唐柿に付いた虫 30 |
男は、唐突に感じた悪寒に身を震わせた。
背筋を氷らせる、この圧倒的な魔の気配は、あの玉藻の前の使い尾裂妖狐にすら匹敵。
……いや、こいつはそれ以上の。
しかも、どうやってこの式姫の庭の強大無比な結界を破ったのか知らぬが、既に中に入り込まれている。
しかし妙な……いかな大妖怪であっても、この庭の結界なら、たとえ破られるにせよ、かなりの反発と抵抗がある筈なのだが。
とはいえ、考えている時間は無い。男は無言で刀掛けに駆け寄り、黒漆の中に、紫闇の色が覗く美しい鞘に納められた蜥蜴丸の神体を帯に落とし差しにしてから縁側に戻り、鋭い眼光を周囲に走らせた。
その途中、盃を傍らに置き、表情を硬くしている白まんじゅうの顔がちらりと見える。
こいつも気が付いたか、やはりただの可愛い饅頭じゃねぇな。
「野暮な来客のせいで、楽しい宴会もお開きだ、悪いがどっかに隠れていてくれ」
そう言いながら、白まんじゅうを持ちあげようとする、その男の指がきゅっと握られた。
「どうした?」
こちらを見る真剣な目、指をぎゅっと掴む力に、痛い程の気持ちが籠もっている。
「わたしはいいの……それより、はやくにげて」
逃げろ、か。
その切迫した眼光と物言いは、この妖気から感じる絶大な力を察知して、というだけではないように感じた。
まるでそう、この白まんじゅう自身が、こちらに迫る存在を良く知っているが故……。
白まんじゅうの様子を見た男の脳裏にそんな考えがよぎる、だが、いずれにせよ、その辺りを問いただしている余裕は無さそうだ。
「ありがとよ、けどな、可愛い客を放り出して主が逃げる訳にもいかねぇだろ」
「だめ!」
良いから隠れてろ!
小さくそう口にして、男は蚊帳の中に敷いてあった布団の上に白まんじゅうを置き、刀の提げ緒を取って襷に回した。
「一先ず良し、蜥蜴丸、行けるか?」
(無論です。しかし途方も無い力ですね、私の力を使っても凌ぎきれるか……)
憑神。
かつての戦で大怪我を負ってからこちら、式姫としての姿を常時取れる程には回復していない蜥蜴丸だが、主人と認めた彼に自分の力を宿して、式姫に迫る程度の力を貸し与える事は出来る、それが憑神の術。
だが、この妖気の主が相手では、憑神の術以前に、自分が式姫として万全の力を振るっていた時代だったとしても、勝てるかどうか……。
「並みの相手じゃないのは俺でも判る……皆が来てくれるまで持たせられりゃ良い、頼む」
(承知)
蜥蜴丸の返答と同時に、彼女の持つ力と技、そしてその研ぎ澄まされた感覚が男に宿る。
その感覚が、教えてくれる。
相手の気配が、こちらを押し包むように、迷いなく近寄ってきている。
狙いは、この庭の破壊とかでは無く、俺か。
盾になるとも思えないが、多少は気休めになるだろう、柱に半身を隠すように立ち、男は気配が迫る方に視線を向けた。
穏やかな夜の景色の中、蒼白な影が月の光を朧に纏ってこちらに歩んでくる。
長い銀髪と、白い異国の着物を纏った美女、そして、その後ろに従っているのは。
「おやおや、旦那じゃないですか、夜中急のご来訪とは、昼の私の不躾への意趣返しですか?」
しかし異国の美人を連れての夜の散歩とは、何とも風流な事ですな。
「いやいや滅相な、そのような気は無いのですが、我が主が、是非ともその他の栽培方法とやらで育てた唐柿が見たいと仰せになりましたので」
こうしてお連れしました、曲げてご勘弁を。
主ってぇのは、隣の、化け物じみた妖気を纏った別嬪さんか。
特に口を挟む事もせず、俺と旦那の不誠実極まるやり取りを、面白そうな顔で眺めている様を見る限りでは、それほど危険にも見えないが……。
何にせよ、話に乗ってくれたのは正直ありがたい、式姫達が来るまでの時間稼ぎになれば……。
「一日二日で、目に見えて成果が上がる訳も無いでしょうに、どうです、後日旨い酒肴を用意して一席設けますんで、日を改めちゃ頂けませんかね」
「まぁまぁ、そう仰らずに、育て方位は見せて頂けるでしょう?」
昼に彼の屋敷で繰り広げたような、腹を探り合うようなやり取り。
言葉の選び方、眼光、それらを見る限り、榎の旦那、少なくとも操られてはいねぇようだな。
という事は、自発的に、この妖怪に従ってるって事か。
「それはまぁ置いときましょうか、それにしても不思議の事ですな。 これでも戸締りはしっかりした筈ですが、どうやってこの庭に入れたのやら……少々礼儀を失しちゃいませんかね?」
その男の言葉に、傍らで面白そうな顔をしていた美女が変わって口を開いた。
「まぁ、それは貴方が一番知りたい事よね」
後学の為になるかは、微妙だけどね。
その時男は、彼女が口にした内容より、その声音に妙な違和感を感じた。
その声の質、抑揚、響き……そういう部分が。
おかしいな、俺は確かに、この声の感じを知ってる。
古い記憶では無い、ごく最近の。
……余計な事を考えるな、今大事なのは内容だ、話をしていられる間は、なるべく時間を。
ふと湧き出した想念をむりやり隅に追いやり、男は目の前の二人との会話に精神を集中した。
「そこの旦那なら兎も角、別嬪のお嬢さんが秘密にしたいって内容なら、聞かずに置いてやっても良いぜ」
男の言葉に、真祖はくすくす笑ってから肩にぱらりと掛かっていた長い髪を手で払いながら顔を向けた。
「やっぱり面白い人ね、こんな状況でなかったなら、仲間に誘いたい位だけど」
言葉を切って、彼女は僅かに嫌味そうな視線を周囲に漂わせてから、刀を手にした男に戻した。
「ここは本当に凄まじい結界よね、天柱樹を中心に貴方と式姫の力によって、神域たる『式姫の庭』が形成されているわ。確かにこれなら、如何なる大妖 ーたとえば私ー でも、本来なら立ち入る事はまず無理ね」
ここは安全だと、自信を持つだけはあるわ。
「お誉めに与り恐縮だ、尤もそいつは、踏み込んできた当のご本人に言われたんで無けりゃぁ……だが」
男の言葉に、彼女は皮肉そうな笑みを浮かべた。
「だって、私たちはこの館の当主たる貴方直々にお招きを頂いたお客ですもの」
それは勿論、入れて当り前じゃない?
「客だと?しかも、俺が……招いた」
そう呟いた男が、何かに思い当たり強張った顔を榎の旦那に向けた。
「……なるほど、唐柿の視察に来たいってのはそういう事かい」
してやられたと言わんばかりの、男の忌々し気な言葉に、榎の旦那は無言でニヤリと笑って見せたが、彼にしてみると、この来訪の約束は完全に偶然の産物でしかない。
とはいえ、それを真祖の望みを叩き潰してくれた憎い敵に伝えてやる義理は無い、せいぜい敗北感を味わってくれれば、多少はこちらの気が紛れるという物。
「やれやれだ、口約束はするもんじゃねぇな、まったく」
「手締めは契約の証ですので、口約束という事はございませんな」
横からご丁寧に訂正して来た榎の旦那に、不穏な視線をくれる。
「なるほど、合意の証と言われりゃ確かにな……商売で食ってる方はしっかりしてらっしゃるぜ」
だが、そうぼやきながらも、一連のやり取りが意味する事には、男にも思い当たる事があった。
(妾達は育ちが良いでな、招待状を貰わぬ限り不躾に押しかけたりはせぬのさ)
自分で口にした出来の悪い冗談に低く笑って、吸血姫は言葉を継いだ。
(生者の結界たる『家』には、死者は立ち入れぬもの。もし入ろうと願うなら、その家の者の許しを得るしかない、それが不死者の守るべき礼という奴なんじゃろうな)
故にまぁ、お手の物に見えるかもしれぬが、実は妾達は見知らぬ家に踏み込むような強盗家業には向かんのじゃよ、ただ、逆に一度招待されてしまえば、そやつとの縁が道となり、如何なる術や守りでも妾を阻む事は出来んがの。
「しかしまぁ、招待状一枚握って二人で押しかけるたぁ、意外に厚かましいんだな、高貴なる吸血姫(どらきゅりあ)の親類さんにしちゃ」
さりげない男の言葉に、女性の顔が僅かに強張る。
「……そう、やはり吸血姫は貴方に協力しているのね」
暗に肯定した彼女の顔を見て、男は自分の推測が正しかった事を確信した。
とはいえ、吸血姫の親類筋という事は、手強い相手である事の再確認でしかない、男は内心ため息を吐きながら、平静な顔を相手に返した。
「ありがてぇ話でな、何かと世話になってるよ」
「ふふ、まぁ、貴方みたいな人は、ドラちゃんの好みでしょうからね」
そして、今こちらに迫っている式姫達もそうなのだろう。
彼女の妖気を察知しているだろうに、彼女たちはどよめきの声を上げたり、明かりを灯したり右往左往したりしない、ただ静かに各々がその源たる彼女を目指してこちらに駆けて来る気配だけをひしひしと感じる。
「さてと、もう少しお喋りを楽しみたい所だけど……そろそろ本題に入らせて貰おうかな」
真祖はそう呟きながら、胸元で煌めいていた首飾りを手にした。
「流石の私も、この結界内で、あれだけの数の式姫を相手に一戦交える程には、自分を恃んではいないからね」
「何?」
彼女は、銀のような光沢を放つ金属の首飾りを掴んだ手を、高く掲げた。
「この鍵により、時の扉を開く」
時の封土より、永劫と無窮の支配する地への道を繋ぐ。
山という異界との接点に、境界を司る呪具と符を埋め込んだ屋敷を使いって開くあの道を、自分の力だけで解放する。
それは、いかに彼女といえど、容易な事ではないが。
「彼方と此方を繋ぎ」
今は、やるしかない。
彼女の言葉と共に、男の起居する離れが軋む。
いや、これは違う。
軋んでいるのは、この辺り一角その物か。
「何をする気か知らんが……させん!」
縁側の床が乾いた音を上げた。
強い踏み込みから、一息に間合いを詰め、抜き打ちの一撃が彼女を襲う。
蜥蜴丸の力を借りてなされた、神速の一撃。
並の、いや、かなり強力な妖といえど、一刀の下に切り伏せる必殺の一撃。
甲高く耳障りな金属音が夜気を劈く。
「……何だと」
胴を狙った一撃が、何時抜き放ったとも知れぬ細身の剣に防がれていた。
技巧の限りを使って受け流すとかそういう物では無い、蜥蜴丸の力を借りて放った無双の剛撃を、それを上回る力で、真っ向から受け止められた。
「難しい術を使っているの、邪魔しないでくれる?」
下手をすると、この式姫の庭さら、どことも知れない異界の狭間に落ちちゃうかも知れないわ。
他人事のように物騒な事を呟いてから、真祖は首飾りを掲げた右手の人差し指で、何かの印を空中に描いた。
彼女を中心に世界が揺らぐ。
「貴方、ご無事ですか!」
鈴鹿御前の切迫した声が、途中から揺らぎ、遠くなる。
男が向けた視線の先、こちらに駆けよってくる式姫達の姿が、まるで薄絹の帳一枚隔てた光景のように、ぼやけ、次第に歪む。
これは……一体。
「此の地を、彼の地へと至らしめん」
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式姫の庭の二次創作小説になります。 「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。 |
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コメント | ||
>>OPAMさん ありがとうございます、お互い意図していないのに呪術が成立していた、みたいな展開が好きで、吸血鬼の伝承と合わせて使ってみました。 全て回収できるかは謎ですが、あんまり説明的にはならないようにクライマックスに向かっていきたいと思います。(野良) 前回以上の驚きの(そして危機的な)展開なのに、前回同様に違和感や突拍子もないという感じは無く、庭という場所へ全ての要素が収束して自然にあるべき場所へ登場人物たちが向かっているような印象を受けました。これまでに描かれていた榎の旦那との会談や手締めも伏線として綺麗にきまっていて上手いと感心させられました。(OPAM) |
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