『鉄鎖のメデューサ』(第8章〜第14章) |
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<第8章>
かくしてロビンの新しい日課はあえなく頓挫の憂き目にあったが、それゆえもう一つの日課のほうにロビンは、正確にいうならロビンとクルルは全力を注ぐこととなった。それはクルルに言葉を教えることだった。
小柄な妖魔はあの脱出への試みが結果としてあれほどの騒ぎになってしまったことを自覚しているらしく、決してロビンの家を自ら出ようとするそぶりを見せなかった。そして、あのとき声を交し合うことで奇妙な信頼関係を築いて以来、クルルはロビンが発するあらゆる言葉に尋常ならざる集中力で聴き入っていた。
ロビンもすぐそのことに気づいた。酒場で大人から手掛かりを聞きだす試みが失敗した以上、クルルについての情報源はもはやクルル自身のみだった。ならば、もし言葉を交わせるようにさえなれば、クルルにどこから来たのか教えてもらえるという考えにたどり着くには時間はかからなかった。
もはや目的を達成するための手段はこれしかないと思いつめたロビンと、種族本来の習性や能力に加えそんな少年を魔の巣窟のただ中の一縷の光明とも命綱とも頼るクルル。教える者教えられる者の双方が発揮した大いなる熱意と集中力によって、たちまちクルルは身の回りのものの名前を聞き分け、先が二つに割れた舌ゆえか舌足らずながらも発語もできるようになった。動きや表情を意味する言葉がそれに続いた。抽象的な概念を表す言葉を伝え合うのは未だ困難だったが。
そんな中で、ロビンはクルルがどこか大きな森で暮らしていたことを聞き出した。そこは雪も氷もない暖かい場所らしかった。他にもなにか様々な生き物が住んでいて、甘くて香り高い果物がたくさん実っている場所のようだった。具体的な場所は分からずイメージを掴みきれない部分も多々あったが、どうも予想以上に遠い所のように思われた。
その者がやってきたのはそんな時だった。
−−−−−−−−−−
「もう酒場に来るのはやめたのか?」
仕事から帰ってきたロビンは自分の家の扉の前に立つ人影にそういわれて身を硬くした。そんな少年の様子を見て草色の長衣を着た人影は茶色のフードの奥からくぐもった笑いをもらした。
「無理もない。あれほど一生懸命訊ねているのに聞かされたのがあんな与太話では」
「な、なんのことですか?」
しらを切ろうとした声が、だがとっさのことで震えた。
「隠そうとしても無駄なこと。私はおまえがこの家にあれを連れ込んだのを見ていたのだから」
そういわれた少年の顔が蒼ざめた。
「表通りでしていい話ではないはず。おまえはあれがどこから来たのかを訊き出そうとしていただろう? その場所を私は知っているのだよ。まあ、詳しい話は中でするべきだとは思うが」
杖を持った手が街角の向こうの警備隊員の姿を指し示した。
警備隊に知らせるつもりはないらしい。では何者か。
そのときロビンは思い出した。クルルは何者かに捕まりここへ連れてこられたのだったと。クルルの話では直接顔を見たことはほとんどなかったらしかった。ごとごとと動く大きな箱を被せた暗い鉄の檻の中で鎖に繋がれたまま目覚めて以来、人間の声は耳にしても姿を目にすることはなく、食物や飲み物も檻の隙間から押し込まれるだけだったようなのだ。
この街の近くで檻が開けられたとき、なんとか鎖を切ることに成功していたクルルは外に跳び出し、そのとき初めて自分のいた檻がたくさんの馬に曳かれていたことを、そして鎖を別の檻に付け替えようとする石の人形と多くの馬に乗った人間たちが周りにいたのを知ったということだった。
「……クルルをさらってきたのはおまえなんだな!」
「これは驚いた。名前までつけているとは。だが違う。ここまであれを連れてきたのは私ではないよ。ロビン」
「僕の名前まで! 悪者め! ずっと見張っていたのかっ!」
「声が大きい!」
小声で鋭く一喝したあと、人影はいっそう声をひそめた。
「確かに私はずっとお前たちを見張っていた。だが私が悪者ならそんな回りくどいことをすると思うか? 一人で会いにきたりすると思うか? 仲間をつれて押し入ってしまえばすむことだったとは思わないか?」
黙ったまま答えないロビンに、人影は嘆息した。
「私にはおまえを信じさせるすべがない。だが、私はあれを故郷に帰すべきだと思っているんだ。せめて話だけでも聞いてはくれないか」
その言葉がロビンの心を捉えた。
クルルをどうするつもりか、自分は相手に話していない。クルルを故郷に帰すつもりであることを相手は知らないはずだった。それなのに相手はクルルを故郷に帰すべきだといったのだ。
疑いを完全に晴らしたわけではなかった。ひょっとしたら悪者たちがこの家をもう取り囲んでいるのかもしれないとも思った。だが、それならとても逃げられない。前のような大騒ぎになればもはや行くところさえない。むしろ相手がどういうつもりなのかだけでも知るべきかもしれない。
自分にそういい聞かせたロビンは覚悟を固め、相手を見つめたまま扉を開いた。
<第9章>
小柄な妖魔はロビンが開けた扉から入ってきた人影を見て目を見開いた。眼点のある触手がざわめいた。
「ナマエ、ナニ? ろびん。ナマエ、ナニ?」
ロビンが名前を答えられないものなら、それは危険かもしれない。クルルは緊張した面持ちで来訪者に向き合うロビンの背後に身を隠し、首を伸ばして相手に警戒のまなざしを向けた。
だが、人影のほうも当惑を隠せぬ様子だった。
「服まで着せているとは……」
クルルは質素だが生地の厚い服を重ねて着ていた。人間より細く短い腕は袖の半ばまでしか届かないため袖口はだらりと垂れ下がり、スカートから大きな爪のある足や尾の先が覗いていたが、鱗で覆われた体の大半が隠れているせいで、人間に似ていなくもない顔だちがそのぶん強調される結果にはなっていた。
「寒いのが苦手らしいから着せてるんだ」
「そのためわざわざ女物の服まで買ったのか?」
「買ったんじゃない。姉ちゃんの服だ」
「家族はいないと思っていたが?」
「……二年前に死んだ」
そうか、と呟いた人影は、少年とその背後から覗く妖魔の顔を見比べた。そして得心がいったように頷くと、小柄な妖魔に声をかけた。
「クルル、といったか。なかなかいい名前だな」
妖魔の背筋がぴくりと動いた。いわれた言葉をそのまま理解したわけではないようだったが、クルルと呼ばれたことでわずかに警戒がゆるんだ様子がうかがえた。
そして、舌足らずな声が再び尋ねた。
「ナマエ、ナニ? ろびん」
「そうだ、おまえはいったい何者なんだ!」
ロビンの声は、思わせぶりな様子の相手へのいらだちを隠せぬものだった。
すると人影が笑った。声ががらりと変わった。明るい華やいだ笑い声だった。くぐもった声は作り声だったとロビンが悟るより早く、人影はいくぶん大仰にお辞儀をした。
「これは失礼。私だけがこれではいけないな」
茶色のフードを下ろすと豊かな黒髪があふれ出た。だがその顔は目だけくり抜いたのっぺりした木彫りの仮面に隠されていた。そして穴の奥がちらっと光ると、白くて細い指が仮面を外した。まごうかたなき乙女の顔が、けれど男の言葉の装いを解かぬまま名乗るのをロビンは聞いた。混乱しつつ、それでも少年の直感は捉えた。そこに決して偽りや悪意が潜んでいないことを。
「私はラルダ。曲げられた運命を正すよう神に課せられた者」
今しがたの大仰さとは打って変わった厳粛な面持ちで、黒髪の若き尼僧は名乗った。あっけにとられたロビンを見つめるその瞳には、緑の炎のような強い光が宿っていた。
<第10章>
「私はおまえがどういうつもりなのか確かめにきた」
食卓にかけた黒髪の尼僧にそういわれて正面に座ったロビンは思わず聞き返した。
「僕の、つもり?」
ラルダと名乗る尼僧はうなづいた。とまどう少年の様子を緑の瞳で見つめつつ。
「その妖魔が橋から落ちたとき、私はたまたまおまえの少し後ろにいた。けれど皆が走り出したとき、おまえは皆と違う道へ自信ありげに走り込んだ。それが目にとまったから私はおまえの後を追いかける気になったんだ」
「川から助け上げたのが人間ではないと知った上で、なぜ自分の家に連れていったのか。人間でないと分かった時点で驚いて人を呼ぶのでは思ったのにおまえはそうしなかった。だからこの街に妖魔をつれ込んだ者の息がかかっているのかと疑って、そのまま見張っていた。けれど、おまえは誰も連れずに一人だけで戻ってきた。だから引き上げた時点で死んでいたのだと思った。だが、おまえはその翌日から酒場で妖魔についての話を皆に訊ねまわり始めた。ずいぶん苦労していたようだったが」
頬が熱くなったのをロビンは感じた。顔が赤くなったのに違いなかった。
「そんな日々がしばらく続いたあと、おまえは酒場に来なくなった。けれども仕事にはずっと出ていた。妖魔が家を出た様子もない。それだけの日々を共に暮らしているとすれば、私が不思議に思うのは当然だろう?」
緑の瞳がロビンの背後の小柄な妖魔に移された。
「しかも名前をつけて、言葉まで教えて、今もそうしておまえの背後に隠れて私をうかがうほどおまえを頼りきっている。どんな魔法でここまで信頼させることができたのか知りたいくらいだ。仮におまえの方が死んだ姉の面影をクルルに見たのだとしても、それはクルルがおまえを信頼する理由にはなるまい?」
ロビンの目を、ラルダの視線が真正面から捉えた。
「これほどの絆をいかにして築いた? そして、ここまで自分を頼る相手をおまえはどうするつもり? ロビン」
黒髪の尼僧のその問いかけがクルルをこの家に連れてきたあの日のことを、困難な現実や重い日常にも消えることなくくすぶり続けていたあの思いをかきたてた。少年の鳶色の目もまた相手を真っ向から見据えた。
「……ここへ連れてきた日、林檎を一つあげたんだ。そしたらクルルがとっても哀しそうに鳴いたんだ。クルルルルって。それを聞いたら自分のいたところへ帰りたいんだってわかった。だからクルルって呼んだんだ。そしたらクルルも声を返してくれたからなんだか気持ちで通じたんだ。
僕はクルルを故郷に帰してあげたい! どこか遠い、いっぱい林檎が実る大きな森に!」
ラルダのまなざしがやわらいだ。黒髪の尼僧はさきほど外したのっぺりした仮面を、少年にも示しつつ口を開いた。
「目を開けただけのこの仮面には二つの教えが込められている。着ける者には己の目で本質を見ることを求め、外からのまなざしにも外見に惑わされず真実を見極めることを求める。なにもないこんな形をしているのはそういう意味なんだ。
はからずもおまえは仮面の教えに近い形でこの者の魂に触れることができた。だからおまえたちは思いを乗せた声を介し、絆を結ぶまでに至れたんだ」
「では、なぜあなたはクルルを故郷に帰すべきだと思うの?」
問いかけたロビンに目を戻すラルダの顔に、あの厳粛な表情が戻ってきた。
「いささか長くなるが、話しておいたほうがいいだろう」
姿勢を正した尼僧の緑の瞳が、どこか遠くへと向けられた。
<第11章>
「私は神の啓示を受けた。それ以前のことは全く覚えていない。啓示を受ける前は覚えていたのか、それさえもう分からない」
語り始めたばかりで言葉を途切らせた黒髪の尼僧のまなざしに浮かぶ表情は、ロビンには計り知れぬものだった。しばしの沈黙の後、意を決した少年は声をかけた。
「その啓示って、どんなのだったの?」
「……私の名を呼んだ。ラルダ、と。そして続けた。あるべき場所で、あるべき姿で、と。次いで故郷から引き離されたことで運命を狂わせられたものの姿が示され、そのものがいる場所が告げられた。いくつかの力も授かった。今から二年前のことだ」
「じゃ、あなたは二年もクルルを探していたの? そんな前からクルルはつかまっていたの?」
ロビンの言葉に、ラルダはかぶりを振った。
「私がそのとき見たのはクルルじゃなかった。まだ子馬ほどの大きさしかない翼も伸びていない火竜の姿だった。東方の小さな国の王が、飼い馴すことができれば他国を攻める強力な力になると考え捕らえさせたものだった。
私は火竜が城に連れ込まれる前になんとか助け出した。そして故郷の火山にどうにか戻すことができた。神はどうやらそれ自身の運命のみならず多くの者の運命も狂わせかねないことだから、私に指し示したように思えた」
「あなたは竜をつれて逃げたというの?」
「おまえが驚くことはないだろう? 結局は怯えた子供だったのだから。まあ、クルルより荒っぽい気性だったのも事実だが」
苦笑した尼僧は、しかし緑の瞳に苦い感慨を浮かべていた。
「人間たちが魔物と呼ぶ存在の多くは、結局のところ生き物にすぎない。ただ生きていくために身につけた能力がいささか強力なせいで人間の目を引く、そんな存在にすぎない。そして強力であるのと引き換えに彼らの数は少ない。そして人間は無知ゆえに、その力への過大な恐れや場合によっては欲望を抱くことになる。あの王は自分が竜を制御できるかどうかも分からぬまま、竜の炎で隣国を蹂躙する幻想に溺れたのだ。自分の国が炎の災いを被るかもしれないなどとは考えもせずに……」
ラルダはロビンの背後の妖魔にちらりと目を向けた。
「石化の魔眼の力は魔力であるがゆえに、もはや人間にとっては破れない力ではない。しかし石化を破れぬ身にとっては、それは今でも死ぬのと同じだ。ある種の蛇が持つ猛毒にも匹敵する力というほかない。
それでも本来の場所で生きていく上でなら、それは調和の中に納まるものなのだ。自分よりはるかに強くて大きな相手から身を守るために備わった力なのだから。そして猛毒を持つ蛇にも音で敵に警告したり鎌首を広げて立ち上がり威嚇するものがいるように、クルルの種族もやみくもに相手を石にするわけじゃない。自然の理に生きるものたちは回避できる争いは避けようとするものでもあるのだから。おまえは蜂を見たことがある?」
「夏に花が咲く時期になると、どこかから飛んでくる」
「黄色と黒の目立つ模様をしているだろう? あれは自分が毒針を持っていると大きな敵に示すため、あんな目立つ色をしているんだ。クルルの種族は数は少ないながらも大陸中部に広く棲んでいる。そして住んでいる場所で背の色が違う。岩砂漠にいるものは薄茶と灰色の斑だ。そしてクルルのその緑色は樹海を故郷とするものである証だ。自分の住む場所に溶け込む色だ。
けれどどちらに棲んでいるものも、胸の毛の白と腹の鱗の赤は同じだ。それが警告なのだよ、ロビン。正面にいる敵に自分が危険だと知らせるための。クルルは樹海に返してやれば、自然の理の中で生きていくことができる。その体の色にはそういう意味があるのだよ。
そしてそれは雪と氷で白一色のこのスノーフィールドでは意味をなさない。あえていえば、ここが本来のすみかではないことをあからさまにしているだけなのだ。たとえ街から逃れられても、この土地ではクルルは自然に生きていくことはできない。だから私はクルルを樹海へ返すつもりだ」
緑の瞳がロビンの顔を再び見つめた。
「おまえも私といっしょに行くか? ロビン」
「僕が?」
思いがけない言葉に驚いたロビンに、ラルダは頷いた。
「おまえの力ではとても行くことはできない場所だ。それにおまえがどういうつもりなのかもわからなかった。だから私は一人でクルルを連れていく気だった。おまえにそういい聞かせるつもりだった。
けれど、おまえの話を聞いて考えが変わった。正直なところ、私はおまえの話に驚かされた。お前は街の一介の住人にすぎないのに、大きな理をまっすぐ見抜く力があるのかもしれない。私はおまえに外の世界を見せてみたい気がするんだ」
「外の世界を? 僕に?」
「もちろん強制はしない。それにクルルをさらった者の正体も、その目的も分からない。こんな遠くまでメデューサを連れてきてどうする気だったのか見当もつかない。だから相手の出方も判らないし、そうである以上は危険かもしれない。無理にとは絶対にいえない。
けれど、おまえは河舟で果物を売るだけで一生を終わる者ではないような気がする。それにクルルとこれほどの絆を築いたおまえがいれば、私の力だけでは及ばぬ困難も切り抜けられるのではと、そんな気もするんだ」
「あなたが失敗することもあるの?」
驚いたロビンの声に、黒髪の尼僧の顔は翳った。
「最初は火竜の子供だった。そしてクルルは三度目だった。首に鎖の付いたメデューサが氷に閉ざされた姿を幻視し、神の声がただ一言、スノーフィールドと告げるのを私は聞いた。
二度目は人魚だった。けれど、あの時私は間に合わなかった。それが恐るべき結果につながってしまったんだ」
呻くような声に、ロビンは固唾をのんだ。
<第12章>
「人魚というのは不思議な種族だ。陸の上の人間が火の力を手にして他を圧する存在に抜け出したのに対して、水の中に棲む人魚は自分に近づくものの神経に作用しその行動を止めたり狂わせる力を持つ。その力ゆえに彼らもまた水中における無敵の存在へと抜け出した。人魚の力に触れると人間は幻覚や幻聴に襲われる。相手がその気なら一瞬で精神を砕かれる。人魚と比べれば人間は足下にも及ばぬ無力な存在でしかない。
そして彼らは長い寿命を持つ。特に背と腹に大きな赤いひれを持ち緑の長い髪をした長命種は生まれ落ちて千年の時を生きる。天寿を全うできない宿命でいながら、それでも千年なのだ。比較を絶するというほかない。
だが種族の命運ということになれば、話はまったく逆になる。己が肉体になんら特殊な力を持たぬ人間は、しかし他の種族から抜け出して以来数を増やし世界を左右しかねないほどの力を備えるに至った。だが無敵の力と長寿を誇る人魚は大きな理の定めにより、種族としての力を制限された。肉体に強い力を宿す存在はそれゆえ世界の均衡にその数を制限される。最も強い力を備えた長命種に至っては数を増やすことさえできなくなり、ゆるやかな滅びの定めに置かれている」
「増やせないって、なぜ? どういうこと?」
「親が仔を一匹産むと同時に死ぬようになった。だからもう数を増やせない。事故や病などで仔を残せず死ぬものが出るごとに、じわじわと減る一方なのだ。均衡の定める限度以上の力と長寿を得てしまった代償として。
長命種の人魚は自分の体の中で卵をかえす。そして五百年かけて仔を体内で守り育てる。対話を交わしながら。そして己の死と引替えに十分に育ちきった仔を外界に産み落とす。
親の死によって産み落とされた仔は五百年の時を一人過ごす。彼らが歌を歌うのはこの時期だ。だが、時には孤独に耐えかねて他の種族に近づくことがある。背びれを持たぬ人魚たちに近づくことが多いが、ごくまれに人間に近づく者もいる。
そして時が満ちると、その体内にも次の命が生まれる。今度は自分が仔に向かって語りかけながら最後の五百年を過ごす」
「天寿を全うできないっていったのは、そういうこと?」
ロビンの問いに、ラルダは首肯した。
少年の脳裏に、若くして命尽きる無念を訴える姉リサの小さな声が甦った。千年も生きていても、それでも人魚にとっては無念なのかと訝った。
「想像もつかないという顔をしているな」
突然そういわれ、ロビンは思わず相手の顔を見た。尼僧の緑の瞳には神秘的な光が宿っていた。
「そう。それが当然だ。千年も生きるものが感じることは我々の尺度では計り難い。でも人魚が歌えば、それは我々の心にさえもそのまま届く。人魚が思いを込めて歌うということは彼らの力の発露を伴うのだから。それゆえ人魚の歌は呪歌なのだ。我々には想像もつかぬ孤愁と滅びの予兆が織り混ぜられた歌だ。人の身で耳にすれば魂は破れるか、よくても生涯晴れぬ愁いに閉ざされてしまうだろう。
彼らにそんなつもりがなくても、人魚と人間が近づけば不幸な結果を招きがちだ。あまりにもかけ離れた存在であるがゆえに。それでいながら、その思いが人間にも通じてしまうものであるがゆえに」
ロビンから離れて彼方に向けられたまなざしは、沈痛そのものだった。
「でも大陸南端のあの海辺の小さな入り江に棲みついた人魚は、これ以上望めないほど海辺の部族とうまく暮らしていた。奇跡と呼ぶべきものだった。なのに、ある国の領主が己の欲望のままに手を伸ばした。見てしまったんだ。祝福された奇跡が砕け散り、破滅と死が荒れ狂うのを……」
身じろぎもせずに聴き入るロビンの背後で、クルルもまた身を固くしていた。内容を理解するすべはないはずだったが、会話の間に流れる雰囲気の変化を小柄な妖魔が敏感に追っているのを、少年も背中で感じていた。
<第13章>
「私は色変わりした水の底に沈んで動かぬ人魚の姿を幻視した。神の声はそれが海辺の民の村ルードでの出来事であると告げた。ちょうど私は大陸南部を旅していたから、ルードの村はすぐ近くだった。だから詳しい話を聞こうと思い、私は村を訪れた。
今から思えばそれが間違いだったんだ。ルードの民は殺気立っていた。私が敵でないことをわかってもらうだけで、大変な時間を費やしてしまった」
黒髪の尼僧は目を閉じた。過去の出来事を目蓋に甦らせているらしかった。
「その人魚が村に現れたのは三百年前のことだった。突然水が引き干上がった入り江に驚いて様子を見に来た村人たちの眼前に、人魚はその姿をさらしていた。そして津波が来ることを警告したという。おそらくかなり前から近くで気取られずに暮らしていたのだろう。その人魚は言葉を話すこともでき、人間が水の中では生きられないことも知っていた。
ほどなく村を津波が襲ったが人々は高台に逃げて難を逃れた。そして人魚は小さな入り江に棲みついた。村人たちは人魚を命の恩人として大切にした。人魚もそれに応えて潮の流れの変化や海の様子を村人に知らせた。そのことがルードの村に豊漁と繁栄をもたらした。
やがて年月がたつに従い、人魚の長寿が明らかになってきた。村にやってきたころ赤子だった者が長老になっても、人魚の姿に変化はなかった。人々は人魚を守り神とみなすようになった。噂がしだいに広まり、沿岸の村からは小さな入り江に巡礼する者も出るに至った。いつしか豊漁と長寿をもたらす小さな神に人魚は奉り上げられたんだ。素朴な感謝の念だったものが神秘的な存在への畏敬に転じていった」
ラルダの話を聞きながら、ロビンは神様扱いされることを人魚はどう思っていたんだろうと考えずにはいられなかった。少年のそんな思いを見て取ったのか、黒髪の尼僧は少年とダブダブの服に身を包んだ小柄な妖魔に視線を向けた。
「人間と魔物が関係を築くことはそれ自体が稀なことだ。どんな形であるのがいいのか容易には答えが出せない。その寂寥ゆえに人間にまで近づかずにいられなかった人魚にすれば、畏敬の対象となることは本意でなかったのかもしれない。
けれど両者が異質な存在である以上、ふさわしい距離をおいて接することが結局は幸せなのではと私は思う。かけ離れた宿命に生きることが明らかになった以上、海辺の小さな神であり続けることができれば、それが最善だったのではとも……」
言葉を切った白い顔が中空を仰ぎ、緑の瞳が再び瞑目した。
「でも小さな入り江の長命な人魚の噂は、いつしか沿岸ばかりか内陸にも伝わり始めていた。そして海の恵みを得て生きるのではない内陸の人々にとって、海の様相を告げるものとしての人魚は関心の埒外だった。不老不死の神秘的な存在としてのみ語り伝えられた。そしてかつては狩猟の民だった彼らの間では、しだいに人魚の血肉に不老不死の力があると考えられるようになった」
「……それは、まさか人魚を食べたら死ななくなるって、そういうこと? 本当なの?」
「本当なわけがないだろう! 種族の理はそんな安易なやり方で乗り越えられるものじゃない!」
激しい口調にロビンはたじろいだ。背後のクルルも後じさりした。気づいたラルダがすまないと呟いたが、憤りの炎は緑の瞳に抑えようもなく燃えていた。
「たしかに不老不死は人間にとって究極の願いの一つだ。しかもそれは、この世の美酒を享受する立場にある者ほど強く願うことでもある。どこでどう聞きつけたのか、中原で力を伸ばし始めた一人の領主がその願望に呪縛された。今の力に満ちた自分がそのまま永遠の生命を得たなら、もはや思いどおりにならぬものなどこの世にあるはずがないと。領主がルードの村に差し向けた手勢は、夜影に紛れて小さな入り江に痺れ薬を大量に流した。そして動けなくなった人魚を空いた樽に押し込めているところを村人に見つかった。聖地を汚し守り神を奪おうとする外敵に立ち向かうため集まってきた村人たちを彼らは容赦なく斬り捨て、逃げ惑う人々を蹴散らした馬車は主の待つ城にひた走ったんだ!」
「そんな……っ」
絶句したロビンはラルダが口を閉ざしたことにさえ、しばらく気づけないままだった。そんな少年に黒髪の尼僧は気遣わしげなまなざしを向けていたが、やがて話を先に進めた。
「その直後に村に来たせいで、私は村人に疑われ大きく出遅れてしまった。追う間も分れ道をどう行ったかや下手人の素性なども調べねばならず、差を縮めることができなかった。もはや城に入るまでに追い付くことはかなわなかったが、たとえ城の外から叫んででもやめさせなければならない。その一念に支えられ、私はひたすら馬を駆り立てた。何日そうして駆け続けていたか、もう自分でも分からなかった。ついにある真昼どき、私は天頂からの光をいっぱいに受けた領主の所領にたどり着いた。
領地の入り口に続く丘を登り切ると陽光に輝く居城が望めた。だが丘を駆け下りようとした瞬間、凄まじい一撃が私の胸を打ち抜いた! もんどりうった馬に放り出され、私は昏倒した」
その時の衝撃を思い出したのか、黒髪の尼僧は胸に手を当てて身を震わせた。唇さえ完全に色を失っていた。
「気がついたときはもう黄昏だった。城の彼方に沈みゆく太陽が赤く昏い光を投げかけていた。輝きを失くした城は黒い影の塊と化していた」
「馬は死んでいた。馬だけではなかった。地面のあちこちに鳥が翼を投げ出したまま転がっていた。赤黒い光に染まったそれらの骸は血まみれのように見えた。けれど、実際には血を流しているものは一つもなかった。もちろん私の胸にも傷一つなかった。
なにが起こったのか、もう分かっていた。私が死なずにすんだのは神のご加護に違いなかったが、起こるかもしれぬことを私が知っていたせいでもあった。心のどこかで私はあの恐ろしい衝撃に身構えていたんだ。でも、他のものは助からなかった。そんなことなど知るすべもなかったのだから」
「赤い地獄のような恐ろしい世界を私はのろのろと進んだ、もう分かっていることを単に確かめるだけのため。領内のいたる所に無傷の死体が折り重なっていた。人も、獣も鳥も区別なく、流すことのなかった血のかわりに赤い光に染め上げられていた。真昼の太陽の下でのあの一瞬に颶風のごとく吹き荒れた死の爪跡が、ただどこまでも広がっていた。昏さをいや増す赤い大地を渡った私は、ついに影に呑まれた城の前に立った」
「見張り櫓から落ちたらしき衛兵が、通用門の鍵を持っていた。影の落ちた城内にも生き残ったものはいなかった。人間も軍馬も家畜も、犬猫やかごの鳥、果ては調理場の鼠に至るまで、傷なき骸と化していた。
とうとう私は大広間に出た。高段に置かれた豪奢な玉座でこと切れていた男が張本人に違いなかった。その前の床に折り重なった骸の中に、ただ一つ血を流しているものがあった。小さな神と敬まわれた人魚だった。心臓を一突きにされていた。かたわらの呪い師の手が死してなお、紋様を刻んだ金杯を握っていた。心臓からの血を受けようとしたのだと一目で知れた」
「……おそらく、殺される寸前に人魚は意識を取り戻したんだろう。自分の置かれた状況もほとんど掴めないまま、胸を剣で貫かれたのだろう。その一瞬の苦悶が、死の苦痛が、その力に乗って爆発した。それがあの死の衝撃だ。致死の幻覚が痛覚を直撃し、あらゆる生き物を即死させたんだ。たった一人の男が不老不死の幻想に憑かれ、海辺の民を殺めまでして奪った人魚を無残に手にかけたばかりに、無辜の領民たちまでも全滅した。最悪の結果というほかなかった」
「私にできることはもうなかった。乗ってきた馬も死んだいま、人魚の亡骸を運ぶすべもなかった。海から遥かに遠い山裾の麓を流れる川辺に、骸を憩わせるのがやっとだった。緑の髪を一房、私はルードの村に持ち帰った。海辺の民は小さな守り神の死を悼み、入り江の岩の上に祠を建てて人魚の髪を祀った」
「……これが二度目の啓示のてんまつだ。私の力が及ばなかったばかりに、起きてしまったことなんだ」
ロビンは呆然としていた。疲れたように口をつぐんだラルダの顔に浮かぶやるせない表情を、ただ言葉もなく見つめていた。
<第14章>
「ろびん……」
背後から舌たらずな声がおずおずと呼びかけた。不安げなその声に、ロビンは我にかえった。ラルダも物思いから覚めたように小柄な妖魔に目を向けた。
「……不安がらせてしまった? クルル。心配しないで。きっと森へ帰してあげるから」
思いがけぬ穏やかな柔らかい声に背後の妖魔の緊張がゆるんだのをロビンははっきりと感じたが、彼自身はむしろ虚を突かれた思いだった。まなざしを戻した黒髪の尼僧の顔の美しさに、彼は目を見開いた。
「どうした? ロビン」
硬質さを取り戻した声が空気を変えた。顔にも厳粛さが戻っていた。一瞬かいま見えた姿は幻のように消えていた。
だが、なぜかロビンは思った。あれが本来の姿なのだと。曲げられた運命を正す者と名乗った尼僧その人も、なんらかの理由で真の姿を取れずにいる者なのだと。
「あるべき場所で、あるべき姿で。私が初めて啓示を受けたとき神が告げた言葉だ。神の言葉だったから私は従った。確かに最初はそうだった」
まるでロビンの思いに呼応するかのように、ラルダの声が聞こえてきた。
「だが私は思い知った。本来の場所から引き離されあるべき生を奪われたことが、あの哀れな人魚を怪物として死なせたのだと。運命を歪められたものの苦悶こそが魔なのだと。
だから私はクルルを樹海へ帰す。神の言葉だからではなく、私自身の意志で。この地にいる限り、クルルは人間を害する魔物としていつ殺されてもおかしくないのだから」
強い光を宿した緑の瞳が少年を見据えた。
「もう一度きく。ロビン。おまえも私といっしょに行くか?」
ラルダの視線を少年は真っ向から受け止めた。何の迷いもなく彼はうなづいた。
「では必要なものは私が準備する。おまえは身の回りを整理しておいてくれ。雇い主には身内が遠くに住んでいることがわかったとでも話しておくといいだろう」
ラルダは立ち上がった。
「街の噂もだいぶ下火になった。いまはもうクルルのことより、石にされた魔女とやらの激怒がいかに凄まじいかが酒場の話題の中心だ」
ため息をついたロビンを見て黒髪の尼僧は苦笑したが、真顔に戻るとたもとから二つに折れた小さな花瓶を取り出した。
「準備が整えるにも身の回りの整理にも数日みておいたほうがいいだろう。けれどこの家からも私は目を離さない。私に用があるときはこの花瓶の胴を戸口の外に出してくれ。私が用がある場合は声をかけるが、もし留守だったらこの花瓶の首を置いておくから、おまえが戻りしだい花瓶の胴と入れ替えてくれ。すぐに私はここへ来る」
人通りの途切れた時を見計らい、仮面とフードに正体を隠した人影はすっかり暗くなった街路に出ていった。はやる気持ちに胸たかぶらせながらも、ロビンはクルルに三人で森に向かって出発することになったと一生懸命伝えた。なんとか伝えることに成功したとき、小柄な妖魔は目を輝かせ喉を震わせ高い声で鳴いた。歓喜に打ち震える声音だった。
結局その夜、彼らはもう眠れなかった。
−−−−−−−−−−
「メデューサがまだ街にいる? しかも生け捕りにしろというんですか? それも明日の夜?」
隊長の話を聞いたアーサーが思わず大声を出した。四人の仲間たちも、誰もが驚愕の表情を隠せずにいた。
「そんな無茶な! あれを生け捕りになんて!」
「刺激すればかえって被害が出ますわっ!」
「いっそ街の外へ追い出すべきです! それならまだしも方法があります!」
「上からの指示だ。従うしかない。それにメデューサを捕まえるのは協力者がしてくれるそうだ。メデューサを隠していた容疑者を、つまりこの街に持ち込んだ容疑者ということだが、その身柄を拘束するのがお前たちに与えられた任務だ」
スティーブ隊長は五人の若者たちをぐるりと見回した。
「明日その協力者が打ちあわせに来るそうだ。詳しい話はそこで聞ける。正午にこの本部に集合するように」
廊下に出た若者たちは額を寄せあった。
「街にはなんの動きも情報もないのに、なぜなんだ」
「しかも手の内をぎりぎりまで明かさない。なにかきな臭くありませんこと?」
「上からの指示だというが、どこからそんな話が出たかだな」
「アンソニー、時間がほとんどないがなにか掴めそうか?」
「約束はできませんが、やるだけやってみるでありますよ」
アーサーは仲間たちを見渡した。
「それでは十時に宿舎だ。みんなもそれぞれ心当たりを当たり、分かった情報を突き合わせよう」
頷き合うとスノーレンジャーたち五人は、宵闇の深まる街へと散っていった。
第15章〜第21章 →
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『遥かなる海辺より』の元となるエピソードが生まれるきっかけになった、僕としては珍しくなんとかハッピーエンドにたどりつけたメデューサの幼体にまつわる全40章のお話です。 | ||
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ハッピーエンド(一応) メデューサ 異世界ファンタジー モンスター | ||
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