椰子の実 |
今から何十年も前のまだ小学生の頃だった。当時、技師として鉄鋼会社に勤めていた父が単身で遠くに出張へ行っていた時期があった。そして何週間か経った後、そこで知り合いに貰ったというココ椰子の実を一つ、お土産に持って帰って来た。その時は未だ青々とした新鮮な南洋の果実その物という感じだった。
出張先というのは国内だがかなり南西に位置する所で父自身は何度も出向いていたのだが、自分がそれよりももっと小さかった時に一度だけ旅行がてら家族全員で同行し、そこのホテルに一泊した事のある思い出の場所でもあった。
父はその椰子を手に入れたものの、どうやって中身を出すのかを訊いて来るのを忘れていたらしく持て余し気味で、貰った人にわざわざそれだけを尋ねる為だけに電話するのも気が引けるし、などと言って躊躇し、何かの用事で電話した時にでもついでに訊いておくから、と答えて有耶無耶に片付けてしまった。当時の事だったので簡単に調べる手段も見当たらず、そもそも実を食べるのか汁を吸うのかさえ良く分からなかった程であった。なので食べ方、或いは汁の吸い方が分かるまで待ってみようと、取り敢えず食卓の前にあるテレビ台の下に飾って置く事となった。
最初の内、青味掛かってぴかぴかと光っていた実の表面はしばらくするとその色を失い、秋草と同じで枯れた薄茶色が徐々に面積を占領して行った。しかし何となくその方がいかにも遠く離れた南の島のイメージを醸し出し、懐かしい異郷的な感じの魅力を帯びる様になっていた。
ある日学校から帰って来て居間に入ると見慣れた調度類の様子に何か違和感を覚えたが、すぐにそれはテレビ台の下の椰子の実が無くなっているからだという事に気付いた。母親に訊いてみると捨てたとの返事だった。午前中の早い時間に来客があり、その人の話によると、椰子の実は食用としてはそんなに日持ちせず、冷蔵していても二週間位しか保存が効かない物らしいというのだ。なので丁度粗大ごみの日だったので回収車が来る前にと、急いで収集場の方に出しに行ったそうである。
テレビ下のスペースは全体的な風景の中でもその所だけぽっかりと穴が空いた様で、家族で食事をする際などにそちらの方を見ていてもしばらくの間は何か寂しい物足り無さを感じた。最早食べられないのは言われなくても皆薄々分かっていた事なので腐った中身が漏れて異臭を放ったりしない限り、もう既に家の中の一部と化していたそれは殻を開けないまま常に置物としてずっと飾っていても良かったのではないか、と後になる程強く思った。数年後、父が鉄鋼会社を退社して夫婦共々土日祝日開店の自営業を営む様になり、家族揃って遠出する機会は両親の田舎へ帰省する以外ほとんど無くなったのだ。それで結果的にそこの出張場所が最初で最後の他所への家族旅行先となってしまったからだ。
そこにあって何となく見ているだけでも、一度だけ行った南洋の場所の風景を時々回想する事が出来たのに。
それから自分達一家は以来誰一人、椰子の実を食べたり或いは汁を飲んだりした経験が無く、その方法も未だに知らないままである。
終わり
説明 | ||
昔、家で実際にあった事を基に書いた創作で、付け足す様な解説は特にありません。 (※椰子の実の鮮度などに関する記述は一応調べて書きましたが、実際にその通りなのかは保証できないので食される場合は確かな所で確認して下さい。) |
||
総閲覧数 | 閲覧ユーザー | 支援 |
538 | 537 | 0 |
タグ | ||
短編 思い出 家族 エッセイ風 | ||
田中老穣太さんの作品一覧 |
MY メニュー |
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。 |
(c)2018 - tinamini.com |