愛しい人へ。−写真− |
つい最近拾ったばかりの黒猫が、
棚に置いてあった革の鞄を、床に落としてしまった。
飛び降りるときに、足にあたったのだろう。
その鞄は、滅多に使うことはなかったし、
無造作に乗せてあったので、
猫の足がちょっとあたっただけで、
落下してもしょうがない状態だった。
鞄の蓋がちゃんと閉まってなかったせいか、
真っ逆さまに落下して、
中身を盛大にばらまいてくれていた。
「あーあ。やってくれたなぁ。」
言ってはみたものの、別に腹がたったわけではない。
中身は、ちょっとした書類と、
入れっぱなしのボールペンやティッシュが出てきたくらいだった。
落とした本猫は、俺の顔色を伺いながら、
足下に近づいてきて、
「にゃーん。」
と、掠れた声で鳴いた。
黒猫は、街中でみつけた。
暗い路地の片隅に、闇に溶け込むように座っていた。
建物と建物の隙間から見える、切り取ったような狭くて真っ暗な夜空を、
ぼんやり見上げていた。
「怒ってないよ。大丈夫。」
そう言って、黒猫の頭を撫でてやると、
安心したようにその手に額と頬を擦りつけてくる。
しばらく撫でてやった後、中身を鞄に戻す作業に移った。
「何だ?これ。いつの書類だ?
・・・去年の冬のじゃん。」
今は、9月だから、半年前のやつだ。
入れっぱなしだった。
まぁ、いいか。
書類といっても、新しい商品の説明で。
もう、とっくに売り出されている物だ。
「捨てるか。」
ざっと目を通した結果、
「紙類は全部捨ててよし。」
破いて、丸めてゴミ箱へ放り投げる。
リサイクルって言うけど、
これだけをリサイクルにまわしたってなぁ。
ぶつぶつとエコではない言い訳を呟く。
「ティッシュとボールペンは、鞄の内ポケットへ・・」
鞄を拾い上げたとき、蓋に引っかかっていたのだろう、
少し厚めの白い紙がひらりと落ちた。
「あ。」
プリクラだった。
『彼女』と初めて撮った写真。
アルバイトの彼女は、明るくて、可愛くて、
職場の誰からも好かれた。
俺も彼女が好きだった。
彼女と過ごすうち、好きが大好きに変わった。
そのうち、彼女が誰かと仲良くしていると、
いらいらするようになった。
あっという間に、彼女のことが本当に好きになっていた。
だが、彼女には、もう決まった人がいて、
毎週末に、彼女の元に通ってくる。
それでもいいと思った。
彼女の傍にいられるなら。
彼女に触れられるなら。
彼女と二人きりで、いられるなら。
俺は、彼女に好きだと言った。
二番目でもいい、と、言った。
彼女は、少し迷ったが、俺を受け入れてくれた。
このプリクラは、その頃撮ったものだった。
俺は嬉しくて、有頂天で、
プリクラの数だけ、表情を変えた。
でも、彼女の表情は、全部同じだった。
口をきゅっと結んで、口角が少し上がってるかな、くらいで、
目は全然笑っていない。
ポーズは少しずつ違うが、表情は全部同じ。
その横で、俺だけがはしゃいで写っている。
これを全部もらっていいかと訊くと、
「いいよ。」
と彼女は応えた。
それはそうだろう。
こんなものを、自分の部屋に置いておくわけにはいかなかっただろう。
そのときは、そんなことは考えもしなかった。
ただただ、嬉しかった。
幸せだとさえ思った。
今になって改めて見ると、
「馬鹿だったな、俺は。」
ため息混じりに、その言葉を口にしたとき、
いつの間にか肩に乗っていた黒猫が、
俺の手からプリクラを叩き落とした。
「なにす」
なにするんだ!と言うつもりだった。
でも、言えなかった。
猫が見ていた。
悲しそうな目をして、俺を見ていた。
「いくとこ、ないのか?」
俺は黒猫に話しかけた。
野良猫に、人間の言葉が通じるとは思わなかったが、
黒猫が暗くて狭い空を、身じろぎもせずにみているので、
その様子が、あまりにも切なかったので、
俺は、黒猫に話しかけた。
黒猫は、ちらっと俺を見たが、また空に視線を戻した。
「誰か、待ってるのか?」
その言葉に、黒猫は、
ゆっくり目を閉じて、再び開けると、視線を落とした。
「にゃぁ。」
小さく鳴くと、ゆっくり立ち上がり、
俺の横をすり抜けて、ネオン輝く大通りへ出て行った。
あのときの目と同じだった。
消え入りそうに、「にゃぁ」と鳴いたときと。
「同情してくれるのか。」
黒猫はまだ同じ目で俺を見ている。
「俺は、勘違いしてたんだ。
いつか、俺が彼女の一番になれるって。」
俺は彼女とできる限り一緒にいた。
彼女の学校が終わる時間に、車で迎えに行ったり、
二人きりで遠くにドライブに行ったり、
彼女の実家や俺の実家に行ったりもした。
俺は彼女の写真を沢山撮った。
彼女は、笑ったり、いたずらっ子のように舌を出して見せたり、
うっとりとした目線をカメラに送ったりした。
あのプリクラのときのような無表情ではなくなっていた。
だから、俺は思い込んだんだ。
「彼女は、彼氏じゃなく、俺を選んでくれるって。」
でも、週末には必ず彼氏が来る。
職場に、彼女を迎えに来る。
今日こそは、俺と一緒に週末を過ごしてくれるに違いない。
今日こそは、俺を待っててくれるに違いない。
そんな希望は毎週木っ端微塵に打ち砕かれた。
彼が来て、彼女は帰る。
彼を迎える彼女の嬉しそうな顔。
蕩けるようだ。
二人で手を繋いで、笑い合いながら出て行って、
彼の車に乗り込むときの笑顔。
あの目つき。
俺は嫉妬した。
嫉妬したなんて、簡単なもんじゃない。
腹の底から湧き出てくる、煮えくり返るような怒り。
「なんで俺じゃないんだ!」
声の限り叫んで、あらゆるものをぶち壊したい衝動。
つらい!苦しい!
あのときは、二番目でもいいと思った。
でも、今は!
なんで、俺を選んでくれないんだ!
「もう、俺の前に二度と現れるな!」
俺は、怒鳴るように言った。
憎しみの全てをぶつけるように、彼女に言った。
彼女は何も言わなかった。
ただ、俺を見ただけだった。
否定も肯定もされない。
いても、いなくても、かまわない。
俺は、彼女にとって、それだけの存在だった。
「あのときの表情は、
プリクラと同じだったな。
やっぱり、馬鹿だ、俺は。」
黒猫が頬に額を寄せてきた。
いつの間にか、頬を涙が伝っていた。
こんこんと、俺の頬にそっと額をぶつける。
「なぐさめてくれるのか。」
掠れた声で言いながら黒猫の頭を撫でる。
「にゃぁ。」
黒猫も掠れた声で鳴く。
「大丈夫。今はお前がいるから。」
俺は、黒猫を肩から下ろし、腕に抱き直した。
プリクラは、裏返しに落ちて、
絨毯のグレーを、そこだけ白く切り取ったようになっていた。
説明 | ||
実際に体験したり、聞かせていただいた話を、物語風に書きました。 元はノンフィクションではありますが、全体的にはフィクションです。 |
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