ウルオスモノ
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ウルオスモノ

 

 

「また、行かれるのですね」

「はい、これが最後でしょう」

 目の前には、面影を宿しながらも不安げに揺れる瞳がある。

「……そうですか。止めても無理なのでしょうか?」

 残された言葉に逆らう事なく、私に対する敬いが消える事はなかった。

 それは耐え難い重みであり、そして心地よくもあって、今思えばこの地へと留まるための重石であったのだろうと思う。

「ひとつあなたに、お話があります」

 けれど、私に残された時間は僅かであり、あの頃とは状況が全て変わってしまった…。

 だからこそ、残すべきなのだろうとこの方の前に立っている。

 

「私の灯火は間もなくその使命を終えるでしょう。貴方に会うのもこれが最後になるやもしれません」

「丞相、それは…」

 より一層揺らいだ瞳に、強い不安がある。

悪くはないのだ。ただ乱世に生きる器ではない。治世の世であれば…

「己の事です、そして此度の戦が私の最後の戦となるでしょう」

「では、なおさら」

 縋るような視線を捕らえて、首を振る。

「いいえ、これでよいのです。ですが、貴方は先主の優しい心根を継がれました」

「いや、私は父にははるかにおよばない」

 全てを受け止めるだけの覚悟と強さは忘れてこられた。

「そうですね。あの方は特別だったのでしょう」

「丞相?」

 記憶の中で結ばれる像はいつも笑顔で遠くを見据えておられて…

「私の志は、あの方の意志を継いで逆賊を打ち滅ぼし漢の国を再び復興することでした。ですが、今思い返せば、あの方が望んでおられたのはもっと違う事だったように思うのです」

 残された私はその視線の先を追い求める事が全てだと思っていた。

 

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 あれは、新たに拓かれた農地の視察に出向いた時だった。

 新しく掘られた用水路は役目を果たし、田には水が満ち、植えられたばかりの稲が青い穂を天に向けて伸ばしている。そして田圃の中では草取りをする民の姿があり、隣を見れば、我慢しきれずに膝まで裾をたくし上げ、腕まくりをして、中へと入っていく主の姿があった。

「ずいぶんと、手馴れていらっしゃいますね?」

「許都にいたころは暇でなぁ」

 そう笑った主に、お前も来るか?と誘われて、私も簡単に支度をすると青空を映した水の中へと足を踏み入れた。

 冷たいだろうと思っていた水は程よくぬるみ、足の裏には吸い付くような泥の感触がある。慎重に植えられた稲を倒さぬようにしながら、歩を進めて民と話をする主のそばに立つ。

「やはりお前は様になるな。懐かしいか?」

「少しですが」

 私の格好を上から下まで眺めて、一人、うんうんと頷いて私の肩を叩く。

「では、しばらく農事にいそしむか」

「はい、これで田の良し悪しも判りましょう」

 この人に仕えるようになって覚えた事だ。見ているだけでは分からない事も、実際にやってみれば気づく事が沢山あるのだ。見た目は美しいこの田も、触れてみれば、上辺だけ整えたものなのか、基礎からきちんと作り上げたものなのか分かる。もし、役に当たった者が、手を抜き、目に映る美しい様が上辺だけのものならば、秋の収穫は見込めず、結局苦労をするのは、この地を与えられ住み着いた民たちなのだ。

「身内は疑いたくはないがな、領地が広がるほどに目先は暗くなるものだからなぁ」

 僅かな綻びが積み重なれば大きな歪みを生じてゆく。

 われ等が旗印に掲げる「漢」という国も、そうして力を失っていったのだ…

 

 

 

 視察という名の農作業を終えて城へと続く道を帰り始めた頃、さきほどまで顔を覗かせていた陽は厚い雲に覆われてしまい、しばらくすると雨がポツリ、ポツリと降り始めた。それからいくらも進まぬうちに雨脚は勢いを増し、わずかな間にずぶ濡れになった我々は慌てて傍にあった、廟へと身を寄せた。

 

「止まぬなぁ」

「ええ」

 外を眺める主の顔は言葉とは裏腹にどこか楽しげで、廟の開いた扉から手を差し出し、雨粒を受け止めては溢してを繰り返していたが、風向きが変わり、廟の中へと雨が吹き込むようになると、渋々といった感じで扉を閉めて入口に背を向けて私に向きなおった。

「これでは、帰れんなぁ」

「通り雨です。まもなく止みます。しかし、この雨、稲にとっては恵みの雨ですね」

「そうだな。日照りが続いては作物も育たぬものな」

「はい」

 日の光も、水も、土も…、全ての条件が揃わなければ、よい米は得られない。

「だが、降り過ぎても、折角作付けした苗が流れてしまうのではないか?」

「そうですね。ですが、これくらいの雨でしたら大丈夫ですよ。苗も根を伸ばして、しっかりと根付くでしょう」

 先ほど作業した田圃の苗もしっかりと根を張って新たな収穫をもたらしてくれるだろう。

「そうか。そうだな。しかしな湖はどうだろう?」

「湖ですか?」

 予想しなかった問いかけに、真意が読み取れず、私はきっとおかしな顔をしたのだろう。それを見た主が口元を歪めてニヤリと笑い、悔しさに俯けば頭上で声が響いた。

「あまりの大雨に水が濁らぬかと心配でな。」

「はあ、確かに激しく雨が降れば湖も濁ってしまうかもしれませんが…それは時が経てば…」

 何故、湖なのだろう、何を指して話をしているのだろうと、考えながらも当たり障りのない答えを口にする。

「魚はな、我がままなのだ。余りに澄んだ水にも住めぬし、濁りすぎても駄目だ」

「はぁ」

 きれいな水には餌がなく、濁りすぎた水は腐れてしまう。

 それは分かるが、主が言っていることはそういう意味ではなく…

「そしてそれは民も…いや民は選べぬか…。民がそれを選んだ時は死をも意味するのだから…だからな、孔明、お前は揺らぐな…」

 真っ直ぐに強い瞳が私を射抜く。湖とは政を…、私の事を指していたのか…

「…殿…」

「無責任だと思うだろう…?だがな、私はきっとダメだろう。徳の人などと言われているが、本当はお前も知るように血の気が多い。皆が生きている今はよい、しかしな、私より先に私を支ええくれる者が逝った時…、私は冷静ではいられないだろう…。だからな、孔明、お前なのだ。民として生きたことのある、民の声が聞ける仁の心を持ったお前に、皆を潤す水であって欲しい。」

 私を水、自らを魚と例えた主のこれが真意であったのであろうか…?

 切々と語られる声は胸を打ち、身に沁みて、両肩へとずしりと重みが圧し掛かる…。

「…それは……」

 貴方を支えてゆきたいと思っている。貴方の志に添いたいと思う。けれど…

「…すまぬ…、お前にばかり苦労をかける。だがな、もし、お前が辛くて、どうしようもなく濁ってしまいそうな時は、私にあたれ。私がお前の濁りを引き受けるから。」

「我が君…」

 私は、貴方が望むほどの力等、なにも持っていない…。

 それが不甲斐なくて、眉根がより、瞳は潤んでいるかもしれず…、

 きっと情けない顔をしている。

「お前の目を、声を聞いた時に、お前しかいないと思ったのだ。私の志を受け、それを見極めて形にしてくれる者は…」

 そこまでの信頼に、私は答えて行けるのか?

 いや、もう、答えるしか道はない。

 草廬を出たときに全て決めてきた事だ。

「身勝手な望みだと思うか?」

「いえ…」

 貴方が望むのならば、私に否はないのだから…。

「正直に言ってくれてよいのだぞ、厄介な親父に掴まったと嘆いて構わんぞ…」

「随分と私を見込んで頂いているようですが、我が君こそ、後でこんなはずではなかったと、お嘆きになりませぬように」

 だから、一つ大きく息を吸い込んで、自分に出来る一番不遜な表情で告げる。

「それは大丈夫だ。人を見る目にだけは自信があるのだ。孔明…」

 けれど、それすらも包み込むほどの優しさで微笑まれてしまえば、もうなにも言えず、その日から私の両肩にかかる重みが、揺らぎそうな心を支え、拠り所となってきたのだが…

 

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「ならば、丞相」

「そうですね。それが正しいのかもしれません。ですが…」

 私は民の為に心を砕けたか?

 度々繰り返してきた北伐は正しいのか?

「丞相?」

「私は、信じ歩んできた道が間違っていなかったのだと確かめたいのかもしれません」

 主が見つめた先を実現するためには必要だった。

「先主が描かれた志を、私の手で実現させる。それだけを拠り所に生きてまいりました」

 あの日抱いた志を貫くために、ただ残りの生を、全てをかけてきた。

「これを最後の戦としたいと思います」

 魏を討ち、漢の世を取り戻し、我が主が描いていた情に溢れ慈愛に満ちた世を作る。

「…わかりました」

 そしてそれは、私の代で終わらせるべきなのだ。

「陛下。もうひとつお願いがあります」

「丞相が私に願われるなど…」

 この方では難しい。

 先主の下へと集まった猛者達も世代が代わり、主を支えるべき幕僚の間の思想のずれも日々大きくなってゆくだろう。悲しいことだが、思いは徐々に日々の暮らしの中で風化し思い出へと変わってしまうものだ。

「決して、貴方は、私の志を継ごうなどとはされずに、民が苦しまぬ道をどうか」

 拱手し、最後にもう一度、主の面影を追う。

 揺らぎをおさめたその瞳に宿る光に私は深々と頭をさげた。

 

 

 

おしまい

 

 

説明
最後の戦へと赴く前に劉禅と対話をする諸葛亮の独白です。
初出は、孔明命日企画合同誌「白月霧」。現在サイトでも公開中。
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三国志 創作 諸葛亮 劉備 劉禅 

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