二主一体 信仰の復活 第1章 |
1. 二主一体
創造主と救世主で二主一体となる。
初期キリスト教の時代に信じられていた説である。
はじめに、「使徒信条」には“三日目に死人のうちより蘇り”と書かれてある。
ところが、『使徒行伝』には3章15説に“しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。”と書かれてある。
イエスが「使徒信条」で能動的であるのに対して、使徒行伝では受動的である。教義のある宗教的なキリスト教の記述において、一方では能動的・一方では受動的と云う事は可笑(おか)しく、齟齬(そご)がある。その齟齬を解決するには、つまり神とはイエスである。と云う結論になる。神がイエスであり、イエスが神でもあると云う事はどちらが行っても同じ結果になるからである。
初代教会の信仰告白では、“主はイエス”と告白する。主すなわち神をイエスと告白する訳である。二主一体である。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の唯一神とは、神が唯一無二である事を告白する事が大原則である。
例えば、イスラム教では、“アッラーの他に神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒である。”と告白する。そしてイスラム教徒になる。
ユダヤ教の613あると言う、律法に関してだが、福音書や手紙で食い違いがあるが、福音書では律法は例えば、『マタイによる福音書』では、5章17,18節“わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。”と書いてある。
しかし、手紙、『エペソ人への手紙』では2章15節に“数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、”と書いてある。
つまり、一方では律法は廃棄されていると云う扱いであり、一方では廃棄されていないと云う扱いである。
現在、キリスト教会の律法は廃棄されていると云う扱いになっており、福音書に記述のある、「十戒」と欺き取るなと『マタイによる福音書』の22章37節“心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ”と22章39節“自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ”(“わたしは言う、あなたがたは神々である”は、ユダヤ人に向けた律法。)以外は守られていない。(別にそれが問題と言っている訳ではないが。)
父なる神が「十戒」とその他の律法を聖書としてモーセに預言したのであり、父なる神は創造主である。
救世主たるイエス・キリストは”成就するため”、つまり、モーセ五書の続編にあたるのが、福音書であると言える。つまり、律法に変わるものが福音または礼典(秘跡)と呼ばれるものである。
例えば、『マタイによる福音書』5章28節“しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。”と云う記述は、モーセの「十戒」の第七戒の“あなたは姦淫をしてはならない。”の補完にあたる所である。
つまり、律法を”成就するため”福音書を神が福音記者に書かせたのである。
つまり、福音書とは律法書である。二主一体とはその律法(福音)を通して父と子が一体であると云う事を示す為の、三位一体とはまた違った役割の説である。
さて、福音書が律法書と書いたが、二主一体と福音書がどう関係するのか、を書いていこう。
福音書は『マタイによる福音書』・『マルコによる福音書』・『ルカによる福音書』・『ヨハネによる福音書』があるが、そのうちの『ヨハネによる福音書』の10章30節に、“わたしと父とは一つである”と書いてある。
つまり、この部分も律法(福音)の一部なのである。『旧約聖書』の13と『新約聖書』の1を合わせて14律法である。二主一体とは繰り返すが、創造主と救世主が一体であるつまり、“わたしと父とは一つである”と云う事である。
人は神の似姿であるから、父と子が一つであるから、つまり、父子は本質を同じくすると云う事が人間の社会でも言える。
モーセの「十戒」の第四戒に“あなたの父と母を敬え。”と云う戒めがあるが、父は息子と本質を同じくし、母は息子とは対照的である。本質を同じくするものと異なるもの両方を敬えと云う旧約の教えであるから、それだけの思想の受容を子供に求めていると云う事が言える。父なる神の教えである。
ちなみに、イエス・キリストの言う戒めと、律法は別のものである。
律法(福音)として”わたしと父とは一つである“事を捉えるならば、父に親しくあれと云う律法(福音)の一画と言える。
つまり、暗に父の思想と魂を受け継げと云う様にも捉えられる。
その受け継ぎを二主一体と云う律法(福音)として捉える。
二主一体の根拠は律法(先程挙げた14律法)にある。父なる神の律法が子なる神の律法として機能するのが、二主一体の機能であり、二主一体と云う律法(福音)の本質である。
つまり、創造主の律法と救世主の福音とは本質を同じくする。
要するに、ここで言う律法とは、福音の守るべき部分であり、また真理そのものの事であり、罪の赦し、十字架の小羊はその律法が無くては、成り立たない。
二主一体と云う名前だったのだが、当時の教会はその名前すら知らなかったらしい。
二主一体は三位一体の補助であるとも言え、三位一体を主、二主一体を客としてキリスト教会は成り立ち得る。
また、聖霊は人格的な交流と、霊的な交流をイエス・キリストと持っており、重なり合う程親密である。そしてそれは、父なる神も、であるとも二主一体では言える。それは二主一体において、常時である。律法は、福音である。なぜなら、613の内、13を挙げ、律法の全てを知っていると福音書を通して言われているからである。613と云う数字は福音書内にない。しかし、こうも書いてあるからである。マタイによる福音書7章12節“だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。”
創造主ヤハウェと救世主イエスこの二名が一体である事を二主一体と言う。
律法としての二主一体を説明したが、「主の祈り」・「使徒信条」に次ぐ「二主一体」と云う文章を作りたいと思う。
「二主一体
創造主ヤハウェと救世主イエスこの二名が一つであり、聖霊は両者にある。
主と主イエス・キリストこれも一つであり、また助け主は聖霊である。
神と人とは、男と女として比喩される。神は男であり、人はその助け手、女である。
しかし、男と女とは一体となる。神と人との比喩ではこれは神人イエス・キリストである。
これが二性一人格である。
しもべ天使は人であるが、火を用いて造られた、別の時代・別の宇宙の人である。天使は全部信仰者である。しいて言うなら、天使の故郷は天の宇宙・天の時代である。私達の宇宙は全地の宇宙、私達の時代は全地の時代である。
天使はミカエル・ガブリエル・ザドキエル・ラファエルがいる。
四大天使である。
堕落天使もいる。サタンまたルシファーである。
救い主と贖い主イエス・キリストと御神(みかみ)に永久(とこしえ)に栄光がある様に。
アァメン。」
これが「二主一体」である。
天使への祈りは『ヨハネの黙示録』19章10節“そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。”と書かれてある。
つまり、天使崇拝はキリスト教ではカトリックではミカエル崇拝を除いて禁止されている。天使崇拝はしないと云うのが、プロテスタントの最低限の良識である。
つまり、崇拝せず祈ると云うマナーがあって初めて、天使への祈りが出来るのである。
「天使への祈り
四大天使ミカエル・ガブリエル・ザドキエル・ラファエルよ。
私をお守りください。
また、私の家族と祖父・祖母・叔父・叔母・孫に至るまで、その守護に入りますように。
私の敵を倒す事に助けてください。
そして、私の敵を愛する為に巡り合わせてください。
御神と共にミカエル・ガブリエル・ザドキエル・ラファエルそして私があります様に。
アァメン。」
キリスト教では三つの信仰基準と同時に三つの信仰がある。
二主一体と三位一体そして、御神仰一体(ごしんぎょういったい)である。
ここでは、御神仰一体の概説をする。
御神仰一体では御神・御父・御子・御霊・聖徒の五つの名が挙げられる。
クリスチャンの人は心して聞いてほしい。
まず、御神(みかみ)・御父・御子・御霊・聖徒とはそれぞれ別の者である。
御神とはすなわちアッラーまたはヤハウェと呼ばれる方であり、御父とは創造以外の業を引き受ける霊つまり神ではないが父なる神と呼ばれる方である。霊的なイエス・キリストの父である。
御子とは人の子イエス・キリスト、御霊とは聖霊である。
それぞれ、御神仰一体の御神・御神仰一体の御父・御神仰一体の御子・御神仰一体の御霊・御神仰一体の聖徒と呼ぶ。ただし、イエス・キリストの奇蹟は御神御自身によるものである。原理が天地創造と同じなのである。
しかし御神仰一体の御子イエス・キリストには子供があられ、その方の御名前をクリスティー(Christy・男性名)御尉様(おじょうさま)とおおせられる。
私達の主イエス・キリストは天にお生まれになったクリスティー御尉様を御神にお捧げになられた。
代わりに、キリスト教徒の贖罪を頼まれた。
御子の子・”幻想の神”。
捧げられたクリスティー御尉様に御神は以上の二つの御名前をお授けになられた。
つまり、御神は父なる神、子なる神、”幻想の神”と三代に渡って神と名乗る事を許された。
内、”幻想の神”と云う御名は、御神御自身を表す御名だった。なお、御神仰一体の聖徒(つまり、聖徒の代表と云う事。)とは、クリスティー御尉様の事である。
そういった信仰基準が御神仰一体である。三位一体を父として、子の御神仰一体が思想と魂を受け継いでいるのである。
これも又、二主一体である。信仰基準は信仰の主であるから、又、信仰基準・主の三位一体と御神仰一体、二つの主が一体と成って二主一体と云う信仰又は、神になるのである。
御神仰一体の解き明かしはこうである。
この御神仰一体には、5つの信仰が入っている。
1つ目は、我々の主イエスの信仰。すなわち天の父と自分の神信仰である。シンプルにて、比べ物にならない程高潔である。
2つ目は、イスラム教の創始者ムハンマドの信仰。父なる神=アッラーと云う、ムハンマドの信仰である。なぜなら、父なる神は創造者だから、父なる神なのである。
3つ目は、予言者ヒトラーの信仰。予言については、『ヒトラーの終末予言 側近に語った2039年』に書いてある。驚くべき事に、彼の信仰は高潔そのものだった。創造神信仰と云う。我々はむしろ、この箇所も信仰したいあの箇所も信仰したいと、右往左往する信仰であり、実に、“神”以外で7つの呼び名によって、まるで多神教の様に(もちろん違うのだが、イスラム教徒等に比べると、多神教の神々の様に呼ぶ名が多数である。)信仰をしなくてはならない運命にある。しかし、このヒトラーは、神=創造主として、信じているのだ。それだけなのである。(ただし、神々も信じているらしい。)
4つ目は、三位一体の信仰。三位が同じ神性かつ神中心の信仰である。
カトリックの超越的な神への信仰も含まれる。カルヴァンは絶対的な主権を神が持っているとしていたが、カトリックは超越的、例えば、国々として超越的に、神について考える癖がついている。つまり、宣教をするにも、超越的にものを考える様に教育されている。例えば、フランシスコ・ザビエルは、天使はイスラエルだけの守護天使ではなく、日本の天使であるとも考えた。日本列島をミカエルに捧げて、第二のイスラエルと考えた様だ。神が超越的に東方にまで、手を伸ばしている事をザビエルは、感じていた様だ。
5つ目は、私の信仰。私、滝口心一朗(アヤ=サキ)の以上4つを合わせた信仰である。
6つ目は、カルヴァンの信仰。予定説つまり、神の主権の絶対性、を強調した御神が覆される。御父・御子・御霊つまり、既に挙げた、神ではないと云う所を、である。(三位一体の神の否定とも取れる事を、私が書いたのは、あくまでも、御父も御子も御霊も単体で信仰対象である、と云う事を再発見させる為である。神だから、と云うのもそうだが、しかし、そのものを見る事を促したかったに過ぎない。)
ちなみに、御神は覆される方である。それは既に書いた。
7つ目は、ルターの信仰。信仰義認を行う、つまり、信仰を義と認められなければ、信仰者には成れないと云う、神第一の信仰。
4つ目を説明しよう。
御神仰一体の御神は、同等に神と名乗る事を許しておられる。御父・御子・御霊を、である。
聖徒にあたるクリスティー御尉様は、御神仰一体の御神によって、召された御方である。
御子の子は、召されている。つまり、御子の御子は、御神と同名の二つ名を持っておられる。”幻想の神”である。つまり、御神と名乗る事をゆるしておられるのである。人としても神としても捧げられた”幻想の神”がクリスティー御尉様なのである。
神と名乗る事を許している御神は正義の主かつ真実の方である。
つまり、許しておられると云う事実を重く見ると、御父・御子・御霊(聖霊も又、聖神と呼ばれる事から。)は神であると言える。私の、神ではないと云う言葉はことごとく覆されるのである。
すなわち、御父・御子・御霊は御神であり、御父は御子でなく、御子は御霊でなく、御霊は御父でない。これは最初に言っている事である。
正義の主、真実の方である御神は三位一体を認められているのである。
私達の主イエス・キリストによって、捧げられた聖徒の筆頭・クリスティー御尉様はいない御存在であり、三位一体を混沌とさせる事なく、二主一体をも成立させるのである。
この場合の二主一体は、三位一体の三位の三に対しての二主一体の二主の二を強調するものである。
他意はなく、三位一体に異議を挟む事もない為、異端ではない。
御神仰一体の信仰である。
御神・御父・御子・御霊・聖徒の五名と一つ目の信仰・二つ目の信仰・三つ目の信仰・四つ目の信仰・五つ目の信仰の十個と二主一体・三位一体の二つを合わせて、キリスト教の十二の要素が浮き出てくる。
この十二の要素はキリスト教の基本の型であり、キリスト教の体系はこの十二の要素によって機能している。
十二は聖書において七と並んで完全数であり、主に、基として『創世記』と『出エジプト記』と福音書に十二支族・十二使徒として出て来る。
つまり、十二支族・十二使徒・十二要素と並べられる。
イスラエル十二支族・イエス・キリストの十二使徒・キリスト信仰基準の十二要素と云う正式名称を持つ。
三つとも2,000年程の歴史を持っている。
二主一体は日本語に近すぎて、ラテン語に馴染まなかったようで、三位一体に取って代わられている。
主と創造主・救世主に読みも当てはまっているのは、日本語だけだろう。故に、今、必要とされるのが三位一体だけでなく、二主一体も。
なぜなら、三位一体は難しいだけでなく、実用性に欠けるように見えるからだ。実用性と云うのは神学の信仰基準において、誰も信仰として追随出来ないようないと高き信仰だからだ。
あのアウレリウス・アウグスティヌスですら、頭の中だけではとても理解出来ない信仰基準・真理だったからだ。(そういう伝説が残っている。)
丁度良い難易度の信仰及び信仰基準を復活させようではないか。
二主一体はエロヒームつまり天地創造の際の父なる神が、その時、聖霊と同じ存在になったと云う事で、エルの複数形のエロヒームと御神は名乗っておられるのである。
聖霊と同じとは、神性が同じく成った事を言う。そして、三位一体が成立した瞬間を言う。それまでは、三位一体は、神にとっても手の届かない真理であり、三位一体の神は、実在しなかったのである。しかし、今我々が認識している通り、三位一体は、神に理解される真理・又、人間が信じる信仰と成っている訳である。
エロヒームは創造主ヤハウェが聖霊と集団になっておられると云う事のヒントである。
しかし、別の解釈もある。
二なる主、二主一体をエロヒームとしたという事も言える。
つまり、二主一体こそ、愛、言葉、光を1つの神とする事が出来るのだ。
イエスもまた聖霊と重ね合わされる事がある。『マタイによる福音書』14章26節“弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。”と『マルコによる福音書』6章49節“彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。”の場面において聖霊と姿が重なっている。
基本的に福音書のイエス・黙示録のイエスと云う端的な呼び方は聖霊と同一視しての、呼び方である。イエスと呼んでいる時には、聖霊とも呼んでいる様な形に成っている。なぜなら、胎児の時に、聖霊によって聖(きよ)められているから、個人名は聖霊に繋がる様に出来ているのである。福音書も黙示録も初期キリスト教つまり二主一体の時代に出来た物である。
つまりは、福音書・黙示録共に、二主一体に基づいて作られた物である。例えば、『ヨハネの黙示録』19章10節では、“そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。”のイエスのあかしとは、聖霊の御名の事である。(つまり、聖霊の御名は、預言の霊(ムハンマド)と云う事を唐突に見える語り方で天使は言っているのだ。)聖霊は悪霊を追い出す力を持っているが、それをイエスが主となって追い出すと云う事は、イエスと聖霊の関係が二主一体と云う真理的なものによって、そして、エロヒームと云う神々をも表す名によって、『創世記』で名乗った父なる神、同じ事をしている事が解る。三位一体に対しての二主一体と云うデフォルメ手法で語られる真理的又は、神話的脊髄(せきずい)を研究し、理解し、昇華する事は、とりあえず、私の最大の使命であり、「守護神」と同じくらい宣伝・宣教になると、考えている。
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副題:天使アクタリエルの啓示1 | ||
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