オリジナル小説「深海の天秤」一章・ファーストインパクトの挿絵@
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オリジナル小説「深海の天秤」の文章

「あれ?今日じゃなかったか、あの例の『七光り』が俺らの一課に来るの?」

 デスクが並ぶ捜査一係の部屋。二十人近いスーツ姿の厳つい男たちが今日の捜査会議が終わり、慌ただしく捜査に出るための準備をしている。その中の一人が思い出したかのように声を上げた。

「『七光り』…ああ、官房長の息子かぁ。何だーぁ、初日から重役出勤か−ぁ?!」

 声を上げた男の隣が、部屋の柱に掛けてある置時計を睨んで言った。不規則な刑事の仕事上、あってないような仕事開始時間だが、その時間を一時間以上過ぎている。
 それを皮切りに周囲の四人ほどが混じって、まだ見ぬ官房長の息子への不平不満が漏れ始めた。

「つーうか、なんでキャリアのボンボンがこんな地方の警察署に来るんだ?パパのお膝元でヌクヌクと机の前に座っていればいいだろッ。どうせ目を瞑ってたって昇進するんだから」

確かに同じ関東エリアではあるが、男たちの職場は東京の喧騒にはほど遠い。

「反対に父親の目が届かないから、コッチに来たんじゃないのか?偉いパパの真下だと、手へ抜けねぇからなぁ」

 それを聞いていた内一人が…

「なんかそれだけじゃないらしいぞ。……噂だが」

語尾を小さくしながら、口角の片方を吊り上げて周囲に向かって手招きをする。どうやらここからは、もっとディープな話になるみたいだ。
 話に加わっていない周りの刑事たちも、聞き込みをする刑事の性か「馬鹿馬鹿しい」と思いながらも耳をそばだてている。
 その中には、刑事にしては一人だけ長Tにシャケットというラフな格好の落谷も自分のデスクでパソコンに視線を向けたままで聞いていた。

「その『七光り』、実は養子らしんだ。だが養子ってぇのも表向きで、官房長が外に作った子で、本妻に子供ができなかったから引き取ったって。そんな生い立ちだからか、昔はかなりの悪ガキで、いくつも警察沙汰を起こして全部親父にモミ消してもらったらしい」

 聞いていた全員の表情が一気に歪む。

「はぁっ?何でそんなヤツが刑事になってんだよッ!」

「親父のコネを使えば人生も仕事も楽勝と思ってんだろ、そのバカ息子は」

「親父の方も、そんな恥さらしを近くに置きたくなかったんじゃないか?だから一旦地方に飛ばした…とか」

 どんどん沸騰する噂話。聞いていた落谷は、パソコンから視線をズラすことなく小さな溜め息をつく。
 どこで仕入れたネタか知らないが、憶測ばかりで聞くに絶えない。真実を追いかけて事件を解決しなければいけないはずの刑事とは思えない内容だ。
 とは言え、そんな同僚の幼い思考をたしなめる…なーぁんてしちめんどくさいこと、これぽっちもする気は無い。
 そういうことは真っ当な人間がすればいい。そう、人徳のある捜査ー課の課長、澤木などが適任だろう。
 そう思っている落谷の目の前を、巌のような体つきに、大仏様のような顔を乗せた澤木課長が横切った。
 向かった先は案の定、汚水のような噂を垂れ流している部下のところだ。

「お前たち、まだ捜査に行かないのか?」

声がしたとたん、部下たちは驚いて座っていた椅子から跳ね上がる。
 気配を消して近づく。澤木課長の得意技だ。話に夢中になっていた奴らは、真後ろで声を掛けられるまで気づかなかった。
 その様子にたまらず失笑する周囲。

「いえ…ッ。今、行こうと…」

 噂をしていた一人が、しどろもどろに言い訳をする。その様子はまるで、担任に怒られている生徒のようだ。
 だがそこは小ズルい大人。別の一人が話の矛先を変えようと澤木課長に質問を投げた。

「あ…あのッ。今日来るはずだった新人はどうしたのですか?」

 新人の遅刻。いくら警察庁の御偉いさんの息子とはいえ、初日からの問題行動に澤木課長も頭を痛めているはずだ。
 澤木課長がそのことを嘆くにせよ、庇うにせよ、「課長も苦労が絶えませんね」と同調の一つでもみせれば問題をすり替えただけでなく、周囲に自分たちが喋っていた噂の信憑性が高まる。まだ見ぬ甘ったれ七光りの心象を最大限まで悪くすることで、自分たちを正当化することができる。
 そんな見え見えの小細工を落谷は半笑いを浮かべ「さて、どう返ってくるかな」と見物していた。
 けれど澤木課長からの返答は、その場にいた全員が思っていたものとはまったく別のものだった。


「ああ。阿妻ならさっき連絡があって、今病院にいる」 


 まさかの展開に噂していた者たちは沈黙。代わりに近くにいた捜査一課唯一の女性、小野塚が犬の尾っぽのような一つ縛りの黒髪を揺らしながら聞く。

「病院…というと、何かの病気ですか?それとも事故?」

 澤木課長は首を横に振るう。

「いや、事件だ。」

「ッ!?」

 「事件」という言葉に、室内にいた刑事たちが一斉にザワつく。そのなかで澤木課長は話を続けた。

「阿妻は署に向かっている途中で、複数の男による引ったくりの現場に遭遇したそうだ。そこで阿妻は犯人を捕まえようともみ合いになり、身体の数ヶ所を負傷。被害者の女性も、そのとき犯人たちに突き飛ばされて横転。犯人たちはその場から逃走したそうだ。今、二人とも近くの病院で手当を受けている」

「それで新人…阿妻の容態は?」

「大丈夫、軽傷だ。歩行もできる。」

 ホッと胸を撫で下ろす小野塚。
 犯人を取り逃がしたことは残念だが、複数の犯人相手に立ち向かっていったことは新人の刑事として称賛に値する。そしてこのことで、例の噂は腐食されたどころか七光り阿妻の心象は180度一変した。

「阿妻みたいな正義感溢れる有望な新人が、この課に入って来てくれたことは喜ばしいことだな」

 元々細い目を更に細めて笑う澤木課長。
 噂を流した男たちは、周囲からの白い目にいたたまれなくなって「そ、それじゃあ俺たち、捜査に向かいます…」と子声で発っしながら、すごすごと部屋を出ていった。
 それを見て他の刑事たちも我に返ったように準備を進め、次々と各捜査に向かうべく退室し始める。
 そんななか、まだ部屋にいた落谷の背筋に嫌な予感がゾワッと走った。
 見なきゃいいのに、嫌な予感がする方向に顔を向ける。……すると澤木課長が、先ほどより更に仏のような慈悲の笑みで此方を見ていた。

(………ヤバい)

 落谷は「何も見ませんでした」といった澄ました顔をユックリと戻し、デスクから立ち上がると出口に向かって歩き出そうとする。

 そんな落谷の背後から…

「落谷。ちょっといいか?」

 澤木課長の声が肩を叩く。
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