唐柿に付いた虫 36 |
大蝙蝠とそれを追う鞍馬達の眼下に山脈が近付いてくる。
その大地の背骨の如く連なる山脈の中ほどに、夜でもなお明るく灯る篝火が鞍馬と戦乙女の目に映る。
周囲の鉱山で働く者ら、そして採掘された物を運搬するための道を守る為に建造された陣屋が、その後、その地の利と鉱山からもたらされた富により増改築を施され、ついには金城鉄壁を誇る事となった難攻不落の城塞。
人呼んで「誉れ高き堅城」
その、巨神の如き威容が、月明かりの中に黒々と聳え立つ。
「軍師殿……」
「ああ、判ってる」
戦乙女に返す鞍馬の言葉が重い。
あの城は、未だ妖魅が跳梁する山向うの地に対し、人の生活が戻って来たこちらの世界を護る防壁。
逆に言えば、あれが見えて来たという事は、自分達の制圧した領域の果てに来た事を意味する。
奴がそこまで意図しているのかいないのかは知らないが……ここを超えてしまえば、いかに彼女たちであれ、追跡を躊躇う危険な領域。
いや、そもそも、これ以上の追跡をするだけの力は、もう二人には残っていない。
「戦乙女、私が先に行く」
「……頼めますか?」
互いに顔を見交わして、鞍馬が頷く。
お互い限界は近いが、当初からあの大蝙蝠を相手に大立ち回りを繰り広げていた戦乙女の消耗は、鞍馬より勝る。
彼女がこれ以上、追撃の速度を上げるのは厳しい。
「ただ、私も足止めがやっとになるだろう……」
今よりさらに速度を上げれば、攻撃に回せる力がその分落ちる。
それでも、自分の攻撃手段より、戦乙女の方が、恐らく奴に対し、より強力な一撃となりうるだろう。
そして、その一撃で棺を奪取出来ねば、自分達の負け。
その重要な一撃を任された戦乙女が、気負った様子も無く頷いた。
「承知しました、奴への止めはお任せを……ただ、棺の回収は軍師殿にお願いします」
恐らく、私にはその余力も残らないでしょう。
静かにそう口にした戦乙女の顔。
緊張はあるが、硬さも昂りもない、大事な局面を任せるに足る戦士の顔を見出し、鞍馬は前を向いた。
「判った、任せて貰おう」
言葉を風の中に残し、大天狗の翼が力強く空を打ち、猛禽の狩りの如く大蝙蝠に一息に迫る。
「招鬼、陰爪」
低く呪を呟いた鞍馬の手にした羽団扇に、小暗い刃の如き影が宿る。
本来であれば、暴風の中にこの刃の如き力を解き放ち、敵を纏めて切り刻む、陰爪旋風として知られた術。
その刃の力だけを手元に凝集する。
急速に迫る強敵の気配を、大蝙蝠の感覚もまた、敏感に感じ取っていた。
だが、与えられた命令は、足に掴んだ棺の死守。
今は交戦では無く、逃走を優先せねばなるまい。
相手は、既に上空から落下の速度を乗せた攻撃に移っている。
こちらが気が付いていないとでも思っているのか、確かに速さは凄まじいが逆に言えばそれだけの単純な攻撃。
初撃さえ躱してしまえば大きく距離は離れる、追撃を振り切って逃走するには十分だろう。
そう見切った大蝙蝠が、更なる速度を得ようと、大きく翼を打ち振ろうとする。
その動きが、鈍った。
加速するどころか、翼の動きを阻害され失速した体が、急激に高度を下げる。
見えざる網。
その身に纏った闇の気に絡みつくような、強靭な力がその身を縛るのを感じ、大蝙蝠は不快気にその巨躯を大きく震わせた。
その力強い動き、そして内在する妖気が、その見えざる網を引き千切る。
自由になった翼を再び大きくはためかそうとする……それが空気を捕え損ね、姿勢を崩した。
鋭い刃に、右の翼が半ばから大きく切り裂かれ、半ばから千切れたそれが風の中に舞った。
更にその巨体に何かが強かに打ち当たり、大蝙蝠は更に大きく姿勢を崩した。
「ふむ、これだけ強力な妖だと防壁とはならぬが、足止めくらいにはなるか、良い知見が得られたな」
上空からの突進で奴の翼を切り裂き、その勢いのまま奴の背を蹴りつけるように着地した鞍馬が低く呟き、にやりと凄絶な笑みを浮かべた。
誉れ高き堅城は山脈の中央を押さえ、その山脈に隔てられた二つの地点を繋ぐ街道を守護する要として建造された物。
つまりは気の流れの交差点、『辻』に位置する霊的な要地でもある。
山の民の長である紅葉御前や山神の化身たるおゆきの力を借り、庭の力と堅城の力を繋げ、庭の結界を延長するようにして山脈全てを、未だ自分達の手が及ばない地域からの妖の侵入を防ぐ霊的な長城とした。
流石に広域過ぎる事で力は庭のそれに劣る結界で奴を阻む事は出来まいが……その動きを一時阻害する程度は。
その、鞍馬の目論見が的中した。
だが、大蝙蝠の動きが止まったのもほんの一時、右の翼が瞬時に再生し、それを力強く振って、大蝙蝠は急上昇し、次いで急角度に降下を始める。
「……おっと」
手にした刃で、更に翼の付け根を斬ろうとしていた鞍馬が、急激な動きに耐えられなかったか、その背から放り出された。
背が軽くなったのを感じ、大蝙蝠はあの天狗の行先を捜すように、旋回しながら視線を巡らせ、鋭敏な聴覚で相手の羽音を拾おうとした。
だが、どこからも羽ばたきの音が聞こえない。
目を回して地に落ちてくれるような間抜けな敵ではない、困惑気味に周囲を窺う、その大きな耳元で囁くような声が聞こえた。
「私をお探しかな」
死神の囁きの如き声と同時に、耳の穴から頭蓋に、刃が強かに刺し通される。
痛撃に声を上げる、その頭が蹴られ、天狗の気配が再び消える。
脳を抉られたせいか、視界が霞み、耳鳴りが酷く音が拾えない。
この闇の王直属の肉体は、そんな傷すら即座に再生を始める……とはいえ、奴の得体の知れぬ攻撃には直ぐに対応出来そうも無い。
不利を悟り、何とか距離を離そうと、大蝙蝠は強く羽ばたき、とにかく鞍馬の間合いから離脱しようと速度を上げる。
皮の翼が空気を叩く、一打ち、二打ち、三打ち。
速度が乗り出した、その翼が両方共に、半ばから鮮やかに斬り飛ばされた。
ぐらりと揺れ、落下を始めたその背中を蹴って空に逃げた鞍馬が、大きく翼を開き風を捕まえた。
「八艘飛びか、弟子のせいで妙な名前を付けられてしまった物だ」
鞍馬の手にした羽団扇の先に宿していた、影の刃が薄れて消える。
極限の集中と魔の刃で消耗し尽くし、大きく肩で息をしながら、鞍馬は視線を下に向けた。
「後は頼んだ、戦乙女」
「何という……」
少し離れた位置に居た戦乙女が、歴戦の彼女ですら目にした事がない戦闘術に、低く驚嘆の声を上げた。
鞍馬は飛翔しながら戦っていたのではない。
飛びながら戦う時に、敵の間合いの内に入り込もうと小回りを利かそうと思えば、どうしても翼と体に無理をかけ、要らざる消耗を強いられる上に、その羽音で位置を察知されてしまう。
必然的に空を戦場とする者は、間合いの長い弓や戦乙女のような槍を得物とするか、もしくは天狗たちのように風を刃とし、炎の礫を放つような術を使う道を選ぶ事になる。
だが、そんな常識をあざ笑うかのように、鞍馬は奴の動きを先読みしながら、その巨体を足場にして跳躍を繰り返す事で、その位置を悟らせる事無く、空ではあり得ない接近戦の間合いを維持し続けてみせた。
複雑な要素の絡む相手の行動の先を、その思考や体のつくり、筋肉の動きを読み切った上で仕掛け翻弄する、彼女の創始した武術の秘奥。
鞍馬の弟子が、波間に揺れ、複雑に動く船の間を飛び移りながら戦い得たのは、この闘術の修練あったればこそ。
「この妙技の後では、恥ずかしい真似は出来ませんね」
今度は、私の番です。
「戦の神も照覧あれ」
戦乙女の槍先で燃え盛っていた青白い炎が更に巨大な炎となったかと見る間に、鋭く長い円錐形を取る。
ここ、日の本の国には存在しない、馬上槍と呼ばれる、馬の突進力をただ一点に集約し、いかなる守りも貫く武器の形。
その槍を真っ直ぐに突き出し、戦乙女は最後の力を振り絞り、相手に狙いを定めて一息に加速した。
その背にはためく巨大な翼と相まって、蒼白の首を伸ばした巨大な白鳥の如き姿が、夜空を駆ける。
その眼前で、大蝙蝠の巨体が二つに分かれ始めた。
鞍馬に頭を攻撃された故か、先程見せた、瞬時の分身とは行かないようだが、頭や翼を再生しながら、確かにその身が二つに分かれ始める。
「一体を盾にして、もう一体は逃げる算段ですか?!」
奴の持つ底知れぬ闇の生命力の何と旺盛な事か、あの鞍馬の攻撃の後でなお分身が出来るとは想定していなかった。
消耗し尽くしている今の自分が、あの難敵を二体纏めて貫けるのか。
ここで、奴を逃がしてしまったら、召喚師殿が……。
闇を切り裂く光の槍先が、彼女の迷いを映したのか、ほんの微かに揺れる。
(迷っているのですか、戦乙女)
「……え?」
その揺れた炎の中に、師とも仰ぐ故国の女神の姿が一瞬見えた。
この私が……迷っているの?
あれほどに精神を鍛え、戦場に立つに際し、強固な揺るがぬ心を養って来た私が。
あの方の命を乗せねばならぬと思った時、こんなに槍先を重く感じてしまうのか。
フレイ様。
私は、こんなに……弱かったのですか。
「良い事ですよ、大いに迷い、悩みなさい、戦乙女」
あれは、何を迷っていた時だったのか、導くべき戦士の魂を見定める事が出来なかった、あの時だったろうか。
私の迷いを見抜いたフレイ様が、普段は厳しい顔に微笑みを浮かべながら語り掛けてきた言葉は、私には意外過ぎる物で。
「しかし、フレイ様、戦士に迷いは禁物なのでは?」
戦乙女の言葉を肯定するように、彼女は軽く頷いて言葉を継いだ。
「貴女の言うように、戦場での迷いは死に繋がります」
ですがね、戦乙女。
「悩みと葛藤とは精神の鍛練でもあるのです」
「精神の鍛練」
「そう、だからこそ、真なる戦士は戦場に立つ前に、存分に迷い、悩み、葛藤するべきなのです」
貴女は私が教える前に、自らその端緒に立った、それはとても素晴らしい事です。
肉体を鍛えるように、その精神を日頃より練磨するのです。
「それあればこそ、戦場に赴く時に、迷った果てに得た答えを一つだけ胸に抱き、他の全てを置いて行く事ができるのです」
それをせず、己には迷いなど無いと無邪気に信じ込んでいただけの魂は、戦場で重く鋭い問いを突き付けられた時に初めて迷い、惑い……そして多くは答えを出せず、その心は脆く崩壊するのです。
「戦士としての生を選ぶ以上、迷いを完全に捨てる事は恐らく不可能でしょう、ですが、鍛えた心は、たとえ戦場で迷う事があっても、その場で己を取り戻す事ができるのです」
肉体の鍛錬が戦場の試練を超えさせてくれるように、精神の鍛練もまた、過酷な現実を突き付けて来る戦場に立つ貴女を支え、導いてくれるでしょう。
だから大いに、迷い悩みなさい。
命を奪う事、守るべきもの、誰の為にその槍を振るい、何の為に自分は死地に身を置き、戦うのか。
分身を終えた大蝙蝠の内の一体がこちらに飛来する。
盾になる事を目的にしているためか、最前、戦乙女を翻弄したように動き回る事は無い、真っ直ぐこちらに飛来する。
貴女は、ちゃんと迷い、悩み、葛藤して……貴女の答えと共に戦場に立っていますか、戦乙女?
「……はい、フレイ様」
戦乙女の槍先と視線が一点に……こちらに飛来するそれでは無く、棺を抱えて逃走に掛かろうとしている方に定まる。
私が今、誇りと共に胸に抱いた答えは一つ。
ヒツギヲマモレ。
それが受けた命令はそれだけ。
こちらに迫る敵の槍先が自分では無く、棺を抱えた方に向くのが見える。
ヒツギヲマモレ。
自分は、その行先を阻まねばならぬ。
血に刻まれた命令が、全身を衝き動かす。
あの力を相手に正面切って相手をするのは愚策、だが全力を乗せるために単純で真っ直ぐな突進となった今なら、すれ違いざまに横から攻撃を加え軌道をずらしさえすれば事足りる。
寸前で躱し、この足の鋭い爪で、奴の槍持つ腕を抉ってやろう。
奴の槍先に割って入る。
自分の姿を認めたというのに、その槍先に一分の乱れも見られない。
……気に食わんな。
二つに分かれた自分の攻撃などたかが知れていると思われているのか。
侮られるのは慣れていない、受けた命とは別に、自身の誇りが目の前の敵を排除する事を望む。
そろそろ間合いに入る……その身を上昇させようと羽ばたこうとする。
その指示を出そうとした、その頭に、力ある言葉が重々しく響いた。
トマレ。
……何だと?
棺を守れという命令が唐突に消失し、変わって発せられた一つの命令。
主たる存在の、力ある言葉。
その活動の一切を停止せよ、闇風。
真名を以て発せられた言霊がその身を縛る。
何故だ?
理解できない。
青白い炎の槍がその身に迫るが、主より与えられた血が、その体を動かす事を拒絶する。
何故だ、主よ!
言葉に出来ない絶叫がその喉から迸る。
戦乙女の目に、槍先の炎の色が映る。
青白い……死衣を思わせる。
本来は彼女たちの敵たる巨人族が操る終焉の炎の力。
滅びの予言を回避するために、私たちは、敵の力も研究し、我がものとして来た。
本来使ってはならぬ力だが、今この時は已むを得ない。
「世界を灰燼に帰す終焉の炎を纏い、全てを貫け……レーヴァテイン!」
何の抵抗にもならなかった。
鎧袖一触と言うのもおこがましい、路傍の石ですら無かった。
強靭な大蝙蝠の肉体が薄紙の如く槍に貫かれ、そのまま奴を引き裂くように、戦乙女の体が通過する。
二つに裂かれた体が、青白い炎に焼かれ瞬時に灰と化す。
ラグナレク(灰の雨)をもたらす、破壊の炎。
それが勢いを緩めることなく、もう一体を襲う。
ぎいと悲鳴を上げて、速度を上げようとする。
その意思は……闇のそれであれ、生物が当然持つ生存の意思は有った。
だが、血に刻まれた命令が、その翼の動きを拒んだ。
全ての活動を停止せよ、闇風。
その翼と胴体を、青白い炎の槍が貫いた。
槍先に灯っていた炎が消えた
「成し遂げました……フレイ様」
空に残った、あの大蝙蝠の足と、それが掴んだ棺が落下を始める。
だが、それを鞍馬が押さえる。
棺は確保した。
それを見届けた戦乙女の視界が霞む。
「少々、無理をし過ぎましたか」
「戦乙女!」
叫ぶ鞍馬の声も遠い。
吸血姫殿、軍師殿。
「召喚師殿を、頼みます」
白鳥の翼が、消えた。
説明 | ||
式姫の庭の二次創作小説になります。 「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。 詠唱まではパクりませんでしたが、ようやく式姫4コマで使いたかったネタが……ようやく。 戦乙女さんが楽しいことやってる式姫4コマはコチラからどうぞ、今作の元ネタは17話です https://www.shikihime-project.com/comic/index |
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コメント | ||
OPAMさん いつもありがとうございます、鞍馬と戦乙女、二人の性格を映したそれぞれの戦闘シーンの連続と対比を、一つの曲のようと表現して頂けたのがとても嬉しいです。(野良) 戦闘場面の描写が美しい。前半の華麗な動きは映画の長回しのような、途切れない流れるような動きと緊張感が感じられ、後半の回想からつながるシーンは、感情と攻撃の動きが真っ直ぐにシンクロしたところでの決め台詞、前半と後半通して一つの曲のように調和が取れていて美しい。お見事です。(OPAM) |
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