『鉄鎖のメデューサ』(第1章〜第7章) |
<第1章>
「見つけたぞ!」「やったよう、兄貴!」
一年の半分が雪に閉ざされる辺境都市スノーフィールドからもなお奥まった雪山の中、二人の男たちの歓声が切り立つ氷壁にこだました。
見るからに山育ち丸出しの大男たちだった。背丈は頭一つほど違っていたが顔はよく似ていて、誰の目にも兄弟だと知れた。
ただどちらが年上かは、見た目ほど簡単な話ではなかった。
「ボビン兄貴よう。これをあとは届けるだけなんだろ?」
背の高いほうの男がそういった。丸太のような腕や足は人食いオーガ並みの力をそなえていそうにさえ見えるほどだった。だが顔つきはいかにも間が抜けていて、背の低い兄に頼りきっている様子があからさまに出ていた。どうやらおつむの方もオーガ並みということらしかった。
「そうだタミー。スノーフィールドに持ちかえれば約束の礼金で当分は遊んで暮らせるってわけだ」
弟同様ろくに手入れもしていない黒いあご髭をしごきながら、ボビンは弟を見上げた。確かに弟ほど間が抜けた様子ではなかったが、賢明というにはまだいささか開きのある顔だった。依頼を受けて丸二か月もかけてクレバスを探し歩いてやっと見つけた探し物からいかに多くの利益を引き出すか。弟に比べれば回る頭はすでにそのことを考え始めていた。スノーフィールドに戻るには一週間かかる。考える時間には困らないだろうが、食料のほうは尽きかけている。急ぐにこしたことはない。
彼らは氷の塊に閉ざされたそれを犬橇に載せ厳重に覆いをすると、二か月もの間さんざん苦労させられた雪山を後にした。
−−−−−−−−−−
「せっかく持ってったのに、なんで金もらえないんだよぅ」
回数を想像する気にさえなれぬほど繰り返される愚かしい弟の同じセリフに、ボビンの忍耐も限界に近づきかけていた。極寒のスノーフィールドのはずれの二人暮らしの一軒屋の地下室は火の気がなく冷えきっていたが、にもかかわらず心理的な不快指数は亜熱帯さながらの驚嘆すべき水準にまで迫りつつあった。
「留守だったんだからしょうがないだろ! 明日また持っていけばいいんだ! そしたらこいつとはすっぱり縁が切れらぁ」
「そんなにおっかねえのか? これ」
「何度いわせる! 睨まれたら石になっちまうんだよ!」
「でも、今はこいつが石になってるんだろ?」
「石になってるんじゃない。凍ってるんだ!」
「固くなってるっちゅうのは凍ってるってことだろ?」
「凍るのと石になるのは違うんだ」
「だって、前おれが牛乳を家に入れるの忘れて凍っちまったとき兄貴怒ったじゃねえか。石みたいにしやがったって」
「あれは例えだ! こいつはほんとに石にするんだよ!」
「だから凍っちまうから固まるんだろ? こいつだって凍ってるから固いんだろ? だったらやっぱり凍るんだろ?」
あの時と同じだった。依頼人からこの話を受けた後計画を練るために入った酒場でタマーシュは、タミーはやはり石になるのは凍るのと同じだといい張ったのだ。いい合っている自分たちの声がどんどん大きくなったらしく周りの連中が眉をひそめているのに気づき、ボビンは慌てて弟を引きずり店を出たのだ。依頼人にバレれば報酬を減らされても仕方ない失態だった。秘密厳守だとあれほどいわれたばかりだったのだから。
「……もう好きにしろや」
不毛なやりとりに疲れ果てた頭でボビンはいった。タミーの愚痴と頑固さに抗う立場に立たされた形になってはいたが、依頼人の不在ゆえに報酬が受けられずムシャクシャしていたのはボビンとて同じだった。少しでも値を吊り上げなければ収まらない気分だった。
だがそれは、この一週間ずっと考えてきたのに答えが見つからなかった問いだった。そもそも依頼人がなぜこんなものを欲しがるのかボビンは知らなかった。だからどうすれば値を吊り上げられるかなど見当もつかないままだったのだ。
こんな薄気味悪い代物のなにがいいんだ。畜生、わからねぇ。さんざん苦労してやっと見つけて運んできたってのに……。
待てよ、苦労? 苦労だよな?
苦労したんだったら、金をたくさんもらうのは当然だよな?
だったら! そうだ、俺たちはとことん苦労したんだ!
ボビンはそれをひらめきだと思った。天啓だとさえ思った。タミーとの不毛ないい合いに疲れ果て鈍磨した己の頭の状態になど気がまわるはずがなかった。自分に向けられたのは幸運の女神の微笑みなどではなく、騒動の妖精レプラコーンの嘲笑かもしれないなどと考えられるわけがなかった。
「火を起こせ! こいつの氷を溶かすんだ!」
いわれた意味がわからずきょとんとしたタマーシュをボビンは怒鳴りつけた。
「こいつを凍ったまま届けちゃだめだ! クレバスの中で凍っていたのをそのまま積んできただけだってバレちまう。氷さえ溶かしておけば俺たちがさんざん苦労してこいつを捕まえたんだっていい張れる。金だってせびれるし、うまく評判になりゃ俺たちの名も上がらぁ。メデューサを捕まえたゴルト兄弟ってな!」
弟はまじりけのない尊敬のまなざしで兄を見下ろした。
二人は馬車馬のような勢いで暖炉に火を起こし始めた。
半時あまりで巨大な氷塊に閉ざされていたものの姿があらわになった。
全体の印象は小型のリザードマンに似ていなくもなかった。腹を赤い大きな鱗が、背を緑の小さな鱗が覆っている様はトカゲや蛇に似ていたし、発達した後足と短い尾は二本足で歩くものであることを示唆していた。
だが、リザードマンとはかけ離れた点も多かった。
頭部がトカゲそのものであるリザードマンに比べると顔の印象は閉じたまぶたや頬を覆う小さな鱗にもかかわらずむしろ人間、それも少女に似ていた。だが頭部を覆うのは毛髪ではなく蛇の頭や尾に似た触手の束だった。氷水に濡れたそれらは力なく垂れていた。
どういうわけか細い首には鎖の切れ端がついた金属性の首輪をつけていた。人間に比べてさえ華奢な上体に垂れた鉄鎖はどこか無残な印象のものだった。白い毛に覆われた首の下の肩から腕にかけての部分も子供に比べてさえ細く、細長い爪を備えた三本指の短い腕も繊細と形容すべきものだった。
対照的に下半身は明らかに強靭な脚力を備えた下肢を支える発達した筋肉に覆われていて、同じく三本指ながら腕とは対照的な大きさがあった。しかしその下肢も今は力なく投げ出されたままだった。
その下肢に、タミーがおそるおそる触れた手を引っ込めた。
「冷てえや!」
「あたりまえだ! ずっとクレバスで凍ってたんだぞ」
「やっぱり凍ってたから固いんだよな」
「……もうやめてくれや」
ボビンの口調は心底うんざりしたものだった。
「暖炉の前に置いとけ。余熱で乾くだろ。日の出前に運ぶぞ」
二匹のオーガのごとき兄弟は地下室を出て扉を閉めた。
二時間ほど過ぎたころ、暗闇の中で眼点をそなえた触手が一本ゆっくりと裏返った。周囲の触手の眼点にもかすかな赤い光が宿り、尾のような触手もわずかに慄いた。やがてより多くの触手がうごめくようになり、周りの環境に関する情報を少しづつ脳へと送り始めた。
霞が晴れてゆくようにしだいに意識を取り戻し始めた鉄鎖の妖魔が最初に感じたのは全身を覆い尽くした鈍痛だった。冷えきった筋肉が上げる軋みに小さな口からかすかな呻きがもれた。そして体内の空洞を内から噛り広げるような激しい飢え。
触手の一本が近くを通ったネズミに反応し、反射的にその方向を鞭打った。しかし本来の動きをまるで取り戻せていない触手は空しく床を打ち、ネズミは逃げ去った。
混濁した意識から故郷の樹海の中で食べた果物や昆虫、小動物の味の記憶が浮かび上がった。力が入らず自分のものではないような手足を無理やり動かして、妖魔はうつぶせになった体を前ににじらせた。
そのとき扉が開く音が、階段を降りる足音がした。
眼点をそなえた触手の群が歩み寄る大男の姿を捉えた。恐怖に触手の束が逆立った。
大男の動きが一瞬止まった。次の瞬間、がんがんするような大声が怒鳴った。
「ば、化け物っ! くたばれえっ!!」
太い腕が斧を掴み振り上げたのを触手の眼点が捉えた。
殺気に対する恐怖が細い両腕を突っ張らせ、上体を起こし顔を振り仰がせた。まぶたが限界まで開き、細く絞られた金色の瞳が現れるや死への恐怖が視線に魔力を乗せ大男を射抜いた!
「どうしたんだよう、兄貴!」
ただならぬ大声にタマーシュは驚き地下室に駆け込んだ。兄は階段の下に立ち尽くしていた。伸ばした手がその背に触れた。
固かった。だが、氷の冷たさではなかった。
鈍い頭がボビンのいっていたことをようやく理解しかけたとたん、タミーは兄の足下から小さな脅えた顔が自分を見上げるのに気づいた。
それが彼の意識が、そのとき捉えた最後のものだった。
オーガのごとき大男二人が石に変わってからも、妖魔の脅えはなかなか鎮まらなかった。人間に囚われていた間の記憶が恐怖に拍車をかけていた。
余りにも長く囚われていたのだ。人間の言葉が断片的にわかるようになるほど、拾った釘で鎖の輪を一つ削り切ることができたほど。
故郷とまるでかけ離れた厳しい寒気は、肉体を弱らせる以上に絶望的な距離を実感させた。日の出前にもかかわらず表を往来するたくさんの人間たちの気配に心が折れそうだった。気配に脅えつつも空腹に耐えかね家の中を探して見つけた干し肉とパンは、囚われていた間与えられていたのと同じだった。惨めな記憶の味しかしないそれらは、悪夢が終わっていないことを冷酷に告げるものだった。
それでもここから逃げ出したい。故郷の樹海に帰りたい。
その身におそるべき力を宿しながらもボロボロに苛まれた妖魔の心を、いまやその思いだけが支えていた。
<第2章>
家の中にあった食べ物が三日でなくなり、ここから出なくてはならない時が来たことを小柄な妖魔は悟った。
この三日間で体力はかなり回復していた。だが深夜でさえ完全には途絶えない人間の気配のおかげでほとんど眠れずにいたことから、精神的な疲弊はむしろ増していた。気配の多い日中は地下室の片隅で黒い粗布の下に潜り込み、震えているばかりだった。その粗布は凍っていた自分が運び込まれたときに覆いとして使われていたものだったが、むろん妖魔の知るところではなかった。皮肉なことに今やそれは、剥き出しの恐怖から僅かながらも身を遮ってくれるかけがえのないものと化していた。
ここを出るなら深夜しかなかった。そして、自分の姿をさらすわけにいかないこともわかっていた。妖魔はもはやなくてはならないものになっている粗布を苦労しながら身にまといつけた。頭からすっぽり被り込み、前がはだけないように短い腕で内側からかき寄せ、長すぎる裾が足にからまないように触手と尾でやはり内側からたくし上げたので、我れ知らずちんちくりんで着膨れた背の曲がった老婆のごとき外見になっていた。
深夜になった。妖魔は戸口でしばらく気配を探り、人の気配が途切れているのを確かめ思い切って外に出た。
雪は降っていなかったが街路は凍りついていた。足跡が残らないのはいいとしても、滑る上にちぎれそうな冷たさに足が痺れ、とうていまともに走れそうな気がしなかった。
道は両側に延びていたが、どちらにいけばいいのかについてはなんの知識もなかった。
耳を澄ませた。左手方向は遠くでざわめきが聞こえたので反対方向に足を踏み出した。
道の両側はどこまでも建物が並んでいた。その中は人間たちであふれているはずだった。自分はこの場所の外へ出たいのだから人間の巣に近づくわけにはいかない。おのずと道の真ん中を歩く形になった。
激しい恐怖が襲ってきた。眼点を持つ触手を粗布で覆っているせいだった。いつもなら全ての方向が常時見えているのに、今は顔の正面にあるものしか見えない。気配だけは探れるにしても、どこから人間が近づいてくるかわからないこの状況下で視界が制限される恐ろしさは想像を絶するものだった。周りの巣穴の全てから見張られているような気がした。ともすればすくもうとする脚をむりやり動かして、ひたすら歩みを進めた。
すると向こうから馬に乗った人間が二人やってきた。たちまち両脚が硬直した。
鎖を切って逃げ出したとき馬に乗った者どもに追われた記憶がよみがえった。
あの時は開けた場所だったから、小回りが効く自分は追っ手をなんとか振り切れた。とはいえ崖から滑落しクレバスをさ迷ったあげく、吹雪に巻かれて力尽きる結果も招いたが。
でも、ここは両側が人間の巣で遮られた一本道。相手は二人。直線では馬の脚にはかなわない。だいいち騒げば周囲の巣という巣から無数の人間があふれ出るに違いない。
ならばとにかく目立たないようにするしかない!
あわてて道端に退き、地下室でしていたように地に伏せた。脚を抱えるようにしてひたすら身を縮めた。縮んで縮んでこの身がなくなってしまえばとさえ思いつつ。
馬の歩みは全く歩調を変えず、ますます近づいてくる。恐怖が高まるにつれ、われ知らず両目に魔力が漲り始める。
真正面で馬の歩みが止まり、我が身が心臓ごと石になったように硬直する!
「……物乞いか。この寒いのに」
伏せた顔のすぐ手前の地面で、小さな物が跳ねる硬い音。
「警備勤務中に貧民に施しなど不謹慎だぞ!」
「いいじゃないか。婆さん、たまには暖かいものでも食えよ」
「きさまはそもそも貧民どもに甘いんだ」
再び馬が歩き出し、まだなにか言いながらそのまま遠ざかってゆく。
気配が去ってかなりたってから、小柄な妖魔はやっと長い息を吐いた。自分の姿を見られずにすみ、敵意を誘発させずにすんだのだと実感した。
彼らの会話には知っている言葉が混じっておらず意味まではわからなかったが、少なくとも「メデューサ」「化け物」「怪物」などの呪わしい言葉は含まれていなかった。だからこそ自分は、あのぎりぎりの瞬間に恐慌に落ちずにすんだのだと。
種族の常として産み捨てられた卵から孵化して以来ずっと独力で生きてきた妖魔には名前などなかったが、縄張りを侵す同族や敵に警告する発声機能は持ち合わせていたし、群れで行動する他種族の動向を察知するための解析能力は親の教えを受けられない身にとって極めて重要なものだった。樹海を渡る猿の群れは餌のあるところへ移動しているのか危険から逃げているのか。樹海の外れの草原の支配者である群狼は狩りをしているのか移動しているだけなのか。自分の学習能力一つで妖魔はそれらの様々な声とその意味するものを聴き分けながら生きてきたのだ。
そんな妖魔が人間に捕らえられたとき、真っ先に覚えたのが彼らが自分を指していう「メデューサ」「化け物」「怪物」などの言葉だった。だが、それは単なる呼び名ではなかった。他種族の発する音声をその行動の意味に結び付け理解する妖魔にとって、なによりそれは人間が自分を害するときに発する音声にほかならなかった。例外はなかった。自分を捕らえて虐待するか、樹海の奥の森ゴリラなどとは比較にならぬ凶暴な力で粉砕しようとする者ばかりだったのだから。
自分の姿を見た人間がそうして襲いかかってくるのなら、決して姿を見せてはいけない。そう考えたから小柄な妖魔は我が身に粗布を纏った。その結果、馬に乗った人間たちは自分に呪わしい言葉を吐かなかったし気配にも害意が感じられなかった。だから自分もぎりぎりで恐怖に耐えられた。その結果、彼らは危害を加えることなく去った。
これならこのおぞましい人間の巣窟を、本当に抜け出せるかもしれない!
きわどい危機を切り抜けられたという思いが恐怖の暗雲を払い体に力を与えた。これまでとは見違えるような確かな足取りで、妖魔は凍った石畳を踏んで立ち上がった。
そのとたん叫び声がして、人間の足音がいくつも駆け寄ってきた!
<第3章>
右手の建物の陰の路地から小さな人影が一つ、次いで大きな人影が二つ飛び出してきた!
「助けて! あいつら人殺しだ!」
そう叫んだ小さな人影が妖魔の方を見た。そして反対方向へと駆け去りざまにまた叫んだ。
「そこの裏路地で! おばちゃん逃げてっ!!」
「畜生っ、クソ餓鬼!」
「面倒だ、先にババアを畳んじまえっ」
我先にと大きな人影が二人駆け寄ってくるや、振り上げた手の握る血染めの得物が赤光りした!
妖魔は混乱していた。最初の人影は大きさがそれまで見てきた人間の半分しかなかった。だから人間ではないと思った。しかし人間の言葉で叫んだ。ではやはり人間か。ところが後ろの人間に追われている。ならやっぱり人間ではないのか。それとも人間は人間も追いかけるのか。
パニックをおこしたまま体が勝手に反応し、脚が蹴りを放ったが、軸足が凍った石畳に滑った!
おかげで男は命拾いした。爪で腹を芋刺しされるかわりに踵が胸を蹴り上げ、背後の仲間もろとも石畳に叩きつけられた。昏倒した二人はそれきり動かなくなった。だが体の軽い妖魔も反動で路上に叩きつけられ、瞬時に意識が遠のいた。
「おばちゃん!」
ロビン少年は倒れた老婆に駆け寄った。だが見下ろした鳶色の目が驚愕に見開かれた。
はだけた粗布から顔から胸にかけての部分が覗いていた。それは人間ではなかった。髪の毛のかわりに蛇みたいなものが生え、緑の鱗が胴体ばかりか顔の一部まで覆っていた。
なのに、その顔は二年前に病死した姉とそっくりだった。
ロビンは孤児だったから、魔物に関する知識は全くなかった。だからそれが何者なのかわからず、ただ絶句したまま呆然とその顔を見つめていた。
だしぬけに彼は、その首に鎖が巻きついているのに気づいた。どこからか逃げてきたのだと直感した。
そのとき頭上の窓が開き、誰かが叫んだ。
「人が倒れてるぞ!」
ロビンの足元の何者かが目を見開き飛び起きた。怯えた視線が周囲を見回し一瞬ロビンを見たが、蛇のような髪が伸び上がるやロビンの背後を探った。背後から迫る蹄の音にロビンも気づいたとたん、姉の顔をしたそれは身を翻し駆け出した!
「待って!」
少年も駆け出したが、相手の姿はもう見えなかった。
小柄な妖魔は全力でひた走った。何人かの人間にも出会ったがかまわず駆け抜けた。顔が剥き出しになっているのはわかっていたが、もはや頭を覆って視界を遮る恐怖には耐えられなかった。とにかくここから逃げ出したかった。その一念に突き動かされた妖魔はただまっしぐらに大通りを走り抜けた。
遂に視界が開けた。出口だと思った。だが、そこに見えたものに妖魔の心は挫かれた。
大きな橋がかかっていた。だから視界が開けたのだ。だがその向こうにはいままでの建物よりもずっと大きな建物が果てしなく重なり合っていた。まるで連山のごとき巨大な巣窟だった。
妖魔は悟った、巣の中心部に来てしまったのだと。
やがて、背後に人間たちの気配が集まってきた。馬の蹄の音もあちこちから聞こえた。橋の上に出るしかなかった。
けれど行く手の巨大な巣窟に威圧され、橋の真ん中で動けなくなった。渡りきることなどできるはずがなかった。橋の上から下を見下ろしたが、星明りだけでは様子がわからなかった。相当な高さがあることを、吹き抜ける風の強さに感じただけだった。
引くも進むもならぬまま、巨大な橋の上で立ち往生した小柄な妖魔の心をじわじわと絶望が覆いつくしていった。
<第4章>
「メデューサ、ですか?」
警備隊本部の一室に呼び出された五人の若者のうち、リーダーである赤毛のアーサーが聞き返した。
「メデューサ、だそうだ」
隊長のスティーブが、いささか曖昧な口調で繰り返す。
「目撃情報では夜半過ぎに中心街に向かう大通りを疾走する黒い衣を纏った小柄な人影が、蛇の髪を生やしていたという。ただしもの凄い速さで走り去ったため、詳しく見た者はいないそうだ。目下のところ路上で石化された者は発見されていない。大通りの周辺で被害にあった者がいないか調べているところだ」
そのとき一人の警備隊員が部屋に入ってきた。
「大通り沿いの一軒家の地下室で石化された大男二名を発見しました! そこからまっすぐ中心街に向かった模様であります」
「これでメデューサに間違いないというわけか。他には?」
「途中の路上で倒れていた男二人、これは路地裏で強盗殺人を働いた容疑で拘束しておりますが、黒いぼろを纏った小柄な老婆に蹴り倒されたといっています。またその少し前、深夜警備の者が同様の姿の老婆が一軒家近くの道端に伏せていたのを見ております。物乞いと思い施しを与えたそうですが全く動かなかったと。貨幣はそのまま手づかずで放置されておりました」
「確かに大通りをまっすぐ移動ということになりますな」
情報収集を担当するアンソニーが、そんな彼らしいコメントを挟む。
「そいつは今どこに?」
贅肉など皆無の長身に、色の浅い金髪が印象的な男が尋ねた。剣を持てば五人の中でも最高の手練れたるリチャードだ。
「中心街に入る橋の上で動かずにいるのが現状だ」
「どういう気なんだろうな。まあ魔物の考えなど我々では察しもつかんが」
リチャード以上にがっしりした体躯に剛力を秘めつつも、鋭さより大らかな印象の勝る黒髪の戦士エリックがいった。
「動きが速い上に石化の魔眼では、やはり離れた位置から呪文で叩くしかありませんわね」
金髪碧眼の紅一点にして魔術師のメアリの表情は、エリックと対照的な厳しさだった。
「その様子だと中央図書館には成果なしか?」
尋ねたアーサーに、メアリは公開済みの全文書に紐づけされた水晶玉を戻しつつ頷いた。
「伝聞に頼った役に立たない情報ばかりですわ! うかつに近づけない相手だから詳しい生態は不明とかいう言い訳け付きで! この大陸にはもっと骨のある冒険者はいませんのっ?」
「まあ責めるのは酷かな。でも、おかげで我々が近づく初めての人間という栄誉にあずかるわけか」
「正直なところ遠慮したいでありますな」
エリックの言葉をアンソニーが混ぜ返す。
「とにかくフォーメーションを組むぞ。やはり日の出以降になるかなリチャード」
アーサーの言葉にリチャードが頷く。
「メアリの呪文が決め手になるなら夜は危険だ。視線に魔力を持つ上に人間より夜目が利くかもしれない相手ならどうしても不利になる。あとは我々四人が盾になってメアリに目を向けさせないようにするしかないだろう」
「ならば相手をできるだけ惑わせる布陣で臨むしかないな」
そしてスノーレンジャーの名で呼ばれる五人の若き隊員は、額を寄せ合い一つのフォーメーションを練り始めた。
<第5章>
橋の真ん中で立ち尽くす妖魔の頭上の空がゆっくり白み始め、遠巻きにするだけで動きがなかった河の両岸に群がる人間からもざわめきが高まり始めた。
ものすごい数だった。どちらの橋のたもとにも馬に乗った人間の一団が控えていて、河岸も人間の群にびっしり埋めつくされていた。壊れた蟻塚にひしめく蟻さながらだった。
大きな橋なので、馬の脚でもたどり着くのには時間がかかる。何人かは動きを止められるだろう。だがそれまでだ。いっせいに両側から攻められたら多勢に無勢。あっという間に呑み込まれてしまうに違いない。
そのとき、一つの戦いの記憶がよみがえった。草原に迷い出て狼の群に襲われたときの記憶だった。
−−−−−−−−−−
橋の東の渡り口に三人の若者が立っていた。長身のエリックと中背のアンソニーは普段と違い警備隊員の制服に身を固め、紺のマントをはおり兜で頭部をすっぽり覆っていた。体の大きさ以外は髪の色の違いさえ全く判別できない寸分違わぬ同じ姿だった。メアリだけはフードのある紺の長衣に魔術士の杖を手にした軽装だったが、エリックの巨体の後ろに立つと色を合わせたマントのせいもあり、正面からは完全に陰になって見えなかった。
「本当に盾はいりませんか?」
新人とおぼしき警備隊員に念を押されたエリックは応えた。
「盾ごと石化されないという保証がない以上、邪魔になるだけだからな。相手の様子はぎりぎりまで見極めたい」
若き警備隊員は尊敬のまなざしでエリックを見上げた。
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回想の中で、今よりずっと小さかった妖魔は狼の群と戦っていた。幸運なことに大岩で背後を守ることができたため、なんとか持ちこたえていた。もしも平地で囲まれていたら、たちまち食い殺されていたはずだった。
離れた相手は石化させようとした。近づくものは蹴りたてた。だが周りから攻められ翻弄されて視線も定められず、小さな体の放つ蹴りには威力がなかった。鼻づらに命中した蹴りが一匹を退けたとたん、伸びきった足に別の一匹が食いついた。地面に引き倒された小さな妖魔にひときわ大きな一頭が跳びかかった。
だが喉に食いつかれる寸前に魔眼が顔面を射抜き、狼の巨体は大岩に激突した。
すると、群の動きが明らかに乱れた。動揺し統率が失われた。さらに二匹が石化された時点で群狼は逃げ出した。深手を負った片脚を引きずりながらも、妖魔はなんとか樹海にたどり着いた。そして身をもって知ったのだ。集団で行動する種族は、統率者を失えば崩れることもあるのだと
まともに戦って勝てる数ではない、でも統率者を倒し動揺させることができれば、あるいは活路が開けるかもしれない。たとえどんなに小さなものでも。もうそれしかない!
妖魔は気力を振り絞り、脅える心を抑えつけた。鎮まる恐怖と入れ替わるように感覚が研ぎ澄まされるのを覚えた。
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橋の西の渡り口にいるアーサーとリチャードもエリックたちと全く同じいでたちだった。二人は警備隊の現場指揮官と、最後の打ち合わせを終えようとしていた。
「相手を牽制しながらぎりぎりまで近づくつもりですが、もしも遠くから先制されて我々が全員やられた場合は、迷わず両岸から突撃させて下さい。騎馬隊を目隠しに押し立てて背後から弓隊が矢を射かける。おそらくそれが最も被害が少ない方法だと思います。万一そんな相手を取り逃がせば住民にどれだけ被害が出るかわかりません」
「心得た。十分気をつけてくれ!」
頷き二人が橋に足を踏み出すと背後で狼煙が上がった。それに応じ東岸からも狼煙が上げられた。向こう岸の三人も歩き始めるとの合図であると同時に、妖魔に対する最初の牽制だ。
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朝日に照らされた巨大な巣窟を背景に、煙が一筋立ち昇るのを妖魔は見た。それに呼応するように昇る朝日の光の中にもやはり煙が立ち昇った。
西の動きが東の動きを先導している。では、西にいる方が統率者?
やがて、両側から人間が二人づつ、ゆっくりと近づいてくる。西からは大きな者と小さな者が、そして東からも水面に映る像のごとく、大きな者と小さな者がゆっくりゆっくり進んでくる。
寸分の違いもないその姿に妖魔はとまどった。外見上はどこも違わない。ではより危険なのは大きい方か小さい方か? 見ると小さい方が僅かに大きい方を先導しているように見える。でも、力はどう見ても大きい方が強そうにも思える。
そして、やはり西の二人の動きが、東の二人より僅かながらも先んじている。
最初は西と東を交互に見比べていた小柄な妖魔も、触手の眼点による警戒こそ怠らないものの、しだいに朝日を正面から浴びてひときわ目立つ西の二人に顔が向いたままになっていった。
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「こっちの出方を窺っているみたいだな」
囁くリチャードにアーサーも小声で応えた。
「かなり知能は高いのかもな。あたりかまわず暴れまわるというのではなさそうだ。変に脅えさせたりしなければ、むやみに攻撃しないのかもしれないな」
「そうあってほしいものだ。いくら囮とはいえ、できれば石化はご免こうむりたいからな」
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「意外と小さいですなぁ。子供ですかねぇ」
アンソニーの言葉を受けて、エリックが背後のメアリに小声で尋ねた。
「中央図書館の頼りない文献にはどう出てた?」
「人の背丈程度としているのが大半でしたわ。信じてよければの話ですけど」
「それでも大の男を二人も石化か。力が強くないから防御能力が発達するというケースなのかな?」
「少なくとも捕食のためのものではありませんわね。大男が発見された家では食べ物を荒らした跡はあるものの、石化された二人に異常や欠損はなかったということでしたから」
「わざわざ硬くして食べにくくする捕食行動なんてどこの世界にあるですかねー。常識だと思うでありますがぁ」
「アンソニィイ、そういうお粗末な先入観が抜けないのなら情報担当の看板は降ろしなさいな。そもそもあなたの頭には緻密さというものがっ」
「おいおい、殺気立つなよ。そんなことであのおチビさんに気取られたらぶちこわしだ。ぎりぎりまでゆる〜くいくのがこっちの役割なんだからな。で、呪文はなにを使うつもりだ?」
「動きを封じるのが先決ですからこちらが石化させたいくらいですけど、そういうわけにもいきませんから体力をごっそり削いで差し上げますわ!」
−−−−−−−−−−
アーサーたちからは朝日を背にしたエリックたちの様子は見づらかったが、それは妖魔にとっても同じはずだった。そして背の低い妖魔の様子はもうはっきりと見える距離だった。ぴりぴりと張りつめたものがじかに伝わってくる。
「あと一歩でメアリの射程に入る」
リチャードの囁きにアーサーは頷く。
「いくぞ!」
二人が手にした剣をゆっくり天にかざすと、妖魔の小柄な体がその動きを追って伸び上がり、眼点を持つ触手もいっせいに前を向く。瞬間、メアリが口の中で神速の呪文を唱える刹那、意志と魔力の凄まじい高まりを背筋で感じた妖魔は敵が後ろだと悟るや橋の欄干へ跳び上がり、さらに空中へ跳躍しつつ背後を見下ろした。
「しまった!」エリックが叫んだとたん、地上の魔術師と空中の妖魔の魔力が交錯した! 体勢が崩れた妖魔は欄干に墜落すると手摺りにぶつかって跳ね上がり、そのままはるか下の河へと転落していった。
水音がした。駆け寄ったアーサーたちは橋から下を覗いたが、それらしき姿はもう見えなかった。
「……やられた、で、あります」
アンソニーの声に振り返ったアーサーたちの視線が、杖を振りかざし空を仰いだまま硬直しているメアリの姿を捉えた。
<第6章>
「落ちたぞ!」「逃げられた!」
方々からそんな叫びが上がる中、ロビンは河下へ走った。警備隊ややじ馬もどっと河下へ動き出したが、人の波に巻き込まれぬように路地裏へ回った。姉が生きていた頃からずっと、ロビンは果物を船で運び河岸で売る露天商の手伝いをすることで、日銭や売れ残りの果物を得ていたのだ。だから少年は、この河の流れや淀みを熟知していた。
橋の真ん中から落ちたのだから、まっすぐな場所を流れている限り手が出せない。けれど河の曲がる場所の水流が岸辺に近づく場所がわかっていた。だから人々がただやみくもに河下へ走り、あるいはいたずらに水面に目をこらす間に、ロビンは早々と河に近い自分の家に寄った後その場所で待機することができた。
やがて流れてきた黒いものをロビンは古い櫂でたぐり寄せた。水を含んだ重い手ごたえがした。からみついた粗布をその身から苦労して引きはがした。
およそ人とはかけ離れた姿だった。けれど目を閉じてぐったりしたその顔があの朝目の前で息を引きとった姉の面影と重なり、魂に刻み込まれたあらゆる思いを呼び起こした。姉は、リサは、あのとき微かな声で、震える声で、生きていたかったといったのではなかったか。そして薬のひとつすら買えぬまま、なにひとつできないまま姉を死なせるしかなかった無力に、自分はあれほど打ちのめされたのではなかったか。
それらの記憶が人ならぬその姿に一瞬ゆらぎかけた意志を再びかき立てた!
家にあった一番大きな上着で妖魔の体を覆い、黒い粗布を流れに押しやった。それが河岸から離れたとたん、背後から叫び声がした。
「あそこだ!」「流れていくぞ!」
数多の足音や蹄の音が、流れに巻かれつつ河を下る黒い布地を追っていった。
足音が聞こえなくなったのを確かめて、ロビンはそっと周囲を見回した。人影は見当たらなかった。彼は力を失った体を上着ごと引き起こし、自分の肩にもたれかけさせたまま苦労して家まで運んでいった。自分とほぼ同じ大きさのぐったりした体は重く、たいした距離ではなかったのに予想もつかぬ大仕事だった。
だから物陰から自分たちに向けられているまなざしに、少年はとうとう気づけなかった。
−−−−−−−−−−
寝台に寝かせ毛布で体を覆うと病床の姉の面影にますます似てきた。目を覚ます気配はなかった。しかし、ロビンはもう仕事へ行かなければならない時間だった。さもなくば自分は明日からの糧を失うことになるのだから。
もし帰ってきたとき死んでいたら。そんな怖れに抗いながら、ロビンは扉に鍵をかけて雇い主の待つ船着場に向かった。
だが少年の姿が消えてしばらくたった後、人影がひとつ戸口に近づいた。
草色のゆるい長衣の上から茶色のフードとマントを羽織っているので特徴がはっきりしなかった。背もそう高いほうではなく、だぶついた着衣のせいで体格もうかがい知れず、ま深に降ろしたフードゆえに顔も見えなかった。
首には木の実らしきものを繋いだ念珠をかけ、手には丈夫そうだが飾り気のない木の杖を持っていた。マントもフードも長衣も埃っぽく色あせ、いかにも長旅をしてきたらしき様子だった。
人影は中を窺いつつ戸口に佇んでいたが、すぐに行き交う警備隊員たちをやり過ごしつつ建物の陰に姿を消した。
−−−−−−−−−−
小柄な妖魔が意識を取り戻したとき、部屋はすでに薄暗くなり始めていた。
受けた魔法のせいなのか体の力が完全に抜け、倦怠感が全身を覆っていた。けれど毛布に包まれた体は温かく、それまで纏っていたあの粗布とは肌触りが別物だった。なぜここにこうしているのか分からなかったが、その心地よさが倦怠感とないまぜになり無防備な精神状態に誘っていた。それはずっと張り詰めっぱなしだった心身を癒す効果をもたらしていた。
宵闇が濃くなり始めたころ、扉が開き、閉じる音が聞こえた。けれども妖魔はその音を、心地よい倦怠感の中どこかよそごとのように聞いていた。やがて、正面の扉がゆっくり開いた。
小さな人影がそうっと顔を出した。まるで自分が目にするかもしれないものを恐れるかのような動きだった。その目がこちらを見た。なのに雰囲気が目に見えてやわらいだ。
それは妖魔にとって意外な反応だった。これまでは自分を見て驚いたり緊張したりする相手ばかりだったから。
妖魔はじっとその顔を見た。そして思い出した。路上で二人の人間に追われていた小さな者だった。姿を見る限り人間だと思えたが自分と同じくらいの大きさしかなく、なにより自分を見ての反応がそれまでの人間と全く違った。脱力しているせいでもあるにせよ、その様子自体が警戒心を煽らないものであることも事実だった。
小さな者がなにかいった。それは知らない言葉だった。大きな人間が自分に危害を加えるとき発する言葉とは別だった。そしておずおずとなにかを差し出し、自分の顔の前に置いた。
林檎だった。それは樹海からさらわれて以来、目にすることのなかったものだった。震える手で妖魔は林檎を掴み、一口かじった。
枝から落ちてかなりたった実の味だった。水気が少なく甘みも薄かった。けれどもそれは、確かに故郷で食べていた林檎の味に他ならなかった。
胸の奥から望郷の念がせりあがってきた。石化の魔力を秘めた瞳がうるみ、ほとばしる思いが声を出すことへの、恐ろしいものに聞きつけられることへの怖れさえ上まわった。そして小さな、抑えられた、それゆえ繊細に打ち震える喉声が発せられ、長く長く尾を引いた。
「krrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……」
その声はロビンにもまぎれもない望郷の声と聞こえた。そしてそれがどれほど切なるものか、彼にはよくわかった。かつて彼は力ない、か細い、定まらない声が、もはや叶わぬ望みを紡ぐのをあのとき聞いたのだったから。わずかなざわめきにさえかき消される小さな声に、どれほどの思いが籠もり得るものなのかを魂に刻みつけられたのだったから。
そして、目の前にいる存在が自分にとって新しい像を結んだ。これまで死んだ姉の面影をやどす者として捉えていたそれは、姉とはまた違う願いを抱いていた。自分には姉の願いを叶える力はなかった。でも、この人間ならざる身に確かに繊細な魂を宿した生き物の抱く願いは、あるいは叶えられるかもと思った。
そして彼は、どうしてもその願いを叶えたいと思った。
いまやロビンにとって、それは切なる望郷を歌う者だった。
「クルル……」
彼もまた小さな声で、そっと呼びかけた。
小柄な妖魔は小さな人間が自分の声を返したのを聞いた。予想もしなかった反応だった。とまどいながら喉声を鳴らしてみた。すると、小さな相手もまた自分の声を返した。もう一度。やはり同じだった。
声を交し合うのは同じ種族に限られるはずだった。しかしこの小さな者は、違う種族なのに自分の声に応じた。ならばこの者は明らかに敵ではなかった。それどころか、自分が声に託さずにはいられなかったものを感じているようにさえ思われた。
「クルル、そう呼んでいい?」
「krrr」
意味は取れぬながらも短い喉声を返した妖魔を、奇妙な安堵が捉えた。暖かな倦怠感に不思議な安堵が溶け合って、妖魔は再び眠りの中へとゆるやかに滑り込んでいった。それは故郷から連れ出されて以来絶えてなかった、安らぎに満ちた眠りだった。
<第7章>
次の日からロビンの日課には、仕事の帰りに酒場や夕食の席で語られる小柄な妖魔に関する噂を聴くことが加わった。帰るべき故郷はどこなのか。林檎の実る土地であることは察しがついた。でも、それ以外はなに一つ分からなかった。ロビンはこの街から出たことさえなく、貧しい身ゆえに外界について学ぶ機会も得られなかった。だからほんのわずかな手掛かりの一つでもあればと考え、大人たちの話に一生懸命耳を傾けたのだ。
だがそこで聞いたのは、荒唐無稽とか噴飯物という言葉でしか形容できぬものだった。
最初はまだしもまともだった。スノーレンジャーとか呼ばれる五人の若者たちに橋の上に追い詰められた魔眼を持つ邪悪な魔物が逆襲して、魔物を攻撃した苛烈にして仮借なき魔女と相打ちになったという話だった。ロビンとしては魔眼うんぬんはともかく邪悪な魔物というくだりには大いに異議があった。そのうえなぜスノーレンジャーに魔女なんかがいるのかも疑問としかいいようがなかった。けれど少なくともこの時点では、この話は河岸から遠すぎて窺い知れなかったあの橋の上での出来事の説明として、一応は受け入れられるものだった。
けれど毎夜酒場を訪れるごとにその話はみるみる変わりゆき、あっけにとられる少年の前でどんどん事実からかけ離れていったのだ。
どういうわけか、エスカレートし始めたのは「魔物」ではなく「魔女」に関する話のほうだった。「魔女」がよほど恐いのか、それともなにか恨みでもあるのか、一部の者があれは魔女どころか破滅の大邪神だといい出したのだ。
たちまち周りの酔っぱらいたちが先を争い好き勝手に尾ひれをつけた。となれば敵役の魔物もそれに負けぬよう姿を変えるのは必然だった。いつのまにか子供の背丈しかなかったはずの妖魔が激怒した雪原の覇竜アリズノアにまでスケールアップした結果、無数の首を持つ山より大きな巨大怪竜が大橋の上で暴れたことになったのだ。そんなバカなとうっかりいってしまったロビンは、どんよりした目の酔いどれにろれつの回らぬ説教を延々と聞かされるはめになった。
もはやスノーフィールドの橋に降臨したのは、神々も手の出せぬ怪物たちだった。究極の二柱の魔神が世界の破滅のありかたを決するため、天界の均衡を自らに傾けるべく戦ったのだ。破滅の大邪神が勝てばこの世界は灼熱の業火に崩れ落ちる定めだった。巨大怪竜が勝てば森羅万象は石化され、永久凍土へと閉ざされる運命だった。
神々は誰ひとり彼らに立ち迎う力がなかった。それほどまでに魔神たちは強大だった。だから力弱き神々は海原の小船のごとく翻弄される天界の天秤棒を右往左往しながらも総手で抑え込み、宇宙の均衡をなんとか守り抜いた。その結果、恐怖の魔神たちは相打ちとなり、世界はからくも破滅を免れた……。
ロビンはついに脱落した。思春期に至らぬ少年は、酔っぱらいの話に真実を求めた己がバカだった、いいかげんな大人への不信感を早々と植えつけられただけだと感じざるを得なかった。この先どうやって手掛かりを掴めばいいのかと、哀れな少年は途方にくれるばかりだった。
そう、少年は確かに幼な過ぎたのだ。いかにデタラメな与太話にさえ、時には真実のかけらが紛れ込むことも全くないわけではないことを理解するには。
−−−−−−−−−−
スノーフィールドの中心部に位置する官庁街。その外れにある警備隊本部では、スノーフィールドにメデューサを持ち込んだ容疑者に対する取り調べが今も続けられていた。
「なんでも尋問に相当手を焼いてるらしくってな。兄貴のほうはだんまりを決め込んでるし、弟のほうはまともに話が通じないんだそうだ」
廊下を歩きながらエリックがいった。
「それでメデューサと直接向き合った我々に尋問させようというわけでありますか?」
アンソニーの問いかけにエリックは頷いた。
「だからって、なぜわたくしがその低能のほうの尋問に立ち合わなければならないんですのっ?」
見るからに不機嫌そうなメアリの様子にエリックは躊躇した。でも、それを見逃すメアリではなかった。
「エリック? 知っていることがあるのでしたらおっしゃいなさいな。隠そうとしてもムダですわよ」
「やる気満々なのはいいですがぁ、尋問する相手を間違うのは感心しないでありますよ〜」
助け舟のつもりらしいアンソニーの混ぜ返しはメアリをさらにいらだたせただけだった。エリックはとうとう観念した。
「なんでも弟のほうはよほどおつむが弱いらしくてな。石にされた状況を聞き出すのがせいぜいだろうと尋問したというんだが、それさえ丸っきり要領を得ないらしい。そこで同じく石化された経験者なら、なにをいわんとしているか見当だけでもつくのではないかと思ったというんだが」
「く、屈辱ですわっ」怒りにわなわなと身を震わせるメアリに、エリックは言葉を続けられなくなった。
石化そのものは致命的なものではなく、それを解く呪文も存在する。しかしメデューサが分布しないこの極北の地では被害にあう機会自体がないせいで、石化についてもおよそ事実からかけ離れた奇怪千万な噂が流布しており、メデューサが大通りを駆け抜けるという誰一人予想もしなかった事態を受けて人々の恐れと好奇の入り混じった関心は沸点に達していた。先手を取った相手に相打ちに持ち込まれたこと自体メアリのプライドにとって許されざる事態なのに、そのうえ人々から興味本位の視線を向けられることを免れず、あまつさえ高位呪文であるため決して安くない石化解除の呪文の代金を、立替え払いした当局に返納すべく当分の間給金から天引きされるとあっては、エリックとしてもメアリの胸中は察するに余りあるものがあった。
この話題はなんとしてもここで終わらせなければとエリックが思ったとたん、間延びした声がとどめの一撃を放った。
「気持ちは分からないこともありませんがぁ、我々もそれなりに大変だったんでありますよー。なにしろ橋から撤収する時だって四人がかりで」
「ば、バカっ、アンソニー!」焦ったエリックだったが、もはや後の祭りだった。
「……それはなに? わたくしが、このわたくしが重かったとでもいいたいんですのっ!?」
形相が変わっていた。危険な角度につり上がった碧眼に燃える光は石化の魔眼どころか呪殺の邪眼さながらで、色を失った顔をとり巻く豊かな金髪がいまにも逆立つかのようにざわめいた。取り調べ室の入り口を守る警備隊員の敬礼しようとした動作が凍りついた。部屋の中にいた愚鈍そのものの大男さえも脅えた様子で身を縮めた。本能的な恐怖に取り憑かれたのは明白だった。
これから繰りひろげられるであろう光景を想像し、エリックは嘆息した。縮み上がった大男がただただ哀れだった。
−−−−−−−−−−
ボビンはこれまでと同じく黙り通していた。メデューサの存在がここまで公になった以上、いまさら秘密を守るために殺されることはないだろうとたかをくくっていたが、尋問されて自白したとの評判が立つのだけはどうしても避けたかった。そんな評判が立てば、二度と実入りのいい裏稼業に手を出すことはできない。信用を無くし仕事を回してもらえなくなるのはもちろん、無理に近づけば警備隊の走狗と見なされ殺されかねないはずだった。
だから赤毛の青年の粘り腰の詰問にも、その長身そのものが剣でできているような金髪の男の威圧にさえも耐え続け、ここまでひたすら黙り続けてきたのだ。
そのとき、遠くから女の叫び声が聞こえてきた。
目の前の二人が顔を見合わせたのをボビンは見た。
若い娘の声らしかった。しかもなんといっているのか聞き取れなかった。にもかかわらず、想像を絶する怒気がその遠い声からビシビシと伝わってきた。ボビンの背筋を戦慄が走った。
あまりの凄まじさにボビンの遠い記憶が呼び起こされた。初めて禁輸の品の運び屋稼業に手を染めたときの記憶だった。品物の受け渡し相手と祝杯をあげに入った酒場で、彼はフューリーとかいう激怒の女神を奉じる遠い国の人々の話を聞かされた。
そのときボビンはせせら笑った。激怒の神が女だぁ? なんと軟弱な連中だ! そんなもののどこが恐ろしい? チャンチャラおかしいと。
魔神のことを鼻で笑うもんじゃねえとつぶやく年嵩の相手に、祟れるもんなら祟ってみろいとあの酒場でボビンはうそぶいたのだった。
酒のせいだったんだ。恐怖に鷲掴みされたボビンは、その声に向け心の中で必死にいい訳をした。なにもあんたを本気でバカにしたわけじゃないんだ。誤解しないでくれ。勘弁してくれ!
だが、そんな付け焼刃のいい訳になど女神が耳を貸してくれるはずがなかった。叫びはひたすら激しさを増し、赤毛の尋問者の話になんの遠慮もなく割り込んだ。
とうとう尋問は中断した。ボビンも二人の尋問者も、迫る破局への予感の中、等しく耳をその声に釘付けにされていた。
だしぬけにもの凄い音がした。ボビンは心臓が喉から飛び出しそうになった。なにがどうなるとそんな音が出るのか見当もつかなかった。目の前で赤毛の若者が頭を抱えた。凄腕らしき長身の男も腕を組んで天を仰いだ。
ひときわ大きな怒号が轟き渡った。それまで聞き取れなかったはずの言葉が、なぜかはっきり聞き取れた。しかもそれは最悪の宣告だった。
「もうよろしいですわ! あなたがそんな調子でしたら、あとはその尊敬する兄さんとやらに全てを吐いてもらうまで!」
ボビンの心がついに恐怖に挫けた。目の前の二人の尋問者に、彼は縋らんばかりに哀訴した。
「た、助けてくれ! 話す、知ってることは全て話す! だからあれをここへ来させないでくれえぇ」
訊かれもしない過去の余罪までボビンは洗いざらい喋ったが、結局スノーレンジャーは大した情報を得られなかった。どれだけ恐怖に憑かれようが、知らないことまで話せる道理はなかった。そして、ないに等しい情報と引き換えに、苛烈なる魔女の尋問の悪評がスラムを中心に轟き渡ったのだ。
そのことがスノーフィールドにおける犯罪の発生率を抑制したと唱える歴史家さえいたが、選ばれなかった運命の岐路は未知の領域に属するものであり、もはや比較の対象とするすべはない。真実は人間の手が永遠に届かぬ所に今も置かれたままである。
第8章〜第14章 →
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『遥かなる海辺より』の元となるエピソードが生まれるきっかけになった、僕としては珍しくなんとかハッピーエンドにたどりつけたメデューサの幼体にまつわる全40章のお話です。 | ||
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