遙かなる天に想う(三国志創作小説) |
久しぶりの故郷の大地に愛馬を駆けさせ、草原の奥、砂漠の淵に馬超はいた。
彼方まで拡がる黄色い砂のうねりに風が立って、細かい砂塵を舞い上がらせる。眼を眇(すが)めて、片手を顔の前にかざしてそれを遮り、吹き過ぎる風を視線で追えば、その先に見えるは抜けるような蒼い天(そら)。
足元の砂を一握り、身を屈めて掌に掬い取って風に乗せる。
夏が終わり、秋の訪れとともに烈しい日差しは柔らかみを帯び、乾いた風が汗をかいた肌に心地良かった。
天は雲ひとつ無く晴れわたり、地には人影も無い。
地平まで遮るものもなく、ただ眼前に砂の大地が広がっている。
館からは馬で数刻のその場所は馬超の気に入りの場所であったが、戦(いくさ)から帰って来た慌ただしさに取り紛れ、やっと取れた時間に愛馬のみを供にして、馬超は一人そこにいた。
己の愛馬であれば繋がずとも逃げもせず、おとなしく傍(かたわら)で砂地に生える草でも食(は)んでおれば、それをそのままにして、馬超は肩から掛けた被布を手に取ると、地に敷いてその上にごろりと横になった。しばし心を空(くう)にして、微睡(まどろ)みの中、風と砂の匂いのみを感じていた。
ここは、都の騒がしさが嘘のように静かだ。
万年も変わらぬ景色は、ただ静寂な佇ずまいの裡に馬超を受け止めている。
天空と大地の狭間に一人ある。
ふとそれを感じたくなる時がある。
人の騒がしさを嫌うものではなかったが、己と向い合いたくなった時に馬超はここに来ていた。
どれほどそうしていたか。
彼方から馬の蹄の音が大地を伝わって耳に響き、馬超は横たえていた身を起して、先ほど自分が辿ってきた方向を見晴(みはる)かす。
やがて米粒のような馬影が地平に立ち、待つ内に大きくなり、馬超の姿を目指して駆けてきた。
「兄上──」
未だ声変わりをせぬ高く澄んだ声が馬超を呼ぶ。
上半身を起したのみでそのまま待てば、馬に乗ってきた者は、馬超の馬の側に己の馬を止めると、ひらりと飛び降りて馬超へと向って駆けてくる。
「休、一人で来たのか」
「はい」
乱れた息を整えつつ自分の直ぐ下の弟が言うのに、視線を和らげて微笑を返す。
「そうか」
「今度来る時には休も連れていって下さるとおっしゃってたのに、一人で来られるなんてひどいですよ」
口を尖らせる馬休に馬超は明るい笑い声をたて、布の上を少し居去(いざ)って馬休の座る場所を作ってやる。そこに素直に腰を降ろすと、馬休は眩しげに背の高い兄を見上げた。
「何を、見てらっしゃったのですか」
「いや──、別に何も見るものも無い」
「考え事を?」
「そうでも無い。ただ風が気持ちいいと、そう思っていただけだ」
と、馬超は言って、視線を地平の先へと戻す。
馬超の視線を追って馬休も彼方へと目を向け、二人並んで、しばし砂を運ぶ風に身をまかせて、口を噤む。
やがて落ち付いた息に深呼吸をひとつして、「兄上は、どこか少し変わられた」と馬休がぽつりと洩らした。
「うん? どこが変わった」
「上手くは言えないのですが──」
ひとつ置いて、首を傾げると馬休は考えながら言葉を探すように視線を天に向ける。
「砂漠の──もっと深い、人の棲まない地の天(そら)は、ここよりもっともっと蒼く澄んで…昼でも、蒼というより群青のような色をしていると、西域から帰って来た商人に聞きました」
兄上は見たことがありますか、と問う声に肯く仕草のみで答えて、先を促す。
「それは、人も獣も居ないから、そんな色を見ることが出来るのだそうです。俺にとっては──兄上は、人の手の届かないそんな天(そら)のように、幼心に感じられました…あ、でも、兄上がよそよそしいとか、近寄りがたいとか、そう言うんじゃないですよ」
少し慌てたように言を継ぐ弟に、笑みと共に解っていると答えてやる。
はにかんで馬休は、更に言葉を探す。
「でも、戦(いくさ)から帰られて、ここ何日か側にいて…なんていうか、群青色の、手の届かないと思っていた天(そら)は、見渡せば被うように取り巻いて、包んでくれている──そんな感じです」
「なんだそれは」
「いままでよりずっと大きくなられた、そう思うんです。やっぱり戦(いくさ)に行かれたからですか?」
少年の目が自分へと向けられるのに、どうかな、と馬超は静かに返す。
自分は変わっただろうか。
都との戦(いくさ)に出る前の自分は、限りない未来を、成せぬことなど無い己を、信じていた。
だが、戦(いくさ)でいろいろなものを見た。武力をもった大勢の人間による生と死の狭間を、戦場以外の場所でも数々の権謀術数をもって浅ましく己の利を争う人々を、己ひとりの武勇のみでは成せぬ現実を。敗北の苦さを──。
父の力になりたかったのにかなわず、むざむざ父を敗戦の憂き目にあわせたことは、胸が焼けるように苦しかった。だが、そのような状況の中でさえ、己の信念を貫こうと弛まず行動する父の姿を見て、己の心の未熟を知った。
己が力の及ばぬのを口惜しく思う己に囚われていたのを、恥じた。
馬超はこれまで、毅くある為に烈しさや鋭さを厳しく己に求めていた。だが、時にはそうではなく、己自身と向きあうのみでなく、己を取り巻く世界を冷静に見つめ、辛抱強くあることも必要なのだということを、言葉ではなく父の行動でもって知った。
明敏な弟が以前の己よりも今の己を大きな男に感じるというならば、己はこれからもっと毅い男に――真に心が毅い男になっていけるだろうか。
「兄上に、早く追い付きたいのに…兄上はどんどん先に行かれてしまう…」
悔しそうに俯く弟の頭に掌を乗せ、無造作に撫でて馬超は笑った。
「休、お前はいくつになった」
「十一です」
「そうか。戦(いくさ)に行く前のお前に、ここに連れて来てやると言ったが、今日、お前は自分だけで俺を追ってここに来た」
言われて始めて気付いたように、馬休は目を見開いて馬超を見た。
「このまま戦(いくさ)の無いままに、世は終わりはしないだろう。いずれまた戦う時に、お前も馬家の男として戦場(いくさば)で俺の隣にあるだろう」
「はい──」
「それまでにもっと大きくなれ」
俺は待ってはやらんから、お前の足で追って来い。
そう、天の高みのように澄んで眩しい笑顔で笑う兄を、馬休は憧憬と崇拝を込めて見つめた。
「はい。休は兄上の隣で戦える男になります」
「ああ」
天(そら)に吹く清清しい風が頬を撫でるのを感じながら、二人で地の果てを見つめていた。
――初平三年、馬超十七歳の秋であった。
了
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UP 2006.12.30
イベント配布ペーパーに掲載
説明 | ||
初陣から帰った馬超が、どことなく変わったと馬休には感じられて──。 初平三年(192年)頃の話。強い兄に憧れる馬休くんをイメージして書いたものです。 |
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