訳なさそうに目を伏せる。

「今日はどうします?」

 初音を起こさないように小声で話しかける耕一。

 自然と四人の顔が近づく。

「今日のところは帰ります」

 千鶴の発言に、梓と楓も同意するようにうなずく。

 それに応えるように耕一もゆっくりとうなずき返した。

 それを見届けると三人は玄関から出て行く。

「……耕一さん」

 最後に千鶴が出ようとした時、千鶴は耕一に声をかける。

 耕一は初音のもとに行こうと背を向けていたが、ゆっくりと振り返った。

「任せてくださいよ」

 千鶴が何を言いたいのかわかっているかのように耕一は千鶴に言う。その顔には大切なものを見守るような、そんな微笑が浮かんでいた。

 耕一は、こっそりと覗き見るように寝ている初音に目を向ける。

 初音は安らかな寝息をたてて眠っている。

「すみません」

 千鶴はそう言ってペコッと頭を下げる。この辺は、さすがは四姉妹の長女といったところであろう。

 実は耕一の微笑を見たときにチクッと胸が痛んだが、千鶴はそれを表には出さなかった。

 千鶴が出た後、玄関の扉がゆっくりとしまるのを見届けてから耕一は初音の元へと足を向けた。

 

「はぁ、なんであの笑顔の対象が私じゃないのかしら」

 ゆっくりと閉まる扉を見つめながら千鶴がつぶやく。

 千鶴には玄関の扉がものすごく厚い壁のように感じられた。

「なにか言ったか?千鶴姉」

 梓が振りかえる。

「なんでもないわよって梓、それ……」

 驚きの声を上げながら、千鶴は梓の手元を指差していた。

 梓も自分の手元を見る。そこにはさっきまで作っていた肉じゃがが鍋ごと存在していた。

「ありゃ、持ってきちまった」

 梓は自分でも気付いていなかったらしい。

 鍋を見つめながら思案する梓。千鶴も鍋を見つめる。

 今から鍋を返しに行くのは二人とも嫌だった。だからと言って、鍋を持って帰ってしまうのも嫌だった。

「……大丈夫です」

 そんな二人を見ながら楓が言う。

 楓は肉じゃがの入った鍋を受け取るとおもむろに耕一の隣の部屋のインターホンを押す。

 

 ピンボーン

 

 そしてすぐに反応が帰ってきた。

 

 ガチャッ

 

 玄関からは人の良さそうなおばちゃんが出てきた。もちろん楓の知らない人である。

「なにかしら?」

「ちょっと多く作ってしまったのでお裾分けに」

 楓は肉じゃがを鍋ごと差し出す。

 お裾分けにしては量が多い気もしないでもないが、おばちゃんは鍋を受け取る。

「あら、ありがとうね」

 そう言っておばちゃんはニコッと笑う。

「鍋は食べ終わった後に返してくださればいいですから、隣の柏木に返してください」

 そう言って楓はニコッと微笑み返す。

「それでは」

 楓は軽く会釈をすると千鶴たちの元へと帰る。

 おばちゃんも部屋へと戻って行った。

「近所付き合い、近所付き合い……」

 楓は嬉しそうに千鶴と梓に報告する。

 楓の行動に何か言いたいのだろうが、何を言ったらいいのかわからずに口をパクパク動かすだけの二人。

 声を失う衝撃というのはこういうことを言うのだろうか。

「……まぁ、問題は解決したからいいか」

 梓が自分に言い聞かせるように声を出す。

 千鶴も自分に思いこませるように力の限り何度もうなずく。

 そうして千鶴、梓、楓の三人は帰路についた。

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「……あれ…?」

 耕一は布団の中で目を覚ました。

 日差しが直に顔に差し込んでいた。時間的には昼過ぎ頃であろうか。

「確か初音ちゃんの看病をしていて……」

 耕一は眠そうに目をこすると辺りを見渡した。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。

 すぐ隣には冷えていないアイスノンが転がっている。

「初音ちゃん……?」

 布団には初音を寝かせていて、自分は隣にいたはずだが、耕一は記憶を呼び戻す。

 そして初音の姿が無いのに気付く。

「初音ちゃん!」

「はい?」

 耕一が慌てるような声を上げると台所から返事が返ってきた。初音の声である。

「耕一お兄ちゃん、呼んだ?」

 台所から顔を出す初音。

 初音の顔を見て安堵する耕一。

「ダメじゃないか、寝てなきゃ」

 耕一は怒ったように言うが、その口調は逆に優しさで包まれている。

「大丈夫だよ、耕一お兄ちゃんが看病してくれたんだからもう平気だよ」

 初音はすでに顔を引っ込めていた。

 耕一には初音の声だけが聞こえる。その声には多少の照れが感じられた。

 耕一は部屋の中においしそうな匂いが充満しているのに気付く。

「肉じゃが?」

 匂いは確かに肉じゃがのものだった。

 最初は昨日梓が作ったものを温めていたのかと思ったが微妙に匂いが違う気がする。どう違うと言われたら答えに困るが、耕一はなぜかそんな気がしていた。

 そういえば、昨日千鶴さんの鍋を口にしてからなにも食べてなかったな、耕一は思い出す。

 

 グ〜〜

 

 そう思うと一気に腹の虫が騒ぎ出していた。

「初音ちゃ〜ん」

 耕一が情けないような声を出して初音を呼ぶ。

 耕一のお腹が鳴った音が聞こえたのか、初音は苦笑しながら鍋を持って現われた。

 昨日びしょ濡れになった服も乾いたようで、その服の上にエプロンを着けている。もちろん下着姿でエプロンを着けただけの姿で出てこられても困るが。

 鍋の登場でおいしい匂いは部屋の中に一層充満した。

「あれ、これうちの鍋じゃないよ」

 匂いに夢中で今まで気がつかなかったが、初音の持っている鍋が自分の物ではないことに気付く。

 耕一が今までに見たことない鍋を初音は持っていた。

「えっ、鍋なかったよ、だから持参した鍋使ったんだけど」

「おっかしいなぁ、一つ有るはずなんだけど」

 初音の言葉に首を傾げる耕一。耕一は、その鍋が中身ごと隣の家に渡されていることは知らない。

 初音がどういう事態を想像して鍋を持参したか、ということに対してはツッコミを入れたりはしない。現に役に立っているのだから凄いものである。

 

 ピンポーン

 

 そんな時、インターホンが鳴り響いた。

「誰だろ?」

 耕一は玄関の扉を開ける。

 そこには隣に住んでいるおばちゃんが立っていた。手には耕一の鍋を持って。

 初音も何事かと耕一のすぐ後ろまで歩み寄ってきた。

「肉じゃがおいしかったわよ。ありがとね」

 おばちゃんは鍋を耕一に渡す。

「はぁ、どうも…」

 耕一は、なんでおばちゃんが鍋を持っている理由はわからないが、一応受け取りながら頭を下げる。

 初音もつられるように頭を下げる。

 おばちゃんは初音を見て、アラッと声を上げる。

「昨日の娘とは違うのね……」

 おばちゃんの目が怪しく光る。

 耕一はこのおばちゃんが"ご近所の芸能レポーター"と呼ばれていたことを思いだした。

 昨日の娘が千鶴なのか、梓なのか、楓なのかはわからないがしばらく近所中で噂されることになるのかと思うと耕一は重たい空気が背中にのしかかってくるような感覚に襲われていた。

「あらあら、おばちゃんお邪魔だったわね。それじゃごゆっくり」

 

 パタン

 

 わざとらしいぐらいの態度でおばちゃんが扉を閉める。

 しらけた空気に包まれる耕一と初音。

「鍋帰ってきたね……」

「うん……」

 とりあえず、どう対処していいか考え始める二人。

「……肉じゃが…食べようか」

「そうだね」

 場の空気を変えようと耕一が発言する。

 初音も素直にうなずく。

 どうにか場の空気は元の戻ったようだ。

「ところで、肉じゃがだけ?」

 テーブルの上にポツンと置かれた鍋を見つめながら耕一は尋ねる。

 耕一の言葉にハッとする初音。

「あっ、ご飯炊くの忘れてた」

 急いで台所に戻ろうとする初音を耕一は引き止める。

「いいよ、肉じゃがだけで、すごくおいしそうだし。それに……」

「それに?」

「それにお腹ペコペコで我慢できないよ」

 笑いながら答える耕一。

 初音もつられて笑い始めた。

「ジャガイモのこともいっぱい調べたんだ」

 耕一の皿に肉じゃがを取り分けながら初音は言う。

「エゾアカリはコロッケにしたらおいしいとか、肉じゃがにしておいしいのはメークインだとか」

 はいっと耕一に取り分けた皿を渡す。

 エゾアカリ、メークインともにジャガイモの品種である。肉じゃがを作るためにジャガイモの品種を調べるなんて人は稀ではないだろうか。

「初音ちゃんらしいと言えば初音ちゃんらしいね」

「おかしいかな?」

 耕一の顔色をうかがう初音。

 耕一はそんな初音が無性にかわいらしく思う。

「うぅん、かわいいよ」

 耕一の言葉で、初音はボッと火がついたように顔を赤くする。

 そんな初音を見ながら、耕一は肉じゃがを口に運ぶ。

「おいしいよ」

 肉じゃがを食べて一言、耕一が言う。お世辞ではなく素直な感想だ。

 初音は心底嬉しそうに笑顔を浮かべる。

「特にジャガイモが良い味出してるよ」

 耕一はジャガイモを一つ掴むとじっくり見る。

 箸で掴んでも形が崩れず、口に入れると適度に崩れるという素晴らしい煮込み具合だ。

「さすがは調べただけのことはあるね」

 耕一は初音ににっこりと微笑みかける。

「いっぱい食べてね」

 

「ふぅ、食べた食べた」

 すっかり空になった鍋を前に耕一が一息つく。

 初音は準備良くお茶の用意をしている。

「肉じゃがだけでもお腹いっぱいになるものだねぇ」

 さすがに鍋一杯分の肉じゃがを二人で食べたせいか、完全に腹八分目を通り越していた。

「初音ちゃんの肉じゃががおいしかったからかな」

「もう、耕一お兄ちゃんたら…はい、お茶」

 初音は照れながら耕一にお茶を渡す。

 初音自身も照れ隠しにお茶を飲むが、慌てたため舌を火傷しそうになる。

「アチッ」

「初音ちゃん、大丈夫?」

「らいろうふらよ」

 舌を出しながら喋るので空気が抜けて全て「は行」の発音になってしまうが、どうにか「大丈夫だよ」と言ったのがわかる。

「お水持ってきてあげるね」

 そう言って耕一は台所に水を取りにいく。

 すぐにコップに水を汲んで持ってくる。

「はい、初音ちゃん」

 水を渡されてチビチビと飲みながら舌を冷やそうとする初音。

「ありがとう、耕一お兄ちゃん」

 コップの水が無くなる頃には初音も普通に話せるようになっていた。

「やっぱり初音ちゃんは可愛いね」

 耕一はクスッと笑う。

「もう耕一お兄ちゃんたら」

 初音は照れてうつむいた。

 その後二人は世間話などで盛り上がった。

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「今回のゴールデン・ウィークは大学のレポートがあってそっちに行けないんだ」

 耕一は初音の見送りに駅まで来ていた。そんな時、 耕一が申し訳なさそうに言う。

「その分電話するよ、何時ごろ家に着くかな?」

 そう言って耕一は初音に微笑みかけた。

 訊かれて初音はおおよその到着時間を応える。

 耕一は念のためメモを取る。

「電話待ってるから」

 微笑み返す初音。

「夏休みはまたお邪魔させてもらうから、また肉じゃが作ってくれるかな」

「うん!」

 初音は元気いっぱいに返事をした。

 それと同時に電車が動き出す。

 耕一は電車が見えなくなるまで手を振っていた。

 

「ただいまぁ」

 初音が家に着いた頃、すでに辺りは暗くなり始めていた。

「おかえりなさい」

 千鶴が出迎えに玄関まで出てくる。

 千鶴は初音の顔を見るとにっこりと微笑む。

「耕一さんに喜んでもらえたみたいね」

 千鶴の言葉に無言でうなずく初音。

 初音もにっこりと微笑む。

「なぁ、鍋知らないか?」

 二人がそんな会話をしているところに、梓が姿を現す。

 梓はエプロン姿で、片手にオタマを持っている。夕食の用意をしていたのだが鍋が見つからずに捜し歩いていたらしい。

「あっ、鍋なら借りて……」

 初音はカバンの中に手を入れてゴソゴソと探す。

 硬い物が初音の手に触れる。

「これだ、これだ。はいっ!」

 初音は荷物から鍋を取り出す。

 千鶴、梓、初音の視線が鍋に集中する。

「あら……」

「これって……」

「耕一お兄ちゃんの鍋……」

 初音が言うように、それは耕一の鍋である。

「間違えちゃった」

 テヘッとかわいらしく舌を出す初音。

「まぁいいか、鍋には変わりないし」

 梓はそう言って鍋を受け取ると台所へと消えて行った。

「そうそう、耕一お兄ちゃん電話するって言ってたよ」

 初音の発言にピクッと反応する千鶴。

「で、耕一さんは何時頃に電話するって言ってたの?」

 身を乗り出すようにして訊いてくる千鶴。

 あまりの剣幕に、初音は二、三歩後退る

「そろそろかかってくると思うけど……」

 初音が時計を見てから言う。耕一に教えた帰宅時間までもう少しだった。

 気付くと、いつの間にか楓も近くに来ていた。

「はい、電話」

 楓が初音に電話を手渡す。耕一のアパートまで持っていったあの黒電話である。いろいろあったがしっかりと持って帰ってきているようだ。どこかにあのバケツも転がっていることだろう。

「ありがとう、楓お姉ちゃん」

 初音は電話をテーブルに置くとその前に座り電話がかかってくるのを待つ。

 夕食を作っている梓を除いた千鶴、楓、初音の三人は電話の前で待機する。

「ご飯出来たよ……って何してるの?」

 しばらくして、夕食の用意を終えた梓も現われる。

 楓が梓に説明をすると、梓も三人の輪に加わった。

 だがいつまで待っても電話がかかってくる気配はない。

 

 カチッ コチッ

 

 静寂が支配する部屋の中で時計の音だけが一秒ずつしっかりと音を刻んでいた。

 時計の針が進む音がいつもより大きく感じられる。

「耕一お兄ちゃんからの電話無いなぁ」

 初音はずっと電話とにらめっこしていた。

 すでに日付が変わってしまっていた。

 電話くれるって言ったのにな、忙しいのかな、初音はいろんなことを考える。しかし、耕一から電話が来ない寂しさはどんどん膨らんでいった。

 梓たちも耕一からの電話を待っていた。

 耕一からの電話が終わってから夕食食べようと決めていた。しかし、その夕食もすでに冷めてしまっている。「初音、その電話線挿さなくっていいのか?」

 電話とにらめっこしている初音に向かって梓が言う。

 初音は電話線を引き寄せる。すると、どこにも挿しこまれていない電話線は全て初音の手の中に納まってしまった。

「梓お姉ちゃん、これだと電話かかってこないよね……」

「多分……」

 電話線の端を見つめながら尋ねる初音。梓も自信なさげに答える。

「ど、どこに挿せばいいの?」

 電話線を持ってドタバタと走り回る初音。

 

「おっかしいなぁ……」

 その頃、耕一はいつまで待っても繋がらない電話を片手にあくびをしていた。

説明
リーフ「痕」の二次創作。
これも2000年に書いた物ですね。前にも書きましたが、リニューアル版はやっていないので設定違うかもしれません。
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