蒼窮の果てに、輝く光り(三国志創作小説)
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「これ、なに?」

 

 雪深い冬が終わりを告げる。

 花が咲き、鳥のさえずる穏やかな季節が、この蜀の地にも訪れていた。

 どこからか漂ってくるのは、春蘭の香りだろうか。

 馬岱はその清清しい空気を胸に、声の主へと振り向いた。

 

 穏やかな陽光が室に差し込む。

 その窓際に備え付けられた書卓の前で、まだその小さな躰には大きすぎる胡床に腰を下ろし、脚をぷらぷらと揺らしながら、馬承は卓上に見つけた小さな石を手に取った。

 そこは馬岱の執務室。

 馬氏の総領である馬承がまだ幼い童子である為、後見人として馬岱が軍事やその他もろもろの裁量を行っている場所である。

 幼い馬承は、父である馬超の死後に産まれ、馬超亡き今、馬岱にとって己が主である事実を幼いながらも理解し受け入れながら、実の父のように馬岱を慕っていた。

 こうして、執務室にも毎日の様に遊びに訪れている。

 そんな日常が馬岱には嬉しい。

 素直に育ってくれた、忘れ様の無い唯一の主と思い定めていたあの人の忘れ形見の存在が、掛け替えも無く愛(いと)おしい。

 

 

 声に微笑みを誘われ、仕事の手を休めると馬承の側へと歩みよった。

 小さなふっくらとした指が、小さな石…でも、馬承が片方の掌だけで包み込むには少し大きく淡い色をした碧玉を、窓から差し込む陽光にかざして面白そうに見つめている。

「ああ──。それは、翡翠の原石ですよ、若」

「ひすいのげんせき?」

「翡翠は貴石の一種ですよ。お母上も、首飾りなどにされておられるでしょう? その石の、まだ加工される前のものですよ。このように小さく、原石のままでは、たいした価値も無いものですが」

「ふうーん…」

 きらきらともの珍しそうに瞳を輝かせて、小さな指先がくるくると石を回せば、陽光を弾いて石もきらきらと輝きをこぼす。

「岱はこれをどこでひろってきたの?」

「これは市場で装飾品を売っていた者にもらったのです。俺がまだ子供だった頃の話です」

「へえぇ」

 馬承は卓に肘をついてその手に顎を乗せ、きらめきをこぼす石にしばし見入る。

 楽しそうなその横顔に視線を注ぎ、馬岱の面にも自然に柔らかい笑みが浮かんでくる。

 

 本当に、素直でよいお子に育って下さっている──。

 乱世の中に産まれ、父も亡く、一族は先の大戦で殆どの者が命を落として一門も衰え、ひっそりと暮らしている日々だが、この子のいる所には、いつも笑顔が溢れている。

 そこだけ柔らかな光が差しているように、暖かく華やいでいる。

 馬承の母や、馬岱を含めた一族の者達が、稀有な存在であった馬超を失った大きな悲しみにくれていた中に下された、天からの授かりもの。

 この子の存在に、どれほど癒されたか…。

 

 そう想う馬岱の前で、何かが閃いたのか。

 頬を紅潮させた馬承が、期待するように馬岱の顔を振り仰いだ。

「ねえ! ぼくの目の色ににてる? これ」

「はい?」

「ははうえのじじょたちがね、ぼくの目があおいって。ははうえのくびかざりのようないろですって言うんだ。ぼくは自分で自分の目をみれないけど。にてる?」

 とても大きな発見をした、というように瞳をきらめかせる幼な子。

 それに小さな笑い声を返しながら、馬岱は馬承の頭を撫でた。

「若の目の色は、もっと深い蒼ですね。瑠璃のよう…でしょうか。瑠璃も貴石の一種です。若のお母上が、大切なお客様がいらっしゃった時などに、身につけられておられるやつですよ」

「ふう〜ん。そっか…」

 ちょっとがっかりした様子で肩を落とした馬承のその肩に、そっと手をやって馬岱は微笑む。

 掌から伝わる暖かで確かな温もりが、愛(いと)おしい。

 

「──若の、お父上の瞳の色が、その石のようで在られたのですよ」

 

 想いをこらえて、そっと囁く。

 

「ちちうえの!?」

 驚いた馬承が、子供特有の澄んだ高い声を上げた。

「ちちうえの? ちちうえ、こんな色の目をしてたの? ねえ?」

 馬岱の袖を小さな手でぎゅっと握り、必死の面持ちで見上げてくる。

 生まれながらに父の失(な)かった馬承である。

 どんなにか寂しく、父が恋しい事であろう。それを思えば痛ましい限りで、自分の持てる愛情の全てをこの子に注いでやりたい、と思う。

 馬岱自身の子とは、昔の戦の折りに生き別れ、今どうしているのか、生きているのかさえ解らない。

 どうしているのか…と思えば哀しいものだ。

 だが、この様な今の世に在っては、探してやる事も適わず、再会する望みもまず無いだろう。

 ならば、せめて。目の前にいる子供の寂しさを、少しでも和らげてやりたい。

 自分の子のように…いや、それ以上の愛情を持って、馬岱は馬承を育ててきた。

「ねえ! 岱ってば!」

 小さな手に促され、馬岱はその手を両手に握って、目線が合うように馬承の傍らにしゃがみ込み、彼の瞳を覗き込む。

「──そうですね。この石を水に溶かしたような、碧い瞳をしていらっしゃいましたよ。若のお父上は。碧が縁にいくほどに、琥珀がにじんだような茶色になって…。琥珀も貴石のひとつです。お母上が耳に飾られていらっしゃる物です。お解りになりますか?」

 馬承は、その碧い石を右手にぎゅっと握りしめ、馬岱の掌に包まれた左の拳(こぶし)に力を込めて、こくこくと肯く。

「しってる。きれいな石だもの」

 ぎゅっと握った右手を胸に押し当てるようにして、馬岱を見つめている。

 馬岱の後ろに、相まみえた事の無い父の姿を探そうとしているかの如く、強い眼差し。

 

「ちちうえの…。ちちうえの目のいろなんだ…。きれいだね…」

 呟いて、馬承はその視線を下へと落とし、小さな掌を開いて、己の前に現れた小さな石をじっと見つめる。

 天の蒼とも水の青とも違う翠(みどり)がかった碧玉の色。

 その色を目にすれば…、馬超の事を思えば、今でも馬岱の胸は痛い。

 心の底を冷たく乾いた風が吹くかのように、切なく辛い。

 馬岱は悲しみを面に顕して、幼子に哀しい思いをさせまいと、悟られぬようにそっと奥歯に力を込める。

 だが、辛い思い出も、彼と育ってきた故郷涼州の地での大切な思い出の数々も、その後の出来事も何もかもを、馬岱はかけらも失(な)くしたくない。

 今でも、自分と共に馬超の存在は傍らに在る──。

「気に入られたのでしたら、若に、この石は差し上げますよ?」

 

 そっと包んだ左手を持ち返して、優しく馬承に馬岱は告げる。

 この子供が望むなら、自分に出来る全ての事をしてやりたい。

 この石も、目にすれば馬超を失った事を思い出して未練に想う自分が女々しく、捨ててしまえばいい、と思いながらも手放せないで、書卓の上に乗せておいたものだ。

 この子供が父親を想う寄す処(よすが)になるのであれば。父親との思い出の無いこの愛し子に、なにかを捧げられるのならば、と切に望む。

 

 紅潮した頬のまま、だが静かに深く蒼い瞳で、馬承は馬岱を見つめかえしていた。

 

「──。いい。いらない」

 

 きっぱりと言う幼くも毅い瞳に、目を見開いて馬岱は馬承を見る。

「いらないよ。だって、これ、岱のたいせつなものでしょ?」

 まっすぐな瞳とその言葉に、馬岱は意表を突かれ、戸惑いを感じる。

 手にしてから三十年以上も経つ。捨てようとして捨てられずにいた物ではあるが、改めてそのような言葉にされると、返事に詰まる。

「岱がもってて。───でも、あそびにきたときに、ぼくにも見せてね」

 恥ずかしそうに笑う馬承の姿に、少年の日の馬超の姿が重なった。

 この石を手にして直ぐの頃だから、十二、三であっただろうか。

 馬岱の室に顔を出した馬超が、やはり卓の上にこの石を見つけ、何だ?と問いかけてきたのであった。

 何故こんな物を置いておくのだと問われ、言葉を濁しきれずに結局は、貴方の瞳の色に似ていると思ったのだと白状させられ、ばつの悪い思いをしたものだった。

 馬超は特別に感慨も無かったようで、ふん…と呟いて、石を掌(たなごころ)に弄んでいただけだったが。

 

 再び陽の光りに石をかざして、嬉しそうに見入る馬承を馬岱は静かに見守る。この子を守りたい。

 冷たい風からも。辛い現実からも。哀しい出来事からも。

 どんな些細な事であろうとも、この子に辛い想いをさせたくない。

 そして、馬超に会わせてやりたかった。

 馬超にも、この子を会わせてやりたかった。

 適わぬ夢だと思いながら、想いを胸に、静かに馬岱は馬承を見守っていた。

 

 

 北征に出発する日の朝、馬岱は書卓の上の石を手に取った。

 冷たい感触──。

 否応も無く喪失感を目の前に突きつけてくる、その密やかな冷たさ。

 

 あの人を失いたくなかった──。

 

 その想いを包み込むように掌に石を握り込み、温めようとする。

 石は肌の温もりを移して、掌に頼りない程の感覚しか伝えて来なくなる。が、その僅かな存在感がかえって胸に痛かった。

 そう思いながら馬岱は掌を開いて、彼のひとつ年上の従兄であった馬超の瞳の色を、石の上に探そうとする。

 

 建興五年の春も終わろうとしている現在。蜀漢は丞相である諸葛亮のもと、再び北を脅かそうとしている。

 その先のさらに北に、深い青を見せる山嶺の向こうに、故郷の涼州がある。

 懐かしい涼州の大地が。

 蜀漢の武将として魏と戦うことに、なんら異論は無い。

 ただ自分は、一族を、馬超に従って涼州からここまで来た兵達を、故郷に帰したい。

 その思いが根底にある。

 そう生きる。そう決めた朝の冷たい空気を、決して忘れない。

 

 生まれてよりまだ、我ら馬氏の故郷である涼州を訪れたことの無い馬承を、いつか連れていってやりたい。

 あの涼州の草原の風を、馬超と共に馬を駆けさせて感じた清清しく乾いた空気を、馬承にも教えてやりたい。

 ここがあなたの父が生まれ、守ろうとした地だと、馬承に伝えたい。

 あの子の輝く瞳が写す涼州の風景が見たい──。

 

 

「孟起どの──」

 

 掌の上の小さな石に呼びかける。彼の人が存命中には決して呼ばなかった字(あざな)で、そっと呼んでみる。

 そして、未練を持つような生き様はするまいと、自身の決意を再度確認する。

 彼に恥じることの無いように…、いや、己自身に恥じぬように、己の生を選んで行くのだ。

 

 石は何も語らない。死者が何も語らぬように。

 ただ、自分だけがここにある…。

 

 やがて、その石を小さな袋に入れて懐に秘めると、剣を手に立ち上がった。

 あの人のように、西涼の人間であることを誇りとして、毅く在りたい。

 あの子を、一族を、兵達を守る為に、毅く在りたい。

 その想いを片時も忘れない。

 その誓いを守る寄す処(よすが)とする為に、石を懐にしたまま、室を後にする。

 

 

 強く前を見据えて、馬岱は戦場(いくさば)へと向う。

 

 明日に向って、自分自身の選んだ道を歩んで行く為に──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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UP 2002.9.21 (2005.08.28 改稿)

水華庵発行『西涼譚』に掲載

説明
建興五年(227年)。雪深い冬が終わりを告げ、穏やかな陽光が室に差し込む。その中で、馬承に言われた言葉に戸惑いを感じる馬岱。そして──。
※『天涯に在りて』の続編になります
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三国志 創作小説 西涼 馬超 馬岱 馬承 

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