歪の檻と杯 1
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環織都 1

 

 はじめて世界をくだらないと思ったのは、いつのことだっただろうか。環織都は考えたが、答えは見えそうになかった。

 

 

 ミステリーでも児童書でも、どんなジャンルの本であっても、誰かが何かをすれば必ずその理由も明かされる。事件の動機であったり、事象の理由であったり。

 けれど現実において、全ての出来事や感情に明確な理由が存在するわけではない。それは気まぐれだったり、なんとなくだったり。存外、不条理なものである。

 とにかく、彼が世界に幻滅したのも、大人に幻滅しているのも、特に何か理由があったわけでもなく。ただひたすらに、そう感じただけであったはずだと思う。

 変わるはずの無いその主観を変えようと努力をしたことはない、けれど、変えたいと願う事はいくらかあったと思う。現在の自分がいる以上、それは叶わなかったということでもある。

 だが人生の転機など、何時訪れるか分からない。ただひたすらに信じることに意味など感じないし報われることではないと知っているけれど、彼は思うのだ。

 ふと視線の横に、見慣れた女生徒の姿があった。少しだけ迷い、けれど彼は明確に彼女を思い出すことが出来た。つい最近の席替えで、隣になった生徒だ。

「ねえ、織都くん。ここの問題分かる?」

「……。ああ、この問題は前の問題の応用で――」

 女生徒が訊ねてきた問題は、初歩中の初歩ともいえる簡単な、簡単すぎる問題だった。こんなものも解けないで、よくもまあこの学校に入学できたものだ。彼女は何処まで馬鹿なニンゲンなんだろうか。こんな問題も解けなくて、恥ずかしくないのだろうか。恥晒しが。

 水瀬中学校は、地元でもいい意味で有名な私立校であった。毎年の受験生の数は、規定の三倍を遥かに上回る。そんな高い倍率の中、入学が叶ったというだけでその子供、ひいてはその家庭は近所から羨ましがられるのだ。

 くだらない、と思う。そんな表面上の仮面なんてごめんだと、思う。けれど仮面をかぶってしか息が出来ないのも、また事実である事を認めざるを得なかった。

 

 ああなんてくだらない世界。自身の世界を取り巻く学校。こんな閉ざされた世界では、ろくに息もできやしない。

 誰もがただもがいて、無様に死んでいくだけだ。その死に意味など絶対に存在しない。何故ならこの世界の意味に足り得る存在は、そう居るわけが無い。

 だからこそ。ヒトを殺したところで得られるものなど在りはしないし、失うものなど世界には無い。

 誰よりも崇高で有限で無限な無知の世界は、彼にとって狭い水槽の中にいるように息苦しいものだった。だれも気付かないのだ、この息苦しさに。もがき苦しんでいるのは自分だけではないはずなのに、かぶった仮面で何にもみえやしない。

 事実で埋もれている世界を見通すことはとても難しくて、けれども向き合っていかなくてはならないことで。その逡巡と矛盾に押し潰されてしまうのは遠い未来ではないだろう。ひたすらに手を伸ばす。見えざる腕に縋るように、惨めでも手を伸ばす。助けて欲しい。

 

「織都。次の体育、サッカーだってさ。グラウンド行こう」

 ああ、けれど。その見えざる腕は確立したものではないのではないかと思う。助けを請う自身が、疑問視するきっかけになったのは、間違いなく彼のお陰であろう。

「坂原」

 坂原香槻、君は世界が見えているのだろうか? 見えていないだろう。本質以前に、きっとその存在すら認識していない。優しく笑うその顔は、時にひどく誰かを苛立たせる。

 けれど彼くらいならば、この世界に足り得る存在になれるのかもしれない。きっと彼はなによりも、どんな才能よりも世界を理解できるかもしれない。仮面の下から顔を覗かせて、無邪気に微笑んでいるのではないかと思う。

 

 彼は無智ではあったけれど無知ではない。物事の危険性は十分に理解している。

 だから賭けよう。彼の存在が、僕がこの〈閉ざされた世界〉もしくは〈水槽の世界〉から抜け出せるきっかけになればいい。願わずにはいられなかった。

 自己矛盾の嵐から抜け出したいと、願ってばかりだった日々はもう見えない。振り返る意味すらも見当たらないのなら、ただ進むことだけを考えよう。そうでなければ、泥沼の水槽の中では足を動かすことすらままならない。諦めて溺れ死ぬという選択肢は、絶対に持ってたまるものか。

 誰が何を諭そうと、もう世界にはうんざりだった。

 

 

 『誰よりも高慢で、何よりも愚かな世界へ』

 

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坂原香槻 1

 

 厚い雲に覆われた空から降る太陽の日差しはないものの、走り回って上気した身体は熱を持つ。白と黒のボールを追いかけるだけのスポーツも、そう考えると奥深い。もう時間がない、ゴールを決める時間もない。どう考えても勝てる気がしない。

 ピィー、とホイッスルが鳴る。試合終了。ゴールを目前に、四対三で負け。

「あー、くそッ!」

「あともう少しで同点で持ち越せたのになー」

 味方チームの男子が口々に悪態を吐いたり、残念そうな表情を隠せないでいる。彼は自分のすぐ目の前のゴールに、手持ち沙汰になったボールを蹴り入れる。

「ゴォール!」

「阿呆か」

 そういって頭を叩いたのは環織都。その右手には、体育の様々な記録や、成績に影響を及ぼすテストの点数が書かれた名簿板。とはいえ、選択体育の評価は実際の成績にあまり関係ない。なのに何故あるのかと言うと、いわゆる生徒達の息つく唯一の授業と言うことだろう。まあ、どうでもいいけどね。勉強に関しては、下から数えた方が順位が早いかもしれないけれど、体を動かすのは好きだし。どんな思惑が在ろうとそれだけは変わらない事実だと胸を張れる。

 それと同時に、目の前の彼が選択体育を仮病で休むことが多いのはその所為でもある。これまでの付き合いで彼が体育関係の全てが苦手であるという事は知っている。特に球技系が苦手で、いつもどこかを怪我していた。非常に危なっかしくて仕方ない。

 有名な私立中学において、それはあまり珍しいことではない。むしろ体育系に特化した生徒の方が少ないだろう。非常に倍率の高い私立では、頭が良くて運動が苦手な博士系が肩を並べている。自分は、そう考えると特殊なんだなあと感じた。けれどそれは誇るほどでもないし、ましてや自分は特別だなんて思えない。

「どうせ参加しないんなら、どして選択で体育選んだの? 美術選んだほうが楽だったんじゃない?」

「周りが女子だらけの中で授業を受けろと? しかも隣のクラスと合同だから数倍増だ。……有り得ないな、俺に死ねと?」

「いいじゃん、ハーレム!」

 馬鹿が、とまた名簿板が頭に直撃。さきほどよりも痛い。プラスチックで出来ているそれは、丈夫そうに見えて実は脆い。名簿版で頭を叩いた後で、織都がこっそりとヒビが入っていないかを確認していることも、実は知っている。言うと怖いので本人には言うつもりはない。

 教師がホイッスルを鳴らし、集まるように生徒に無言の呼びかけ。散り散りになっていた男子生徒たちが、ホイッスルの音に反応して集まりだす。慌ててゴールからサッカボールを取り出して、前でゆっくりと歩いている織都の腕を引いて走り出す。彼の走る速度は学年一遅くて、香槻の速度は学年一速かった。思い出して、香槻はすぐに腕を放して彼の進む速度にあわせた。

 のんびりとしたスピードにあくびが出て、時計を確認しようと校舎を見ると、時計のすぐ下の教室から一人の女子の顔が見えた。三階は美術室、現在は選択美術の授業で同じクラスの女子と、隣のクラスの女子が使っている。

 ――静かに佇む、孤高の鷹。

 野摘英花、隣のクラスの女子生徒。野摘財閥のお嬢様で、野摘華道の時期家元。美術関連の大会等での活躍も著しい。だが成績は並み程度で、特に目立つような生徒ではない。まして、鷹のように鋭い雰囲気を纏う女子でもないだろう。

(女性に鷹のイメージは失礼だよね)

「こらァ! さっさと集まってこんか!」

 教師の野太い声が校庭に響く。その声につられた男子生徒の数人が、こちらを見ていた。その様子を見て、隣の織都が溜め息を吐いた。ようやく本当に走り出すつもりになったようである。今更、と思わずにはいられない。けれど彼の性格は熟知している、そういう素直になれない性格なのだ。多分、本気で走りたくないのは、自分に非があると思う。彼はとても負けず嫌いだから。

「さっさと行くぞ」

 彼はそういって駆けていく。相変わらず、その速さは驚くほど遅い。言わないけどね、後々怖いし。何よりその速さが嫌いなわけじゃない。

 ――きっと誰かがくだらないと言うこの世界。

 明日の始まりの音はすぐそこ。

「うん!」

 さあて、今日も良い夢が見られますように!

 

 

 『素晴らしき今日と言う日に』

 

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野摘英花 1

 

 彼女にとって世の中の全ては、ガラクタ同然だった。塵と言っても過言ではないだろうと、少なくとも彼女は思っていた。

 

 

 チャイムの音がする。聞きなれたそのメロディーは単調で、けれども女子生徒に人気がある。理由は知らないし、知ろうとは思わない。興味の無いことにはとことん関心が無い、野摘英花はそういう人間だった。そういう自身を省みて、特に感想を抱いたことも無ければ改善する意味も分からない。

「英花さん、今日は何を作ったの?」

 煩わしい女子の声、キンキンした声が耳に痛い。どうしてこういう奴は、公害に認められないのかしら? 苛立ち始めた意識を制御して、会話を続ける。事を荒立ててもいい事は何一つも無い、しいて言うならば、一瞬だけ胸がすくくらいか。

 けれど一瞬の開放的な気分を味わう為だけに、これまで築いてきた仮面の山を崩すほど彼女は愚かではない。そんな自分の考えに吐き気がすることはいくらでもあった。

「今日は陶芸のアイディアスケッチをしていたの。花瓶のデザインが思いついたから」

 優しい声で、可愛らしい笑顔で受け答え。上辺だけの仮面を被るのにはもう慣れきっている。嘘の仮面なんて必要ないなんていう奴は、ただの馬鹿だ。本音と建前は嘘なんかじゃない。本音で付き合わない人は最低だと言っている奴ほど、何枚もの仮面を所持している。

 いくつの仮面をどれだけ上手く操るか、もしくは少ない仮面でいかに上手く立ち振る舞うか、それが女子の勝負の世界だ。

「うわあ、すっごーい。このスケッチブックのデザイン、全部英花さんが考えたんだよね」

「やだ、恥ずかしい。あんまり見ないでね」

 彼女は前、私の皿のデザインを盗作して賞を受賞していた。それは新作の生け花を活けようと思ってデザインしたものだったので、未だに根に持っている。仮面の下にあるのは、執念と醜い何か。仮面をかぶったままで、いかに自分が優位に立てるようにするかは、彼女の専売特許と言っても過言ではないだろう。

 またデザインの盗作でもしにきたのだろうか。ならば、そろそろ制裁を加えてもいい頃だろう。彼女の犯罪歴は、金にものを言わせて特殊なシークレットサービスに調べさせた。

 小さいものばかりではあるが、十五件ほど露見させたら、彼女も此処じゃない何処かへ行ってしまうだろう。私立水瀬中学の生徒のネタは、面白いくらいに広がる。家族もろとも、この辺りでは誹謗中傷の的となるだろう。

 そう考えると、微かに心が躍る。

「じゃあ、私はこれで帰るね。用事があるから」

 今日は伯母の生け花のお披露目会だった。ついで、として私の活けたものも数点展示される。故に、お披露目会には必ず出席するようにきつく言われている。もう既にタイムリミットは二時間も残されていない。着付けもしなくてはいけないので、時間はそう無い。どうでもいい奴の相手をしている暇は、一ミリほどもないのだ。

 

 

 スケッチブックを片付けて、すぐに隣の自身のクラスの教室に駆け戻る。男子の選択体育はもう終わっている。部活に向かう者の大半は、既に教室から出て行ってしまっていた。それなのに。

 環、織都。視線が合う、何を考えているのか掴めない瞳。それなのに、それなのに、奥底に眠る世界は繋がっているとはいえなくとも似ている世界が見える。〈閉ざされた世界〉、何処にでもあって何処でも見えない、架空にして実在する世界。確立した形を持たない、抽象的な存在。もしくは誰もが願った夢の残骸たち。穢れてばかりの現実と事実に塗れた〈水槽の中〉。

 彼は視線を逸らす、私は自分の机に鞄を置いて教科書を詰め込む。そして教室から早々と立ち去る。時間は止まることを知らない、自身の有限な時間をくだらないことで失うわけには行かない。

 くだらない〈学校〉という世界にはしばしお別れ。退屈な現実に舞い戻る。

 蝶はすでに地に墜ちた。

 

 『酷く退屈な曇天の空の下で』

 

 

説明
とある場所の、とある学校で。
世の無常を嘆いて、歪んでしまった学生達の物語。
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