星降る夜に(三国志創作小説)
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「…いささか、酔ったな…」

 陛下が乱れのない口調で杯を弄びながら、飽きたように呟かれた。

 

 頃は深更。虫の音がさやかに耳をくすぐり、謐(ひそ)かに室の内部をたゆたっている。晴夜であるのか…灯を抑えた薄明るい室内に、明かり取りの窓辺から星の光が落ちてくる。

 侍従も既に下がらせ、司馬懿は己が仕える魏国の皇帝陛下である曹丕と、差し向いに酒を酌み交させて頂いていた。

 懸案であった事項の報告に上がった司馬懿を、「一献やらぬか」と誘った曹丕は政務室から私室へと場所を移し、旨い西域の酒が手に入ったと嬉しそうに頬をゆるめて座を占めた。

 このように相伴に預かるのは、頻繁とはいえぬが稀であるほどでもなし。気軽に対座に腰を降ろす。が、曹丕が酒とつまみを捧げ持って来た侍従達に卓の用意をすませたら下がるように命じたので、何か余人の耳目を憚る話かと表には出さぬとも気を引き締めたものだが、それはいささか気の廻しすぎであったようで、曹丕は他愛もない話をしたかったようだ。

 

 ある意味、凄烈な気を持つこの方は、他人に宸襟を安んじるという事が無いのかもしれない。皇后との間がどうであるのか。政治的な相談役である自分にも無関係な事柄では無かったが、あえて自分からは後宮の微妙で薄暗い部分に土足で踏み込むような態度を取りたくはなく、曹丕自身が愚痴めいた事を言うのでも無いのもあって、甘んじて素知らぬ振りを続けていた。

 

 そして他愛もないが政治的な展望や、蜀の誰それがどうしたの、呉の将軍が病に倒れたの、巷ではこんな噂があるらしいなど、慎ましやかな二人の宴の時間が過ぎていってしばらくした後、ふと、酔ったな…と陛下が呟かれたのだ。

 

「いささか過ごされましたか、陛下」

 曹丕は酒に強い方では無い。普段は青白い顔が、頬から耳にかけてうっすらと血の色を透かせているのが、暗い灯りの下でも察せられた。

「…過ごした、という程では無いが…喉が乾いた」

 酒をあれだけ飲んだというのに喉が乾くというのもいささか奇妙だが、そういうものらしい。

「葡萄が食したいな」

 葡萄は曹丕の好物である。果汁の多い甘いこの果実を曹丕は好んで、とりわけ二日酔いの朝などこれしか喉を通らぬなどと、たまさか我がままを申される事もある程であった。

「では、侍従を呼び準備させましょう」

「いや、こんな時間に呼び出しては、あの老人が気の毒だ」

「しかし侍従とはそれが役目の者でして」

「なに、空も晴れておるし、星見もかねて荘園まで朕が自ら足をのばしてみよう」

 この当時珍味である葡萄であるが、曹丕は好きが高じて西域から運ばれる分では物足りずに内殿の一隅に荘園を作らせて栽培をさせていた。

「そのような事をされずとも…」

「酔い覚ましにもなろう。懿よ、供をせよ」

「では、近衛の誰ぞを呼びますので、しばしお待ちを」

「何、内殿の中のこと。危ない事もあろう筈もない」

 実際は、即位してそれほど間もなく、皇宮の中であっても皇帝に反意を持つ者がいないとも限らない。何より皇帝の独り歩きなど通常ありえないし、自分は剣には自信が無く、いざという時には盾になるくらいしか能もないから、不安であるといえばそうだった。だが曹丕は酔いがそうさせるのか、二人で行こうという考えに乗り気で、そうそうに座を立つと庭への扉に足を運んでいく。

 後を追う司馬懿はいささか困惑を感じたが、曹丕の足取りは酔いの影も見えずしっかりしたものなので、皇帝の御意のままに夜の散策への供となった。

 

 細い下弦の弓張りの月明かりでは足元を照らすには充分では無かったが、それ以上に降るような星明かりがまばゆい夜であった。しばし互いに無言で歩を進めた先に、闇の濃い荘園の樹々が眼前に現れた。目当ての葡萄の樹は月の明かりの差し込む辺りにあったので、実を見付けるのに困難は無かった。

「おう、成っておる。どれ…」

 無造作に一房手折ると、曹丕は瑞々しい実を口に含みにこりとする。

「やはり喉が乾いておる時は、これに限るな。そなたもどうだ、美味いぞ」

「いえ、臣は結構でございます」

「なにも他に人がおるでもなし、遠慮せずとも良いものだが。堅苦しい男だ」

 気を害した風もなく、ひとつ、ふたつと美味の果実を立ったまま口へと運ぶ。夜の荘園にたった一人の供のみ連れて、しかも立ったまま食する皇帝もあったものか。いささか呆れながら、司馬懿は周囲に不穏の気配が無いか、さりげなく気を配っていた。

「うむ。もぎたてというものは旨いものだ。どれ、もう一房…」

「陛下…」

 曹丕が枝に手を伸ばそうとした時に、ほんの僅かに何か音が聞こえた。微かだが、確かにそれは人の声で、司馬懿は曹丕の身をかばうようにしながら、潜めた声で曹丕に注意を促す。

 

『…ほんに一年の長く苦しいことでした。このように貴男に会える夜をどんなに待ちわびておりましたことですかしら…』

『それは私も同じこと。そなたを思わぬ日は無かったぞ…』

 

 微かに響く声は男女のものであるようでる。

「誰ぞ、おるのか!」

 誰何する司馬懿の袖を引き、女官かなにかの遭い引きであろう。無粋なことをするものではない…と曹丕がいささか人の悪い表情を目許に浮かべた。

「そのような問題ではありませぬ。玉体にもしもの事があってはなりませぬ。まして皇宮で夜に許しもなく出歩く者など…」

「遭い引きにいちいち許可は得ぬと思うがな」

「問題はそこではありませぬ」

 が、司馬懿が如何に闇を透かし、月の光りの下に眼を凝らしても、人影も、人がいる気配すらも掴めない。だのに声はまだ続いている。

『貴男を思い、星の数をかぞえる日々の長かったこと。織機を踏む足も重く、気が塞ぎ、織った布にも涙の染みをつけてしまうほどでありました』

『天帝をお恨みするのは畏れ多くはあるが、そなたに遭えぬこと、耐え難いのは私も同じ。せめて一年に一度お会い出来た今宵はそなたの笑みを見せておくれ』

 

「…なるほど」

 突然、曹丕が含み笑いをもらした。

「陛下?」

「今日は七月七日であったな。伝説は本当の事であるらしい」

「…何のことか臣にはさっぱり解りませぬが」

「そなたは天帝に引き裂かれた恋人たちの伝説をしらんのか? 今日はその二人が一年で一度会うを許された日だ。葡萄の樹の下では彼らの睦言を聞くことが出来るとの伝説もあったが、事実であったか」

 得心したように笑う曹丕は耳を傾けるようにして、恋人たちの語らいを更に窺おうとしている。

「本当にそのような事が…。臣には人ならぬ者など居ようとは思えませぬが」

「そなたは風情を解さぬのう。…なにをそわそわしているのだ」

 居心地悪そうにしていた司馬懿は、首をすくめると困ったように口元を歪めた。

「人であれ、天人であれ、どうも…その、他人の情事を覗き見しているようで落ちつきませぬ」

「…まったく。堅苦しい男だのう、そなたという奴は」

 おかしそうに、だが恋人たちの邪魔をせぬように声を潜めて曹丕は笑うと、では戻ろうかと告げたので、司馬懿はいろいろな意味でほっと胸をなでおろした。皇帝の気まぐれにも困ったものだ。

 

 その前に…と曹丕は葡萄の房を二つ、三つと樹から取り、一つを司馬懿へと手渡した。

「下賜してやる。家に戻って妻子にもわけてやるとよい」

「これはありがたい仰せ」

 他人はなかなかに気付こうとはせぬが、そんな優しさのある主君に対して、司馬懿は感謝といたわりを込めて頭を下げた。

 夜空の下を再び宮殿へと向いながら、ふと前を行く曹丕が何事かを呟いた。

「陛下、いかがされました」

「…いや、なんでもない」

 それは、離れ離れの愛する者とは、斯くも恋しいものであるのか、と聞こえた気がしたが、問いただす事を司馬懿はせず、曹丕の後ろ姿を見つめていた。

 

 

 星の下、微かな明かりが落とす二人の影が、路の上に落ちていた。

 

 

 

 

 

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UP 2003.7.15 (2008.05.30 改稿)

燕雀楼&水華庵発行『黎明群青 天壌無窮』に掲載

説明
夜の散策に出かけた曹丕と司馬懿が遭遇した、奇妙な出来事。 青龍元年(233年)年より少し後の頃と想定して書いています。おともだちに聞いた中国神話が素敵だったので、物語に添えてみました。
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三国志 創作小説  曹丕 司馬懿 

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