シンデレラの網膜記憶〜魔法都市香港にようこそ 1
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プロローグ

 

 バンコクの郊外。今、サクチャイは、くりぬかれた寺院の壁に収められる父の骨壺を眺めながら、膝が震えるのを止められなかった。自分の人生は、およそ彼の名前の由来である勝利とはかけ離れた敗北だらけの人生であった。そのうっ憤で、家族、特に父にあたって迷惑をかけたかもしれない。しかし、最低限ブッダの教えは守っていたつもりだった。

 彼の家は裕福ではなかったので、亡くなった父の葬式は3日間しか執り行うことができなかった。最終日に火葬となる前夜、見知らぬ男がやってきて、父の体の一部を売ってほしいと申し出てきた。

その提示された金額に、彼はその邪悪な申し出を退けることができなかった。どうせ火葬されば灰になってしまうのだ。彼はそう自分に言い聞かせて、遺体の一部を凌辱するような行為に素直に応じてしまった。

火葬を終え、遺骨を納めた壁に蓋をし、モルタルで塗り固める作業を眺めながら、ついに彼は我慢の限界に達し、人目はばからず泣き始めた。周りの参列者は、父親との惜別の涙なのだろうと考えたが、サクチャイの涙はそんな生易しいものではなかった。腹の底から恐怖を感じていたのだ。

自分が犯した罪は、もう贖うことはできない。数年後に壁から父の遺骨を取り出して、散骨している自分など想像できなかった。漆黒の闇の奥から、ヤック(夜叉)が自分を喰らいにやってくる。もしかしたらそれは今夜かもしれない。自分は想像を絶する痛みの中で、ヤックの鋭い牙で切り刻まれ死ぬのだ。そして、何度生まれ変わろうとも、必ず自分を喰らいにヤックが現れるに違いない。その恐怖と痛みが永遠に続く来世が、彼を待ち受けているのだ。

 

 

〈九龍城砦〉

 

 香港の夜の闇の中を歩くふたつの人影。一つの影は、もう一つの影をさらに深い闇へと導く。先導するのは痩せこけた男。想像もしたくないが、この男はとても悲惨な少年時代を送ったにちがいない。導かれている纐纈モエにはそれが分かった。

 

 彼女は眼科医、それも間もなく60に届こうとしているベテランだ。仕事がら、数多くの患者の瞳をのぞき込んでいるうちに、瞳の奥にある光でその人の性格や生い立ちが想像できるようになっていた。

 彼の瞳の奥にはどうしようもない絶望と狂気が潜んでいる。そんな男を信用して後に付いていくなんて…自分はどうにかしている。しかし、そんな彼女の後悔などお構いなしに、男は密集する高層ビル群に歩みを進める。都市計画とは無縁なこの一画で、ビル群の中でも一位二位を争う怪しいたたずまいの集合住宅。彼はその一室に彼女を導いていたのだ。

 

 モエは、この近寄りがたい独特の雰囲気を放っていたこのエリアが、どの政府の統治も届かない文字どおりの無法地帯「九龍城」という場所であることは後になって知った。巷では、犯罪者や売春宿、麻薬の売人などが集まる「魔の巣窟」と呼ばれ、多くの映画作品やゲームの舞台となったことで世界的によく知られる有数のスラム地域だ。

 

 

 ここの正式な地名は九龍城砦(クーロンじょうさい)。ジャンボ機が旋回しながら着陸するという「香港カーブ」で知られた旧「啓徳(Kai Tak)空港」の近くに存在している。ここでは、120×210メートルという狭いエリアに500を超えるビルが密集し、一時期は5万人にもなる住人が生活を送っていたという。

 寄り添うように建てられた通称ペンシルビル。文字通り鉛筆の先のように、細く尖がったビルに住人が密集したため、平均人口密度はおよそ畳2枚分に1人。このとても信じがたい人口密度のゆえか、香港政府の規制も行き届かず、衛生法なども順守されない状態となっている。実際、九龍城砦ではゴミの収集が行われないため、古くなったテレビや古い家具、捨てられたマットレスなどのかさばるゴミはビルの屋上に放置され、公共通路といえば異臭を放つ塵が散乱している。

 そんな荒廃とした環境ではあるが、実際のところ、多くの住民はごく普通の生活を送っていたようだ。確かに「犯罪の巣窟」という側面がなかったわけでないが、その極端な極悪なイメージは映画やドラマなどによって定着したといえなくもない。

 

 しかし、地名も、場所の由来もしらぬモエは、ただただその場の雰囲気に飲まれていた。ともすれば逃げ出したくなる気持ちを必死に抑えて男に従った。彼女には男についていかざるを得ない理由があったのだ。

 

 やがて男は、言いようもない匂いと湿った空気に満たされた小さなダイニングキッチンへ彼女を導くと、薄汚れたダイニングテーブルの椅子を顎で指し示す。そして、彼女が腰かけるのを見届けると、男はキッチンの入口にある柱に寄りかかり、目をつむって動かなくなった。

 

 モエの膝は、テーブルの下で小刻みに震えていた。なんとか震えを止めようと試みた。それも徒労に終わると、もういい。どうせテーブルの下で見えないのだから、とあきらめた。重要なのはテーブルの上に露見する上半身だ。彼女はそう自分に言い聞かせて、深く深呼吸し顎を上げ、そして胸を張った。弱い自分を他人に見せたくない。彼女が夫を失ってから今まで、自分に課していたコンプライアンスである。

 

 どれくらい待っただろうか。やがて白い長いひげを蓄えた老人が、少年を引き連れてキッチンに現れた。少年は老人の中国服の袖をしっかりとつかんではいたが、落ち着かない目であちこちを見ていた。よく観察すれば青年に近い年齢なのだろうが、少年としての印象が強いのは、彼が知的障害者であるからかもしれない。

 老人は、ダイニングテーブルのモエに対峙する位置に座ると、じっとモエを見つめた。モエはその瞳の中を探り、この老人とのネゴシエーションを有利に運ぶヒントを得ようと試みた。だが、ただそこには漆黒の闇しかない。いったいどんな生き方をしたら、こんな深い闇を瞳に宿すことができるのだろうか。もしかしたら、想像もつかないほどの残忍なことを見続けた結果なのか…。自分は無事にホテルに戻れるのだろうか。いや、無事に戻ったところでここへ来た目的を果たさなければ生きていく意味もない。

 

「空を舞う鳥が、なぜか海の底に潜ってきよったわい…こんなところに長居すれば溺れ死ぬのは承知だろうに…」

 

 老人が口を開いた。流ちょうな英語だった。モエも英語で応えた。

 

「…用がなければ、こんな恐ろしいところには来ません」

 

 モエは、第一声が震えずに言えたことは、奇跡だと思った。老人は返事もせずに黙ったままだ。

 

「私は纐纈モエ。あなたは、香港マフィア14Kのドラゴンヘッド(頭首)さんよね」

 

 モエの問いにも、老人は何の反応も示さなかった。どれくらい沈黙が流れただろうか。老人の傍にいた少年が、焦れて老人の袖を何度か引いた。老人は、困ったように眉間にしわを寄せたが、少年を怒るようなことはしなかった。

 やがてモエに向き直ってようやく口を開く。その瞳には相変わらず漆黒の闇が漂っている。

 

「だとしたら…」

 

 モエは、バッグから写真を取り出すとテーブルの上に置く。そして、今自分が感じている恐怖と不安を悟られぬよう、ゆっくりと低い声で答えた。

 

「探してほしい人がいるの」

 

 

〈香港街景〉

 

 香港MRT(地下鉄)の中環(セントラル)駅近辺は、日曜になると出稼ぎフィリピン女性で溢れかえる。

 

 大抵は、欧米人や中国人の裕福な商人の家庭で家政婦(メイド)として働いている人たちである。休みの日曜日にここに集まって、路上や公共通路、付近の公園などに段ボールを敷いて、同郷の人たちとおしゃべりや食事、トランプなどをして楽しんでいる。

 

 雇い主の家に住み込みで働いている彼女たちは、香港に自分の家がない。そのため、唯一のお休みには、外に出て同郷の友人や親戚と集まって過ごすのだ。

 休日に飼い主の家に居ると、用を言われて休みにならないとか、盗難の嫌疑をかけられるとか、不謹慎な雇用主に言い寄られるとか…。とにかく用もないのに家に居ることは、不必要なトラブルに巻き込まれかねない。そんなことも、彼女たちがここにたむろする一因でもあるようだ。

 

 大概の人々は、それぞれの仲間のシートに集まって、おしゃべりの散弾銃を打ちまくる。しかし、そんな喧噪のなかで、誰とも話さず大判のスケッチブックを開き、スケッチを楽しんでいる女性がいた。彼女の名は、エラ。本名は、 Elaiza James Dacara。

 彼女も大半のフィリピーナがそうであるように、貧しい家に生まれ、16才で自立し、恋をし、裏切られ、過労による流産を経験し、そして体の回復も十分でないまま、母や家族を養うためにここ香港に出稼ぎにきている。

 

 おしゃべりに余念のないフィリピーナたち。しかし、同じフィリピーナでも、彼女は周りの女性たちと違った雰囲気を持っていた。小さくはあるが、感性と創造性の色彩がその瞳の奥に宿っている。それは、幼い頃から続けているスケッチを描く習慣が、彼女にもたらしたものであろう。彼女は目に映るものを、楽しそうにスケッチブックに描いていた。

 しかし、だからと言ってその習慣が経済的に彼女を豊かにする糧になっている訳ではない。

 

「ねえ、エラ」

 

 傍にいた友人が彼女に話しかける。

 

「なに?」

「おしゃべりより、絵を描いている方が好きなんて…女としては変態よね」

「そうかしら…」

「だって…女は口から先に生まれたって言われるのが通説よ」

 

 友人が自らの口をとがらせて、エラを責め立てる。

 

「休みに仲間と集まったこの状況で、口を動かさないでいられるあなたが不思議でしょうがないわ」

「ハハハハ…でも、みんなの話しを聞きながらスケッチするのって、けっこう楽しいわよ」

「そうかしら…楽しいかもしれないけど、ストレスの発散にはならない。女ってね、大好きな人とのおしゃべりで、日頃のストレスを発散した時こそ、本当に幸せを感じる生き物なの」

「そうかしら…」

「あら、だったらエラは、どんな時に幸せを感じるの」

「そうね…まぶしい日差しを手で陰る時かな」

 

 エラはそういいながら、船長さながら腰に手を当てて遠くを見るポーズをとった。そんなエラの答えと可愛いしぐさに周りはどっと笑い出した。

 

「…別にあなたの勝手だけど、変な時に幸せを感じるのね」

 

 エラは笑いながらも、またスケッチを描きはじめる。

 

「とにかくいい加減スケッチブックを閉じて、あなたも、レチェ・フラン(すごく甘いフィリピン版プリン)を食べなさい。家で奥様の目を盗んで焼くの、苦労したんだから」

「はーい」

 

 エラは、友達の誘いに笑みで応えながら、仕方なくスケッチブックを閉じた。

 

 

 友人から紙皿に盛られたレチェ・フランを受け取った彼女は、プラスチックのスプーンで口元に運んだ。

 その時、甘い香りに誘われた蜂が、スプーンに盛られたレチェ・フランを目指して飛んできていたのだが、彼女はそんな危機に気付くことができなかった。

 

 日本には「風が吹けば桶屋が儲かる」という落語があるが「香港に風が吹くと…」いったい誰の人生が変わるのだろうか。

 いたずらな、香港の風は、スプーンに盛られたレチェ・フランへ着地しようとする蜂の羽を狂わせ、エラの眼球にハチをぶつけた。本能的に瞼を閉じた彼女であったが、そのことが蜂を興奮させエラの眼球の上でひと暴れする結果となったのだ。

 

「キャーッ」

 

 彼女の叫び声は、半径50mにいる人間の注意をひくのに十分なものだった。

 

「痛い、痛い、痛い。何とかしてーっ」

 

 エラは、はた目から見ても、異常なほどのパニックを起こしていた。

 両手で目を押さえて、叫びながら地面を転げまわっている。目を擦りながら暴れて2次的な怪我をしかねない。まわりの友達が 彼女を落ち着かせようするが、パニック状態に陥ったエラの体をなかなか抑え込めないでいた。

 エラにしてみれば、闇の世界にはもう二度と戻りたくはなかった。闇の世界にもどるくらいなら、いっそ歩道の石に頭をぶつけて死んだ方がましだ。

 その時彼女は、腕を押さえられながらも、聞き覚えのある言葉を聞いた。

 

「私は目のドクターだから…安心してください」

 

 それは日本語であるから、フィリピーナのエラには、その意味が分かるわけはない。

 しかし、彼女はその言葉に聞き覚えがあった。そして、その言葉で奇跡を体験したことを思い出した。彼女はおとなしくなった。

 

「ちゃんと診てあげますからね…」

 

 目を閉じたままのエラは、自分の瞼に柔らかい指が触れるのを感じた。その指から伝わるぬくもり、そして目を閉じていても肌で感じられる相手の優しさ。

 

「うん、大丈夫。蜂は黒いものに対して刺す習性があって、黒目(角膜)の部分が刺されることが多いのだけど、角膜に損傷はないようですね」

 

 彼は診察をしながらそう言ったが、日本語であるから誰一人理解しているものはいない。周りの女性たちはきょとんとした顔で彼を見つめていた。

 

「ああ、ごめんなさい…眼球の表面がちょっと傷ついた程度です。充血しているけど、洗浄しておけば大丈夫です」

 

 彼は英語に切り替えると、持っていた洗浄液で、エラの眼球を洗い、白いガーゼで軽く眼帯を施す。

 

 洗浄液に白いガーゼ。先輩の医師でもある母親にしつこく言われて、こんなものを持ち歩く習慣が身についた。しかし、無駄だと思っていたこんな習慣が、初めて役に立った。周りの女性たちは、突然現れたドクターが、手際よくエラの瞳を処置するのを感心しながら眺めている。

 ひと通りの処置を終えるとドクターは、エラのこめかみに両手を添えて眼帯の位置の調整し、笑みを浮かべて言った。

 

「これでOK。そのうちはっきり見えるようになりますよ」

 

 その声に安心して、エラが、無事な方の目を開ける。そのぼやけた視点の先に、ドクターの顔の輪郭を見た。彼女の胸が苦しくなり、動悸が激しくなる。ああ…ようやく出会えた。理屈ではなく、心が感じた。

 

 そして、事件は突然起きた。こめかみを支えられていたエラが、突然ドクターに飛びつくと全身の力を込めてしがみついた。

 ドクターは比較的長身で、小柄なエラとは身長差があったが、なんせ目の治療で顔の位置が近かったこともあり、ドクターはそれを避けることができなかった。というか、驚きのあまり動くことができなかったというのが本当のところだ。

 エラは治療した目に一杯涙を溢れさせて、頬をドクターの頬に摺り寄せながら、治療の感謝とは程遠い、強く情緒的なほっぺチュウを何度となく繰り返した。周りを囲む女性たちから、大きな歓声が起きていた。

 

 

〈九龍城砦〉

 

「確かに、人を探し出して消す仕事は多く手掛けてきたが…」

 

 長い沈黙の後、ドラゴンヘッドはようやく口を開いた。

 

「探すだけでいいの。消してもらっては困るのよ」

 

 モエは慌てて相手の誤解を訂正する。

 

「だが、いくら仕事でも、誰の依頼でもやるとは限らない。お互いの信用が第一なんでね。それが、この海の底で生き残る秘訣なんだよ」

「わかっているわ。いきなり来た見も知らぬ日本人の依頼を、素直に受けてくれるとは思っていない。だから、せめて信用をお金で買えたらと思って…」

 

 モエは、バックの中から取り出した香港ドルの紙幣の束をテーブルの上に置いた。

 

「ここに150万香港ドルある。仕事を受けてくれたら、これを着手金として支払うわ」

 

 札束を見てドラゴンヘッドの漆黒の瞳の奥にわずかながら生気の光が宿った。そして、せき込むほどの大笑いを始めた。交渉に乗ってきたと勘違いしたモエはさらに言葉をつづける。

 

「そして、見つけてくれたら、これとは別に成功報酬として220万香港ドルをお支払いします」

 

 どや顔のモエであったが、ドラゴンヘッドの瞳に宿った光が、実は邪悪な光であったことに気づくのに、そう長い時間はかからなかった。

 

「世間知らずにもほどがある…こんな大金をこんなところに持ち込むなんて…。いいか、よく覚いておきなさい」

 

 ドラゴンヘッドは、札束を自分の方へ引き寄せながら言葉を続けた。

 

「私たちが大切にしている信条がもうひとつある…それはな、できるだけ楽して儲けろってことなんだよ」

 

 ドラゴンヘッドが入口に立っている男に、顎でサインを送る。

 

「これ以上、話しを聞く必要もあるまい」

 

 男が音もなくモエの背後に回りこんだ。

 

「この金はあんたを無事に空に帰す代金としていただくよ。ただし、おとなしく戻るのか、海の底で獰猛な魚たちの餌になるのかは、あんた次第だがな…」

 

 やはり犯罪組織のドラゴンヘッドには、まともな取引なんて通用しない。彼の恐ろしい言葉に、モエは腰から下が震えて、立ち上がるのも難しい状態なっていた。しかし、気丈にも臍から上は、なんとか持ちこたえている。消えかかる勇気の灯を無理やり焚きつけて彼女は言った。

 

「ここに来たら、無事には帰れまいと予想はしていました。それでも、ここにやってきたのは、ドラゴンヘッドならドラゴンヘッドとしてのプライドがあると信じたからよ。お金を受け取るなら、その仕事はきっちりやるべきじゃないかしら」

 

 モエの精いっぱいの訴えにもまったく意に介せず、非情なドラゴンヘッドは黙って立ち上がった。その時だ。それまではおとなしくドラゴンヘッドの袖を握っていた少年が、その手を離すと、テーブルを回ってモエの腕にしがみついた。そして、ドラゴンヘッドに向かって唸り声をあげたのだ。

 

 

「ううう…」

「なんだ、小松鼠(シャオソンシュウ)もう帰って寝る時間だぞ」

「ううう…」

 

 ドラゴンヘッドが必死になだめるが、少年はモエの腕にしがみついたまま、動こうとしない。

 

「小松鼠、お前のおかげで思わぬ金が手に入ったが、もう話しはおしまいだ。こっちへ来い」

 

 言うことを聞かない少年に、焦れたドラゴンヘッドは、今度は口調を荒げて諫める。

 だがそれでも、少年は動こうとしない。恐怖で足をすくませていたモエだったが、老人と少年の意味不明の中国語のやり取りにも関わらず、少年が自分の味方になってくれているのではないかと感じることができた。

 

「おい、ミセス・コウケツ。うちの小松鼠に、いったい何をしたんだ」

 

 常日頃からドラゴンヘッドの言葉には、従順に従う小松鼠。 しかし少年が初めて見せた反抗に、彼はその困惑の矛先をモエに向けた。

 

「シャオソンシュウくんっていうのね」

 

 少年が味方についてくれたと思うと、モエも多少落ち着いてきた。しがみつく少年の手を優しくなぜながら、言葉を続ける。

 

「ドラゴンヘッドさんに会いたいと思って、危なそうな人を見つけては尋ね歩き…そんなことをしながら街を彷徨っていたら、いきなり彼が近づいてきて連絡先が書かれたメモを渡されたの」

 

 小松鼠を見ると、興奮しているせいか髪が乱れている。モエは彼の髪を手すきで整えてあげた。

 

「そうしたら今度はドラゴンヘッドさんを連れて現れてくれたのには驚いた…。シャオソンシュウくんと会ったのは今で2度目だけど、お名前も今知ったくらいなのよ」

 

 ドラゴンヘッドは舌打ちをすると、首を左右に振りながら、元の椅子に座る。それを見た少年は、安心したように、今度はモエの袖を握って、彼女の横に座った。

 

「やれやれ…孫にせがまれて…仕方なく来てはみたものの…」

 

 老人は、モエの横に座る少年にあらためて目を向けた。

 

「お分かりだと思うが、この子は少し知恵が遅れておる」

 

 ドラゴンヘッドの瞳に家族愛の灯を見て、モエも少し心が緩んだ。

 

「シャオソンシュウくんはドラゴンヘッドさんのお孫さんだったのね?」

 

 少年は、視点を定めず、あちこちをせわしなく見回している。モエに見つめられて、若干照れているしぐさにも見える。ドラゴンヘッドはモエの問いに答えもせず、言葉を続けた。

 

「しかしな…頭に知恵が詰まっていない分、その隙間に…なにか大切なものを隠し持っているのじゃないかと思う時がある」

 

 

〈香港街景〉

 

 エラが我に帰って身を離すまで、それは長い抱擁だった。

 

 眼科のドクターであるタイセイは、その間彼女を跳ね除けることができなかった。彼も30代も半ば。女性に関してそれなりの経験はあったが、女性からこれほど熱くそして情感を込めた抱擁を受けた経験はなかった。また、抱擁でこんなに癒しを感じたのも初めてだった。だから、エラが我に返って抱擁を解いた時、ちょっと残念な気もしたが、それも不謹慎だと慌てて気持ちを立て直した。

 

「ごっ、ごめんなさい」

 

 エラは、顔を真っ赤にして、ただひたすら謝る。そんな彼女を見て、周りの友達たちが一層はやし立てた。

 

「ドクターの…その…彼女か、奥さまに…本当に失礼なことを…」

 

 タイセイは確かに、20代の最後の歳に結婚していた。しかし1年もたたぬうちに、タイセイは新妻が実は自分ではなく、医者を夫にしたかったのだということを、そして新妻は、彼の結婚の本当の動機は、単なる母親への嫌がらせだったのだという衝撃的な事実を、お互い気づいて離婚していた。

 

 タイセイは過去の記憶をかき消すかのように首を振りながら答える。

 

「いや、幸か不幸か…3年前に離婚して以来、そのどちらも僕にはいません」

 

 エラはただただ顔を赤く染めてうつむいていた。タイセイもそんな彼女が気の毒になって助け舟を出す。

 

「日本では人前でこんな熱いハグをする習慣がないので驚きましたが…眼の治療費を、こんな素敵なハグで支払っていただけるなんて感激です。ありがとうございました」

「別に、治療費の代わりってわけじゃ…ちゃんと治療代をお支払いします」

「いや、医師のルールでね。その国の医師免許がなければ、治療をしてお金は貰ってはいけないんです。だから気にしないでください。お役に立ててよかったです。それじゃ」

 

 タイセイは会釈をすると、踵を返してエラから離れていった。

 

「ちょっと、エラ。このまま帰しちゃっていいの?」

 

 グループの仲間たちがエラのわき腹を肘で小突く。

 

「けっこうポギ(イケメン)だし、ドクターでお金もありそうだし…なにより、彼女も奥さんもいないんじゃ…ここで逃がす手はないわよ」

 

 囲む友人たちがエラをけしかけるが、エラは全く別なことを考えていた。

 あのドクターに以前会った記憶はまったくない。しかしあの、ようやく出会えたような感じ…あれはなんだったのだろうか。

 運命の男に出会ったのか?いやこの感じは、異性に惹かれるのとは全く異質なものだった。今それを解明しないと、きっと一生後悔する。

 

 エラはスケッチブックを抱えると、タイセイの後を追った。彼女の友達たちは、飛び出していくエラの後ろ姿に声援を送ったのは言うまでもない。

 

 

 エラは、ガイドブックを見ながら歩いているタイセイにようやく追いついた。

 

 さて、どう説明したらよいものか…。彼の背に声をかけることに躊躇していたので、ある程度の距離を置きながらタイセイの後を付いていくという状況がしばし続いた。

 外国の旅行者に共通であるが、スリ等のトラブルに合わないようにと、周りの状況に神経をとがらせているタイセイにとって、そんなエラの存在に気づかないわけがない。

 

『どうしよう…危ない人に関わっちゃったかな』

 

 感謝の気持ちの表れだったのかもしれないが、相手は見も知らぬ自分にいきなり抱き付いてくるような女性だ。目の応急処置も終わって、自分に何の用があるというのか…。後をつけてくる理由がさっぱりわからぬ彼は、とにかく気づかぬ振りを通すことにした。とにかく…ガイドブックを頼りに歩みを速め、楽しみにしていた香港観光を無事完遂させるのだ。

 

 もともと彼は、たった1日ではあるが、新旧の香港の佇まいが楽しめる中環(セントラル)エリアの街歩きで、香港観光を楽しもうと心に決めていた。いわゆる名所で混雑が筆致の山頂(ビクトリアピーク)を避けたのは、喧噪を嫌う彼の性格による。

 本来は上環(Sheung Wan)駅から中環(セントラル)駅への散策であったはずだが、タイセイのMRTマップの見間違いで一つ手前の駅で降りてしまった。それで、エラとの出会いが生じたわけだから、ドラマというのは果たして、こうした小さな間違いから生まれてくるものだ。

 

 タイセイは、早歩きでコ輔道中を西へ移動する。

 足は長いがタイセイより小柄なエラは、そのスピードについていくのに苦労しているようだ。いいぞ、このままいけばいつか振り切れるかもしれない。

 タイセイは永吉街(ウインカッツストリート)、そして摩羅上街(キャット・ストリート)へ。

 ここは女性ものの雑貨にしろ、価値不明な怪しいアンティックにしろ、雑多な品物が無造作に、まさにゴチャッと積まれた店が立ち並ぶ。まるでおもちゃ箱をひっくり返したような楽しさがある街だ。

 

 タイセイはそれとなくエラの様子をうかがった。彼女は、なぜがキッチュな雑貨との出会いに夢中になって、店先ではしゃいでいる。もうタイセイのことなど忘れているようだった。今だ!。タイセイはそんなエラを残し足早に街を離れた。

 

 次の目的地は、荷李活道(ハリウッドロード)のスタート地点にあるショップ「HULACAMP」。 オーナーは、パキスタン人でありながらも香港の業界屈指のビジネスマン。国籍に問わず誰でもビジネスを起こせるのは、さすが国際商業都市香港といえる。

 このオーナーは、日本の新しいものに目がなく、それらを収集して、遊び心満載でここにショップを作った。商品のメインは、カシオの時計とハリオガラス。日本では違和感のある品揃えぞろえだが、それがここではいたって自然に陳列台に並んでいる。

 不思議なことにカシオは日本のブランドなのに、日本で手に入りにくい限定モデルがこの店にずらりと揃っている。もちろん、タイセイのお目当ては、日本では手に入らないモデルのカシオ時計だった。

 

 ひとしきり買い物を楽しんで、お気に入りの時計を腕に巻いたタイセイは、満足げに店を出る。次の目的は荷李活道(ハリウッドロード)に対して細く平行に位置する新街(ニューストリート)。

 さて、歩みを進めようとするのだが、なぜかその一歩が踏み出せない。そういえば彼女はどうしたのだろうか。自分を見失って諦めて、どこかに行ってしまったに違いない。それで「良かった」という気持ちに、妙な「気がかり」の風が吹きつける。足が勝手に摩羅上街(キャット・ストリート)へ戻る道へ動いていった。

 

 

 摩羅上街(キャット・ストリート)の入口についたタイセイは、店が立ち並ぶ方向を恐る恐るのぞいてみた。

 彼女の姿はなかった。当たり前の結果に、ただうなずくタイセイ。それは、見方によれば、何かを自分に言い聞かせている仕草と言えないこともなかった。

 さて気持ちも新たに、次の街へ行くかと摩羅上街(キャット・ストリート)に背を向けた瞬間、遥か遠方の道端でスケッチブックを胸にだきかかえ、途方に暮れたようにしゃがみこんでいる彼女を視界の端に捉えた。

 キッチュな雑貨に心を奪われて、タイセイを見失った彼女は、せっかくきれいに付けた眼帯もはぎ取って、彼を探して走りまくったに違いない。汗ばんだ額と乱れ気味の髪、そして息で大きく上下する彼女の肩がそれを物語っていた。

 

 継母と連れ子の姉たちにメイドとして奴隷のようにこき使われ、結局、舞踏会に行けず、家の屋根裏部屋に取り残されたシンデレラ。落胆するエラの姿は、なぜがタイセイにそんなイメージを想起させるのだった。日本流に表現すれば、わずかではあるが、彼女に情が湧いてきたというところだろうか。もっとものちに彼は、そんなおとぎ話をイメージしてしまったのは、香港に来る途中で全日空の機内で観た映画のせいだとぼやいてはいたが…。

 

 タイセイはうずくまるエラに近づくと大きくふたつ咳をした。

 その音につられてエラが顔を上げる。その視線の先にタイセイをとらえると、もしかしたら泣いていたかもしれない潤んだ瞳に、パッと灯が灯った。実はタイセイのまったくの勘違いであった確率が高いのだが、男は本当に馬鹿だから、こんなことで簡単に警戒という名の扉のロックを開けてしまうのだ。

 

 エラは跳ね上がるように立ち上がった。

 タイセイは彼女に近づくと、また、優しく彼女の瞳をチェックし、眼帯をセットしなおす。そしてそれをやり遂げると、何も言わずに回れ右をして歩み始めた。今度の彼の歩みは、ゆっくりとしたものだった。その背は、エラについておいでと語りかけていた。

 

 新街(ニューストリート)、普仁街(ポーヤンストリート)、そして太平山街(タイペンサンストリート)へ。タイセイは歩みを進め、エラはその背に従っていった。

 

 新街(ニュー ストリート)は、ギャラリーからレストラン、アンティーク家具など、香港の新鮮な感覚が集う隠れ家スポット。

 高級志向の人々は、セントラルに留まり、歩ける距離ながらここまで足を伸ばしてこない。だからだろうか、ストリートはリーズナブルでアットホーム、そしてお得な発見がある香りがしてくる。

 

 新街(ニュー ストリート)から進み、普仁街(ポーヤン ストリート)に入った交差点。交差点といっても車が往来するような交差点ではないのだが、360度見渡しても楽しい景色が広がる。

 交差点の角に何やらおしゃれなお店。そのまま進行方向をみれば、お寺らしきものが数件。山側には、のどかな風景。こんな場所をエラが喜ばないわけがない。

 さっそくスケッチブックを取り出しては、鉛筆を走らせていた。タイセイは、今度はエラを見捨てることなく、近くの縁石に腰を掛けて、エラがスケッチをしている様子をのんびりと眺めていた。

 しばらくして、我に返ったエラが慌ててスケッチブックを閉じて、きょろきょろタイセイを探す。そして縁石に腰かけている彼と目が合うと、エラの瞳がくりっとひかり、タイセイはまたゆっくりと歩みを進めはじめた。

 

 

 新街(ニュー ストリート)と普仁街(ポーヤン ストリート)の交差点から太平山街(タイペンサン ストリート)に進む。いわずと知れた、ソーホーエリア発祥の地。SOHOはここ、South of Hollywood road(サウス オブ ハリウッドロード)の略式と言われている。

 

 太平山道(タイペンサン ストリート)の脇道の壁を見ると、どこかのアーティストが描いたのだろうか、それともお店の人が遊びでデコレーションしたのだろうか。斬新で、面白いモチーフのアートがたくさん描かれている。通りぬけてしまうだけではもったいない路地アートが満開だ。いつ消されてなくなってしまうか分からない。それを覚悟で描かれたアートたちを眺めていると、香港という中華圏のど真ん中にいることを忘れてしまいそうだ。

 

 カラフルで、ビビットな壁面アートに囲まれて、もうエラは有頂天。こっちのアートに飛んできては、壁の前で首を左右にかしげて見入ったり。あっちのアートにへばりついては、壁面を指で触れてみたり。さながら、百花繚乱の野に舞う蝶々のように飛び回っていた。

 

 タイセイはだんだん、誰の楽しみで街歩きをしているのかわからなくなってきた。だいたい、なんで香港に住み働いている人の方が、香港に初めてきた旅行者の自分より、街並みに大きな関心を抱き、街歩きを喜び、楽しんでいるのか…。

 

 しかし重ねて言うが、本当に男は馬鹿だから、無邪気に喜んでいる女性の姿を見ると、自分も何となく楽しいかな…なんて思ってしまう。エラはそれなりの大人なのだろうが、楽しいもの、美しいものが目に映ると、周りのことを忘れてすぐ夢中になる、まるで少女のような性格であることが計り知れた。

 

『そういうことなら、とことん楽しませてあげるよ』

 

タイセイは指笛を吹いて、エラの注意をこちらに向けると、ちょっと足を速めて歩き始めた。

 

 太平山道(タイペンサン ストリート)は、進んでいくうちに、必列者士街(ブリッジエス ストリート)につながっていく。ここは古い建物や、学校が並び、映画の撮影などにもよく使われる地区。

 車の交通量も少ないので、リラックスしたぶらぶら歩きをつづけると、士丹頓街(スタントン ストリート)へつながる。そしてふたりは、エラが随喜するにまちがいなしのPMQにたどり着いた。

 

 PMQは小規模ながら、食事から、ショッピングまでなんでもござれの複合商業施設。PMQの名前はPolice Married Quartersの頭文字から取られている。つまり、ここはかつて既婚者向けの警察宿舎だったのだ。

 1951年に建築されたこの建物はシングルルーム140室、ダブルルーム28室を備え、当時のセントラル警察署からも程近い距離にある便利な宿舎で、中国人警官、といっても当時の警察は中国人以外にもイギリス人やインド人の警官も在籍していたのだが…その彼らが夫婦で住むことを許されていた。

 もっとも、本当の狙いは、より美しく環境の整った宿舎を建てることによって、多くの警察官を募り、また在籍している警官の士気を高めることにあったそうだ。

 やがて時がたち、政情も変わり、2007年までに、ここに住んでいた警察官たちは全員出て行ってしまった。以降、この場所は長い間利用計画が決まらず放置されていたが、2014年6月、歴史とクリエイティブが共存するトレンディスポット、"PMQ"として新しく生まれ変わったのだ。

 

 新生PMQの特徴は、何と言っても、かつて宿舎だった小部屋をショップに内装替えして、さまざまなアーティストやデザイナー、クリエーターたちがその自慢の作品を披露していることだ。

 それぞれの空間はかつて同じデザイン、同じレイアウトの部屋だったとはとても思えないほど、各オーナーのこだわりで様変わりしていた。

 それを見るだけでも、もうエラは十分ワクワクしたり、感心したり。さらにショップで、独自のセンスで世界各国から集めてきたおしゃれな商品や、ほかでは絶対に手に入らないオリジナルデザインの一点もの商品が並べられているのを見ると、もうエラは涙ぐんで、ショップからなかなか出てこない。

 

 さすがのタイセイも疲れ果てて、PMQ のレストラン「ISONO」に陣取り休むことにした。なるほど、このレストランでも、店内のインテリア、売られているパンやスイーツなどに、ちょっとしたクリエイティビティが感じられる。

 

 どれくらい経っただろうか、スケッチブックを胸に抱きしめてエラがようやくショップから中庭に姿を現した。

 

 中庭の見えるバルコニー席に陣取っていたタイセイにはそれが良く見えた。またもや、彼を見失って慌てているようだ。タイセイが指笛を吹いて、その存在を示す。

 彼の姿をレストランに見出した彼女は、安心したようだったが、彼のいるレストランには近寄らず、中庭の縁石に腰を掛けてしまった。それを見て、レストランの席で見ていたタイセイがやおら席を立った。

 

 エラは驚いた。彼が自分の存在を知っているということはわかっていた。だから今まで、後をついていくことを許してくれたことには感謝している。しかし、だからと言って彼が自分とのコミュニケーションを、積極的に望んでいるとは到底思えなかった。その彼があからさまに自分に向かって歩いてくる。なぜか、心臓が高鳴り、慌てるエラ。腰を浮かせて、逃げ出そうと思った瞬間、エラは彼に手首をつかまれた。そしてカフェレストランに引きずりこまれてしまった。

 

 

 タイセイはバルコニーの席の椅子を引いて、エラに座るように促す。

 座る時に、男性にエスコートされ椅子をひいてくれるなんて…エラには初めての経験だった。エラは、目の治療をしてもらった時に聞いた、あの優しい声を聞いた。

 

「こんなとことで偶然お会いするなんて…奇遇ですね」

 

 エラは、顔を真っ赤にしてうつむきながら、弱々しい返事を返す。

 

「嫌味を言わないでください」

 

 彼女は付いて歩いている理由を説明したいのだが、彼女が幼い時に出会い、そして決して忘れられないでいたものに、ようやく出会えたような感じを解明するため…なんてわかってもらえっこない。

 

 黙り込んでしまったエラに、タイセイはまたもや助け舟を出す。

 

「仮に、僕の後をつけていたのだとしても…僕に興味があってのことではないのは、はっきりわかりますよ」

「どうして?」

「だって僕より、街並みや、雑貨や、壁に描かれたアートの方が興味あるみたいだから…」

 

 見抜かれたエラに一言もなかった。一応言い訳を言っておこう。

 

「だって…こんな素敵なところ…こっちへ来て初めて来たんです」

「えっ、こっちで働いてどれくらい経つんですか?」

「2年くらいかしら…」

「そんなに香港にいるのに、初めてなの?」

「ええ、平日は住み込みのメイドで働いて、休日には公園でみんなと過ごして…2年間そんな毎日で…街歩きなんてしたことないから…」

 

 タイセイは驚きを隠せなかった。過酷なメイドの仕事。彼女は本当に魔法使いに会う前のシンデレラだったのだ。

 

「それが、今日初めて街のいろいろなモノが見られて、スケッチもできたし…なんだか、とっても嬉しくて」

 

 エラは嬉しそうに、スケッチブックをパラパラとめくった。

 

「それはよかったですね。でも、朝からお昼過ぎるまで歩いたんだ。おなかすいたでしょう。食べる時ぐらい、一緒のテーブルについてくださいよ」

 

 タイセイはレストランのフロアスタッフを呼ぶ。

 

「でも…恥ずかしいけど…こんな高級なレストランで食事ができるほど、お金持ってないんです」

「いいですよ。気にしないで。朝にいただいた治療代のお釣りだと思ってください」

 

 エラは、情緒的な抱擁を思い出して、さらに顔を赤く染めた。

 

 タイセイはそんなエラを笑顔で見つめながら、ふたりのために、グリンピースとイカスープ、そしてメインにジューシーで柔らかいサーモン、柔らかく煮込まれたビーフとトリフ味のマッシュポテトを注文した。もちろんハウスワインとパンも忘れるわけがない。

 

 運ばれてきた、グリンピースとイカスープは、エラにとっては過去に経験したことのない、それはおいしいスープだった。空腹も手伝ってか、ふたりとも、ものも言わずにスープを平らげる。そしてメインが運ばれてきた。エラの前に柔らかいサーモン、タイセイの前に煮込まれたビーフ。

 それを見て、エラは目を輝かせながら言った。

 

「どちらも、本当においしそうだわ…」

「…なんなら、もう一人前ビーフ頼んで、両方とも食べます?」

「そんな、たくさん食べられません…お金ももったいないし」

「では、どちらを食べたいか決めてください」

「うーん…そうだ。途中で交換して、それぞれの味を楽しみませんか」

「えっ」

 

 

 タイセイは一人っ子のせいか、人と分け合って食べたという記憶がない。短いとは言え、結婚した相手との生活の中でもそんな記憶はなかった。自分の前に出された食事は自分のもので、当然自分が食べる。それが当たり前の生活であった。

 

「欲張りですね…」

「だって…ひとりでひとつのものを食べるよりは、二人で二つのものを分け合って食べる方が…なんか…こう…いろいろ味わえて…幸せに感じませんか」

 

 タイセイにいたずら心が湧いてくる。

 

「でも…おいしいものを途中でやめられるかどうか…自信ないな…」

「…嫌ならいいです…ごめんなさい。勝手なこと言って…」

 

 女性は自分の本心は瞳の底に隠すという。過去交際した女性たち、かつて妻となった女性、そして自分の母も含め考えても、確かにその通りだと思っていた。

 しかし、この目の前に居る女性はどうだ。考えていることが、こんなに正直に瞳に映る女性には会ったことがない。涙とは言わないまでも、落胆した気持ちで目を潤ませるエラを、タイセイはまじまじと見つめた。

 

「わかりました。では、こうしましょう…好きなところでストップと言ってください。がんばってナイフとフォークを置きますから」

「えっ…いいんですか?」

「ええ、その代わり…食事を分け合う相手の名前も知らないのも変ですよね」

 

 タイセイは姿勢を正して自己紹介する。

 

「僕はコウケツタイセイです」

「わたしは、Elaiza James Dacara.(エライザ・ジェームス・ダカラ)」

 

 こうして二人は初めてお互いの名前を知って握手をした。

 

「これでミス・エライザと私はお友達です」

「ですね…」

「友達って、案外すぐ出来るもんですね」

 

 そう言ってほほ笑むタイセイ。エラはなぜか顔が上気してくる。それを悟られまいと彼女は声を高めた。

 

「そんなことより、早く食べましょう。おなかがすきました」

「ですね…それでは、よーい、ドン!」

「なんです?それ?」

「あっ、いや…日本のスタートの合図です」

「わたしはフィリピーナですからそんなの分かりません」

「そうですか…ならばミス・エライザの国のスタイルだと、なんていうんですか」

「Time Start Now!」

「なるほどね…あれっ…今ので始まっちゃったんですか…」

 

 無心に食べ始めているエラを見ながら、呆れ顔のタイセイ。

 

「ねえミス・エライザ。いくらスタートの合図があったとは言え、早食い競争じゃないんだから…お話ししながらゆっくり食べてもいいんじゃないですか」

「じゃあ…ストップ」

「いや、そういうことじゃなくて…えっもう交換ですか?」

「約束したじゃないですか」

「でも…まだ自分は何も食べてなくて…」

「安心してくださいドクター。ストップは何度でもかけますから、またビーフは帰ってきますって…」

 

 嬉々としてお皿を交換するエラ。

 

「だから…自分が言いたいことは、そういうことじゃなくて…」

「わぁ、このビーフおいしい。こんな柔らかいお肉、食べたことないわ。ドクターも食べてごらんなさい」

 

 エラは小さなお肉をフォークにさしてタイセイの口元に差し出した。

 

「えっ、いいですよ…お皿が返ってきた時に食べますから…」

「ほら、早く」

 

 エラは全く人の話を聞いていない。なのになぜ腹が立たないのか。タイセイは不思議に思いながら、エラの差し出す肉を口の中に入れた。

 

 

「どう?本当においしいでしょう」

 

 そう問いかけるエラの瞳は、ともに食事する楽しさにクリクリと輝いていた。

 タイセイは今まで、誰かとともに食事をすることとは、同じテーブルでそれぞれの食事を味わうことであると思っていた。しかし、こんな風にテーブルに乗っている食事を分け合って味わうというのも悪くはないなと感じていた。

 実はこれが、はるか昔に味わっていた家族の団らんというものであったのだが、父を早く失った彼は、そんな昔を思い出せず、その温かみを今初めて知ったような気になっていた。

 

「ミス・エライザ。提案があるんだけど」

「なんです」

「お皿の交換もいいのだけど、持っているフォークにそれぞれのソースが付いてしまって、味が混ざってしまうだろう」

「ええ…でしたら、お皿と一緒にフォークとナイフも交換します?」

「いや…今みたいに…お互い食べさせてあげればいいじゃない」

 

 言ってしまって、タイセイはすぐに後悔した。

 恋人でも家族でもない女性に、なんて提案を持ち出してしまったのか。自分に下心があるんじゃないかと、警戒されるに決まっている。

 ばつが悪くて目を伏せながらフォークとナイフを忙しく動かした。

 

「早く」

 

 タイセイが目を上げると、エラが顔を寄せて口を開けている。

 

「何してるんですか、早くください」

 

 エラにせかされて、タイセイはサーモンの小片をエラの口の中に入れた。

 

「うーん…おいしいけど…どちらかといえば、もう少し脂ののった部分の切り身が欲しかった」

「何言っているんです…脂が多い部分は食べ過ぎると体によくないですよ」

「このおいしい食事を前にして体の心配ですか…」

 

 エラの瞳が少し拗ねているようだった。

 

「でしたら、次にドクターに食べさせるべきはこれですね」

「それ…ビーフじゃなくて、付け合わせのニンジンですよね」

「それが?」

「僕はニンジンが苦手で…」

「だったら…」

 

 エラは器用にナイフを使い、ニンジンを牛の姿に切り抜いた。

 

「ほら、これでビーフになった」

「いやいや、やっぱりニンジンだし…」

「ドクターの体を心配しているんです」

「負けました…」

 

 タイセイは抵抗をあきらめ、目をつぶってエラの差し出す牛型のニンジンを口の中に入れた。

 

「さあ、ミス・エライザの番ですよ。このサーモンのどこが食べたい?」

「ドクターが2番目においしいと思うところをください」

「1番じゃないの」

「そう言って何番目に美味しいところをくれるのか…試しているんです」

 

 馬が合うというのはこういうことなのだろうか。今朝出会ったばかりのふたりではあるが、旧知の友達であるかのごとく会話のキャッチボールをしながら、笑顔でメイン料理を楽しんだ。

 

 

〈九龍城砦〉

 

 ドラゴンヘッドの言葉を聞きながら少年を見つめていると、モエにも自然に愛おしさが湧いてくる。思わずバッグからハンカチを取り出すと、少年のよだれを優しく拭った。

 

「小松鼠があんたの味方についているのなら…話しの続きを聞かねばなるまいな」

 

 そう言いながら、元の席にもどるドラゴンヘッド。しかし、モエに向き直った彼の瞳は、相変わらず漆黒の闇に覆われている。その瞳を信用していいのか、それとも一層の警戒をすべきなのか、モエは計りかねていた。

 

「で…誰を探しているんだって」

「私の息子よ」

「続けてくれ」

「香港で世界眼科学会に参加するために香港に来ていたの。学会の閉会後に1日香港観光をして帰国する予定だった。それが…突然消息を絶った」

「消息を絶ったのはいつ?」

「学会が閉会した翌日の夜…きょうで10日になるかしら」

「香港警察には連絡したのだろう?」

「ええ日本国総領事館を通じて…」

「総領事館と香港の警察が動いているなら、彼らに任せておけばいい…」

「総領事館は香港の警察と協力して全力で探してくれると言ってくれたんだけど、言っているだけで、不思議なくらいまったく進展がない。たまらず昨日香港に入ってきたわけ。それで、こちらでいろいろ聞いてみて…私もやっと気づいた…」

 

 モエは、ダイニングテーブルから身を乗り出してドラゴンヘッドに言った。

 

「香港はアジア有数の犯罪都市。海の底でものを探すには、海の底の住人にお願いするしかないって…」

 

 ドラゴンヘッドは、腰につけた巾着からキセルを取り出した。雁首につめこんだ刻みたばこに火を付けると、吸い口から煙を口に含ませる。

 

「どうなの?得意な仕事だって言っていたけど、口先だけなの?」

 

 モエは、煙を口から吐くだけで一言も発しないドラゴンヘッドに焦れて、挑発する。

 

「香港の畏敬と恐怖の象徴であるドラゴンヘッドに向かって、そんな口がきけるとは…あんたの強気はどこから来るのか、ぜひ知りたいもんだな」

 

 ドラゴンヘッドは、入口の男に短い中国語を投げつけた。

 男はうなずくと、テーブルの上に置かれた写真を自分のスマホで撮影し、札束を持ってキッチンから出ていった。キッチンでは、写真だけが置かれたテーブルをはさんで、ドラゴンヘッド、モエ、そして彼女の袖をしっかりと握った小松鼠だけが残された。

 ことの成り行きを計りかねて、モエは不安そうにドラゴンヘッドを見つめた。

 

「仕事は受けようじゃないか。ただし、さっきの150万香港ドルは、必要経費だ。別に着手金150万香港ドルを用意してほしい。勿論あんたの言った成功報酬もな」

 

 モエは、大きく安堵のため息をついた。小松鼠も、彼女の取引が成立した安堵を、握っている袖越しに感じたのか喜んでいるようであった。

 

「ありがとう。なら、ホテルに戻って、待っていてもいいわね。お金の準備も必要だし… 」

 

 モエが席と立とうとすると、ドラゴンヘッドがそれを押しとどめる。

 

「そういうわけにはいかん。あんたは、ここを動かないでくれ」

「…どうして?」

「まだ、あんたを信用している訳じゃない。わしたちが動いている間は、あんたをわしの目の前に置いておく方が安心だ」

「でも…いつまで?」

「結果が出るまでだ」

「結果って…何日かかるかわからないじゃない」

「いや、12時間以内で結果は出る」

「どういうこと」

「14Kの本気をなめてはいかんよ…香港はわしらの棲みかだ。生きていようが、海の底に沈んでいようが、この香港に居るのなら、12時間以内で見つけられないわけがない」

 

 ドラゴンヘッドはキセルの灰をテーブルの角でたたいて床に落とした。

 

「もし、12時間以内に見つけられないとしたら、息子さんはもはやこの香港には居ないとしか考えられない…いずれしろ、仕事はそこで終わりだ」

 

 ドラゴンヘッドの勝手な理屈に、腹を立てながらも、彼が言った『本気』という言葉が、頼もしく聞こえたのも事実であった。

 

 

〈香港街景〉

 

 PMQのレストラン。食後のデザートとコーヒーが運ばれたエラとタイセイのテーブルに、初老の紳士が声をかけてきた。

 

「纐纈先生ではないですか」

 

 タイセイは、声をかけてきた主を見ると、スプリングがはじけるように席を立つ。思わずエラも席を立とうとしたが、初老の男が彼女を押しとどめて、一礼をする。

 

「せっかくお食事をお楽しみのところ申し訳ない。レディ、どうぞお許しください」

 

 さすが中国人とはいえ英国式のマナーを身に着けた生粋の香港紳士。エラを淑女として扱ってくれるその振る舞いに、タイセイの顔もほころんだ。

 

「梁裕龍(LEUNG Yu Lung)先生。昨日はどうもありがとうございました」

「いえ、何度も言いますが、お招きして本当によかった。お招きするにあたっては演題の医学的エビデンスが不十分だと、口うるさく反対する評議員もおりましたが、結果は予想通り、大変興味深い研究内容だったと、学会員の評価が高いです。ご推薦した自分としては、鼻が高いですよ」

「わたくしこそ。数ある大先生の研究の中から、私のような若造の論文を取り上げていただいたことを、大変ありがたく思っています」

「ところで…」

 

 梁裕龍先生は、エラとタイセイを見比べながら言った。

 

「今日は、プライベートですかな?」

「ええ、帰国する前に1日ぐらい香港観光でもしようかと思いまして…明日帰国します」

 

 梁裕龍先生は、エラに興味があるようだったが、話しかけていいかどうか躊躇しているようだった。

 

「あっ、気づきませんで失礼しました。ミス・エライザ、こちらは梁裕龍先生。昨日まで開催していた香港眼科学会のプレジデント。梁先生、こちらは、ミス・エライザ。彼女は…」

 

 タイセイはどう紹介するか迷った。

 香港でどこかの家庭のメイドをしていることはわかっていたが、それ以外のことは全く知らない。だいたいさっきミスと紹介したが、本当にそれでいいかも実は知らないのだ。

 

「彼女は…アーティストで、今日は香港の街のアートについて、いろいろ教えていただいています」

 

 アーティストという紹介に、エラはびっくりした眼でタイセイを見返す。

 

「これはこれは…芸術家にお会いできるなんて、大変光栄です。やはり、我々無粋な医者とは違って、クリエイティブなオーラが漂っておりますな」

 

 梁裕龍先生は、うやうやしく手を差し出す。

 タイセイのひとことで、自分に魔法がかかったのだろうか。貧しいメイドが、香港新鋭のアーティストに見えるらしい。エラは申し訳なく思う反面、偽とはいえアーティストという肩書に少しばかりの心地よさも味わっていた。

 

「梁先生も学会が無事終わって、ひと安心ですね」

「ええ、ただ学会の準備で長く家庭を構わずいたので…。罪滅ぼしに今日は妻の使いでアンティックの家具を調達です。しかし…纐纈先生のお姿を見つけて、思わず声をかけてしまいました」

「わたしも、香港を離れる前にもう一度梁先生にお会いできてうれしいです」

「実は…ちょっと伺いたいことがあって…プライベートな時間で申し訳ないのですが…少よろしいでしょうかな?」

「私は構わないのですが…ミス・エライザ。よろしいでしょうか?」

 

 タイセイは同席の女性にお伺いを立てる。もちろん、エラに断る理由もない。

 

「ええ、どうぞ、梁先生お座りください」

 

 エラは梁裕龍先生に椅子をすすめた。

 

 

「纐纈先生が研究されている『網膜神経を形成するマイクロRNA群』についてなんですが…」

 

 いきなり、早口で語り始める梁裕龍先生。

 

「そのマイクロRNAの一種 『miR-124a』が、脳や網膜といった神経回路の形成と神経細胞の生存に、非常に重要なものであるとおっしゃっていましたよね」

「ええ、具体的には、脳では『記憶』に重要な海馬の神経回路形成に、そして網膜では『視力と色覚』を司る神経細胞に、大きくかかわっているのではないかと考えています」

「人は網膜に映ったものを、大脳で解析して、その記憶を海馬に蓄積する。それを可能にする神経の形成に『miR-124a』は深くかかわっているということですね」

「そうです…実はそればかりではなく、それが私がメインで研究している『網膜再生』にむけたゲノム編集に、とても有効に作用するのではないかと考えています」

 

 エラは早口で語り合う二人を交互に見ながら、梁裕龍先生の同席を断るべきだったかもしれないと後悔しはじめた。

 

 ふたりの会話に出てくる古代文明の呪文のような単語の羅列は、エラを船酔いに似た気分にさせた。だが、出来るだけ寛容な笑みを口に浮かべておとなしく聞いていた。

 一方でエラが今にも吐きそうな気分でいることは、タイセイも察していた。こんなつまらない話しで申し訳ないと思うのだが、梁裕龍先生に同席を了解してしまった以上、話をやめて帰れとも言えない。

 彼はエラが心配になって、梁裕龍先生が話している最中でも、ちらちら彼女を見て気遣った。

 

「確かに…神経形成における『miR-124a』の役割の探求は、非常に興味深い研究であると思いますが…一方でそれが生み出すたんぱく質のことについては、オーラルセッションではまったく触れておられなかったですね」

 

 タイセイは梁裕龍先生の言葉に意表を突かれて息を飲み込んだ。

 

「どうして…それをご存じなんですか?」

「いや…論文でちょっと目にした気がして…」

 

 もう、エラを気遣う余裕を失っていた。タイセイはそのたんぱく質のことは研究室の同僚にも話していないし、論文にも一切書いていない。偶然に発見したたんぱく質だから、彼以外このことを知っている人間はいないはずなのだが。

 

「私はそのたんぱく質についても、大変興味がありましてね。セッションでお聞きできるかと期待しておりました」

「その…たんぱく質については…まだ研究としては不十分で、学術発表には値しませんよ」

 

 彼の抑制的な発言にも関わらず、梁裕龍先生は多少押しつけがましくタイセイに迫る。

 

「いや、すでに纐纈先生はそのたんぱく質の存在と機能を確認されているのでしょう?」

 

 タイセイは押し黙ったまま何の返答も返さなかった。しかし、梁裕龍先生は少し動揺している彼の表情を見て、自分が正しいことを確信し一方的に話し始める。

 

「『miR-124a』が発生するたんぱく質の発見は、今世紀最大の医学的発見であると言えませんか?…なぜなら、視覚認識から記憶のプロセスを解明する重要なカギとなるたんぱく質を発見されたのですから」

「いや…だから、過大評価していただいても…」

「いやいや、過大評価とは思いません…纐纈先生が仮説を立てられた視覚認識のプロセスはこういうことですよね。網膜にものを映すと、その神経細胞を形成する『miR-124a』が特殊なたんぱく質を発生する。そのたんぱく質を、神経細胞にある、translator(トランスレーター)が電気に翻訳して脳に伝え、大脳が解析するとともに、電気的なデータとして海馬に蓄積する」

 

 タイセイが落ち着かない様子で頭を掻き始めた。

 話の内容がわからぬエラではあるが、今度はエラがタイセイを心配し始めた。彼は明らかにイラつている。その原因が、梁裕龍先生の雄弁さであることは容易に理解できた。

 

 しかし、梁裕龍先生はそんなタイセイの様子にもお構いなしにしゃべり続ける。

 

「…そして、この仮説は、実は人類に歴史的変革をもたらすことになる…それは、記憶は電気的データだから、人が死んで生体機能を停止すると、つまり電気が切れたら海馬からすべてのデータは消えてしまう。しかし、たんぱく質は有機物ですから、死後も網膜に残る。別な言い方をすれば、今まで存在していないといわれていた『網膜記憶』が、実はたんぱく質という形で存在していた。そして、それを解析すれば、死後であっても目に映った記憶を復元することができる…」

 

 そう、だからこそタイセイはこのたんぱく質の発見と研究に疑問を抱いていた。

 死んだ人の目に映ったものを復元して、なんの有益なことがあるのか。たとえそれが、殺人事件の犯人探しであろうと、死後に個人の記憶を、ここまでだったら垣間見ていいという倫理的ボーダーラインは、いったい誰が決められるのか。

 

 

 どんな目的があろうと、個人の視覚的記憶は死後に他人に確認されるべきではない。幸福であろうが、不幸であろうが、人生で蓄積された個人の記憶は、その人の死とともに消滅すべきである。タイセイはそう信じていた。

 

 恩義のある梁裕龍先生とはいえ、こう強引に話をすすめられては、そろそろ耐え難いところまで来ていた。そんなタイセイをエラが救った。

 

「梁先生。それって…当然生きている人にもいえますよね!」

 

 今度はエラが身を乗り出して梁裕龍先生に迫る。その迫力に、さすがの梁裕龍先生も話の腰を折られてしまった。

 

「どういうことですかな。ミス・エライザ」

「つまり…目が何かを覚えていて…その網膜記憶ってやつですが…その網膜記憶に従って…頭ではっきりと説明できないことでも、体が勝手にやってしまう…」

「体が勝手にやってしまう?たとえば?」

「…たとえばがっちり抱きついて、ほっぺチュウをしまくっちゃうとか…」

 

 エラの発言は、タイセイのいらだちを一瞬で吹き飛ばしてくれた。

 

 彼女は、目の治療後に起きたあの時の情緒的な行動は、脳から命令された意図的なものではない。網膜に残ったなにがしらかの記憶が、勝手に自分にやらせたんだと言いたいのか…。

 

 エラ…君はなんと豊かな発想力の持ち主なのだろう。

 だが、今回はとんでもなく飛躍しすぎだよ。ましてや、梁裕龍先生は朝の事件を目撃していない。

 いかに聡明な梁裕龍先生といえども、エラの質問を理解するのは不可能だった。

 案の定、彼は新鋭アーティストから投げられた質問を前に、その雄弁だった口をあんぐりと開けて、言葉も出ずにエラを見つめるだけだ。

 

 タイセイはしばらく笑いを噛みしめていたが、場の雰囲気も変わって、やがて梁裕龍先生も我に返ったようだ。

 

「いや…すっかりおふたりの邪魔してしまって…申し訳ないことをしました」

 

 エラの質問に答える代わりに、来た時と同じようにレディに礼を尽くして、テーブルから離れていく梁裕龍先生。

 

「なんで、私が質問しているのに、梁先生は何も答えもせず急いで帰っちゃうんですか?」

 

 心配げなエラの問いに、タイセイはいよいよ大笑いをはじめた

 

〈九龍城砦〉

 

「タイスケさん、あなた本当にパソコン直せるの?」

 

 モエは自分の夫に、お茶を出しながら疑いの目で声をかけた。彼は、口をとがらせ頬を膨らませながら、パソコン相手に奮闘している。その表情は、彼が物事に多少困惑している時に出る表情であった。出会った医学生時代からまったく変わらない。彼の心が手に取るようにわかる。だからこそ、そんな彼をより愛おしく感じるのだ。

 

 モエは夫の膨らんだ頬を眺めながら、助け舟を出す。

 

「無理だったらいいのよ。買い替えれば済むんだし」

「いや、諦めるのは早い…」

 

 その時モエは37歳、開業した眼科医院も好調で脂ののったドクターとして、多くの患者さんを相手に忙しい毎日を過ごしていた。一方、夫のタイスケも大学医学部附属病院のエース心臓外科医として活躍していた。

モエの診療所は和歌山にあり、タイスケの附属病院は岡山にある。

 それぞれの事情から、タイスケは岡山へ単身赴任を余儀なくされていたが、眼科医院の休院の時には、モエはできるだけ夫のアパートへ行くようにしていた。普段は厳しく、気丈で、頼りがいのある院長なのだが、夫といる時だけは、なんでも夫に頼って甘えん坊になる。

 

「こうなったら最後の手段でこのパソコンを初期化するしかないな」

「でも…初期化したら、入っていたデータは全部なくなっちゃうのでしょ」

「ああ、でも重要なデータは外部ディスクにストレージしてるのだろ」

「そうだけど…昔あなたと旅行に行った時の写真をデスクトップ画面にしていたの…それはちょっと惜しい気もするけど」

「確かそれは、俺の外付けハードディスクにとってあったと思う」

「だったら構わないわ」

 

 タイスケはメンテナンスCDを挿入すると、起動画面から初期化ボタンを押した。パソコンはジリジリ音を立てながら、自動で作業を始めた。

 

「ところで、我が家の御曹司の様子はどうだ?」

 

 時間を持て余したタイスケがモエに声をかける。

 

 

「だんだん私への反抗がきつくなっている気がするわ。この間なんか、自分やお父さんより仕事の方が大事なのか…なんて責めるのよ…」

「そりゃいかんな…今度帰ったら、よく言い聞かせよう」

 

 タイスケはそう言いながら、ジリジリと音をたてるパソコンの画面を心配そうにのぞき込んでいる。モエはそんなタイスケの横顔を、しばらく眺めていた。

 

「ねえ、あなた…」

「なんだよ…」

「あの…」

「今更、新しいノートパソコン買うなんて言うなよ」

「違うわよ…」

「だったら、なに?」

「私…仕事辞めて、家事に専念したほうがいいかしら」

 

 タイスケは、驚いたようにモエの顔をのぞき込む。

 

「なたが、そうして欲しいなら、わたし…仕事に未練はないわ」

 

 思いのほか真剣な問いかけに、タイスケもしばらく返事ができないでいた。

 

「どうなのよ?」

 

 タイスケは、あらためてモエに向き直って、彼女の両手を握った。

 

「正直に言おうか」

 

 夫に手を握られるなんて久しぶり…おおいに照れるモエだったが、それを悟られまいと平然を装う。

 

「ええ、お願い」

「学生の頃から…お前は臨床医として、並々ならぬセンスの持ち主だと感じていたんだ」

「あらやだ、臨床にセンスなんてあるの?」

 

 茶化すモエを制して、タイスケは笑いながら言葉をつづけた。

 

「いいから聞けって…ひと時は、そんなお前に同じ医学生として嫉妬も感じたこともあったっけ…」

「…今更、カミングアウトしてどうするのよ」

 

 不機嫌そうな彼女の口調は、タイスケに手を握られた上に、そんな誉め言葉をかけられて、益々照れ臭くなった反動だろう。

 

「いやいや、ほんとだよ。だからさ、生まれ持ったセンスを患者さんのために役立てなければ、与えてくれた医学の神様に申し訳ないと思うんだ」

「あなたの口から、ヒポクラテスが出てくるとは思わなかったわ」

「要するに結論はだな、お前は家事のセンスが全くないのだから、何に気兼ねすることなく、センスのある方をまっとうすればいいってこと」

「ひどいこと言うわね」

 

 モエが笑いながらタイスケを非難する。

 

「…俺も出来るだけ和歌山に帰って、息子の面倒を見るよ」

「できない約束はしない方がいいわよ…わかったから、もう手を離して」

「嫌だ…いつでもお前の手を握れるわけじゃないのだから、もう少しいいだろ」

 

 モエは顔を真っ赤にしながらも、タイスケの手を振り切ることができずにいた。そんな暖かな時が流れ、やがてパソコンの音が止まった。

 

「おっと、再インストールが終了したみたいだな」

 

 タイスケは、名残惜しそうにモエの手を離し、メンテナンスCDを取り出してパソコンを再起動した。

 

「どうだ、正常に走っているだろ。しかも軽くなったみたいで前より早くなった… これで新品同様だな」

「タイスケ君、えらいっ…。また使えるように修理してくれてありがとう」

 

 モエの賛辞に、タイスケはもっと褒めてくれといわんばかりに鼻を膨らませて顎を上げる。自分以外には決して見せることがないこのかわいい表情。

 

「どうってことないよ…」

「じゃ早速、デスクトップ画面を二人の旅行写真に差し替えてくれる」

「よっしゃ!」

 

 

 タイスケは外付けハードディスクをパソコンに接続し画像を探し始めた。しばらくして手を止めると、映し出されたなんの親しみもないデスクトップ画面を眺めながら、タイスケが言葉をつづける。

 

「でも、修理したというよりは、なんか新しいパソコンが生まれたって感じがしないか」

「…どういうこと?」

「確かにマシンそのものは今まで使っていたものなんだけど、中に入っているOSはまっさら…いわば、生まれたばかりの赤ちゃんみたいなものだ」

「それで?」

「このパソコンを使用していくというプロセスは、まさに生まれた赤ちゃんにあらためて経験と学習を重ねさせて、立派な成人に育てあげるようなものだ…」

「…なにがいいたいわけ?」

「もし、OSが人間にとっての魂だとしたらだな…」

「魂だなんて…科学者だったあなたが、いつから神秘主義者になったの」

「もともと科学者の祖先は、魔法使いか錬金術師だっただろ。根は一緒だって…」

「そうかしら…」

「経験と学習を重ねその魂が育っていく過程で…古い魂が宿していた過去の記憶など必要があるだろうか」

「タイスケくんたら…変なこと言いだすわね…」

「もし今のお前の頭に、見も知らぬ以前の人の記憶の断片が残っていたら嫌だろ」

「なんか気味悪いわね…」

「だろ…だから、デスクトップ画面を前のパソコンとおなじ画像にするなんて、やめないか?」

 

 タイスケの言葉に、モエは暫し考え込んだ。やがて合点がいくとあきれ顔で彼に言った。

 

「保管していたはずの旅行の写真データが見つからないって素直に言ったら」

「うう…面目ない…」

 

 モエは、肩をすぼめてしゅんとした夫の言に、口に手をあててコロコロと笑った。タイスケもそんな妻を見て安心したのか、頭を掻きながら豪快に笑い始めた。

 その時だった。

 

「ゲホッ」

 

 タイスケの口から鮮血がほとばしった。その量は半端ではなかった。その血で目の前のノートパソコンが真っ赤に染まった。

 

「どうしたの、あなたっ!」

 

 モエは驚きのあまり、医師としての冷静さを失った。

 

 夫の口からとめどもなく流れ出る鮮血をなんとか止めようと 、医学的効果もないのに、自らの手で夫の口をふさぐ。しかし、ふさいだ手の指の間から夫の血液が漏れ出し、その出血は止まりそうもない。やがて血液は、口内に溢れ、気管をふさぎ、夫はもがき苦しみ始めた。

 

「あなた、あなた、しっかりして…」

 

 モエは自分の声で目が覚めた。少年が心配そうに彼女をのぞき込んでいる。

 周りを見渡せば、ここは九龍城のアパートのキッチンである。彼女も現実に起こっている事態をゆっくりと思い出してきた。

 

「あら、私ったら寝ちゃったのかしら…探し始めてどのくらい経ちました? 」

「1時間かな…しかし、あんたも、こんなところでよく寝られるもんだな。いい根性しているよ」

「家族以外に寝顔を見られるなんて…はずかしいわ」

 

 ドラゴンヘッドはキセルにまた刻みたばこを詰め込みながら言った。

 

 

「だいぶうなされていたようだが…」

「普段見もしないのに、久しぶりに夫の夢を見たわ」

「日本であんたの帰りを待っているのか?」

「いえ、40そこそこの若さで、食道静脈瘤という病気でね。大量に出血してショック死」

「そうか…そんな病気だったら、お別れの挨拶もろくにできなかったのだろう」

 

 モエは、その小さな肩を一層小さくして、ぽつぽつと語りはじめた。

 

「お別れの挨拶どころか…連絡がとれなくなったのを不思議に思って…夫の住んでいるアパートに行ってみたら…鮮血で真っ赤に染まった布団の上で…あおむけで…両目を大きく開いて…死んでいたの」

 

 ドラゴンヘッドはモエの語りの邪魔をせず、黙って彼女の言葉を待った。

 

「死ぬ時に傍に居てあげられなかった。傍にいなかったのに、その時傍にいた夢を見るの…へんね…どうしてかしら」

 

 モエがテーブルに置かれた息子の写真を取りあげた。

 

「お葬式の時、みんな慰めてくれた。けれど、心の中では思っていたはずよ」

 

 彼女は写真に写る息子を指でなぜながら言葉をつづける。

 

「私の息子だけが、はっきりとみんなの思っていることを口にしてくれた。お父さんが死んだのはお母さんのせいだ。お母さんが、そばにいてあげなかったから、お父さんは死んだのだ…ってね。それ以来、息子は私を許してくれないの」

 

 言葉の意味を知ってか知らずか、小松鼠がモエの小さな肩をぎゅっと抱きしめた。モエはうなずきながらそんな、少年の優しさに応える。

 

「その写真に映っている青年が…その息子なのか」

 

 ドラゴンヘッドの言葉に、モエはキッと姿勢を正した。

 

「そうよ。だから、私は…私のいないところで家族を失うなんて、もうまっぴらなの」

説明
記憶と幻想の境目に位置する香港。まさに深海に漂う魔法の都市で、息子が消息不明になった。母親のモエは漆黒の九龍城砦に飛び込んで、得体のしれない深海生物と息子の足取りを追う。やがて息子の足跡から見え隠れするシンデレラを発見。はたして彼女は、モエを息子の居場所に導いてくれるのだろうか。
2019年6月11日に誕生した我が家の未来『泰正』の誕生記念作品です。
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