ラブライブ! 〜音ノ木坂の用務員さん〜 第19話
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「……うっへぇ、こりゃすごい」

 

「はっはっは、壮観でしょう?」

 

「えぇ、そうですね。確かに壮観ですよ、ある意味」

 

雲一つなく吸い込まれそうなほど澄んだ青い空、燦々と眩しく輝く太陽。

目に優しくない陽射しを手で覆い遮る俺と、使い古され年季の入った感じの麦わら帽子をかぶる弦二郎さん。

そんな俺達の眼前に広がるのは、藻や砂埃等で濁って底の見えなくなったプールだった。

 

実は、明日は我らが音ノ木坂のプール開きが行われる日。

そんなわけで、今日は俺と弦二郎さんとでプール掃除に来ているのだ。

しかしいざ来てみたら、ご覧の有様というやつである。

こんな光景を見ても、なぜか楽しそうに笑っている弦二郎さんとはうって変わって、俺は少しげんなりしていた。

 

「去年の夏の終わりから、完全に放置しておりましたからなぁ。今年は……えぇ、まだ比較的落ち着いている方ですな」

 

「……これで、ですかぁ。ちなみに酷い時はどんな感じなんですか?」

 

「ふむ、まぁ、その年の天候次第ですが。台風とかが多ければ、もっと色々なものが入ってきて、ごちゃごちゃしとりますよ」

 

「はぁ、そりゃまた、掃除も大変だったでしょうね」

 

「大変には違いありませんが、今年は何が入っているのかというワクワクもある。ちょっとした宝探し気分というやつですなぁ、はっはっは」

 

「宝探しって……弦二郎さん、すごいですね」

 

「いえいえ、それほどでも。あぁ、そういえば去年はどこから飛んできたのか、アヒルの玩具が入っておりましてな。プールの水面に一つだけプカプカと浮かんでいるところが、これまたなんとも、しゅー……えー、なんというんでしたかな?」

 

「シュール、ですか?」

 

「おぉ、そうそう、それです! ふふ、あれは中々に愉快な光景でしたよ」

 

その時のことを思い出しているのか、くすくすと笑っている。

さっき宝探し気分とか言っていたし、今の弦二郎さん的には密林をかき分けてお宝を探す、冒険家のような気分になっているのかもしれない。

しかし苦労して見つけたお宝がアヒルの玩具では、あまりにもガッカリ感が半端ないけど。

 

(俺も男だし宝探しって単語には、心惹かれるものもあるにはあるけど……流石にプール掃除でワクワク出来る心境にはなれないなぁ)

 

しかも今でさえ酷い有り様だというのに、これ以上のプールなんて見た日には、俺ならやる気を一気になくす自信がある。

今だって内心では、やりたくないなぁと思っている所なのに。

 

改めてプールを見る。

長さ25mのプールで、深さは俺の胸元くらいだろうか。

そしてコースの数がひのふのみの……これを2人で掃除すると。

 

「……時間、かかりそうですね」

 

「これだけ広いのですから、まぁ、そこそこは。少し前までは、業者を呼んでやってもらっていたのですがねぇ」

 

「ここでも予算ですか、世知辛いですね」

 

金がなければ軽々しく業者に頼むことも出来ない。

切り詰める所は切り詰めて、出来る範囲のことは自分たちでやらなければならないのだ。

仕方ないとはいえ、面倒臭いことこの上ない。

 

「まぁ、そう気を落とさんで。業者が来ない代わりに、生徒に助っ人を頼んでますから」

 

「あ、そうなんですか?」

 

それを聞いて少し安心した。

こんな広いプールを俺と弦二郎さんだけで掃除とか、いったいどれだけ時間がかかるか分かったものじゃない。

……それでも弦二郎さんだったら、宝探し気分で楽しんでやってのけるのだろうか。

 

「それでは、これから水を抜きますので。直樹君もご一緒に」

 

「了解です」

 

 

 

 

 

水抜き作業をした後、掃除用具を準備していたら洗剤が空になっていることに気付いた。

前回使った時に補充するのを忘れていたのだろう。

予備を持ってくると出て行った弦二郎さんを待つ間、俺だけで使う掃除用具をプールサイドに並べる。

何人手伝いに来てくれるかわからないが、とりあえずあるもの全部出しておけば問題ないだろう。

デッキブラシとたわしの総動員だ。

 

「……ん?」

 

バケツにありったけのたわしを入れ、デッキブラシを腕に抱えて一気に持ち出そうとした時、その中にポツンと置かれていたアヒル人形を見つけた。

多分、これが話にあったアヒル人形だろう。

 

「お前が去年のアヒルか。今年はお仲間は浮かんでなかったみたいだぞ、残念だったな」

 

一瞬、このアヒル人形をプールに放って、来る生徒たちの反応を見て見ようかとちょっとした悪戯心が湧いてくる。

しかしどうせ掃除の時に横にどけるのだし、万が一にでもプールサイドで踏んづけて転んでも困るのでやっぱりやめておく。

 

「プールに水が張れたら泳がせてやるからな……って、人形相手に何言ってんだ俺は」

 

人形相手に独り言とか、少し悲しくなってしまった。

というか今は誰もいないからよかったが、これで誰かに聞かれでもしたら滅茶苦茶恥ずかしい思いをしただろう。

アヒル人形をバケツから取り出し、邪魔にならないロッカーの上の方に置いて掃除用具の運びだしを継続する。

それが終われば、後は弦二郎さんや生徒達が来るのを待つばかり。

ただ待つのも退屈で、暇つぶしとばかりにプールの水が抜ける様子を眺めることにした。

 

「おぉ、抜ける抜ける」

 

排水溝からゆっくりと水が抜けていき、水嵩が少しずつ下がっていく。

水中に漂っている大量の藻や砂埃等も水と一緒に抜けていくから、最後に残るのはそこまで多くならないだろう。

 

「……木の枝とか葉っぱとか、結構入ってるもんだな」

 

底が近くなってくると、重みで沈んでいたものも見えてくる。

今年は凄い台風とかはなかったおかげか、そこまで驚くような物は入ってないようだ。

それでも小さい石ころや木の枝などは、ちらほら見られる。

足を怪我しないようにサンダルは持ってきたけど、滑って転んで他のところを怪我しないようにも気を付けないとな。

 

「お疲れ様です」

 

飛び込み台の所でしゃがんで見ていると、誰かが入ってきたようだ。

弦二郎さんが言っていた手伝いの生徒だろう。

 

「って、あれ? 絵里ちゃん?」

 

「こんにちは、直樹さん」

 

振り返ると、上下短い体操着を着た絵里ちゃんがそこにいた。

 

「もしかして、君がプール掃除を手伝ってくれるのか?」

 

「えぇ。他にも、アイドル研究部の皆も来る予定です」

 

「そうだったのか。皆、忙しいところを悪いな」

 

「いえ、明日はμ’sのライブもありますし。綺麗にして、少しでも気持ちのいいステージにしたいですから」

 

明日のプール開きは任意の参加となっているけれど、シーズン中の安全祈願や希望者の初泳ぎ、そしてちょっとしたビンゴ大会といったお楽しみイベントもあるそうだ。

そのため毎年、そこそこの参加者はいるらしい。

 

しかしなんと今年は、μ’sがイベントでミニライブを披露することになっているのだ。

近頃、音ノ木坂でも話題になっていることもあり、今回のプール開きでは例年よりも参加者は多くなるかもしれない。

それにしても……。

 

「自分たちがライブをやる場所だからって、率先してプール掃除にまで参加してくれなんて。皆、真面目というかなんというか」

 

「……あー、えーと……」

 

当たり前のように言う絵里ちゃんだけど、それは中々出来ることではないと思う。

俺が少しだけ尊敬の眼差しを向けていると、絵里ちゃんはどこか気まずそうに視線を外す。

 

「……プール掃除の募集で、他に参加者がいなかったからという理由もあるんですけどね」

 

「……あぁ、うん。そっか」

 

言いにくそうに本音を語る絵里ちゃんに、なるほどというちょっとした納得感が湧いてくる。

もちろん絵里ちゃんのことだし、建前としてさっき言ったことも嘘ではないのだろうけど。

本音としては明日のライブに向けて、最後に軽く練習をしておきたかっただろうことは簡単に予想出来た。

 

「うわぁ! な、なにこれ!?」

 

そうこうしていると、今度は何やら驚いたような声が聞こえてきた。

 

「他の子達も来たみたいね。ちょっと行ってきます」

 

「あぁ、いってらっしゃい」

 

そう言うと絵里ちゃんは新しく入ってきた生徒、穂乃果ちゃん達の方へ向かった。

 

「はっはっは、賑やかになってきましたなぁ。生徒たちも集まってきたようで、これでプール掃除も始められるというものです」

 

絵里ちゃんが離れていったのと同時に、洗剤の入った容器を持って弦二郎さんも戻ってきた。

 

「いやはやそれにしても、儂の時代でも掃除を率先してやろうとする者など、そういなかったというのに。これだけ集まってくれるとは、最近の若者は感心ですなぁ」

 

「……そ、そうですね」

 

今も昔もそう変わらないと思いますよ、弦二郎さん。

さっきの絵里ちゃんのこともあるけど、他の子達も絶対率先して来たのではないだろう。

 

「ええっ! プール掃除!?」

 

「ちょっと絵里、聞いてないわよそんなこと!」

 

見ると、にこちゃんが絵里ちゃんに抗議をしていた。

様子を見る限り、今日プール掃除をするということは聞かされていなかったのかもしれない。

他にも事情を知らなそうなメンバーがプールサイドに来たあたりで、キョトンとした表情になったり驚きの声を上げている。

 

にこちゃんなんて、すでに水着姿での登場だった。

その水着も学校指定のものではなく、おそらくことりちゃん謹製のものだろう。

可愛らしいフリルの付いた黄緑の水着、星型のイヤリングといった数々のアクセサリーに、頭には南国風の花を模した髪飾りまで付けている。

多分あれが明日、にこちゃんがライブで着る衣装なのだろう。

 

どういう説明をうけて来たのかは知らないけど、にこちゃんからはここで予行練習をする気満々だったのが見て取れる。

あわよくば明日の初泳ぎの前に、先取りして泳ごうとも考えていたのかもしれない。

あてが外れて非常に申し訳ないけど、あくまで今日は掃除する日である。

 

そう絵里ちゃんにも言われたのか、にこちゃんは頬を膨らませて不満そうな態度を隠そうとしない。

しかし、しぶしぶといった様子で更衣室に向かい、絵里ちゃんと同じ体操着に着替えてきた。

他の子達もにこちゃんに倣い、体操着に着替えて出てくる。

なんだかんだ言っても手伝ってくれるのだから、本当にいい子達だ。

 

「……さて、水もだいぶ抜けましたな。時間をかけて遅くなるのもあれですし、さっそく始めましょう」

 

「そうしますか。おーい、皆! 面子もそろったみたいだし、プール掃除始めるぞ!」

 

『はーい』

 

集まった皆に号令をかけ、掃除用具を渡す。

それぞれデッキブラシやたわしを持って、プールに入っていった。

 

「……そうだ。せっかく集まってくれたんだし、終わったら何か差し入れでもするか」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

太陽が真上近くまで来て、もうそろそろお昼になるかという頃。

プール掃除を始めて約2時間が過ぎ、ようやく終わりを迎えた。

 

「や、やっと終わった〜」

 

そう疲れた声で言ったのはにこちゃんだ。

にこちゃんは掃除が終わってピカピカになった床に、よろよろと座り込んだ。

掃除の途中に凛ちゃん達と一緒に、洗剤で滑る床をスケートみたいに滑って遊んでいたのだが、いざ終わってみたらどっと疲れが押し寄せて来たらしい。

あれだけはしゃいでいたのだから、当然と言えば当然だろう。

 

俺としては藻や砂利をある程度流し終わった後とはいえ、滑って遊ぶのは危ないと思ったけど。

弦二郎さんもニコニコしながら見ていたし、手伝ってもらっているのだからこれくらい大目に見ようと、ヒヤヒヤしながら見守ることにした。

練習でバランス感覚を鍛えていただけあって、バランスを崩しそうにはなっても誰も転ばなかったのはよかったけど。

 

「にゃはは! ピッカピカだにゃ!」

 

座り込んでいるにこちゃんとは逆に、凛ちゃんはまだまだ元気なようで、綺麗になった床の上を走ったり跳びまわったりしていた。

流石はμ’sきっての元気っ子、その有り余る体力は無尽蔵なんじゃないかと思えてくる。

 

「ほんと元気だなぁ、凛ちゃんは。皆、お疲れ様。ほら、差し入れのジュースだ。皆で飲んでくれ」

 

ビニール袋に入れたジュースを片手に声を掛ける。

掃除があらかた終わって洗剤を水で流している間に、学校の向かいにある上田屋洋品店で人数分を買ってきておいたものだ。

 

あそこは学校で使う様々な品を扱ってる店だが、店の半分は駄菓子屋にもなっている。

この時期になると子供用のビニールプールに水を張って、店前で飲み物の販売もしているようだ。

値段も自販機で買うより安くて、校舎から少し離れてるのを気にしない生徒たちは、よくそちらを利用している。

ちなみに俺も常連だ。

 

「えっ、差し入れ!? やったー!」

 

差し入れと聞いて、目を輝かせた穂乃果ちゃんが駆け寄ってくる。

その姿がまるで飼い主のもとに駆け寄ってくる犬のように思えて、少し笑ってしまった。

 

「わぁ、ラムネだ! あはは、つっめたーい!」

 

袋からラムネの瓶を取り出し、頬に当てて気持ちよさそうにしている。

 

「暑い日、動いて汗かいた後に飲むラムネ。これがまた、格別に美味いんだよ」

 

「うんうん! わかるわかる!」

 

そう呟く俺に、穂乃果ちゃんが全力で同意してくれた。

……まぁ、仕事が終わった後に飲むビールとどっちが美味いかと聞かれたら、ちょっと迷ってからビールと答えるだろうけど。

 

「海未ちゃん、ラムネだよ! よかったね、海未ちゃんも飲めるジュースで!」

 

「えぇ、そうですね」

 

穂乃果ちゃんがラムネを皆に配って回る。

そして海未ちゃんに渡す時、少し気になることを言った。

 

「ん? 海未ちゃん、何か飲めないものでもあるのか?」

 

「あ、はい。私、炭酸の飲み物は苦手でして」

 

「……マジ?」

 

それを聞いて、少し悪いことをしてしまったかと思った。

サプライズ的に皆に内緒で買ってきたけど、一人一人の好き嫌いは念頭になかった。

たまに差し入れするのだって、スポーツドリンクや麦茶といった定番のものだったし、今回もそれにすればよかっただろうか。

 

「でも、ラムネだけは昔から飲めるんだよねー」

 

「えぇ、これだけは子供のころから好きで。プールの帰りとかに、穂乃果やことりと一緒に買って飲んでいましたね」

 

「うんうん! たくさん泳いで疲れた所に、キンキンに冷えたラムネがすっごくおいしいんだよ!」

 

「……まぁ、喜んでもらえたようでよかったよ」

 

受け取った皆を見ると、誰も不満そうな顔はしていない。

とりあえず今回選んだものは、皆が飲めるものだったようで一安心だ。

次は変にサプライズなんて考えずに、ちゃんと聞いてから買うようにしよう。

それはそうと、俺も結構汗をかいて喉が渇いた。

温くならないうちに俺も飲んでしまおう。

 

―――プシュッ

 

「おっとと、んぐ、んぐ……」

 

ビー玉を押し入れた瞬間、吹き出てくるラムネの泡。

俺はいそいそと口をつけて、そのまま瓶を傾けた。

 

「……ぷはぁ! あぁ、美味い」

 

今この時だけは、ビールよりもラムネの方が美味いんじゃないかと、そんな気がした。

 

 

 

 

 

備え付けのベンチに腰を下ろし、グッと背を伸ばす。

 

「はぁ、疲れた疲れた。まったく、皆はほんと元気だなぁ」

 

掃除を終えたので、早速注水を開始した。

少しずつ水が溜まっていくプールの中で、皆は水を掛け合ったり追いかけっこをして遊んでいる。

掃除を終えたばかりだというのに、こんなに体力が残ってる皆が羨ましい限りだ。

あれだけ疲れていたように見えたにこちゃんも、今では普通に皆に混じって遊んでいる。

若い子達は体力の回復も早いものだ。

 

逆に俺はこの不安定な足場のせいか、いつもより疲れてしまった。

特に下半身にきているようで、足が重く感じてしばらくは動きたくない。

音ノ木坂に来てから大分肉体労働にも慣れて、海未ちゃん式トレーニングの甲斐もあり体力はついているはずだけど、やはり慣れない仕事は疲労が溜まりやすいのだろう。

 

「お疲れ様です、直樹君。あとラムネ、御馳走様でした」

 

「弦二郎さん。そちらこそ、お疲れ様です」

 

どっこいしょと、隣に座る弦二郎さ。

俺の倍以上も年が離れているというのに、そこまで疲れたように感じられなかった。

毎年プール掃除をしているからか、この人にとってはこれももう慣れた作業なのかもしれない。

弦二郎さんはプールの中で水の掛け合いをしている皆を、いつもの優しい笑みで見つめていた。

 

「……これで、お終いですなぁ」

 

「そうですねぇ。まぁ、明日も普通に仕事はありますけど」

 

明日が休日だったらどれだけよかったか。

生徒達はプール開きで、なおかつ参加自由なのかもしれないけど、俺達職員は普通に仕事のある日で学校に来なければならない。

 

「もうこのまま家に帰って、ビールでも飲んで、明日の昼近くまで泥のように眠りたい気分ですよ」

 

「はっはっは。これだけ動いて、汗をかいた日に飲むビールは、それはもう格別でしょうな……ですがね」

 

俺がそう言うと、弦二郎さんも笑って同意してくれた。

しかしどこか少し遠い目をしながら、少し口を閉ざし……。

 

「……儂にとっての大仕事は、今日でお終いです」

 

「え?」

 

そんなことを言う弦二郎さんに、一瞬何を言ってるのかわからなかった。

困惑しながらもその意味を少し考えて、そして弦二郎さんが何を言いたいのかをようやく理解した。

 

「……あ、あぁ。そういえば、そうでしたね」

 

今更ながらに思い出した。

弦二郎さんが用務員を辞めるまで、残り一週間に迫っていることを。

弦二郎さんが辞める代わりに、俺が用務員になったのだということを。

今の今まで、そのことをすっかり忘れていた。

まったく、なんで忘れていたのだろうと我ながら呆れてしまう。

多分そんな簡単なことを忘れてしまうくらい今まで忙しくて、そしてここでの生活が充実していたせいだろう。

 

これから一週間、用務員の仕事はいつも通りあるものの、今回のプール開きのように特別な準備をすることはない。

後はすでに慣れてしまった、いつも通りの仕事が続いていく。

そして一週間が過ぎれば、もうこの音ノ木坂に弦二郎さんの姿はない。

改めてそのことを考えると、寂しさと同時に無性に不安な気持ちが湧いてきた。

 

「なんというか、あっというまでしたね」

 

「そうですなぁ」

 

俺なんてまだまだ未熟で、弦二郎さんの代わりが務まるか不安でしかない。

これから先も色々と学校行事はあり、それをこれからも弦二郎さんと一緒にやっていくのだと思ってしまっていたから尚更だ。

思わず口から出しそうになる弱音の言葉を、ぐっと押し堪える。

 

27にもなる大の大人が弱音を口にするなんてという見栄もあるが、何よりここから去る弦二郎さんに必要以上の心配を残したくなかった。

出来ることなら、なんの憂いもなく去ってほしかった。

しかしそんな俺のささやかな隠し事など、人生経験の豊富な弦二郎さんにはお見通しだったらしい。

 

「直樹君はよくやってくれていますよ。確かにまだ不慣れなところもあるでしょうが、そんなものは私の時も同じでしたとも」

 

「……」

 

「確かに君は、儂の代わりに用務員になるために音ノ木坂に来てくれましたな。ですが、“儂の代わり”になんてなる必要はないのですよ。君は君です、直樹君以外にはなれないのですから」

 

隠していた俺の弱音を簡単に見破り、弦二郎さんはいつも通りの優しい笑顔で、優しい声色で語ってくれる。

こうなれば俺に誤魔化す術などありはしない。

その有り難い言葉に、俺もただいつも通り耳を傾けることにした。

 

「儂も音ノ木坂に来て、もうずいぶんと経ちますがね。周りに迷惑をかけたことも、もちろん何度もありますとも。自分の力で何とかしようと四苦八苦したこともありますが、それ以上に周りに助けてもらうことの方が多かった」

 

「……弦二郎さんも、そういう時期があったんですね」

 

「もちろんですとも。沢山の失敗をして、沢山周りに助けてもらって、沢山の経験をしてきたからこそ今の儂が……ふふ、違いますな。今でもです。今でも儂は、皆に助けられながら用務員をやっとるのですよ。直樹君から見れば、儂はしっかりしてるように見えましたかな?」

 

「えぇ、そりゃもう。俺なんか足元にも及ばないくらい」

 

「はっはっは、そうですか。ならばそれは、それだけ隠すことが上手くなったということでしょう。これも年の功というやつでしょうな」

 

そう朗らかに笑う弦二郎さん。

だが俺は弦二郎さんを見ていたから気付くことが出来た。

 

“沢山の失敗”

 

そう言った時の弦二郎さんはどこか寂し気というか、辛そうな表情をしていたように見えた。

それが何か少しだけ気になったけど、聞くのは止めておいた。

俺より沢山の経験をしてきた弦二郎さんだ、楽しい出来事ばかりではなく、それだけ辛い出来事も経験してきたのだろうから。

そういうことは大抵、他人に細かく聞かれたいことでもないだろう。

 

「直樹君。きっと君は今後、沢山の困難にぶつかる事でしょう。その困難に恐れず、どうか勇気をだして進んでほしい。儂と同じように沢山の失敗を重ねて、沢山周りに助けてもらって、少しずつ一人前になっていって下さい」

 

「……一人前、ですか……ははっ、道のりは遠そうですね。いったい、いつになったらなれる事やら」

 

「まぁ、石の上にも三年と言いますからなぁ。何事も焦らず、慎重に、しかしここぞという時には大胆に行くことも大切ですよ?」

 

「……ですね」

 

そう言いながら、少し茶目っ気のある笑みを向けてくる。

そんな弦二郎さんに、思わず俺も少しだけ笑ってしまった。

 

「なぁに、今まで直樹君を見てきましたが、君ならちゃんと出来ますよ。儂が保証します……まぁ、こんな老いぼれの言葉では、少々頼りないかもしれませんが」

 

「……そんなこと、ないですよ」

 

そう、そんなことは決してない。

だって俺はこれまで弦二郎さんと一緒に働いてきて、一度たりとも頼りないなんて思ったことはないのだから。

現に今だって、さっきまでの不安な気持ちが少しだけ軽くなったように感じる。

だけど完全に不安がぬぐえていないのは、それはただ俺の心が弱いから。

自分に自信を持てていないからだ。

 

だけど自分の事は信じられなくても、小鳩さんや弦二郎さんの事だったら信じられる。

初めは小鳩さんに誘われて始めた、この用務員の仕事。

小鳩さんが俺のことを信じて誘ってくれて、弦二郎さんが俺を信じて後を任せてくれた。

自分自身を信じられなくても、2人の事だったら心から信じることが出来る。

 

「頑張ります。俺、頑張って一人前になりますから」

 

「えぇ、頑張ってください。儂も理事長も、それに他の皆だって。いつでも君のことを応援していますよ」

 

俺の言葉に、弦二郎さんは優しく頷いてくれた。

頑張ろう、今まで通り、いや今まで以上に。

早く、とは言わない。

少し時間がかかってでも、俺がしっかり一人前になる事。

これが俺が弦二郎さんや小鳩さんに出来る、何よりの恩返しだ。

 

「……っと、そうだ」

 

俺はふと思い出し、用具置き場に向かう。

そして目的のものを持って、すぐ戻ってくる。

 

「おや、それは」

 

俺が持ってきたもの、それは弦二郎さんが去年見つけて仕舞っておいたアヒル人形だ。

それをプールの中に放る。

踝くらいまでしか溜っていない浅い水の上でも、そいつはぷかぷかと気楽そうに浮かんでいる。

 

「あんな暗い所にいたら、こいつも可愛そうでしょう? そんなわけで、今日くらいはと思いましてね」

 

「ふふ、良いと思いますよ。やはりアヒルというのは、お天道様の下で自由に泳いでるのが似合っているものです」

 

「えぇ、ほんとに」

 

どことなくアヒルも少し嬉しそうに見えるのは、ただの俺の気のせいなのだろうか。

弦二郎さんの隣に座り直し、ぐっと伸びをして空を見上げる。

そこには青い空に、燦々と眩しく輝く太陽。

 

聞こえてくるのは少しずつ溜まっていくプールの水音に、賑やかに遊ぶ皆の楽しそうな声。

ふと足元の飲み終えたラムネ瓶を持ち上げてみれば、ビー玉が透明なガラス瓶の中でカランと小気味良い音を鳴らして転がる。

ついでにぷかぷか浮かぶアヒルの人形と、ここには夏の風物詩が目白押しだ。

 

「……」

 

そんな中でそっと目を閉じれば、かつて子供だった頃のことが少しずつ思い起こされてくる。

あの純粋で何をするのも楽しくて仕方のない、まだ子供だった日々。

長い夏休みの訪れを今か今かと待ち望みながら、心の中で何かが始まるようなワクワク感が込み上げてくる感覚。

とうの昔に置き忘れてしまったそんな感覚が、俺の中で少しだけ生まれていた。

 

……と、そんな時、ふと気付く。

さっきまでのしんみりした気持ちが、すっかり消えてしまっていることに。

これが夏の力という奴だろうか。

再び空を仰ぎ見て、眩しい太陽に目を細める。

 

「……あぁ……夏、ですねぇ」

 

「えぇ、夏ですなぁ」

 

暫く前から続いている暑い日々。

それに輪をかけて、本格的に暑い夏がやってくる。

 

 

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(あとがき)

約1年ぶりのラブライブ投稿。

夏ということで、以前ちょこちょこ書いていたプール開きの話しにしてみました。

ちなみにプール開き編は、小説の方にあった話ですね。

漫画とか小説読んでると、真面目系な絵里ちゃんと思いきや、意外な一面のようなものも色々見れて中々面白いです。

もちろん他の皆もですけど。

アニメから見始めた作品ですが、やはりアニメだけではわからない部分もたくさんありますね。

説明
久しぶりにラブライブの投稿。
今回はプール開きの話し。
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