Seduce − 序 −
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――――今でも、あの情景を覚えている。

 石神昇は夜陰に沈む庭に目を向けながら思う。

 

 庭園と呼ぶに相応しい広さと荘厳さをもつそれは、午後より降り始めた雪にうっすらと覆われ、雲の切れ間から差し込んだ月光に照らし出されている。

 冬の夜に相応しい、 滲 とした雰囲気と相まって、一種幻想的な美しさがあった。

 だが、石神の目にその光景は映っていない。

 彼の目は遠い日の、ある光景を映しているのだった。

 

 それはまだ石神が高等幼年学校へ入学したばかりの、16歳の春だった。

 国内でも有数の名門校に、申し分ない成績で合格した石神の元へ、入学祝いとして訪れた父の兄。

 軍人であった叔父は、男の子であれば一度は憧れる軍人そのもののような男であった。

 石神はその叔父が好きであった。

 好きと云うよりも、彼にとって叔父は尊敬の対象であり、英雄ですらあった。

 その叔父が自分の入学祝いに来てくれる。どこか誇らしげな気分になっていた。

 父母への挨拶を終えた叔父が、石神の方へと歩み寄ってくる。

「よう坊主。がんばったじゃないか。」

 ぞんざいながら、その声には親しみが込められていた。ごく親しい者に気安く話しかけるような、そんな男っぽさがあった。

 男として認められたような―――歓喜ともとれる感情が沸き上がってくる

―――はずだった。

 その時、石神の思考は停止していた。

 

 石神の目は叔父を見ていない。叔父の連れたっていたモノに固定されていた。

 叔父のやや後方に控えている可憐なモノ。

 それは、貴重種とされたネコだった。

 

 白磁のように白く、肌理の細かい肌。

 そこに血の通っている証として薄く朱が添えられ、その生き物に生としての美しさを与える。

 光の当たりようによっては黒に見えなくもない見事な銀髪は、その毛先の一本一本まで細心の注意が払われているかのように手入れがされ、陽光に輝いている。

 

 ネコが貴重種とされ、その一匹を手に入れる為に人生の大半を擲つ程の金銭がかかる理由の一つ。

 それが彼女らの見目麗しさであった。

 傾城とはこのことを言うのであろうか。

 幼いながら石神がぼんやりと考えた。

 

 切れ長の目は彼女に理智的な印象を与え、常に水を差したように潤んだ瞳がえもいえぬ色香を醸し出す。万事控えめに伏せ気味の視線が、見る者に倒錯的な感情を沸き立たせる。

 

 美しき生物を従わせる

 

 男の―――牡の征服欲を掻き立たせずにはおけない。

 彼等が彼女らを手に入れる一番の理由はそれであった。

 

 叔父はこの美しい生き物を「さくや」と呼んだ。

 

「なんだ、一人前に色気づいているのか?咲夜、この坊主はお前に惚れたらしいぞ。」

 石神は顔が火を噴く程に熱くなるのを感じた。

 先程まで停止していた思考が一気に回復し―――そして混乱した。

「な、あ――そ、そんな・・・」

 呂律が回らなかった。情けなくなる程に狼狽えていた。

 さくや と呼ばれたネコは頭頂部にある、形のいいミミを少しだけ動かしたあと、 まぁ と小声を漏らした。

 その仕草がまた可憐で、石神の心を激しく惹きつけたのだが、どうにも居たたまれなくなって、逃げるようにその場を去り、父母の元へと向かった。

 叔父の笑い声が聞こえた気がしたが、それを確かめる余裕はなかった。

 結局、パーティーの間石神は叔父のネコをまともに見ることが出来なかった。

 

 多感な少年時代であり、性に対しても興味のある年頃だ。

 その日から石神少年の自涜の対象は、 さくや と呼ばれたネコになった。

 あの美しいネコの裸身を思っただけで、彼の股間に熱がこもった。

 沸き上がってくる劣情のままに、彼は幾度となく行為におよんだものだった。

 ―――やがて年を経て、女を知った。

 肉の悦びを知れば、あのような妄執は薄れるものと思っていたのだが、逆にそれは益々募っていくばかりとなった。

 

 そうこうしている内に、自身の将来について決めなければならない年齢になり、石神は軍人となった。

 叔父の影響もあったかもしれない。が、この世で名声を得る一つの手段が軍人となって武功を掲げる事であり、その結果として―――あの妄想が実現するかもしれないと考えたからだった。

 

 程なくして戦争が始まった。

 長年燻っていた隣国との関係が、修復不可能な程に悪化し、遂に武力行使となったのだ。

 その戦争は3年ほど続き、石神は御国へ勝利をもたらした英雄となった。

 英雄に対して御国は十分過ぎるほどの待遇と報償を与えてくれた。

 分不相応なほどに豪華な家屋敷に、爵位まで与えられ、何不自由なく暮らせるだけの金も手に入った。

 上流階級の、美しい許嫁もできた。

 まさに人生の春が訪れたようであった。

 

 図らずも手に入った栄光に、最初は戸惑いの日々を送っていた石神であったが(なにせ、いきなり20人を超える使用人を雇う程の身分になったのだから)、いつの頃からか、彼の精神は恒とは違う方向へと傾き始めた。

 

 今こそ、長年の夢を叶える事が出来るのではないか?

 ―――そうだとも。軍人になったのも、そして武功を掲げようと必死になったのも、全てはアレを手に入れるためではなかったか?

 

 そして遂に石神は動き出した。

 一般人と呼ばれる人々が近づかない――近づけない――とある場所へ石神は足繁く通った。

 其処ではヒトではない、しかし外見上はヒトと区別するには戸惑いを覚えるような生物が、愛玩動物そのもののように飼われていた。

 どれもが美しく、或いは可愛らしかった。

 その生物達には値札が付けられ、それは通常の勤め人が十年かけても稼ぐ事のできない程の値だった。

 ほぼ毎日にように其処へ出向いていた石神は、ある日支配人に声をかけた。

 石神の注文を聞いた時、口髭を生やした、いかにもといった顔つきの男は、口元を邪悪に歪めた。

 

それが、終わりの始まりの合図であった。

説明
幼少の頃の憧れ――主人公はそれを手に入れるために動き出した。
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