きりくるまとめ3
[全17ページ]
-1ページ-

   兄と弟

 

 国衆の明智家と農民との関係は良好で、敬意を払える存在から長男十兵衛の遊び相手に選ばれたことは、藤田((伝吾|でんご))にとって誇らしかった。

 ((光綱|みつつな))と牧の夫婦は、長男と年が近い子たちを遊ばせ、相性がいい者をより近くに置こうと考えているようだった。

 

 伝吾は実際に長男の相手をすると、普通の子と違うことが分かった。

 一度興味を持つと、とにかく動く。黙って観察を続ける。物を解体する。何事も正直に言い過ぎる。結果的にいらぬ面倒を起こす。

 そのたびに伝吾は間に割って入ったり、すばやく明智家に行き、事態を収拾してもらった。

 

 そうやって少しずつ世の仕組みを学んだ十兵衛は、伝吾を兄のごとく信頼するようになった。

 

「そなたがそばにいると、世のことがなんとなく分かる。いわゆる…心の機微だな」

 

 聡い子は自分の中でなにかが欠けていることを、無意識で理解していた。

 そのころには光綱は病死。年端もいかぬ十兵衛に代わり、家は光綱の弟((光安|みつやす))が継いだ。その叔父は将来の後継ぎとして、甥を我が子同様に愛した。

 

 まっすぐ過ぎる部分はそのままだが、周囲の理解と教育のお蔭ですこやかに成長した十兵衛も、いつかは実戦に出る。

 乱世である以上、誰かがなにかを奪い、殺すのは日常。

 

 十兵衛の場合は野盗退治だった。複数を相手にして苦戦する伝吾を助けるため、初めて剣を振るった。

 状況が不利と判断した野盗集団は去り、さすが明智の若様と皆から褒められ、喜びを分かち合ったが、一人きりになったときの十兵衛の手は震えていた。

 

 見た相手が伝吾だったからか、十兵衛は隠すことなく、「あとから震えが来た」と素直に言う。

 伝吾が「最初は誰もがそうです」と返すと、十兵衛は「そうなのか」と驚いた。

 

 それから、「そなたが助かって良かった」とつぶやく。

 

「人を斬れるか心配だったが……失いたくないと思ったら、できるものだな」

 

 生き残るためでも、殺す行為は心に負担をかける。それを軽くするには、土地と家族を守るという理由が一番分かりやすい。

 事前に教わったものが功を奏したと分かり、伝吾は柔らかな眼差しで十兵衛を見た。

 

 手のかかる弟のように見守り続けた身分違いの子は、自分のために初めて命を奪うことで、とうとう乱世に踏み入れた。

 嗚呼応えねばと伝吾は思った。これは((運命|さだめ))と呼ばれるものだと。

 

「ではこの伝吾、十兵衛様が守りたいものを最後までお守りいたしましょう」

 

 十兵衛は「心強いな」と微笑むと、伝吾の肩に手を置いて震えを止めた。

 

END

 

-2ページ-

   思い出せない夢

 

 天人の少年は八本脚の蝶に導かれ、砂の海を駆けていた。海には聖獣の群れがいる。

 月の都にいるときの聖獣たちは人の形でいることが多かったが、今は獣の形になっていた。長い逗留期間を経て、星々の大海原を渡る日が来たからだ。

 

 探していた相手を見つけると、蝶は聖獣たる麒麟の角に((留|と))まる。少年は長い首にすがるように抱きついた。

 生まれたときから一緒にいた麒麟は家族同然の親友で、そんな相手との別れは体を引き裂かれそうだったが、聖獣の((理|ことわり))は天人とは違う。

 

 どの星に行くのか問うと、あの青き星にと麒麟は答えた。

 少年は自分も行くと駄々をこねたが、蝶が「まだ許しもなく、旅立てる年ではないでしょう」とたしなめる。

 

「ならば、((我|われ))が帝になって掟を変える」

 

 今度は麒麟が「めったなことを申されますな」とたしなめた。

 

「では帝から許しを得れば、あの星で待っていてくれるか」

 

 麒麟は「それならば待ちましょう」と水色の瞳を細めた。

 

「姉上が降りた国と同じ国にいてくれ」

「それでは、竹にちなんだ物を身に着けるようにしますので、それを目印になさい」

 

 もうすぐ嵐が来ると誰かが言った。色とりどりの聖獣たちは空を見上げる。日輪から吹き出した風が巻き起こした嵐に乗って、彼らは大海原を駆け巡るのだ。

 

「さあ、早く戻りなさい。天人には危険です」

 

 そう言われても少年は麒麟から離れようとしないので、蝶は少女の姿に((変化|へんげ))し、少年の手を引きながら砂の海を離れた。

 旅立ちの美しい光の軌跡は天人たちの目を楽しませたが、少年にとっては涙の光景となった。

 

 その後、月の帝に何度も頼み込んだが、貴人である少年に許しは出なかった。

 

 泣き暮れる少年を見て哀れに思った姉は、ひそかに青き星へと送り出す手筈を整える。

 

 その際、少年はいくつか忠告を受けた。自分のときと同じでは目立つから、裕福な女の腹を借りること。月での記憶と力は封じ、人として成長すること。

 それに丸一日いてはいけないとも。

 姉が青き星にいたのは、天人にはうたた寝にもならない程度の短さ。それでも、かぐや姫として痕跡が残るほどだった。

 

 星への旅は蝶も一緒に来てくれた。あなたたちとはずっと一緒にいたからと??。

 

「……?」

 

 信長は午睡から目覚める。夢を見たようだが、なにも思い出せない。

 代わりに思い出したのは、自分の嫁が美濃の斎藤((利政|としまさ))の娘に決まったこと。蝮と呼ばれた男の娘の名は帰蝶。

 蝮の子が蛇ではなく蝶とは奇妙なものよと、信長は少し楽しくなった。

 

END

 

-3ページ-

   使者の品格

 

 朝倉館の衣装を司る御物奉行が朝から大変なご様子。

 そんな噂を耳にした山崎吉家は、さりげなく様子を見に来た。「殿に申し付けられまして」と男物の小袖や((素襖|すおう))を取り出している。

 

 さて何事かと主君((義景|よしかげ))の((許|もと))へ行くと、衣装が所狭しと並んでいた。((近習|きんじゅ))たちに指図していろいろ組み合わせている。

 

「茶会で着る物をお選びでございますか」

 

 吉家が話を振ると、義景は扇を左右に振りながら「違う」と連呼する。

 

「明智十兵衛が京に行くであろう。そのための着物を選んでおるのじゃ」

「殿自らお選びになるのですか」

「なにを着ているかで、相手の態度はころりと変わるものぞ。我が朝倉の使者なれば、それ相応の格好をさせねばならぬ」

 

 上洛せよと将軍足利義輝から((文|ふみ))が届いていたが、上洛したくない義景は、代わりに明智十兵衛光秀を行かせることに決めた。

 将軍と謁見して鷹を献上するついでに、京の様子を見る。使者と間者を兼ねる役目だった。

 

 十兵衛は美濃の斎藤親子の争いで((道三|どうさん))に味方して敗れ、家族とともに越前に逃げ延びたが、義景の援助を断って清貧生活を送っている。

 そこが義景には気に入らないが、尾張の織田信長の正室と親戚であり、将軍奉公衆の細川藤孝と縁があり、なぜか人脈がある。使わない手はなかった。

 

 今日の義景はこれで大忙しだと察し、吉家は「ではわたくしはこれにて」と下がる。「ん」と生返事をした義景は、近習たちに「青と緑は残せ」と命じた。

 着る者にどの濃度の色が似合うのか。生地によっても印象が違う。組み合わせは腕の見せ所だった。

 

「そうだな…鮮やかな色の扇も出しておけ。……よし、明智十兵衛を呼べ」

 

 早速館に呼び出された十兵衛は、義景から「朝倉家の使者に相応しい格好をせよ」と命じられ、次々と試着させられた。

 最終的に選ばれた素襖は、鮮やかさの残る青から濃い青へと変わる、((凹凸|おうとつ))のある厚手の生地。小袖は南蛮風の柄の深緑の物だった。

 扇は鮮やかな黄緑。さりげない差し色を入れることで、深い色合いの着物に強弱が加わる。十兵衛自身にも似合い、かつ朝倉の使者として申し分ない装い。

 

 自分の見立てに満足した義景は、「これなら良かろう。それを持って京へ行け」と笑顔になる。

 着せ替え人形となった十兵衛は少々疲れた顔をしていたが、「お気遣い痛み入ります」と素直に礼を述べた。

 

「うむ。京での務め、しっかり果たせよ」

 

 大仕事を終えたと言わんばかりに退出する義景を、「はっ」と十兵衛は頭を下げて見送った。

 

END

 

-4ページ-

   咲き誇る花のごとく

 

 光秀と((熙子|ひろこ))の長女岸に縁談話があるという噂は、屋敷の中でまことしやかに流れた。お相手はあの家、いえいえあの方でございましょうとささやかれる。

 ((左馬助|さまのすけ))は光秀の従弟として、岸を幼少期から見守っていたこともあり、もうそんな年になったのかと感慨深かった。

 武家の婚姻は家同士で決まり、そこには政略がある。個人が好き合ってというのは珍しい。

 

 ほどなくして、岸は荒木家に嫁ぐことが決まった。相手は光秀と同じく、織田家では((外様|とざま))の荒木((村重|むらしげ))の嫡男((村次|むらつぐ))。人柄については、岸も耳にしているようだった。

 光秀の子供たちで婚礼は初めての出来事。嫁ぐための準備は、明智家の名に恥じぬようにと進められた。衣装、調度品、化粧道具などは熙子が念入りに選ぶ。

 

 岸が婚礼衣装の着心地の良さを確かめる日になると、下働きの女性たちですら少し浮かれていた。

 熙子も見ることを許し、手の空いた女性たちは次々と見に行く。そういう気風の家だった。

 

 小さかった岸様があんなにお美しくなられて。よくお似合いです。本当にお美しいこと。

 

 そんなふうに楽し気に語り合い、廊下を歩く左馬助の存在に気づくと、あわてて端に寄って頭を下げるほどの浮かれよう。

 光秀も上機嫌で、左馬助が身内という気安さからか、「見ていかぬか」と誘う。左馬助自身も興味があったので、「はい」と素直に応じた。

 

「あら。左馬助が来ましたよ」

 

 熙子の楽し気な声がする。次女のたまと笑顔で語らう岸を見て、左馬助は小さな気づきを得た。

 嫁ぐということは、一人の女を意味する。昨日までは遠慮なく声をかけられる親戚の少女だった存在が、今日は突然女に見えた。

 いつのまにか、花が咲き誇るような年になっていた。

 

「近くでご覧になってくださいませ」

 

 たまにうながされ、左馬助は心持ち近くで見るが、「大変お似合いでございます」と差しさわりのない感想を言うので精一杯だった。

 岸は「こういう時は、もう少し気の利いたことを言うものですよ」と笑う。

 

 左馬助と岸は文字どおり親戚であり、疑似的な兄と妹であり、手習いでは師匠と弟子でもあった。

 

 では、この奇妙な喪失感はなんなのか。これが、家族が生きて巣立つさみしさなのか。

 ((戦場|いくさば))で命が失われたわけではないのに、なにかが失われる悲しみとはこれか。

 

 左馬助はにじみ出た感情を押し込め、咳ばらいを一つすると、「((鵠|くぐい))のようにお美しゅうございます」と言う。

 その言葉を聞いた岸は、「さすが左馬助です」と華やかな笑みを浮かべた。

 

END

 

-5ページ-

   太陽の幻

 

「東庵先生! 東庵先生!」

 

 医師望月東庵の家に行くと、なかは甲高い声で呼ぶ。奥から「はいはい」と東庵が出て来るとなかは近寄り、「今日もお願いしますね」と色っぽく言った。

 いつものことなので、東庵は「では((鍼|はり))を打ちましょうか」と流す。

 

「今日ねえ。来るときに物乞いの老婆を見たんです。いえ、そんなのはよくいますけどね」

 

 それが口火となって、なかは一気に喋り始める。昔のことを思い出しましてね、と。

 

 当の昔にあの世に行っちゃいましたけど、昔は((木下|きのした))って男と((夫婦|めおと))だったんです。

 お恥ずかしい話ですが、その時に都落ちしたお公家様の家で働いていたっていう男と、いい仲になりかけたことがあるんですよ。

 

 そなたの実の父を存じておる。都落ちした萩中納言様じゃ。そなたの母をお手付きにして、怖い奥方から逃がす手伝いをしたのがわしの父じゃって言われましてね。

 最初は嘘だと思いましたよ?

 

 でもねえ。京での雅な生活を語られて、若いから浮かれちゃったんですね。

 

 そのうち、木下との間に((稚児|ややこ))ができましてね。男のほうじゃないですよ? 木下のほう。

 それを男に正直に伝えたら、あっというまに離れちゃって……。

 

 なんかもう悔しくて、泣きながら道を歩いていたら、物乞いがいたんです。三人の老婆。

 普段なら無視しますけど、その時は投げやりな気分でしたから、持っていた干し柿をあげたんです。

 

 そうしたら老婆たち、あたしを仏様みたいに崇めちゃって! 水が入ったお椀を出して、お前様を祝ってあげようって言うんです。

 

 ほら、水に浮かぶお((天道|てんと))様を飲みなさい。お腹の稚児はお天道様の加護を受ける。お前様を豊かにする。

 だが気をつけなされ。そのお天道様は水に映った幻。本物は人には強すぎる。これくらいがちょうどいいって。

 

 なに言ってるのって思いましたよ。あやしいったらありゃしない。

 

 でも気分を変えようと思って、一気にお天道様を飲んだんですよ。

 そうしたらね、あたしに言い寄った男! 女を騙す手合いだったようで、命を取られちゃって!

 

 あたしが騙されなかったのは稚児のお陰なんです。その子が秀吉! 本当にお天道様みたいに明るい働き者でねえ。

 織田様の((許|もと))で働くようになったら、あら不思議! どんどん出世していい子ですよ。

 

「親孝行な息子をお持ちになりましたな」

 

 東庵はまくし立てられた話を右から左へと聞き流し、最後の部分だけ反応する。

 

「でしょう?」

 

 なかは出された((白湯|さゆ))を飲み干すと、「本当にいい子!」と高らかに笑った。

 

END

 

-6ページ-

   水飴のごとき愛

 

 夫の信長は奇妙丸、のちの信忠の存在を明らかにしてからは、側室や生まれた子を帰蝶にちゃんと紹介するようになった。

 帰蝶は信長の子を産めなかったが、夫にどれだけ側室や子が増えようと、正室の座は揺るがなかった。

 今も昔も変わらず、信長は第一の相談相手として帰蝶を頼りにしている。

 

 しかし、帰蝶の心は少しずつすり減っていった。信長の側室たちと子供たちの扱いが、道具のそれと変わらなかったからだ。

 彼らには何不自由ない暮らしが与えられているが、美しく教養がある側室たちは、名立たる茶器と同じ。血の繋がった子供たちは、よく調教された名馬と同じ。

 

 信長は彼らと帰蝶が交流する姿を最初は微笑ましく見るが、そのうち帰蝶にちょっかいを出し始める。特に子供に目を向け過ぎると、すねることがあった。

 構ってほしいのだと気づいてからは、帰蝶は信長にも気を配るようになった。

 

 嫡男の信忠は良き後継者として育つように心配りされたが、帰蝶の愛情を奪い合う競争相手として、信長に認識されたら危うい。

 信長が信忠と会うとき、帰蝶は細心の注意を払って対応した。

 

 夫の心の中には実子であっても入れないし、入れさせない。いるのは帰蝶と、帰蝶の従兄の明智十兵衛光秀だけ。

 織田家の若君でも、うつけでもない。ただの信長としてまっすぐ見つめ、褒めてくれた男と女が十兵衛と帰蝶だった。それがすべて。

 

 二番目以降はいないも同然。彼自身がそうだったから。

 

 信長の生母の((土田|どた))((御前|ごぜん))は、自身と似ている信勝を溺愛した。息子の中で信勝だけを心の中に入れ、信長には目もくれなかった。

 その愛情は水飴のようで、信長の愛し方は生母と似ている。

 

 親子、兄弟、伴侶、友人。そのすべてを兼ねた、御前が信勝に向けたのと似た愛の形は、今はすべて帰蝶に来ていた。

 

 信長が帰蝶に直接触れるときは、大事に触れる。自分が触れると壊してしまうことがあるからと。

 

 彼なりに配慮をしても、生母の愛が息子たちの関係を壊したように、彼の愛もいつかなにかを壊す。

 それほどまでに甘く、重く、ねっとりしている。

 

「今日は十兵衛が来るから、ともに鼓を打とうと思う。そなたも付き合え」

 

 笑顔での信長の誘いに、帰蝶も笑顔で「はい」と返す。

 

 帰蝶の父の斎藤((道三|どうさん))は、毒殺をいとわない謀略家だった。母の((小見|おみ))の((方|かた))はそんな父を恐れることなく、病を得ても最後まで笑顔で支え続けた。

 自分は母と同じようにできるのか。

 その不安は笑顔の奥底で、ゆっくりと流れていった。

 

END

 

-7ページ-

   鳥たちのさえずり

 

 ご存じかしら、お聞きになりましてと、女官たちが鳥のようにさえずる。宮中のこと、外のこと、ありとあらゆる噂を。

 女官たちの最近のお気に入りの話題は、織田信長。御所の塀を修復し、((金|きん))を献上する。なんとまあ殊勝な方とささやき合う。

 

 とある女官が、それよりもと口を挟む。信長のことは呼び水。気になるのは明智。((外様|とざま))ながら、譜代の家臣たちより重用される武将。

 信長の正室の親戚という立場を利用して出世したのかと思いきや、おごり高ぶることなく、文武に優れているとのこと。珍しや珍しやと女官たちは笑い合う。

 

 そんな人がおりましょうか。月人でございましょうか。月人ならかぐや姫にございます。それを言うなら桂男でございましょうと掛け合いをして、また鈴を転がすように笑い合う。

 

 遠くから明智の姿を見たことがある女官が、それは涼やかな方でしてよと、わざと自慢するように言った。伸びた背筋が竹のようでと付け加えると、女官たちは少し身を乗り出し、まあとささやく。

 

 光る君のような御方かしら。あら、光る君は((武士|もののふ))ではございませんよと口元を扇で隠し、さえずりながらまた笑う。

 明智殿にはご側室がいないとか。移り気がないなら、光る君ではありませんわねと、今度は笑い声を忍ばせる。

 

 ですが((諱|いみな))は光秀と申されるそうですから、やはり光る君でございましょう。まあ光る君と、声をそろえて小さく笑う。

 

 織田殿に話を通すには、まず光る君からと申します。光る君の望みなら、二つ返事で許すとか。光る君も、織田殿のことはなんでもご存じとか。まあと声をひそめ、そんな話を楽し気に語り合う。

 

 三条西様がおっしゃるには、万葉を好むようでしてよ。お気に召したのかしら。三条西様のお目にかなう武士とは、まあ珍しや珍しや。

 

 帝はお呼びになったようでございますよと誰かが言うと、いつでございます、それはいつとさざ波が広がる。

 たまたま庭にいたので声をかけられたと聞きましたと、誰かが場を収めるように言うと、女官たちは笑い声をもらす。それならよくあることだと。

 

 そんなふうに女官たちはさえずり、彼女たちの中だけで噂は広がる。

 それは帝に近侍し、秘書のような立場の((典侍|ないしのすけ))にも伝わる。

 当然、帝の耳にも入った。

 

「((実澄|さねずみ))も気に入り、女官たちもそこまでささやくとは……まこと珍しき鳥よのう」

 

 ここまで噂の的になるということは、人の心をとらえて離さぬなにかがある。

 帝はあの伸びやかな声の主に、さらなる興味を持つのであった。

 

END

 

-8ページ-

   望みを叶える首

 

 山崎の合戦後、羽柴軍には明智勢の首が次々持ち込まれた。

 その首の山から、秀吉は目当てのものを選んだ。ほどほどに見目が良く、だが適度に顔が壊れているものを。

 

「……これか? …これじゃな。これじゃ」

 

 秀吉は首を天に捧げるように拝んだあと、盆の上に静かに置いた。

 そこに同母弟で一緒に育った小一郎長秀がやって来る。選ばれた首をちらりと見ると兄に近づき、「まこと明智様か」と小声で聞いた。

 

「うん、わしがそう決めた」

 

 兄は底なし沼のような目で弟を見ながら、即座に答える。

 小一郎は短いため息をつくと「じゃあ、そう振る舞う」と言い、「少し休め」と続けた。

 

「勝つんだろ」

 

 自分とは違う形で弟は賢く、家族思いで忠実。秀吉は手で追い払う仕草をして、「案ずるな」と言った。

 

 一人になった秀吉は、首の前で文字通り小躍りする。今回は光秀より先に行けたことが嬉しくてたまらなかった。

 

 次に来るのは言葉での戦いだった。話し合いの内容は、織田家の後継者選定と遺領配分だと予想がつく。

 信忠の嫡男((三法師|さんぼうし))は信長から見れば嫡孫なので、正統性から後継ぎとして推せる。

 

 問題は名代。ここで誰が織田家を仕切るかが決まる。信長の弟たちか、息子たちか、有力な譜代の家臣か。

 そこに((外様|とざま))の秀吉が食い込むには、光秀の首が必要。一番乗りで織田親子の仇討ちを果たし、逆賊の首を挙げた事実を切り札にして弁舌で勝つ。

 

 なにせ織田家中で、光秀のように相手への詰め方がうまい人間はいない。彼は事実だけを並べ、自分に有利な論理を展開し、あっというまに詰めた。あの論法は秀吉ですら舌を巻くほど。

 今思えば、小賢しかった異父弟((辰吾郎|しんごろう))の件は練習。秀吉は盆を持ち上げてほくそ笑む。

 

「さすが明智様。すべてお膳立てしてくれる」

 

 光秀はここぞというときに、秀吉の運命を決める存在だった。金ヶ崎の撤退戦では((殿|しんがり))に加わることを許してもらい、生き残ることで名を上げられた。

 今度は天下を回してくれたうえに、重要な話し合いの稽古までつけていた。

 

「それが望みか」

 

 首が喋った。目の前にはあの涼やかな顔。傷などない。生きている。

 

「ではすべてお膳立ていたそう。すべてだ」

 

 秀吉は瞬きをした。首は元のままだった。死んでいる。傷ついている。

 醜い傷口から赤い肉が((覗|のぞ))く首を見つめた。「誰かある」と呼ぶ。

 控えていた者が来た。手を離す。盆ごと首が落ちる。

 

「これは違った。どこぞに捨てよ」

 

 足元に転がったそれは、光秀とは似ても似つかぬ首であった。

 

END

 

-9ページ-

   ある元執事の所感

 

 本能寺で織田信長が明智光秀に討たれた。その光秀は山崎で羽柴秀吉に負けた。自害したあとの光秀の首は見つかってさらされた云々。

 ((摂津|せっつ))((晴門|はるかど))は政治的に失脚したことで、中央政界から離れて久しい。耳に入ってくる情報も、大衆が知っているものと大差がない。

 

 ただ、少しばかり直接信長と光秀に関わった身からすれば、光秀の鋭さは信長でさえ御することができず、やはり命を取られたかという感想が出てくる。

 そして、その鋭さが光秀自身を滅ぼしたとも。

 

 まだ晴門が((政所|まんどころ))執事として幕府の中枢にいたころ、さりげなく光秀の身辺を探ってみたが、人柄についての評判は悪くなかった。

 身内には情が厚い。亡くなった家臣の弔いをする。遺された家族には見舞いを出す。

 趣味は幅広く、教養も深い。まっすぐで清廉。何事もよく知り、すぐに答えを導き出す。あの頭の回転の速さたるや、心が寒気を感じるほど。

 

 だからこそ、一度逆鱗に触れると容赦なかった。あれは信長と似ているとささやく者もいた。

 信長は子供のように物を投げるときがあり、それで取り扱いが面倒だった。

 

 光秀の場合、持ちつ持たれつで回る世の仕組みを良しとしない。どうも彼の考える筋目を通さなかったり、大きく足元をすくうと駄目らしかった。

 それまでなにも知らない風情だったのに、伏せていた情報をここぞとばかりに積み上げる。

 

 こういうことをしていますな、あの方と会いましたなと、こちらが伏せていることまで細かく知っている。

 事実と正しい推論によって、千の言葉で刺してくる。声は上ずることなく、よどみもなく、冷静に激しく詰められる。

 光秀の言葉に反論しようにも、責めるべきところがなにもない。その正しさは暴力であり、相手によっては恐怖を植え付ける。

 

 あれはまさに抜き身の刃。味方であれば頼もしいが、敵となれば厄介。

 暗殺しようとしても、それを払いのけるだけの技量がある。頭が切れて口も回り、さらに腕も立つ。まことに厄介。

 

 光秀が敗死したことで、彼に味方しなかった者たちは安堵しているだろうと晴門は推測した。秀吉のほうが分かりやすい俗人で、相手をしやすいのだろうと。

 

 もし光秀が勝ち続け、生き延び、天下を取ったままだったら。

 

「おお怖い」

 

 そんな世の中を少しばかり考えて、晴門はわざとらしく身震いする。

 

 恐ろしや恐ろしや。正しさで人を殺す物の((怪|け))が主など、恐ろしゅうてかなわぬわ??。

 

 高みの見物をするような面持ちで、晴門はのんびりと((白湯|さゆ))を飲んだ。

 

END

 

-10ページ-

   その身を捧げよ

 

 姉の岸は荒木家に嫁ぎ、母の((熙子|ひろこ))は病死。年の離れた弟の十五郎はまだ幼さが残り、支えられるほう。

 たまは一生どこにも嫁がず、奥の差配をして、父の光秀を支えねばと思っていた。

 

 だが、昔から明智家と懇意にする駒との語らいで、細川家に嫁ぐ意思を固めた。自分の人生を生きると。

 細川忠興との結婚でたまが明智家を離れたあと、父の心境にどんな変化があったか、知る由もない。

 分かるのは、本能寺で主君の織田信長を討ち、山崎で羽柴秀吉に敗れたあとで自害したこと。

 

 そしてたまの状況は一変した。逆臣の娘として、京から離れた小さな里に幽閉されたのだ。

 二年後、秀吉の取り成しもあり、たまは細川の大坂屋敷に移されたが、いまだ監視される状況にあった。

 

 そのたまの((許|もと))へ、駒が訪ねて来た。

 彼女がたまの薬の師であり、万能薬の((芳仁丸|ほうじんがん))を作って流通させている商人であり、駒の師の望月東庵が帝の脈を取れる医師であることも考慮したうえで、夫の忠興は会うことを許した。

 

 たまは駒と再会できたことで、時が流れるのも忘れて、あふれる想いを次々と語った。今の生活のこと、子供たちのこと、夫経由で聞いたキリスト教のことも。

 駒は師であると同時に年の離れた友人であり、ほど良く距離感がある他人であり、庶民であるため、遠慮なく心の内を明かすことができた。

 

「父上と最後に会うたとき、忠興殿と長く生きよ、そのためにわしは戦うてみせると言いました。……だから、信長様を討ったのでしょうか」

 

 光秀が謀反人として死んだことで、たまは苦労を重ねている。

 駒は「お父上は……ずっと麒麟がくる世を求めていました」と、できるだけ言葉を選んだ。

 

「きりんとは…あの麒麟ですか?」

「ええ。麒麟を呼べる人を求め続けて……信長様を討ったあとは、麒麟がくる世にしてみせる、自分が麒麟を呼んでみせると言ったそうです。世のことを考え、成すべきことのために、御身を捧げたのかもしれません」

 

 たまは「捧げた……」と繰り返すようにつぶやくと、キリスト教の献身の話を思い出した。

 自分のためではなく、誰かのために、なにかのために。

 欲望が渦巻く乱世にあって、あの清廉さは子から見ても不思議だった。

 

「父上はいつも、身を捧げるように戦っていました」

 

 嗚呼と深い息をもらすと、「父上のことを少し分かった気がします」と顔をほころばせる。

 沈みゆく太陽は空を((黄金|こがね))色に輝かせ、たまの笑顔を照らす。

 それを見て、駒は母のような面差しで微笑み返した。

 

END

 

-11ページ-

   初陣の褒美

 

 山にはその数だけ掟がある。丹波の山奥にある里は、京の旅芸人一座の((頭|かしら))が教えてくれた場所。

 ここに行くにはけもの道を通り、目印となる祠を見つけたらお供え物をして、里に行けるよう真摯に祈りを捧げると、道が開ける。頭がここはそういうやり方だと教えてくれた。

 

 そんな隠れ里で療養していた男は、いよいよ里を出ると言う。そのための準備を菊丸は手伝っていた。ここでそろわぬ物はない。そういう場所なのだ。

 

「外は久しぶりゆえ、そなたが伴をしてくれるのは、正直心強い」

「もったいないお言葉でございます」

 

 男が外に慣れるまで、菊丸は旅に同行することを申し出ていた。

 

「これは心ばかりの品だ」

 

 差し出されたのは((一口|ひとふり))の刀。菊丸は「このような見事な品、受け取れませぬ」とあわてた。

 

「ならば、そなたの主への礼として受け取ってくれぬか。良い働きをする家臣がいたら、褒美の品になるだろう」

 

 想定内の返事だったのか、男は優しく言う。

 

「それこそ初陣で侍大将の首を挙げた武士には、備前((兼光|かねみつ))の脇差をあげるくらいがちょうど良い」

 

 菊丸は「初陣で、そういう褒美が欲しゅうございましたか」と頬をゆるめた。

 

「わしの場合、旅の借金を返すための首取りだったゆえ、褒美どころではなかった」

 

 二人はひとしきり笑ったあと、菊丸が「して、新たな脇差はいかがいたします」と聞く。

 男は少し困った顔で微笑み、「熱田に奉納した刀を代わりに使えという申し出があってな」と言ったことで、菊丸は察した。少しだけ遠い目をする。

 おそらくその申し出は、生前は((右府|うふ))様とも呼ばれたことがある、例の幽霊からのもの。死後はしがらみから解放されたのか、自由奔放だった。

 

「では、神に無断で使うことはできませぬな」

「そうなのだが…((村長|むらおさ))が言うには、奉納した者と神との間で話がついているなら、しばらくお借りするのは構わないと言われた」

 

 さすがに菊丸もこの手の話は慣れてきたので、「さようでございますか」と返すと、両手で脇差をうやうやしく持つ。

 

「それではこの脇差、お預かりいたします。殿に必ずお渡ししましょう」

 

 本能寺の変のあと、経緯は不明だが、徳川家康は明智光秀が所持したという脇差を手に入れた。

 それは家康の小姓成瀬((正成|まさなり))に褒美として与えられる。小牧・長久手の戦いで、初陣ながらも敵の兜首を取る功名を挙げたのだ。

 その時に家康は、成瀬の他にこの刀を持つべき者なしと言ったという。

 

 号は明智兼光。成瀬家に今でも伝来する脇差である。

 

END

 

-12ページ-

   神のみぞ知る

 

 男は丹波の山奥の里から旅立つことを決めると、顔見知りの住人たちに別れの挨拶をしに回る。世話役の夫婦を始め、里の者たちは旅に必要な物をいろいろ用意してくれた。

 いよいよ出発が迫ってくると、手入れが終わったと((村長|むらおさ))が((一口|ひとふり))の刀を差し出す。

 

「これには地蔵菩薩の加護がある。そなたと((運命|さだめ))をともにしよう」

 

 坂本城が落城する前、明智((左馬助|さまのすけ))が目録とともに羽柴軍に渡した名物の中にもなかった刀は、男が持っていた。

 号は地蔵((行平|ゆきひら))。その由来は、((?|はばき))元に地蔵菩薩が彫られているからだった。

 

 地蔵菩薩とは、((弥勒|みろく))菩薩がはるか遠き世に如来となって現世を救済しに出現するまでの間、この世には仏が不在となるため、人間が住む人間道を含む((六道|りくどう))すべてを巡り、あらゆる生命を救う仏とされる。

 

 男は地蔵行平を受け取ると、愛刀の備前((近景|ちかかげ))のことを聞いた。

 

「あれは力を使い果たして眠っている」

 

 嗚呼と男は思い至る。

 夢の中で((鵺|ぬえ))に似た、燃えて苦しそうな奇妙な生き物の首を斬り落とした。それは我を食えと言ったので、ひとかけらの肉を削いだ。その際に使った刀は近景であったと。

 あの生き物は、おそらく山の神と呼ばれる存在だった。

 

 神はほかにも言った。そうして我らは生きると。受け継げ。行け。五十六億七千万年後のその先へ。

 

「近景がいつ目覚めるか、分かるか」

 

 目覚めるときがその時という村長の答えに、男は思わず笑う。

 

「ならば、この里で世話になった礼に差し上げたい。もしこれを必要とする者が現れたら、そのときはあなた方の判断で渡してくれ」

 

 村長は分かったと頷いた。

 

 男が菊丸とともに里から旅立つ日、特別な見送りはなにもなかった。すべてが普段どおり。

 穏やかな日差しの中、二人が細い道を歩いて行くと、徐々に霧が濃くなる。男は道が閉じたと直感した。

 

「いつもこうなのです。縁があれば、また来られましょう」

 

 男はうむと答え、腰に差した刀に手をやると、では行くかと小さく声をかけ、山中へと消えて行った。

 

 この時代、地蔵行平は同名の刀が((二口|ふたふり))ある。現存するほうは豊後国行平の銘があり、高松宮家に伝来した物。

 

 明智光秀が所持したと伝わるほうは、元々は娘婿の細川忠興が所持していた。忠興が丹後の宮津城で茶会を主催した際に光秀を招き、行平作の銘がある刀を献上したという。

 本能寺の変以降の経緯は不明だが、徳川将軍家が所蔵することになり、のちに明暦の大火により焼失。

 六道を巡りに行ったかどうかは、神のみぞ知ることなれば??。

 

END

 

-13ページ-

   ある子供の記憶

 

 ((市場|いちば))で一休みできる店には、黒い((十徳|じっとく))を羽織った武士が腰かけていた。その店の近くでは、年端もいかぬ少年がぐるぐる歩いている。

 武士は「どうした」と話しかけると、少年は「父ちゃんが迷子になった!」とふくれた。

 

「はぐれたらここで待とうって約束したのに」

「では、ここで父上を待ってはどうか」

 

 武士が優しく語りかけ、「これを食べ終わるころには、父上も来られよう」と小魚の干物を分け与えた。

 少年は礼を言い、自分の名を教える。武士が「わしは三郎と申す」と言うと、少年は「三郎様、いい人だな!」と笑顔で返した。

 干物をかじりながら、「父ちゃんは市場でいいなって思う物を見かけると、すぐいなくなる」と流れるように喋り始める。

 

「困った癖だよ。鉄砲のことなら寝るのも食べるのも忘れて、ずっとやれるのにさ」

「父上は鍛冶師なのか?」

「国友のな! 腕はいいんだ。伊平次の師匠にいつも褒められる」

 

 少年は三郎に近寄ると、「明智の殿様にも褒められた」と声をひそめた。織田信長を討った逆臣のため、明智の名は大っぴらに言えないのだ。

 

「妹が生まれたから、父ちゃん頑張ってんだ。あ、妹はタケっていうんだけど」

 

 三郎が「良い名だ」と褒めると、少年は「ばあちゃんがつけたんだ」と嬉しそうに言った。

 

「小さいときに火事にあって、助けてくれた人の着物の柄が、竹みたいなやつだったらしい」

「……おばあ様の名は、なんと申す」

 

 元気な声で「ウメ!」と答えると、遠くから少年の名を呼ぶ男の声がした。「父ちゃん遅い!」と少年は文句を言う。

 どっちが迷子だという押し問答をしたあと、父が「お前、またべらべら喋っていないだろうな!」と言うと、少年は「喋ってないよ!」と即座に言い返した。

 

 三郎の存在に気づくと、父はすみませんと何度も謝ったが、三郎は「いや、楽しゅうござった」と言って、「土産の品だ」と小魚の干物の束を少年に渡す。

 父は恐縮したが、武士は「良い話を聞かせてもらった礼だ」と引く気配を見せないので、素直に受け取ることにした。

 三郎は「達者でな」と微笑み、去って行く。

 

 父が「帰ろうか」と言ったので、少年は父の着物の袖をしっかりとつかみ、我が家へと帰って行った。

 

 のちに国友は徳川に協力して、大阪夏の陣では大鉄砲や大筒を数多く製作し、徳川軍の勝利に貢献する。

 その後は幕府の御用鍛冶となり、組合組織が作られ、江戸の世を生きていく。

 

 少年もその中の一人となるが、今はまだ知らぬ運命である。

 

END

 

-14ページ-

   ある庶民の所感

 

 家を訪れた伊平次に、ウメは「あら、すいません」と言う。

 

「あの子だったら、今は上の孫と((市場|いちば))に行ってるんですよ」

「そうかい。じゃあ、待たせてもらうよ」

 

 彼と繋がりがあるのはウメの夫と息子で、鉄砲鍛冶の名人と呼ばれる国友村の伊平次の腕にほれ込み、彼の下で働いていた。

 伊平次は親戚のおじさんという風体で、手土産を持参してふらりとウメの家に来ては、夫と息子とともに仕事の話をして酒を飲んだりした。

 

 彼らの大口顧客は明智家で、それは伊平次が当主の明智十兵衛光秀と繋がりがあったからだった。顔見知りなのだという。

 鉄砲の整備は定期収入となり、生活に困らない程度に懐は潤ったが、世の流れで明智家は滅んでしまった。

 伊平次たちは馴染みの顔が亡くなった悲しみとは別に、安定した仕事先が消えたことに不安を覚えた。

 

 だが腕はいい。すぐに別の客がついた。羽柴家である。

 明智家と懇意にしていた職人や商人は、羽柴秀吉が他家に先んじて奪っている状態だった。しかも気前がいい。今では羽柴家が得意先だった。

 

「明智様がどこぞの山奥で生きてる噂、また聞きましたよ」

「それ、実は羽柴様が流してるって噂もあるぞ」

 

 あまりに矛盾しているので、「なんでです?」とウメは聞いた。

 

「残党をあぶり出すって話だ」

 

 ウメは「罠みたいなものですか」と小さく笑った。

 

「本能寺のこともいろいろ噂がありますし、なにがなにやら」

 

 織田信長の光秀への信頼は絶大で、光秀も応えていた。外からはそんなふうに見えたが、本能寺で信長は光秀に討たれた。

 庶民にとっても大いに謎の出来事だったが、信長であれば仕方がないという認識もあった。

 信長は敵も謀反も多く、織田家の末端で働いていた者たちですら、家中の空気がどこか張り詰めているのを感じ取っていたからだ。

 

「耳にする話が噂ばかりじゃ、確かに分からんな」

 

 伊平次は「ただ……」と遠い目をする。

 

「俺が子供のとき、井戸に落ちたことがあるんだが、十兵衛様が必死になって助けてくれてな。最後まで諦めなかった」

「……どういうことです?」

「そんな御方が謀反を起こすなんて、よほどのことだろうと思ってな。それくらいしか分からん」

 

 雰囲気が湿っぽくなったところで、「ばあちゃんお土産!」と孫息子の声が響く。続いて「帰ったぞー」と息子の声がして、場が明るくなった。

 息子はウメに上の子が迷子になってと喋り、上の子は干物をもらったと喋る。「せわしない親子だな」と伊平次は笑った。

 

END

 

-15ページ-

   生贄の肉

 

「明智様の((許|もと))に((男子|おのこ))が生まれたぞ!」

 

 あわてた様子で秀吉が正室のねねに伝えると、「存じておりますよ」と祝いの品を贈ることを告げられた。

 

「速くじゃぞ。こういうのは速さが肝心じゃ」

 

 女児が続いていた光秀の許に、ようやく後継ぎが誕生した。

 明智様の嫡男であれば織田家の姫が嫁ぐのではと、そのうち誰かがささやき始める。

 

 秀吉は織田家中や京だけでなく、信長周辺の情報も細かく集めていた。

 信長の息子たちには誰が嫁いできて、娘たちはどこへ嫁ぐのか。派閥争いを知るうえで重要な情報だった。

 

 縁談の噂は、光秀の嫡男十五郎が赤子のうちは笑い話で済んだが、それも元服を迎えれば別。現実味が帯びる。

 

「そろそろ十五郎にも、嫁取りを考えてやらねばのう」

 

 主君の何気ない会話。何気ない一言。

 信長は娘と光秀の息子との縁組を考えている。そんな噂を秀吉は拾う。

 

 光秀との不仲がささやかれるようになってからも、それに相反するように、信長はますます光秀を重用した。さまざまな物を与えた。

 周囲は困惑しつつも、興味のほうが勝つもの。嫁ぐのは誰かと噂する。

 

 少しくらい年が離れていても構わないでしょう。面立ちが御父上によく似た姫がいらっしゃるとか??。

 

 縁談話は好奇心を満たすものとして消費され、そうこうするうちに、光秀が信長を討つ本能寺の変が起きた。

 秀吉は仇討ちと称して光秀に勝ち、明智一族は他家に嫁いだ娘を残して滅んだ。十五郎は坂本城が焼け落ちた際に死んだ。

 

 そういうことになっている。秀吉が死んだと決めたら、そうなのだ。

 

 権力闘争と数々の戦を勝ち抜いた秀吉が天下人になると、家臣の((蒲生|がもう))((氏郷|うじさと))から人質が差し出された。

 一人は氏郷の妹とら。もう一人は氏郷に嫁いだ信長の次女の異母妹で、生母は信長の嫡男信忠の((乳母|めのと))。変後は氏郷に引き取られ、養女になった。

 

 十五郎との縁談を噂されたのは、この姫なのか。

 

 とらはすでに手をつけたが、かつての主家の娘にも手をつけるのは、さすがの秀吉も気おくれした。

 先に側室にした姫路殿と茶々は信長の姪。だからまだ隔たりがあるし、それが言い訳にもなった。

 

 だが、もういい頃合いではないかと、内なる声がささやく。

 姫路殿には子が生まれなかったが、茶々には生まれた。

 

 ならば次はこの娘。やはり直系の血が必要なのだ。

 自分を高みに押し上げるのは男たちの屍と、女たちの肉。そして彼らの血。

 

 老いた秀吉はこの日、のちに三の丸殿と呼ばれる信長の年若い娘に、夜伽の相手を命じた。

 

END

 

-16ページ-

   散歩する麒麟

 

 茶の時間には帰って来いと言われながら、麒麟は散歩に出かけた。昔は江戸、今は東京と呼ばれる都へ、流星のように舞い降りる。

 

 とある線路沿いには、タヌキの一家が住んでいた。住宅街には食糧となる生ゴミが豊富なのだ。

 子ダヌキは親を真似て夜の線路を横切ろうと、電車が来る寸前に飛び出そうとしたが、近くを通ったなにかに気を取られたため、((轢|ひ))かれずに済んだ。

 それは大きな鹿か、鳥か、人か。この世に属さない奇妙な生き物。子ダヌキは本能に従って逃げた。

 

 夜が明け、あれはどの大名の鷹の子孫だったかと、麒麟は街中に作られた森を見やる。

 森にはオオタカの巣があり、複数の雛がいた。狩りに行ったオスはある日を境に、二度と巣に帰って来なかった。

 

 残されたメスは雛の世話をしながら狩りをしたが、雛たちは弱り続ける。

 そのうち一羽が地面に落ち、まだ飛ぶことができないため、カラスの餌食になった。

 

 そして雨の寒さに耐えられなかった雛が、また一羽死んだ。その後メスも巣に帰らず、最後の雛も力尽きた。

 オスもメスも、狩りの途中でカラスたちにやられたのか、見限ったのか。

 自然の掟の中で生まれては死んでいく命を、麒麟は羽先で撫でた。

 

 麒麟が人として生きていたころと比べると、街の形は変わった。

 城よりも高い建物の上には田んぼがあり、カエルがいる。平たい建物の屋上には、コアジサシと呼ばれる鳥の繁殖地もある。

 動物も昆虫も今の都で生き延びるため、生き方を変えている。

 

 人にとっては自然と呼べないだろうが、ここは人の生息地かつ繁殖地なので、大きな意味で自然である。麒麟にはそう見えた。

 

 定義はそれぞれによって違う。仁を定義するのが人であるなら、仁なき世を愛することで、この世はすでに仁が満ちているものの、人にはそれが見えない。

 

 人は見えないものを追い続け、麒麟は散歩しながら、追い続ける人々を見守る。

 

 日没後の駅前の街路樹に集うムクドリたちを狩るオオタカを見ながら、麒麟は空を駆けた。人が認識できる領域を超え、さらにその上へと。

 散歩から帰れば、人であったときはうつけとも呼ばれた若者が、「どこで油を売っていた」と口をとがらせていた。麒麟はすみませんと軽やかに謝る。

 

「狩りの供になれそうな相手を見つけましたので、つい」

 

 若者の大きな瞳は、麒麟の大きな角に((留|と))まるオオタカをとらえた。即座に「良い鷹じゃ」と笑顔に転じる。

 

「そなたの目に狂いはない」

 

 そう言うと麒麟の名を呼び、目を細めた。

 

END

 

-17ページ-

   後書き

 

兄と弟:((伝吾|でんご))の小話。伝吾は光秀に対する感情が重いけど、その重さはどこから来るのかと思って。あと主君に対して重い感情を抱えているけど表に出さないの、光秀と伝吾も似た者主従だよなと。

 

思い出せない夢:信長の小話。…というSF(すこしふしぎ)な夢を見たのさ。前世ネタ好きでしょ? うん好き。光秀かぐや姫説、天人ではないかという説を信長に割り振ってみました。8本脚の蝶の元ネタは、東大寺の花瓶に((留|と))まっている蝶です。

 

使者の品格:((義景|よしかげ))の小話。光秀が京に出張したときの((素襖|すおう))は義景が準備して貸し与えたそうなので、見繕ったのは家臣の可能性もあるけど、なんだかんだで光秀に似合う物を用意したのはさすがだと思って。

 

咲き誇る花のごとく:((左馬助|さまのすけ))の小話。麒麟ワンドロのお題『失う』で書いたもの。((鵠|くぐい))は白鳥のことです。左馬助が岸を一人の女性として意識したのはいつだったんでしょうね。

 

太陽の幻:なかの小話。秀吉の公家落胤説と日輪受胎説の組み合わせに、戯曲『マクベス』の雰囲気をふわっとそえたもの。秀吉の中の人が、Twitterのドラマ公式アカウントでのキャスコメで『マクベス』の台詞を引用していたので。

 

水飴のごとき愛:帰蝶の小話。信長の愛し方は生母の((土田|どた))((御前|ごぜん))と似ていると思って。

 

鳥たちのさえずり:女官たちの小話。38回で「信長のことを最も知っている男じゃと女官たちが噂しておる」という((正親町|おおぎまち))天皇の台詞があるので、光秀は宮中でも相当な有名人なんだと思って。

 

望みを叶える首:秀吉の小話。光秀の首は、ある意味で戯曲『サロメ』の預言者の首のようなものだったのではという、よく分からない思いつき。首に執着することで破滅への扉を開くという感じで。

 

ある元執事の所感:晴門|はるかど))の小話。生没年不明の人ですが、失脚後もある程度生きていたとすれば、どんな思いで本能寺の変の話を聞いたんでしょうね。

 

その身を捧げよ:たまの小話。駒は結婚の後押しをしたように、キリスト教に進むことに対しても、なんらかの形で、どこかのタイミングで後押しをしたんじゃないかと思って。

 

初陣の褒美:菊丸の小話。今も現存して伝来する光秀の脇差について。そういえばきりくる光秀も脇差を賜った武士も、初陣で兜首を取ったよなと思って。

 

神のみぞ知る:最終回の謎の男の小話。彼が持っていた刀が地蔵((行平|ゆきひら))だった場合、地蔵菩薩の加護かなにかが付与されそうだと思って。

 

ある子供の記憶:ウメの孫の小話。孫はオリキャラです。1回で登場したウメがあのまま成長して生き延びたら、物語の終盤では家庭を持っていたのかなと思って。三郎は最終回の謎の男の((仮名|けみょう))(捏造設定)です。

 

ある庶民の所感:伊平次とウメの小話。序盤の単発キャラが、その後も光秀となにかしらの繋がりがあったら面白いよなと思って。

 

生贄の肉:秀吉の小話。十五郎があのまま成長したら、信長は自分の娘と結婚させるだろうなと思って。

 

散歩する麒麟:麒麟の小話。光秀の中の人がナレーションを担当した『NHKスペシャル』の感想文のようなもの。喋り方が超越した存在のような感じだったので、麒麟概念化した光秀はこうなのかなと思って。

説明
ツイッターに投稿したきりくるの二次創作作品を加筆修正してまとめた掌編集です。秀吉が2本。伝吾、信長、義景、左馬助、なか、帰蝶、女官たち、晴門、たま、菊丸、最終回の謎の男、ウメ(孫)、伊平次とウメ、麒麟概念体が1本ずつ。ネタバレと捏造だらけなのでお気をつけて。前作→http://www.tinami.com/view/1057511
総閲覧数 閲覧ユーザー 支援
603 603 0
タグ
麒麟がくる

カカオ99さんの作品一覧

PC版
MY メニュー
ログイン
ログインするとコレクションと支援ができます。

<<戻る
携帯アクセス解析
(c)2018 - tinamini.com