夏への扉
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ミンミン、ジワジワ、耳鳴りのように錯覚するセミの大合唱。雲一つない青い空には真っ白な閃光を放つ夏の太陽がある。歩道の先に立つ陽炎で住宅街の風景が歪んで見えて、アスファルトは熱したフライパンみたいに暑くてスニーカーの底が解けちゃいそうだ。俺たちはTシャツの首元や裾をパタパタと仰いで、日陰の犬がそうするように口を開けてははあはあと息を荒げた。

「あ゛ぁっづ……」

「おい、本当に此処は武蔵野国なのか……?」

「むさしの……ええと、多分そうです……」

ひょんなことから、現代に戻る俺にくっついてきてしまったヤサカニマガイさん。大昔の日本はこんなに暑くなかったらしくて、額から何から流れる汗を腕で拭い、郊外のしまむらで買ったTシャツをびっしょりと張り付かせている。俺も相当汗かきだけどマガイさんも相当だな。

「京も夏は暑かったがその比では無いな……」

そういえば京都って盆地なんだっけ、だから暑いって習った気がする。それでも現代は温暖化とか気候の変動とかに加えて、コンクリートやアスファルトが熱を溜め込んでしまうから昔より遥かに暑いんだろう。ああ、マガイさん髪長いから大変そうだな。ふと見つめた横顔に黒髪が一筋汗で張り付いていたから、何となく指先で払ってあげた。マガイさんは何か言うのも億劫そうで、じろりと俺を一瞥してそれきり何も言わなかった。

しかしマジで暑い、確かに猛暑とは言ってたけど限度ってものがあるだろう。街には俺たちの他に歩いている人はいない、当たり前か、こんな暑いのに外歩いてるほうがおかしいんだ。

……と、目の前に見えてきたコインパーキングの横に自動販売機を見つける。俺はデニムのポケットから財布を取り出し十分に中身のあることを確認してマガイさんに声を掛けた。

「マガイさん何か冷たいもの飲みます?」

「何だ、泉でもあるのか」

「そういうわけじゃないですけど、売ってるんです飲み物が」

いくらなんでもこんな街中に急に泉は湧いてない。だけどもっと便利なものはある。俺はちょっとだけ早足になって自動販売機の前まで行くと、「これこれ」と指差して見せてマガイさんを待つ。マガイさんはじっとりとした視線で懐疑的に俺と自動販売機とを見比べて眉間に皺を寄せた。そっか、知らないのかこれも……それならやってみせるまでだ。

「この面妖な箱は何だ」

「これは飲み物を売ってる箱です。何がいいですか?おごりますよ」

えへん、と胸を張って小銭を取り出すけど、マガイさんは自動販売機を舐めるように見ては難しい顔をしている。時々ボタンが光るとビクッとするのがおもしろ……いや、興味深い。やがてマガイさんは上の段のペットボトルを指し示して俺を見た。

「ならば、水を」

「お水でいいんスか?スポドリとかコーラとかありますよ」

「得体の知れん物は口にしない」

せっかくの機会なんだし色々飲んでみればいいのに、と思うけど強制したって仕方ない。マガイさんの家のこととか、時代のこととか考えたら疑わしいものを迂闊に飲んだりせずに慎重になるのは当たり前のことだろう。俺は「わかりました」と素直に頷いて、投入口から百円玉を二枚入れてピッと点灯したボタンを押して水を買った。

間もなくガコン、と取り出し口に落ちてきたペットボトルはよく冷えていて掴んだだけで気持ちがいい。俺は取り出したそれをマガイさんに「どうぞ」と差し出した。だけどマガイさんときたら目を見開いてまた自販機をガン見してる。ガン見して、中を覗こうとしているのかアレコレと角度を変えて観察しているから流石に何なんだと思って呼び掛ける。

「ど、どうしたんすか」

マガイさんは水片手に立ち尽くす俺を睨むと、視線はそのままに自動販売機からそっと離れ、まるで秘密を打ち明けるような小声でもって俺の耳元で囁いてきた。

「こんな狭く閉ざされた箱の中に、誰か居るのか……?」

ぼそっとした問い掛けに、俺は思わず笑いそうになったから我慢する。マガイさん、中に誰かいてお水を出してくれたと思ってるんだ……うわ、何かちょっと可愛いなマガイさん。俺は不審がるマガイさんの肩を叩くと笑ってその手にペットボトルを渡した。

「いませんいません、誰もいませんよ」

「なら金子を投げ入れ水が出てくる仕組みをどう説明する!?」

「そういう機械なんですよ、人がいなくても、飲み物が買える機械なんです」

俺は釣り銭口に出てきていた十円玉を回収すると、財布から取り出した百円玉と合わせて投入口に放り込んでいく。再び光ったボタンを「ほら」と彼に見せながら押して、取り出し口に落ちてきたコーラのペットボトルを掴んでみせる。もちろん誰かがこの鉄の箱の中からえいやっと投げてくれたわけじゃない。マガイさんは首を傾げて自分の水を見つめては釈然としないとばかりにごちた。

「きかいと云う物……全く良く解らんな」

「解んなくてもいいッスよ、正直俺も自販機の仕組みなんて知りませんし」

買ってさえしまえば用はないし、再び並んで歩き出す。まさか本当に人が入ってたらどうしよう、なんてちょっと考えてから、次から夜や早朝のロードワークの時に自販機で飲み物を買うときはちょっと緊張しそうだと思ってしまった。

マガイさんはペットボトルをどう開けたらいいのか迷っていたから、そのてっぺんの堅い蓋を捻ればいいんですよ、と言う。俺が教えた通りに蓋を開けたマガイさんは、中の水を一気に飲み干してしまった。慎重さのかけらもない。喉乾いてたんだな……暑いの苦手そうだしもっと気を付けてあげればよかった。

かくいう俺も喉がカラカラだ。ペットボトルの赤いキャップを回すと、ぷし、と空気の抜ける音と一緒にコーラ特有の甘い匂いが夏の中に漂う。すん、と鼻孔を膨らませたマガイさんが俺の手元を覗き込んでは空になった柔らかいペットボトルを紙屑みたいに握り潰す。

「薬のような香りだな」

「あー、そういえばスパイスとか入ってるらしいし、実際昔は薬みたいな感じだったらしいッスよ。あ、飲んでみますか?」

まだ喉が渇いているのだろうか、興味津々の表情はちょっと可愛らしくも見えてくる。俺は彼が警戒しないように数口コーラを飲んでみせると、指先で飲み口を拭ってから彼にペットボトルを差し出した。素直に持たされたマガイさんは足を止めてじっと黒い液体を見ているから、俺も立ち止まって事の成り行きを見守る。さあ、飲むのか飲まないのか。お、匂い嗅いだ、そのまま口をつけて、傾げて持ち上げて……飲んだ!!

「!?」

コーラがマガイさんの口の中に入った瞬間、目はくわっと大きく見開かれて驚きとも戸惑いともつかないような表情になる。どうにか飲み込んだようで噴き出しはしなかったけれど、嚥下した後しばらくむせまくったマガイさんは、口元を腕でぬぐいつつ俺にペットボトルを突き返しては物凄い勢いで迫ってきた。

「毒か!?」

「毒じゃないです炭酸ッスよ!!」

初めての炭酸飲料は、マガイさんにとって『毒』だと判断されたようだ。俺は甘い飲み物の中にわざとシュワシュワする気体を入れてるんですって説明したけど、マガイさんは無言のまま視線だけで「何故そんなことをするんだ」と言っていた。俺にも全然わかりません、美味しいからいいじゃないですか。

「チッ、口の中が妙な感じだ……」

舌がイガイガするのか口を何度も開け閉めしながら顎をさするマガイさんが可愛くてつい笑顔になってしまう。するとそれに気づいたマガイさんは俺を睨んで頬をつねってきた。

「おい、此方の不慣れを余り笑うな」

「ふ、ふいまひゃん」

俺が謝るとマガイさんはすぐに手を離してくれて、それから溜息を吐いてその手でまた俺のコーラを持ってぐいっと一口飲んでしまった。ごくん、と飲んで、それから「うう」と短く呻いて顔を顰めてる。マガイさんなりに慣れようとしてくれてるのかな、そうだったら嬉しい。彼から返されたペットボトルに俺も口をつける。今更気付いたけどこれ間接キスだな……まあいいか、マガイさんだし気にしてなさそうだし。

「この味にも慣れた頃には、帰らねばならんのだろうがな」

「そうッスね……」

ミンミン、ジワジワ、セミの声が一際大きくなったのは、立派な木々がそよぐ公園が見えてきたからだ。そこで一休みしましょう、と言ったらマガイさんは黙って頷いてくれる。

「暑いッスねぇ」

「そうだな」

いつもあっという間に終わってしまう夏だけど、今年は終わらないでいてほしいような、そんな気がして二人で空を見上げた。

説明
逆に現代にやってきたら、の夏の話。ほんのりやさしん風味。
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