深海の天秤〈第一章 ファースト・インパクトH〉
説明
 その女性は、入ってきた二人に背を向けている状態で座っていた。
 女性の前にはテーブルを挟んで、白衣姿の医者と年配の看護婦が一人づついる。
 女性は落谷たちが入って来たことに気づいているようだが、振り向く様子は無い。代わりに医者が阿妻の顔を見るなり軽く頷く。
たぶんその意図は、健康上問題無いという意味だろう。
 阿妻は隣の落谷に、子声で「引ったくりに襲われたさいに頭を打ったようなので、念のため細かく検査を受けてもらいました」と説明する。そしてすぐに、医者と看護婦に向かって「すみません。彼女と話がしたいので、少し席を外していただきますか?」と言った。
 医者たちはそれに素直に従い、阿妻たちが入ってきたドアから廊下へと出ていく。
 これは医者たちに事前にそういう状態を作ってもらうことを伝えてあったのだろう、女性と阿妻たちが残った部屋は診察室出はなく、病院内でも医療に関係しない少し狭い応接間といった感じの部屋だった。

(…なかなかの手際の良さで)

 新人刑事とは思えない阿妻の配慮に少しばかりの気持ち悪さを感じながら、落谷は医者たちが出ていったドアから視線を本題の女性に戻す。
 そこには、アップにしている茶髪の髪からスッと伸びるうなじ。座っていても判る小柄な背丈。OLにしては少し派手目の装飾が施されたスモーキーピンクのワンピと、その上に羽織っているべージュのレザージャケット…といった後ろ姿があった。
 女性の前のテーブルには、病院から出されたと思われる紙コップのお茶と、お財布と少数精鋭の化粧道具しか入らさそううな小さめのバッグが無造作に置いてある。
 顔が見てないのではっきりしたことは言えないが、容姿からして若そうな女性だ。

「ッ……」

 落谷はム〜と口をへの字に曲げ、首筋のハートのアザを人差し指でポリポリ掻いた。
 この時点で落谷の頭の中に『二つ』。なにやら思うところがあった。
 その一つ目は…。
 先ほどあげたとおり女性が身に付けているものは、どれも高額なモノばかりだ。
 髪型もヒールの先の先まで相当気を使っている。というか、過剰過ぎるぐらいだ。
 かなり金回りの良い生活をしているのだろう。
 …が。
 だからといって引ったくりが狙う物件としては些か疑問がある。
 世の中は今、キャッシュレスに移行している。
 特にこの手の若くお金持ちの女性となれば、何を支払いするにもカードかスマホからの決済が主流で、手持ちの現金などほとんど無いに等しい。
 まだ、商店街を買い物しているお年寄りのほうが現金を持っているだろう。
 カードから現金を引き出す技術がある、犯罪システムがしっかり構築された「なりすまし」ならまたしも、引ったくりのほとんどが足がつけづらい現金主義の場当たり的なモノが多い。
 それも犯行は平日の、通勤で人の動きがまだまだ頻繁な時間…。

(…とは言っても、何事にも例外はあるけどね)

 落谷は一旦浮かんだ疑問を保留にし、阿妻とともに医者が座っていた女性の相向かいの席に回り込む。そこでやっと女性の全貌を拝むことができた。
 すると落谷は、ここでまた表情を変化させる。
 その顔は驚きとも納得ともつかない、なんとも言い難い顔だ。原因は、女性の顔と手首にあるようだった。
 そしてそのまま、視線を流すようにチラリと阿妻を横目で見る。
 見られている当の本人は、視線に気づいているのか?いないのか?ピッと伸びた姿勢で席に座り、女性を直視していた。
 だが、先に現状の進行の口火を切ったのは女性のほうだった。

「あのッ、もう帰っていいですかッ?!」

 派手めな紅を塗った口から、尖った口調が発せられた。が、すぐに阿妻が、冷静に「ダメです」と一刀両断する。

「何でですかいッ?お医者さんには「何にも異常は無い」と言われましたッ。このあと用があるんで、早く向かいたいんですけどッ!」

 まくしたてるような早口。口紅のみならず化粧全体が濃いので、更にキツい印象に感じる。
 阿妻は掛けている眼鏡の中央を人差し指と中指でクイッと上げると、女性をジッと見直した。

「今の状況を解ってますか?貴女は引ったくりに遭ったんですよ?」

 その眼力に女性は一瞬たじろぐ。が、すぐに応戦に出る。

「そんなの解ってますよッ。でも、何も取られなかったしッ。本人がいいって言ってるんだから、いいじゃないですかッ」

「それでも貴女は犯罪に合い、怪我をしました」

 阿妻の視線が、女性の顔から右手に移動する。そこには、阿妻の頬に付いているガーゼと同じ大きさのモノが付いていた。
 引ったくりに突き飛ばされた頭を打ったといっていたから、その時に手を擦りむいたのかもしれない。

「私が通りかからなければ、もっと酷いことになっていたかもしれないんですよ。どうか犯人検挙に、ご協力ください」

「酷いこと」っと阿妻が口にしたとたん、女性の体がビクッと反応した。
 強気だった顔は曇り、正面を向いていた視線がテーブルに置いてあったバッグに流れる。

「…助けてくれたことは感謝してます。だけど、私にだって都合があるんです」

 声も小さく弱々しくなる。引ったくりに会った恐怖は、十二分に感じているようだ。
 まあ、普通の反応だろう。反対に今までがおかしかったのだ。

(…となれば、その恐怖よりも上回る『何か』が、その『用』にはあるってことだな)

 今まで口を挟まず二人の様子を伺っていた落谷だったが、ここでやっと口を開いた。
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