きりくるまとめ2
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   話が通じる相手

 

 学友の明智十兵衛光秀は悩んでいた。今読んでいる書物のことかと思い、高政は「どこか引っかかったところがあるか」と聞いてみる。

 学問は十兵衛のほうが優れているので、高政がどうこうできるわけではないが、少なくとも一人で悩むよりはましだと思ったのだ。

 

「母上と叔父上から、順番に叱られた」

「それは珍しいな。どうした」

「もう少し、相手がなにを言いたいかを聞いて、一呼吸置いてから話せと」

 

 ああそのことかと高政は合点がいった。

 十兵衛の父は((光綱|みつつな))、生母は正室の牧といった。十兵衛に兄弟はなく、光綱は早くに亡くなったが、牧と叔父の((光安|みつやす))からの愛情を受けて育った。

 

 だが少々まっすぐに育ち過ぎた。四書五経を二年で読み終えるほどに聡く、その聡さが災いした。どうも他人の心の機微にうとい部分があるらしかった。

 ものの言い方が、人によっては責めているように聞こえる。正しいことばかり言う。問いかけすぎる。それで嫌な思いをする子が、少なからずいた。

 

 そんなふうに十兵衛は普通の子と少し違っていたため、そのうち、あれは竹藪で拾われた子という陰口を叩かれた。まるで、なよ竹のかぐや姫のようだと。

 実際には生母がいる。求婚者が押し寄せたわけでもない。

 単純に、十兵衛は竹を思わせる柄の小袖を着ていたので、遠回しに((女子|おなご))のようだと揶揄しているのだった。

 

 十兵衛は、庶子だが美濃守護代の斎藤((利政|としまさ))の後継ぎと目される高政の学友であり、((小見|おみ))の((方|かた))の甥。彼女は利政の正室。

 となれば、陰口を言うので精一杯。さらに、上向いている明智家への当てつけでもある。

 

 高政の生母の((深芳野|みよしの))は利政の側室になる前、美濃守護だった((土岐|とき))((頼芸|よりのり))の愛妾だったこともあり、高政が物心つく前から本当に利政の子かと噂された。

 高政はその手の陰口を表面上は気にしないよう、対処する((術|すべ))を覚えたが、十兵衛はどうか。

 結論から言うと気にしていなかった。気にするのは書物のほう。

 

 そのため、家族から注意されたことも、今一つ理解していない部分がある。

 

「牧殿と光安殿が言ったことだ。((外|はず))れないだろう。実践してみろ」

「……そなたとは話しやすいのにな」

 

 ある意味で腫物のような高政に物怖じせず、好奇のまなざしも見せず、十兵衛は普通に接した。

 それが高政にとっては好ましく、安心できる要素だった。遠慮なく話せる唯一の友人と言っていい。

 

「皆が皆、わしのようではないぞ」

 

 考える表情をしながら「…心得た」と答える友の肩を、高政は楽しそうに叩いた。

 

END

 

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   西に狩して麟を獲られず

 

 信長は大事な祝言をすっぽかしたので、花嫁衣裳のまま一晩明かした帰蝶には「昨晩はあまが池の化け物を捜しておったのじゃ」と釈明した。

 清洲より東にある比良城には、東側に南北に伸びる大きな堤があり、その西側に池はあった。

 

 帰蝶に「化け物?」と聞かれたので、信長は池の近くに住む者に聞いたとおりのことを説明した。

 

「一抱えもある大きな体に、鹿のような頭。目は星のように光り、その目ににらまれた刹那、口から真っ赤な舌が伸びてきて、池に引きずり込まれそうになった。((又左衛門|またざえもん))はそう申すのじゃ」

 

 信長は池に入って化け物捜しをしたが、見つけられなかった。

 化け物がいてもいなくても、肝心なのは織田家の者が実際に確かめること。そうすれば民は安心して商売に出かけ、農作業ができる。

 

 十有四年春、西に狩して麟を((獲|え))たり。

 池は西側にあり、化け物は鹿のような頭ということで、信長は四書五経の史書、孔子が編纂した『春秋』の最後にある((西狩獲麟|せいしゅかくりん))の故事を思い出した。

 西方での狩りで捕らえた生き物は不気味だったので、役人に下げ渡された。そこで『春秋』は終わる。

 孔子は生き物を麒麟だと見抜いたが、太平の世に現れるはずの聖獣が乱世に現れ、それが麒麟だと誰も分からない状況に孔子は嘆き、筆を折ったという。

 

 金ヶ崎の戦いで逃げ延びたあと、((殿|しんがり))を務めた帰蝶の従兄、明智十兵衛光秀は麒麟の話をした。

 

「この十兵衛、こたびの戦、負けと思うてはおりませぬ。信長様が生きておいでです。生きておいでなら、次がある。次がある限り、やがて大きな国が作れましょう。大きな国ができれば平穏が訪れ、きっとそこに麒麟がくる」

 

 信長は「麒麟…?」と聞き返すと、十兵衛は託宣を受けた行者のように語った。

 

「追っ手から逃れ、この京へ向かって夜通し馬を走らせておるとき……ふと、その声を聞いたような気がいたしました」

「麒麟の声を…か?」

「はい。信長には次がある」

 

 だから将軍にも帰蝶にも、帝にも報告しろと。信長は生きている。次があると。

 金ヶ崎で逃げるよう進言した十兵衛は、織田信長は死んではならぬのですと言った。敗走しても、生きているから負けていないと次を期待する。

 

 池の化け物は、実は麒麟だったのか。それでも捕らえられた話は聞いていない。

 

 ならば、信長の史書は今も続いている。負けても生き残れば褒められる。

 その高揚感たるや筆舌に尽くしがたく、床に入っても眠りは浅い。

 

 だが翌朝の目覚めは、久々に清々しかった。

 

END

 

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   新しい干し柿

 

 信長はなにかにつけ、皆の前で明智十兵衛光秀を頼りにする。重要なことは内密に相談し、褒めるときは一番に十兵衛を褒める。

 十兵衛は羽柴秀吉と並ぶ出世頭だが、秀吉同様、織田家に代々仕える家臣ではなく、信長の代から仕えるようになった者。

 元幕臣で、信長が絶対の信頼を置く正室帰蝶の親戚という繋がりがあるとはいえ、ここまでうまく出世するものかと疑問をいだく者もいる。

 

 それを((戦場|いくさば))での働きだけでなく、古典を理解する教養と礼法に通じ、外交と内政で成果を見せることで、周囲を黙らせてきた。

 いまや能力において十兵衛を疑う者はいなかったが、それでも陰口はつきまとう。

 

 こと明智様におかれましては、上様のご寵愛は度が過ぎる。

 

 そんなふうにささくれ立つ用語を使い、わざと波風を立たせることを言われる。

 そういう陰口は十兵衛本人も耳にしていたが、陰で文句を言うだけなら放っておいた。

 それだけ織田家中で成果を上げることは苛烈であり、陰口を叩いて結果を示さない者は、ただ消えていくだけなのだ。

 

 十兵衛への悪口があるのは、もちろん信長も知っていたが、それを蹴散らすほどの結果を十兵衛は出す。なにより彼自身が気にも留めていない。

 

 だから信長も懲罰を与えていないが、さすがに不快に思うときがある。

 十兵衛ほどの能力はなく、教養も低い。物事を見通せる目を持たず、嫉妬で足を引っ張る。そういう者の下卑た笑い方は、昔からさんざん見ている。

 

 帰蝶に相談すると、「では、その者をいそがしくさせてはどうです」と言われた。

 

「それで成果が出なければ、別の者に変える。それで皆が納得しましょう。口だけで力のない者は、成果を出せませぬ」

 

 意味を理解した信長は大きな笑みを広げると、ゆるやかに微笑む帰蝶の頬をするりと撫でた。

 

 それからほどなくして、末端にいる一人の家臣が消えた。死んだわけではない。目的を達成できずに叱責を受け、出世競争から脱落しただけ。

 空いた席には誰かがもう座っている。その者は心得たもので、周囲に美濃の干し柿を献上しているという。それが信長のところにも来た。

 

「明智様がお越しです」

「うむ」

 

 挨拶で登城してきた十兵衛は一礼すると、「今日は気分が良うございますな」と信長に話しかけた。

 

「新しい干し柿の献上があっての。それの出来が良かったのじゃ。帰蝶も喜んでおった」

「さようでございますか」

 

 十兵衛は笑みを浮かべる。信長も笑みで返す。その意味はまったく異なるものであった。

 

END

 

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   欠けているもの

 

 よく動き回って物を壊す子供だった信長は、つねに衝動があった。

 母からは、そなたはいつも私の大切なものを壊すと言われたが、正室の帰蝶とその従兄の明智十兵衛光秀は、衝動を肯定してくれた。

 

 信長自身に野望はなかったが、大きな国を作れという道を与えられ、そうすれば皆が褒めると言われた。

 平穏が訪れれば麒麟がくるとも言われ、腐った叡山も幕府も壊して走り続けた。

 

 だが支配地域が拡大するに従い、((政|まつりごと))も戦も問題が続出した。対処するたびに疲労が溜まり、眠りが浅くなった。

 ずっと自分を褒めてくれた帰蝶が鷺山に去ってから、月にまで届く大きな樹を登り続ける夢も見た。

 目の前のことを対処するだけの人生に道を示してくれた十兵衛は、自分を褒める回数が減り、逆に諫言が増えていった。

 

 まだ父が存命のころ、子供のときと同じことを繰り返して、なぜお前は成長しないのかと叱られたことがある。

 

 皆が喜ぶと思ったからやり続け、時にすねた結果が、誰よりも信頼する十兵衛の謀反。

 織田信長は死んではならんのですと言い、信長には次があると麒麟の声を聞いた人間が与える、最後の道。

 

 母もこうであれば良かったのにと思う。自分を駄目だと思うのなら、いっそ死を与えてほしかった。あなたの望みなら叶えたのにと。

 

 信長は人生最後の戦いを存分に楽しんだ。これまでと悟ると一人で腹を切った。命の灯が消える前に、樹から落ちる感覚を味わった。

 地上には斧を持った十兵衛がいた。頭には鹿のような大きな角が生えている。以前十兵衛を扇で叩き、額を傷つけたがわの角に欠けた部分があった。

 

 嗚呼と信長は気づく。

 

 地面に叩きつけられる瞬間、自分の腹からかけらがこぼれ落ちる。幻覚と現実が重なる。

 幼いころ、この子はどこか欠けていると言われたが、そうではない。自分は本来持つべきではない、誰かの欠けたものが、ずっと腹にあったのだ。

 

 パードレの嘘つきめと、信長は心の中で文句を言う。消えぬのは形のないもの。((切支丹|キリシタン))の神は風のようなものだと言った。

 

 否、目の前にいたではないかと。

 

 麒麟はずっとそばにいた。その麒麟は人の姿を得て、なくした角のかけらを求めてさまよい、取り戻しに来たのだ。

 かけらがこの腹にあったから、十兵衛は自分が麒麟を連れてくると勘違いした。

 

 あれこそが欠けた者。ならば角を返しに行こう。さすれば??。

 

 信長はゆるりと笑みを浮かべた。最後の息を吐いて事切れる。

 腹からこぼれ落ちたそれは、ただの臓物であった。

 

END

 

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   君はいずこ

 

 明智家の嫡男十五郎は、両親と年の離れた姉二人、家臣たちに囲まれ、愛情も惜しみなく与えられ、生活は豊かであった。

 

 一番目の姉の岸が荒木家に嫁いでからも、その生活は変わることはなかったが、母の((熙子|ひろこ))が病死してからなにかが変わった。

 まだ幼い十五郎には、なにかとしか言いようがなかった。

 

 二番目の姉のたまは細川家に嫁ぎ、家族が減ったさみしさはあったが、十五郎はそういうことを積極的に言わなくなっていた。

 

 父の光秀は戦でいそがしい。その合間を縫って十五郎と触れ合ってくれるが、黙ってさみしさに耐える息子を哀れに思ってか、父は秘蔵の短刀を見せてくれた。

 号は((倶利伽羅|くりから))((江|ごう))。

 

「父がいない間はこれを見るがよい。((棒樋|ぼうひ))に彫られた倶利伽羅竜がそなたを守ってくれる」

 

 名刀は父の代わりとなった。

 

 しばらくしてから、主君織田信長に謀反を起こした荒木家から離縁され、戻ってきた岸は、親族であり父の片腕として働く明智((左馬助|さまのすけ))に((再嫁|さいか))した。

 十五郎の周りはまた少しにぎやかになったが、逆に父の雰囲気に少しずつ暗いものが混じるのを肌で感じ取った。

 

 だが、十五郎にはどうすることもできなかった。自分がそばに寄ると、父はなにも問題がないように振る舞ったからだ。子には心のつらい部分を見せない人だった。

 父が信長に対して謀反を起こしたと知ったとき、なにかに対してずっと悩んでいた原因はこれかと、ようやく分かった。

 

 信長を討ったことで父は天下を取ったが、備中で毛利方と戦っていた羽柴秀吉がすさまじい速さで京に戻ってきたことで劣勢となり、山崎で負けた。

 安土城を守っていた左馬助は急ぎ坂本城に戻って戦ったが、もはやこれまでと悟ると、岸とともに((死出|しで))の準備を始めた。

 

 負けた家がどうなるかは、十五郎も武士の子として学んでいた。子供心に覚悟したが、そなたは生きて明智のことを語り残すのですと、岸は言った。

 左馬助からは倶利伽羅江を持たされた。お父上はこの刀同様、そなたを大事にしていた。これを守り刀にして生き延びよと。

 

 その夜、坂本城は焼け落ちた。

 

 城にあった多くの名物は目録とともに羽柴方に引き渡されたが、倶利伽羅江だけは、左馬助が主光秀の大事な品なので死出の山で返すと言って、城と運命をともにした。

 羽柴方は焼け跡で倶利伽羅江を捜したが、ついぞ見つけられなかった。

 

 十五郎の最期も不明瞭で、遺体も墓も分からずじまい。

 

 焼けた名刀と明智家最後の嫡男の行方は、今も歴史の彼方に消えたままである。

 

END

 

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   ただ一人ではなく

 

 明智家の重臣たちは主君光秀から織田信長を討つことを伝えられたあと、光秀の従弟である((左馬助|さまのすけ))は一人だけ別に呼び出された。

 

「もし…わしになにかあったときは、((倶利伽羅|くりから))((江|ごう))を十五郎に渡してくれぬか。以前あの子に、竜がそなたを守ってくれると言ったのだ」

 

 朝倉家滅亡の際、御物奉行が落ち延びるときに持ち出した名刀を、光秀はひそかに入手していた。

 信長に対しても黙って持っていた物で、ある意味で光秀の人間臭さの象徴だった。

 

 六月二日、光秀は信長を討ったが、備中から神速で京に引き返した羽柴秀吉に山崎で敗北。

 安土城で留守を守っていた左馬助は坂本城に戻り、羽柴方と戦ったが、籠城戦も無理と悟った。

 

 そうなれば、やるべきことは限られる。

 妻の岸とともに光秀の嫡男十五郎に生き延びよと伝え、秘蔵の名刀を持たせた。たがいの頬の涙も乾かぬうちに、わずかな供をつけて城から逃がした。

 

「昔、我が父((光安|みつやす))は城に残って戦い、殿やわしを美濃から逃がしてくれた。あのときの父は…このような思いであったか……。十五郎が生き残れば、次がある」

「はい。弟が生き延びて明智を語り残せば、負けではありません」

 

 物語を語る。それは血を残すのとは、また別の生き残り方。

 左馬助は岸も逃がそうとしたが、「荒木のときとは違います」と断られた。

 

「ここでわたくしが逃げては示しがつきませぬ。あの世で母上にしかられますし……だし様に笑われます」

 

 荒木((村重|むらしげ))が信長に謀反を起こした際、嫡男の((村次|むらつぐ))に嫁いでいた岸は、そなたは生きよと言われて離縁され、明智家に戻った。

 最終的に荒木親子は毛利方へ逃げ、今も生きているが、一族郎党の最期は過酷だった。

 見せしめとして徹底的に処刑される中、村重の妻だしは、毅然とした態度で首を差し出したという。

 

「それにあの世へ行くなら、左馬助とともに行きたいのです」

 

 岸は左馬助に((再嫁|さいか))して((夫婦|めおと))となったが、かつては主君の娘とその家臣だった。

 昔の口調で気持ちを明確に伝える岸に、左馬助は照れ隠しをするように手を差し出す。岸はその手を取ると一緒に歩き、天守から人生最後の夜景を見た。

 

 岸が「月は船、星は白波、雲は海」とつぶやくと、左馬助が「いかに漕ぐらん、桂男はただ一人して」と引き継いだ。

 顔を見合わせると、岸は「わたくしたちは二人ですね」と微笑む。左馬助も「そうだな」と微笑み返し、たがいの手を強く握った。

 

 その夜、坂本城は焼け落ち、明智家は滅亡する。六月十四日のことであった。

 

END

 

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   奪い返す女

 

 十兵衛は目を開けた。屋敷の一室とおぼしき場所で、信長自ら茶を((点|た))てている。自分はそれを静かに待っている。

 二人で茶を飲んで暮らさないかと言われた。子供のころのように長く眠りたいと言われた。後者は叶えたが前者は叶えていない。

 笑顔で「さあ飲め」と茶が差し出された。十兵衛は素直に茶碗を手に取る。

 

 すると花びらが一枚、ふわりと茶の上に浮かぶ。十兵衛は思わず動きを止めた。

 

 なりませぬと声がした。これはあの世のものと。

 

 一枚の花びら。なにかを思い出す。花の精のような娘。自分は彼女にどんなことを言ったか。

 

「……十兵衛のお嫁におなり」

 

 瞬きをする。あったはずの茶がない。茶碗は割れ物。屋敷は廃墟。みずみずしいのは茶碗に残った花びらだけ。

 嗚呼ここはと十兵衛は悟り、茶碗を置く。

 

「そなたが生きるか死ぬかのとき、そなたの正室はお百度参りをしたそうだな」

「よくご存じで」

「さすが、神仏からそなたを奪い返した((女子|おなご))よ。ここにも来たか」

「わたくしを大事に想うてのことにございます」

 

 信長は「まあ良い」と楽しそうに笑う。

 

「かの者に免じて、今回は許そう。次こそわしの茶を飲め」

 

 あの世の茶を飲む。その意味。

 

「承知しました」

 

 信長は満足そうに微笑むと、十兵衛に向かって手を伸ばした。触れる寸前に灰となって崩れ去る。花びらの存在を埋もれさせるように、茶碗の中が灰で満ちた。

 それを見て笑みを浮かべながら、「((熙子|ひろこ))。それでも構わぬか」と顔を横に向ける。妻は生前の美しい姿のまま、そこにいた。

 

「十兵衛様の思うようになさればよろしいのです」

 

 そう言って微笑む妻の姿は、光に透けて消えていく。

 「さあ、目を閉じてください」と言われたので、目を閉じた。見えなくても気配を感じる。

 

「いつもどうやって起きました? それを思い出してください」

 

 起こされる前にいつも目が覚めた。急激に意識が浮上して、それから??。

 

 十兵衛は目を開けた。良かったと声がする。知った顔、知らぬ顔がある。見知らぬ者たちは無表情で、人ではないなにかに見られているかのよう。

 

 山崎で負けたあと、縁ある者たちに助けられ、どこかに導かれ、自分は今、この世とあの世の狭間のような場所にいる。

 熱でまだぼんやりした頭では、そう認識するだけで精一杯だった。

 

 小さく動いた十兵衛の手を見て、見知った顔の女性が「倒れる前にこれを握り締めたんですよ」と言う。

 見なくても十兵衛には分かった。それは熙子の((遺爪|いそう))が入った小さな容器だった。

 

END

 

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   祝いの名は

 

 男が今いるのは丹波の山奥にある里だというが、明らかにこの世ではないものを感じさせる場所だった。

 男が少しでも死の気配を出すと、馳走や菓子がどこからか湧く。珍しい芸を見せる。

 

 なぜここまで自分に良くするのか。たびたび里の者に聞いたが、対価はもらったと型通りの答えが返るのみ。

 

 この里に手引きしてくれた旅芸人一座の((頭|かしら))は、((村長|むらおさ))に砂金を渡していた。そのことかと聞くと、それはあの者の対価と言われたが、頭は男のために払ったと思っている。

 話がかみ合わないことに気づき、男は自分も対価を払ったのかと聞くと、そうだと言われた。

 

 そこでようやく思い至ったのは、一族郎党の命。

 負けたらどうなるか分かっていたのに、悪鬼に育ってしまった主を討つことを選んだ。それは成功したが、その後の戦いで負けた。

 

 自分が払った対価はそれなのかと聞くと、そうだと答えられた。命と引き換えにあなたを守り、死んでも付き従う者たちの願いと祈りだと。

 あなたと縁が強かった魂たちは、あなたの中に在ると言われた。特に((遺爪|いそう))の((主|ぬし))は、あなたが天寿を全うするまで、何度でもあの世から連れ戻すだろうと。

 

 多くの者から生を望まれ続けるのは、呪いか祝いか。

 それでも妻が自分の中に在ると言われ、安堵したのも事実。

 

「今日はなにを読んでおる」

 

 書物から顔を上げると、目の前には((月代|さかやき))姿の若い武士がいた。影はない。

 

「見つかったら追い返されますぞ」

 

 今は男の世話役で護衛役のような夫婦がそばにいないためか、武士は「今夜は集まる日だから大丈夫じゃ」と得意げに語る。里では定期的に集まりがあるので、その隙を狙ったらしかった。

 

「それに対価は払っておるし、多少は見逃してくれよう」

 

 男が「なにを払いましたか」と聞くと、武士は「((仮名|けみょう))だ」と軽快に答える。

 

「そなたの名はもう使えぬだろうから、わしの仮名をやると言ったら、見るだけなら良いと言われた」

 

 さらに会話もしているが、武士には関係ないらしかった。「だからこの里を出たら、そなたは三郎じゃ」と笑う。

 

「これで、茶を飲む約束を忘れぬであろう」

 

 名が対価になる意味の重さを、おそらく武士は分かっていない。先祖から受け継いだ名を与えるのは、彼が考える最高の祝い。それだけなのだ。

 武士が生きていたころ、男は彼の望みを知ろうともしなかった。それを今から一つずつ叶えるのは、けして悪いことではない。

 

 男が「三郎ですか。良いですな」と微笑むと、武士は「そうであろう」と破顔した。

 

END

 

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   肉を食べる

 

 丹波の山奥にある里にたどり着いた菊丸は、農作業する者たちに挨拶をしながら、とある家の扉を叩いた。

 若い夫婦が菊丸を家に招き入れたので、((背負子|しょいこ))を差し出す。中には手土産として、菓子や作物などが入っていた。

 続けて、奥から男が「久しいな。菊丸」と笑顔で出迎えた。

 

「お久しゅうございます。このへんの薬草を((採|と))りに参りました。またお世話になります」

 

 菊丸は主命で、定期的に男を見に来ていた。命の恩人が里で骨をうずめるも良し。

 しかし動くようであれば、こちらへ手引きせよと。

 

 敗残の将である男を助け出したのは、徳川家の忍びの菊丸だった。

 男を里にかくまう手はずを整えたのは京の旅芸人一座の((頭|かしら))、((伊呂波|いろは))((太夫|だゆう))。「あなた様に有り金を全部賭けたので、ここで死なれたら困るんですよ」と人脈を駆使した。

 

 里はいつ来ても豊か。口も堅く温厚な民は、時折石仏のように動かず、こちらを凝視することがあったが、菊丸は心得ていた。

 人であろうがなかろうが、山では山の掟に従うのが基本。

 

 男はこの里で体の傷を癒やした。起き上がれるようになったころ、一族郎党と城がどうなったかを知った。

 気力が抜けた状態になったものの、ただ世話をされるのは心苦しいと、そのうち里の仕事を手伝うようになった。今では医学や仏法を学んでいるという。

 

 男は夫婦に今日の((夕餉|ゆうげ))はなにかと聞いた。魚ですと答えられ、「先日、不思議な夢を見た」と菊丸に向かって喋り始める。

 

「山で奇妙な生き物に出会うた。鹿のような、鳥のような……だが((鵺|ぬえ))とも違う生き物だ」

 

 男はただ一点を見つめながら言う。

 

「それの体は燃えて苦しそうだったので、首を斬り落として楽にさせた。去ろうとしたら、その首が我を食えと喋った」

 

 なぜか菊丸の脳裏にもその光景が見えた。神々しく禍々しいそれは、なにか。

 

「前に、先祖が山の神を助けた話を思い出した。だからわしはこの生き物を知っている。これもわしを知っている。食べるのは当たり前だ。食べて受け継ぐことで、これはわしとともに生き続ける。だから肉を食べようとして……」

 

 菊丸は確かに見た。男がなにかの肉を切り、口の中に??。

 

「そこで目が覚めた。気づけば((昼餉|ひるげ))の匂いがしてな。その日は鹿の肉が入っていた」

 

 男の顔に生気が戻ったので、すかさず菊丸は「夢は釣られるものです」と笑った。

 

 夕餉の時間になり、菊丸は出された焼き魚を一口食べた。飲み込んだあとで、ふと思う。

 男がその日食べた肉は、本当に鹿の肉だったのか?

 

END

 

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   あなたの心は

 

 細川藤孝にとって覚悟とは、家を守ることだった。それが武家の次男として生まれた人間の人生のすべて。

 

 まだ幼名の万吉を名乗っていたころ、藤孝は和泉守護を代々務めた細川((刑部|ぎょうぶ))家に養子に入った。後継ぎがいないことによる断絶を防ぐためである。

 

 幼いときから学んだ武芸も文芸も、すべては家を守るために繋がる。なにかしら学び、さらに秀でれば、身に付けた教養が助かるきっかけとなる。

 家を守り抜けと魂に染みるほど叩き込まれた教えにそむくことは、己が己でなくなることを意味する。

 

 本能寺の変が起きたあと、藤孝は光秀には組せず、出家して家督を嫡男忠興に譲り、幽斎と号した。今は羽柴秀吉に従っている。そうして家を守っている。

 

「明智様なら、なんという((辞世|じせい))を残したかのう」

 

 茶の席での二人きりの会話なので、秀吉は昔のように明智様と言う。小さな秘密の共有。

 秀吉はかつての主、織田信長の享年と同い年になったためか、辞世が頭をよぎるらしかった。誰それはなんという辞世を残したかと、ひそかに聞いて回っているという。

 光秀の辞世は分かっていない。

 

「さて、風を思わせるような句を((詠|よ))まれる方でしたが……」

 

 山崎の戦いで秀吉に負けた光秀は、坂本城へ落ち延びる途中、小栗栖の竹藪で落ち武者狩りに遭った。光秀は自刃。家臣に預けたという首は見つかり、秀吉が直接検分した。

 繋ぎ合わせられた首と胴体は粟田口刑場で磔にされたが、首の状態が悪かったこともあり、実はどこかで光秀は生きているという噂が、民の間でささやかれている。

 

 しかし光秀の死は確定された。以後本人と名乗る人間が出ても、天下を惑わす罪人として処分される。

 秀吉は情報を操作し、うまくやったと幽斎は思っていた。

 

「明智様の心の内は、誰にも分からぬということか」

 

 信長の首を見つけられなかったことで、光秀の天下人としての優位性は大きく揺らいだ。

 武士であるなら、首の大事さは分かっているはず。彼はそれでも良しとした。

 

 覚悟には果てがござらぬと光秀が言ったとき、信長を討つことを幽斎は直感で分かった。

 

 だが彼の覚悟とは、本当はなんだったのか。兄((藤英|ふじひで))が室町幕府に殉じたように、彼はなにに殉じたのか。

 

 幽斎は「もしあの方が詠むとすれば」と一呼吸置いたあと、「心しらぬ、人は何とも言はばいへ、身をも惜まじ、名をも惜まじ」と詠んだ。

 秀吉も「心しらぬ……」と繰り返すようにつぶやき、瞳を揺らし、それから笑う。

 

「あの方が詠みそうな歌じゃて」

 

END

 

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   あなたの名は

 

 乾燥させた薬草を選別する作業をしながら、男は里をそろそろ出ようと思うと菊丸に伝えた。((村長|むらおさ))にはもう伝えたと言う。

 丹波の山奥の隠れ里で心身ともに休めていた男が動き始めるなら、自分の主たる徳川家康の((許|もと))へ手引きするのが菊丸の役目。

 

 かといって強引に誘えば、今までの信用を失う。まずは自由にさせようと思った。裁量は任されている。

 

「里を出たら、どこへ参りますか」

「そうだな……。まずは、家族の様子を遠目から見ようと思う」

「名はどうなされます」

 

 男の名は謀反人として知れ渡っているので使えない。((仮名|けみょう))はよくある名だが、使わないほうが無難。

 特に考えるふうでもなく、男は「三郎にする」と言った。

 その名は男が討った主の仮名。菊丸は引っ掛かりを覚えたが、決めたのなら従うのみ。

 

 しかし表情ににじみ出たのか、男は菊丸の顔を見て微笑んだ。

 

「前に、ある御方が譲ってくれたのだ。茶を飲む約束を忘れぬように、わしの名をくれてやると」

「さようで……」

 

 不思議な話だが、そもそもこの里がこの世にあると言い切れないので、奇妙な説得力がある。

 

 家康から、男は主からひどい扱いを受けたと聞いたが、本人の口から出る言葉はそうでもない。

 たとえ疑問だとしても、それを追求するのは、菊丸の立場からすれば出過ぎている。

 

 悶々としていると、視界の隅でなにかが小さくはじけた。最初は虫かと思ったが、そこには午後の西日に透けた、((月代|さかやき))姿の若い武士がいた。男の隣で乾燥させた薬草を指ではじき、男に向かってなにか話しかけている。

 菊丸はその姿に見覚えがあったので、息をのんだ。

 

 その奥では、男を世話する夫婦の片割れが石仏のように動かず、武士を凝視している。武士は悪戯を見つけられた子供のような顔をして、男に何事か言ってから消えた。

 それまで無表情だった夫婦の片割れは、菊丸のほうに視線を転じると口元に小さな笑みを作り、雑務を再開した。

 

 神秘的な里に出入りするようになり、とうとうその手のものが見えるようになったのか。菊丸は軽く混乱した。

 男が「どうした」とたずねる。返答に困った菊丸の姿を見て、男は「見えたのか」と楽しそうに聞いた。

 菊丸は戸惑いつつ、「はい。若い武士のお姿を見ました」と素直に答える。

 

「たまに来るのだ。そのたびに追い返される」

 

 嗚呼、やはり余人には分からぬ関係であり、この里はこの世とあの世の狭間にあるのだ。

 菊丸はそれ以上考えないようにして、薬草を選別する手伝いを再開した。

 

END

 

-12ページ-

   神代の作法

 

 山崎の戦いで謀反人明智光秀を打ち破った羽柴秀吉は、織田家の後継者を決める清須会議、柴田勝家と対峙した((賤ヶ岳|しずがたけ))の戦い、徳川家康と対峙した小牧・長久手の戦いに次々と勝利。織田家の実権を握った。

 今や主家を凌駕し、さらに五摂家の((近衛|このえ))((前久|さきひさ))の((猶子|ゆうし))となって関白に就いた。

 

「羽柴様は、次は九州を征伐されるとか」

 

 今日は医師の望月東庵が来る日で、帝は双六に興じていた。さまざまなことを遠慮なく語らいながら遊ぶのは、心が潤う。

 

「木から木へ、軽やかに飛び移る者よのう」

「明智様が丹波の山奥で生きておられる噂は、歯牙にもかけぬということでございましょう」

 

 山崎で敗れた光秀は坂本城へ落ち延びる際、小栗栖の竹藪で落ち武者狩りに遭遇。最期を悟った光秀は自刃。隠された首は発見され、胴体と繋ぎ合わせられ、粟田口刑場で磔にされた。

 だというのに、首は腐敗していた、検分が甘かったと民はささやいた。首は影武者のものという噂が根強い。

 

「いるのは隠れ里やもしれぬぞ」

 

 東庵は小さく笑うと、賽が入っている振り筒を振った。

 

「それは、見つけるのが難しい場所でございますな」

 

 帝が小さいころに聞いた隠れ里への行き方はさまざまだが、いずこの里も、この世にあまねく光を照らす帝となり、((神代|かみよ))から続く作法を守るなら、隠れ里にも難なく行けましょうと言われた。

 

 はたして万葉の歌を理解する鳥は、どこへ飛び立ったのか。

 本当にあの世か、この世か、その狭間か。自分が心を寄せた鳥となれば、隠れ里に行っても身の安全は確約されるのか。それはすべて分からぬこと。

 

 武士とはいつもそうなのだ。時に荒々しく、時に美しく、ささやかな思い出を残し、籠の外を自由に飛んで去って行く。

 

「外の者が里の作法を知らぬ限り、見つかることはなかろう」

 

 賽の目に従って動かした石を確認する振りをしながら、東庵はひそやかな願いを匂わせる言葉を聞き流した。

 

 帝は((御簾|みす))が上げられた庭を見る。今、籠の外を世話しなく飛び回っているのは秀吉。

 帝には、秀吉が本姓を藤原から豊臣に改めたいことを願い出ている上奏がされていた。新しい((朝臣|あそん))として豊臣を認めれば、秀吉こそ天下を動かす実力者と朝廷がみなすも同然。

 朝廷に良くしてくれている秀吉は、((誠仁親王|さねひとしんのう))への譲位に対しても、積極的な姿勢を見せている。ここは褒美の一手を打つべきとき。

 

「秀吉はどこまで作法を知る者かのう」

 

 今度は帝が振り筒を振り、賽を出す。出た賽の目を確認すると、石を動かした。

 

END

 

-13ページ-

   月の顔立ち

 

「先日は上様がいらして、ずいぶんと取り乱したとか」

 

 ある晩、老いた豊臣秀吉の枕元に天正((裃|かみしも))姿の武士が座り、そうささやいてきた。

 なにかに悩んでいるとき、なぜか夢に出てくる人。主君織田信長に謀反を起こし、秀吉が仇討ちした明智十兵衛光秀。

 

 秀吉は若いころと変わらぬ速さで、「明智様」と跳ね起きた。

 

「夢枕に上様が立たれて、頃合いじゃからわしの((許|もと))へ参れ、わしの((倅|せがれ))どもの有様が不憫じゃと申すのです」

「そうと決めたら譲らぬ御方だと存じておろう」

「わしはもう少し生きとうございます」

 

 光秀は「さようか」と思案すると、「ではこれをかけなされ」と月の((小面|こおもて))を秀吉の顔にかけた。

 

「あとはそなたの口でなんとかなろう」

 

 秀吉は面打ちの名人たる石川((竜右衛門|たつえもん))が打った雪、月、花の三つの小面をこよなく愛した。小面は女面の中で、もっとも若い女性の((面|おもて))のこと。

 月の小面を初めて見たとき、秀吉はどこか気になる部分があったが??。

 

「どうした十兵衛。なぜそなたがここにおる」

 

 いつのまにか目の前には信長がいた。秀吉は顔をさわる。自分の顔ではない。嗚呼と秀吉は悟った。この面は光秀と似ていたのだ。

 

 しかし物思いにふける余裕はなく、とっさに「藤吉郎をしかっていたのです」と言った。

 あの世に行くにしても、もう少しこの世で徳を積んだほうが良い、寺社への寄進はもちろん、造営と再建もまだまだ等々、光秀の顔で流れるように喋る。

 

 これで騙されるのかと思ったら、信長は「十兵衛が申すならそのとおりじゃ」と納得した。そして秀吉の顔を間近で見つめてから鼻で笑い、「では待つとしよう」と消えた。

 

 秀吉は安堵のため息をつく。「これで生きている間は来ぬであろう」と光秀に面を外された。顔をさわると元に戻っている。

 上目づかいで「これは…あとで大変なことになりませぬか?」と聞いてみた。

 

「あの様子なら大丈夫であろう。それに、この面を気に入ったようだ。あとで取りに来るやもしれぬ」

 

 引っかかる答え方だったが、秀吉は「さすが明智様。上様のことをよくご存知ですなぁ」と持ち上げて流した。

 光秀は「あまりこの世に手出しされても困るゆえな」と口元に笑みをたたえ、「これは貸しにしておく」といつぞやと同じことを言い、そこで夢は終わった。

 

 以来、信長は夢枕に立たなくなった。

 

 のちに月の小面は、我が子秀頼を頼むという意味を込めて、徳川家康に贈られた。その後、明暦の大火で失われたとも言われ、行方は分からぬままである。

 

END

 

-14ページ-

   月の微笑

 

 豊臣秀吉は面打ちの名人、石川((竜右衛門|たつえもん))が打った三つの((小面|こおもて))をこの上なく愛し、雪、月、花と名付けたという。

 のちに雪の小面は秀吉の能の師たる((金春|こんぱる))((大夫|だゆう))に、花の小面は名人の((金剛|こんごう))((大夫|だゆう))に贈られた。

 

 月の小面はというと、徳川家康に贈られた。それには我が子秀頼を頼むという意味が込められているのを、家康はよく分かっていた。

 贈られる際、家康は秀吉から不思議な話を聞いた。

 

「月のは見る者によって、どこか((男子|おのこ))を思わせるようでのう」

「味わい深い((面|おもて))でございますな」

 

 秀吉は「詳しくは言えぬが」と急に声を落とすと、「信長公を追い払える面ぞ」と今度は子供のように大声で笑う。

 

「おそらく信長公が気に入る面じゃ。あとで取りに来るやもしれぬが、失われるのは惜しい。京から遠ざければ大丈夫であろう」

 

 要領を得ない話だったが、家康は「では取られぬように気をつけましょう」と話を合わせる。

 「使うときは気をつけよ。顔に張り付くぞ」と秀吉は高笑いした。

 

 家康は月の小面を持ち帰ったあと、じっくり見た。あくまで美しい最上級の道具であり、命を吹き込むのは役者。さすが竜右衛門と心の中で称賛する。

 

 ((近習|きんじゅ))が「天海様がお越しです」と言ったので、招き入れた。

 天海は参謀として家康に仕える天台宗の老僧だった。年上の僧はさまざまなことに造詣が深く、家康は彼を強く信頼していた。

 

 贈られた面についてかいつまんで話し、天海に見せる。二人きりなので「使うと顔に張り付くと申しました」と、家康は自分が相手より下であるような喋り方をした。

 天海はなんのためらいもなく面を顔に当て、家康のほうに向き、それから((外|はず))す。

 

「張り付くことはありませんが…使うのはお勧めいたしませぬ」

 

 微笑が面のそれと似ていたので、嗚呼と家康は気づいた。

 この面が誰を思い出させるのか。信長が気に入るかもという推測。秀吉の失うのは惜しいという思い。人の心の複雑さ。

 

 家康も返された面を顔に当ててみた。小さく息をのむ。

 笑顔の若い武士が面を通し、こちらを見ていた。天海になにか話しかけている。

 

 生前にうつけと呼ばれたことのある武士は、面とともに来たのか。すでにいたのか。

 

 面を外すと武士はいなかった。家康は「なるほど」とつぶやくと、慎重な手つきで箱にしまう。

 

「信長公は信長公なりに、礼節をわきまえていた御方。これを無理に取らないでしょうが……使うのはよしましょう」

 

 天海は「それがよろしゅうございます」と、月の小面と同じ笑みを浮かべた。

 

END

 

-15ページ-

   麒麟を連れてくる者

 

 徳川家康、秀忠と二代に渡って仕える天台宗の老僧天海には、友と呼べる不可思議な存在がいた。

 生前、うつけと呼ばれたことがある若い武士は、「そなたを近々驚かせる。楽しみにしておれ」と言って消えたが、彼は気の向くままに行動する。好きなときに現れては消えるので、いつものことだった。

 

 そのころ、秀忠の正室((江|ごう))が産み月を迎えた。

 二人の間には女子が続いていたため、次もそうなのではという空気が漂っていたが、待望の嫡男が誕生し、徳川家は沸き立った。

 

 しばらくしてから、天海は嫡男の顔を見る機会を得た。その小さな体に宿る魂を見て、思わず笑みが浮かぶ。

 

「おや。現世に来られましたか」

 

 老僧のつぶやきを((乳母|めのと))は不思議に思ったが、腕の中にいる赤子が天海に向かって手を伸ばしたので、すぐにそちらの動きに気を取られた。

 天海が手を差し出すと赤子は指をつかみ、満面の笑みで喜んだ。

 

 だが手が離れると、今度は火がついたように泣き始めた。乳母があやしても泣き止まないので、天海が「抱きましょうか」と助け船を出す。

 乳母は迷ったが、赤子が老僧を強く求めているように見えたので、「お願いいたします」と委ねた。

 

 すると、それまでの大泣きが嘘のように、ぴたりと泣き止んだ。

 

「ご心配なさらずとも、今度はずっとそばにおりますよ」

 

 赤子は言葉にならぬ声を発しながら、天海の腕の中で笑顔を見せる。

 

「ですから今は、ゆっくりお眠りなさい」

 

 まるで言葉が通じたかのように、赤子は穏やかに眠り始めた。乳母が驚きの表情で老僧を見ていると、「もう大丈夫でしょう」と赤子を返される。

 天海は赤子の寝顔を見て微笑むと、眠りを邪魔しないよう、「ではお福殿、あとを頼みます」と小声で言い、静かに去って行った。

 

 乳母の名は福。秀忠の嫡男が生まれると乳母募集の((高札|こうさつ))が出て、関ヶ原の戦いで活躍した稲葉((正成|まさなり))の継室だった福は応募。見事選ばれた。

 父は本能寺の変を起こした明智光秀の家臣斎藤((利三|としみつ))だが、幼少時に亡くなったので顔はうろ覚え。光秀にいたっては顔すら知らない。

 

 これより彼女は大奥で権勢を振るい、春日局の称号を朝廷から((下賜|かし))されることになる。

 

「竹千代様。天海様をお気に召しましたか?」

 

 そして赤子は成長すると両親との仲が複雑になり、同母弟と争うことになるが、大僧正となった天海と春日局を始めとした優秀な家臣団に支えられ、二百年を超える徳川の世の基礎を築く将軍となる。

 赤子の幼名は竹千代、のちの徳川家光である。

 

END

 

-16ページ-

   仁なる者

 

 外の世界に興味を持ち始めた幼い栄一は、ある日こっそり、町に行く両親のあとをついて行った。途中、鳥や虫の音に気を取られてしまい、両親の姿を見失った。

 ちょうど道が分かれていて、どちらを行っていいのか分からなくなった栄一は、直感で行くことにした。

 

 そしてまた鳥の音に魅了され、誰かの畑を通り抜けてどこかの林へ。初めて来る場所だったので、さっそく探検を始めた。

 その林の中にある影は普通の影と違い、墨のように黒いものがあった。強く興味を惹かれ、魅入られたように手を伸ばし??。

 

「それに触れるな」

 

 鋭い声がしたので、栄一は思わず手を引っ込めた。次いで、「そろそろ日も傾いてきた。早く家に帰りなさい」とさとされる。

 声がしたほうを見ると、黒い((十徳|じっとく))を羽織った人がいた。

 

 そこで初めて、ここは知らない場所で自分は迷ったと察する。栄一の顔色が変わったのを見て、武士は「道に迷うたのか」と聞いてきた。

 

「父上と母上が町に行くと言って…」

 

 口ごもると武士は「家はどこだ」と問う。栄一はすぐに「((血洗島|ちあらいじま))です」と答えた。

 

「ではそこまで送ろう」

 

 武士が手を差し伸べると、栄一は恐る恐るその手を取った。少なくともこの人の十徳の黒は柔らかく、安心できると。

 

 武士は血洗島はどういう所かと話を振り、栄一がそれに答える。武士は優しくうなずき、さらに話をうながす。

 大人が自分の話を静かに聞いてくれるのが嬉しくなり、栄一はいろいろなことを楽し気に喋った。

 

「血洗島は良い村なのだな」

 

 自分の村を褒められたので、栄一は「はい!」と元気に返事をする。それからようやく栄一ははたと気づき、なぜここにいるのかと武士に聞いた。

 

「一目、水戸のご子息を見ようと思うたのだ」

 

 その時、「栄一!」と母ゑいの声がした。栄一はとっさに武士の手を離し、「母上!」と駆け寄ると、母に抱き締められる。

 それから武士の存在を思い出し、ゑいの腕の中で振り返るが、そこには誰もいなかった。

 

 その後は家族のみんなが来て、栄一は叩かれたり抱き締められたりした。

 誰かに手を引かれて帰って来たことを喋ると、お蚕様が守ってくださったと口々に言われる。

 

 だが振り返ったとき、栄一は一瞬だけ見た。厚い雲が太陽の光を隠す寸前、大きな角を持った鹿のような、大きな羽を持った鳥のような、だが人のような、そんな輪郭が。

 

 しかし皆がお蚕様と言うなら、おそらくそうなのだ。これからはお蚕様の世話をちゃんとしようと、栄一は幼心に決めた。

 

END

 

-17ページ-

   後書き

 

話が通じる相手:美濃学友組の小話。光秀はゴシップネタを知っていてもまったく気にしなさそうなので、義龍にとっては付き合いやすい相手だったんだろうなと思って。

 

西に狩して麟を((獲|え))られず:信長の小話。池の化け物が実は麒麟だったら面白いなと思って。

 

新しい干し柿:織田夫婦の小話。光秀強火担なこの二人、こういうことが1回や2回や3回くらいはあったと思って。

 

欠けているもの:信長の小話。最期の笑みのような表情に対する一つの解釈。

 

君はいずこ:十五郎の小話。光秀がああいうラストシーンなら、十五郎とあの刀剣もこうだといいなと思って。

 

ただ一人ではなく:((左馬助|さまのすけ))と岸の小話。坂本城の天守から始まりを見たのが光秀と((熙子|ひろこ))なら、終わりを見たのは左馬助と岸だと思って。

 

奪い返す女:光秀の小話。あの信長相手に呼び戻せるのは熙子だけだと思って。

 

祝いの名は:最終回の謎の男の小話。彼は便宜上、なんと名乗るか。((仮名|けみょう))は通称のことです。

 

肉を食べる:菊丸の小話。オープニングのタイトルバックが山崎の戦いからの生存ルートと解釈した場合。

 

あなたの心は:藤孝(幽斎)の小話。創作といわれる例の辞世を((詠|よ))んだのが藤孝で、それが後世になんらかの形で伝わっていたら面白いなと思って。

 

あなたの名は:最終回の謎の男の小話。彼は駒に十兵衛と呼ばれて、なぜ振り向かなかったのか。

 

((神代|かみよ))の作法:((正親町|おおぎまち))天皇の小話。秀吉に対しても雅な正親町ムーブをかましそう。

 

月の顔立ち:秀吉の小話。信長が夢枕に立ったという逸話と月の((小面|こおもて))の組み合わせ。きりくる時空での月の小面は、月なんだからなにかあるだろうという幻覚その1。

 

月の微笑:家康の小話。きりくる時空での月の小面は、月なんだからなにかあるだろうという幻覚その2。

 

麒麟を連れてくる者:幽霊が出てくる小話が何本かあったことにようやく気づいたので、オチをつけました。

 

仁なる者:『青天を((衝|つ))け』の主人公栄一の小話。「栄一がまあたいなくなったんだに」のまたは、少し不思議な時もあったんだろうなって。

説明
ツイッターに投稿したきりくるの二次創作作品を加筆修正してまとめた掌編集です。信長、最終回の謎の男が2本ずつ。美濃学友組、織田夫婦、十五郎、左馬助と岸、光秀、菊丸、幽斎、正親町天皇、秀吉、家康、天海、青天の栄一が1本ずつ。ネタバレと捏造だらけなのでお気をつけて。前作→http://www.tinami.com/view/1053869 次作→http://www.tinami.com/view/1064422
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