小説「深海の天秤」一章 ファーストインパクトの挿絵A
説明
〈小説「深海の天秤」の文章〉

「待ってくださいッ!」

 落谷と澤木課長が、同時に声のするほうに振り向く。するとそこには、さっき病院の件で質問を投げ掛けた小野塚が立っていた。
 二人を見つめる大きな瞳は、黒曜石のように漆黒を帯びている。
 後ろ手に一つ縛りした髪も艶やかに黒く、女性にしては長身の細みの体を覆うパンツスーツも黒い。
 化粧気はあまり無いが、それでも美人の部類に入る容姿をしていた。
 「どうした?」と声をかける澤木課長に、小野塚は一歩前に歩み寄った。

「バディとして落谷刑事と阿妻刑事を組ませることに、私は反対ですッ!」

 その勢いに目をパチクリさせる二人。でも落谷のほうは、これは好都合とばかりにそれに乗っかった。

「だろッ。あり得ないよな!」

 が、小野塚はそんな落谷に見向きもせず、更に一歩澤木課長に食い寄る。

「あり得ませんッ!阿妻刑事が可哀想ですッ!」

「……えっ?そっち?!」

 思わず小野塚を二度見する落谷。すると今度は小野塚が、尾っぽのような一つ縛りを振り回しながら落谷のほうに顔を向けた。それも貫くような鋭い目で。

「確かに落谷刑事は優秀で、この署でNo1の検挙率を上げていますッ。ですが、そのやり方には疑念を感じざるをおえませんッ。捜査方法があまりに自分勝手過ぎるッ。まったくチームワークをとる気が無いッ。そんな人に前途有望な人材を任せてはおけませんッ」

 落谷はそれにキョトンとするも、すぐに腕組みをして考え深げな顔をしてみせた。

「うんうん。三年経って美華ちゃんも言うようになったね。……あれっ?もしかして、美華ちゃんとバディ組んでいたときに出張先の離島に置いてけぼりしたこと、まだ怒てる?」

 落谷の無神経なその言動が、小野塚の怒りの火に更なる油を注ぎ込んだ。
 みるみる赤く高揚していく小野塚の顔。横では澤木課長が、微笑みながらも「また要らんことを…」と思っている。
 そう。小野塚も、新人のときに落谷とバディを組まされたことがあった。
 そのとき落谷は、犯人が逃げ込んだとされる離島で捜査に没頭し過ぎて、離島から犯人が離れたと判ったとたん小野塚の存在を忘れて船に飛び乗った。
 おかげで小野塚は、一週間に一回しか来ない送迎船を一人で待つはめになったのだ…。
 ただこれは小野塚だったからと言うわけではない。今まで落谷と組んだ刑事は、新人だろうとベテランだろうと似たような末路を辿っている。

「いくら先輩だからと言ってッ、立場上同格なのですから下の名前で「ちゃん」呼ばわりは止めてくださいッ!」

「えっ?なに急に???前々から呼んでいただろ?」

 小野塚の剣幕に落谷は怯みながら、頭の上に無数の疑問符を飛ばす。
 横でまた澤木課長が「そういうことじゃなくって…」と思いつつも声たは出さない。

「もういいですッ!阿妻刑事とは私が組みますッ!」

 そう言い出した小野塚。だがその後ろから、また「待ったッ!」の声が上がった。

「ちょッ、待ってくださいッ。そしたら小野塚さんと組んでる俺はどうなるですかッ?!」

声を上げたのは、阿妻が来る前まではこの課の最年少だった、小野塚の現バディである長岡。
 一瞬、「忘れてた」というような顔をする小野塚だったが、意地になっているのか「長岡くんは落谷さんと組めばいいでしょッ」とメチャクチャなことを言い出した。

「嫌ですよ、落谷さんとなんかッ。苦労するのが見え見えじゃないですかッ。」

「じゃあ、まだ刑事のイロハも分からない阿妻刑事が苦労するのはいいのッ?!」

 ギャアギャアと言い合いを始めた二人。

「………コイツら後輩のくせに、先輩である俺に対しての扱いがヒドくないですか〜ぁ?」

 話の中心人物なのに蚊帳の外にされた落谷は、苦笑いで澤木課長に向けてボヤく。

「はははっ。それは落谷、因果応報、自業自得ってやつだなぁ。小野塚は俺がこのあと納得させるから、お前は今のうちに病院に向かってくれ」

 澤木課長は微笑んだまま、アゴで出口のドアに向けてしゃくった。
 落谷は「はいはい」と軽い返事をすると、首筋を掻きながらドアに向かってゆっくりと歩き出した。
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