朧夢(三国志創作小説) |
月の美しい夜であった。
蒼白い冴えた光が、静謐な湖面に静かに降り注いでいる。
空には霜の気配が満ち、樹木は冷たく凍えている。
きらきらと光を映して、ゆったりと岸へと打ち寄せる波のほかは、動く影とてない幽明な世界。
その清らかに澄んだ大気を微かに震わせて、琴の音色が水の上を流れていく―――。
音は、湖畔に建てられた瀟洒な館から漏れ出でていた。
月明かり差す室の中には、女がひとり、男がひとり。
女は牀に身を横たえ、傍らで男が奏でる琴の音に、じっと耳を傾けている。
男の細く長い指が、流れるように弦の間を行き来して、美しい音色を紡ぎ出す。
やがて男は曲に合わせて、耳に心地良い澄んだ歌声を響かせた。
君不行兮夷猶 (君行かずしてためらうは、)
蹇誰留兮中洲 (あわれ誰を中洲にまちたまう。)
美要眇兮宜脩 (やさしく要眇(ながしめ)おくり笑みつつ、)
沛吾乗兮桂舟 (するりと吾は桂の舟に乗りゆく。)
令[シ元]湘兮無波 ([シ元]湘(げんしょう)のみずを波だつこと無からしめ、)
使江水兮安流 (江水もおだやかに流れしめん。)
望夫君兮未來 (夫(か)の君をまち望めど未だ来たまわず、)
吹参差兮誰思 (参差(簫の笛)吹きて誰をか思いたまう。)
「――『湘君』、ですわね」
女が小さく呟くのに、にっこりと微笑んで、男――周瑜は弦をつま弾く手を止めた。
「こんな月の美しい夜には、湘君や湘夫人の奏でる二十五絃の瑟(しつ=大琴)の音が聞こえてくるようだと思ってね」
この地方には伝説がある。
古えの帝、堯の二人の娘は、堯の後継者である舜の妃となり睦まじく暮らしていたが、舜が地方視察の旅先で死ぬと、その死を悲しみ、後を追って湘水に身を投じ、湘水の女神となったいう。そして、月の夜には、女神たちが舜を想って奏でる瑟の悲しい音色が聞こえてくるという―――。
『楚辞』には二人の女神――湘君と湘夫人の歌が収められており、その『湘君』の歌の方を周瑜は歌ったのであった。
「美しい曲…。でも、とても哀しい歌…」
「瑤?」
「愛する夫君を喪って…。たとえ女神になっても、夫君と会えず、離れ離れで…」
黒水晶のようなきらめきを宿す瞳を潤ませ、哀しげに細い眉をしかめる。
睫は露に濡れ、光をはなっている。
周瑜はあわてて牀の傍に寄り、女の涙をそっと拭った。
頬に手を添えて、優しく声をかける。
「…すまなかった。瑤を元気づけようと思って琴を弾いたのに、かえって悲しい気持ちにさせてしまったようだ…」
女の容貌は、姉と共に二橋と称えられた頃から変わらず玲瓏として美しかったが、その頬は濃い病の影を映して、白く透けるようであった。
瑤は周瑜の掌に甘えるように頬を擦り寄せると、ほうっと息を吐いて瞼を閉じる。「今度は瑤の好きな曲を弾くよ。何がいい?」
夫の言葉に無言で小さく首を振り、じっと手のぬくもりを味わっている様は、少女めいて儚げで。
周瑜の胸に、ふっと不安の影が差す。
「…瑤?」
「いいの。少しこのままでいてください…」
言われるままに、しばらく周瑜は瑤の頬をそっと撫でていた。
やがて瑤は瞳を開き周瑜を見上げると、小さく囁きを洩らした。
「近頃考えてしまうの。死とは、どういうものなのかしら…」
周瑜の眉間に皺が寄る。
「きっと、貴方の傍に、こうしていることが出来なくなるという事ね…」
「そんな心弱い事を言うんじゃない」
端正な面をくもらせると、語気を強めて、瑤の細くなった掌を両手で握った。
「大丈夫。きっと病は直るから。気をしっかり持つんだよ」
「…いいえ、自分の体は自分でわかりますわ。わたくしはもう駄目…」
揺れる瞳で、瑤は周瑜の貌を見つめる。
「貴方は戦に行かれても、必ずわたくしのもとに帰ってきて下さったから、わたくしは待っていられたけど…。今度はわたくしが貴方をおいていってしまうのだわ…」
「瑤、瑤。頼むから。そんな事は言わないでくれ…」
たまらない思いで、掴んだ掌に力を込めれば。ふわりと、瑤はほのかに微笑った。
それは、あまりにも儚い微笑みで。
格子窓から差し込む月光の中に、今にも姿を消していってしまいそうで。
失ってしまう不安に、胸が冷たくなる。
「ごめんなさい、貴方。でも、わたくしは幸せでしたわ。短い間でしたけど、貴方と一緒にいられて。だから、あまり嘆かないで。貴方は貴方の道を生きて」
「…瑤……!」
微笑みを含んだ瞳を閉じて、瑤はうっとりと囁く。
「わたくしは、先にいって貴方を待っていますわ。貴方が生を全うして、わたくしの元に来て下さるのを」
限りなく、優しく、いとおしげに。
幽かな声が、周瑜を包む。
――だから、これはお別れではありませんわ。
蒼白い冴えた月の光が、格子窓から差し込んでいた。
しんと静まり返った室の中。
夜の空気は冷たく澄んで。
周瑜は横たわったまま、その光をぼんやりと見つめた。
覚醒したばかりの頭は霞がかかったようで、自分がどこにいるのか、すぐには判然としない。
「――将軍。お目覚めになりましたか?」
枕元につきそっていた従僕の少年が、静かに声をかけてくる。
短く芯を切った燭臘の仄暗い灯りが、周瑜の白い面を照らしている。
ゆっくりとまばたきをして、重い頭を動かし、周瑜は少年の顔を見た。
――ああ、夢だったのか。
朧げな意識のもと、ぼんやりとここが巴丘で、自分が重い病の床についている事を思いだした。
蜀への遠征を準備する為、江陵に戻る途上で病を発し、巴丘に留まって療養すること三箇月――。
しかし周瑜は、既に死が間近に迫っていることを自覚していた。
もうずっと高い熱が続いている。ここ数日は朦朧として体を起こすことも難しく、全身から命が流れだしているような感じがあった。
医師は、何も言わなかった。
だが、言われずとも、既に解っていた。
手遅れにならないうちにと、昼間、主公(孫権)へ宛てた最後の上疏の文を書き上げた周瑜は、そのせいで熱が上がり、夕方から昏睡状態に陥っていた。
「只今、お医師を呼んでまいりますね」
少年は音をたてないように気遣いながら、室の外へと出ていく。
ぼんやりとその姿を見送って、力の入らない腕を重たげに掛布から引き出す。
褥に投げ出された、病み衰えた細い腕――。
だがその掌に、夢の中であったはずの瑤のぬくもりが残っている気がして、周瑜は微かな笑みを浮かべた。
――もう何年も前の夢なのにな。
胸の内の、瑤の面影に語りかける。
あれは、ここに駐屯していた時だった。
そなたは、あのまま春を待たずに逝ってしまったな。
私や子供達を置いて。
最後まで微笑んで。
戦で家を空けてばかりいた私なのに
戻れば、いつも傍で微笑んで、私を支えてくれていたそなたを
どんなに愛していたことだろう。
ああ。
巴蜀への野望も、孫家の天下を打ちたてるために廻らした策謀の数々も
もう今はなにもかもが、遠くに感じられる。
瑤。そなたの元へ行くのも、もう間もなくだろう。
瑤――。そして伯符。
他は全てが朧なのに。
なのに伯符。貴方と共に夢を追った日々は、ひどく鮮やかだ。
太陽のような、眩しい笑顔。毅い眼差し。
思い出す孫策は、光の中にいて。
よく見えない目を瞬いて、周瑜は眩しげに宙を見つめた。
伯符――。
会ったら、恨み事のひとつも言わせてもらおうか。
貴方は勝手に全てを預けて、先に逝ってしまったのだから。
半身とも思った貴方を喪ってから
託された重荷を背負って、生きて来た。
私は貴方に誇れる生き方が出来ただろう?
貴方が残した者達を守る事が、私の生きる糧となり
貴方と共に描いた地図を現実となす事が、私の生きる夢となり
ただひたすらに駆け抜けてきた、この十年――。
振りかえれば、一炊の夢のようで。
周瑜は、くすりと笑った。
まさか夢の途中に、こんな形で終焉を迎えるとは思ってもいなかったが。
だが、今はもう、なんだか全てが遠いんだ。
もう、いいだろう?
もう後のことは、後の者達にまかせてもいいだろう?
子敬(魯粛)がいる。子明(呂蒙)がいる。
私がいなくなっても、仲謀(孫権)さまを支える手はたくさんある。
私は、私の役目を果たしただろう?
孫策が光の中で、鮮やかに笑う。
懐かしい笑顔に周瑜が目を眇めると、孫策は笑って、周瑜の背後をすっと指し示した。
振り向けば。
淡い光の中。波寄せる岸辺に佇む瑤の姿。
蒼白い月光の差す幽明な世界の中で。
伏し目がちに、簫の笛を吹いている。
静謐な湖面を渡る音色は、物悲しげに空気を震わせ。
夜の闇へと消えていく。
――瑤、そこにいたのか?
顔を上げた瑤が。
唇を笛から離し、星が瞬くようにやわらかく微笑んだ。
周瑜が微笑みかえす。
月光に溶けるように、穏やかに。
――待たせたね、瑤。これからは、共に…。
吐息とともに、かすれた声が微かに囁いただろうか。
しんとした室の中に、優しい闇が降りてくる。
月の美しい夜だった―――。
了
-------------------------------------------------------------------------
UP 2002.1.17 (2006.12.30 改稿)
燕雀楼&水華庵発行『日月之行・呉』に掲載
説明 | ||
小橋と周瑜の死にまつわる切ない恋物語。 この物語は、巴丘に小橋墓があり、周瑜より前にその地で小橋が亡くなったという民間伝承をもとに創作しました。ひとつの異聞として読んで頂きたい小文です。 |
||
総閲覧数 | 閲覧ユーザー | 支援 |
1749 | 1728 | 1 |
タグ | ||
三国志 創作小説 呉 周瑜 小橋 小喬 | ||
司真澪さんの作品一覧 |
MY メニュー |
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。 |
(c)2018 - tinamini.com |