アリセミ 第三話 |
第三話 正軒の謎
日曜日、さわやかな日曜、ビューティフルサンデー。
そんな晴れ晴れとした日曜の朝、修養館高校 二年・武田正軒は目を覚ました。が、なかなか布団から出てこようとしない。
正軒「出掛けたくないな〜…」
普段ならば日曜の朝といえば、ぼんやり半分寝ながら『戦隊モノ』→『仮面ライダー』→『プリキュア』→『DB改』→『ワンピース』とアニメドレッていくのが定番なのだが、今日はそういうわけにはいかない。
今日、あの悪魔の剣道娘の練習に付き合ってやらねばならない正軒だった。
だから もうそろそろ布団から出て、顔を洗ったり歯を磨いたりしなきゃならないのだが、とてもそんな気になれない。
もう二度と剣術なんかやるまい、と思っていた彼であるから、オモチャのような竹刀といえども、それを握るのには抵抗があった。
しかし、それでもノソノソと起きだしてしまう自分の律儀さが恨めしい。
賞味期限の切れたコンビニ弁当で朝食を済ませ、タモリが『笑って いいともー!』とコールしているのをテレビで確認しつつ、正軒は自宅のアパートを出た。
今日の天気は快晴だ、せめて雨なら お休みにしてもよかったのに。
果てしなく重い足取りで、正軒は姫のお家へと向かう。
正軒「………あ、窓の鍵閉めたっけ?」
そして二回ぐらい引き返した。
*
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
電車に揺られ正軒は、今まで一度も降りたことのない駅で降車した。
正軒「つか、案外痛いな電車代」
SUIKAのチャージ残高を確認しながらボヤく。
この週に一度の安息日である日曜日、正軒は有栖から自宅への招待を受けた、いや召喚というべきか?
有栖『日曜では学校の剣道場は使えんからな、自宅の施設を使うことにする。必ず来いよ』
などと言われた。
何たる高圧的な態度であろうか。ルウム戦役直後のジ○ン軍だって ここまで高圧的ではなかったろうと正軒は思う。正軒もレ○ル将軍のように華麗に脱走を図りたいところだが、……ダメだ、やった途端に覗き犯として指名手配される。
正軒「くっそ、あんな弱みを握られるとは一生の不覚だ」
実際に女子更衣室に侵入を企てた友人にそそのかされて見張り役として同伴したものの、自分だけが部員の有栖に見つかるという大チョンボをやらかしてしまった正軒である。その損害が今まさに自身に降り注いでいる。甘んじて受けよう。
正軒「しかし…、あの女、自宅で練習やるって言ってたけど、どういうことだ?」
自分の家の敷地内に道場とか、それに近いものがあるってことか?
ということは あの剣道姫、お金持ちのご令嬢ということになる。あのワガママっぷりを見るに かえって納得できるし、いかにも、という感じもあるが……。
正軒「ええと、あらかじめ貰っておいた地図によると…、ここか?」
と到着した地点から見上げてみると、目の前には くたびれた雑居ビル。
正軒「あれえ…?」
ビル?お嬢様の自宅訪問しに来たはずなのに、なんでこんなトコにたどり着いてんの?
何度も地図を確認してみるが、やっぱりここで間違いないらしい。どゆことか。遠野郷でマヨヒガにでも迷い込んだ気分でビルに足を踏み入れてみると、同時にワッと駆け出す剣道着姿の小学生数名と擦れ違う。竹刀袋とスポーツバックを持ち、いかにも稽古帰りといった風だ。
正軒「……?」
少し気にはなったが、かまわず奥へ進み、エレベーターに乗る。地図に示された階まで昇ると………。
小学生「お姉ちゃん先生!お姉ちゃん先生!アタシね、言われたとおり素振り百回してきたよーッ!」
エレベーターが開いた途端、元気な声が聞こえてくる。
有栖「そうか偉いぞ、継続は力だからな、この調子でいけば来週には新しい技を教えられるだろう」
小学生「ホント、ホント?」
有栖「ああ、その代わり今週も毎日素振り百回、一日も欠かさずに続けるんだぞ」
小学生「うんッ!」
などと快活なやり取りが、部屋の奥に何者かがいるようだった。
「じゃあね、さよなら お姉ちゃん先生ーッ!」
「車に気をつけて帰るんだぞー」
奥の部屋から飛び出してくる剣道着姿の小学生。正軒と擦れ違いにエレベーターに乗り込み、下階へと降りていく。子供らの出てきたルートを正軒がたどっていくと、そこにはビル内であるにもかかわらず、板敷きに覆われた剣道場があった。
有栖「おお、来たか。こちらから呼びつけておきながら出迎えにも行けずに すまなかった」
室内には、既に剣道着姿の山県有栖。
正軒「ああ、いや……」
有栖「ここは、私の祖父が開いている剣道教室でな。……今日はムリを言って、午後の間ずっと私たちの貸切にしてもらった。その交換条件で、午前中は教室の指導に駆りだされてしまったが……」
有栖は苦笑 混じりに言う。
その言葉の示すとおり、一運動 済ました証拠といおうか、肌理細やかな肌に玉の汗がいくつも浮かんでいる。
その汗を拭き取る綿タオル、そのタオルをもった手が、服の下の汗をも拭おうと剣道着の襟口に滑り込む。その隙間からチラリと見える胸の谷間………。
正軒「………」
有栖「ん?どうした?」
正軒「ああっ、いや……ッ!」
なんでも ありません。
そういえば変態王・小山田グレートが言っていた、『剣道部部長のおっぱいのデカさは校内ベスト10に入るよね』と。
そりゃあ、あれだけ くっきりと深い谷間を作れるんなら、なあ?
有栖「オイ、何をボサッとしている。今日は今川戦に向けての特訓のために来てもらったのだ。呆けている時間などないぞ!」
正軒「へいへーい」
相変わらずのワガママ姫っぷりであった。先ほど剣道教室の小学生に見せていた態度からは想像もつかない。そう思うと、小学生に見せた優しい姉のような有栖の顔が、妙にムズ痒く思い出されるのだった。
そのクセ学校では、男子禁制の女子剣道部を率いる『鉄の女』みたいな見られ方をしているし、先日負けたときなんかは大声で泣きじゃくるし……。
正軒「なんだか とらえどころのない女だな」
一人ごちる正軒であった。
*
有栖「それでは、稽古を始める前に、キサマに見てほしいものがある」
生徒の帰った剣道教室、今や いるのは有栖と正軒の二人きりであった。
そこで有栖が取り出したのは一枚のDVD。
正軒「DVD?なんだそれ、AVか?」
有栖「そんなわけ あるかッ!……これはだな、私が対戦する今川夕菜の過去の試合を記録したものだ」
正軒「へぇー」
有栖「敵を知り己を知れば百戦危うからず、というからな。今川は一年生なので、このディスクに入っているのは入学以前の中学時の試合ばかりだが、それでも参考にはなろう」
そう言って有栖は、道場の隅からノートパソコンを引っ張り出す。
有栖「ええと、まずは、こうして……」
ノーパソを起動させるものの、その動きはあまりに たどたどしい。…今時 指一本でキーボード叩くヤツって……。
有栖「うるさいな!お兄ちゃんから借りてきたモノなんだから仕方ないじゃないか!」
赤面しつつ怒鳴る有栖、ディスクドライブにDVDを放り込み、悪戦苦闘の末に動画再生ソフトを立ち上げて……(どうしてそれだけで悪戦苦闘するんだ?)。
有栖「よし、再生開始だ!」
これでノーパソの画面には、宿敵・今川ゆーなの戦闘の記録が映し出される、はずが。
ビデオ『はいはーい、これから始まります、女子剣道部 恒例『突撃、となりの更衣室』!』
正軒「?」
画面に映し出されたのは、剣道の試合などではなく、なんか見覚えのあるドア。そして妙にノリの軽い声で実況する女の子の声。
ビデオ『今日のエジキ…、もとい、出演者は、我が剣道部期待の新部長、山県有栖さんでーす!あの冗談としか思えない巨乳を、今日は生の姿で記録しちゃいましょう。では、御開帳〜ッ!』
と、画面の中のドアが開けられる時、正軒は思い出した。ああ、これ、剣道場の女子更衣室のドアだ、先日グレートが侵入しようとしていた。
そして、ドアが開け放たれて あらわになる更衣室内部、そこに現れた艶姿は――――、
画面の中の有栖『きゃーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!?』
現実の有栖「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!?」
激昂した有栖によって、側頭部を思い切り殴り飛ばされる正軒。彼の網膜には、純白の可愛いブラジャーを剥き出しにした有栖の姿が一瞬だけ焼きついたのみだった。
有栖「間違えた!コレ、去年の先輩が無理やり撮った着替え覗きのビデオだ!……停まれ!ああコレ、どうやったら停められるんだ?」
正軒「ゲフッ……、それは、動画ソフトの停止ボタンを押せば………」
有栖「どこだソコッ?わからない!教えてくれ!」
正軒「はいはい、ええと………」
有栖「画面を見るなぁーーーーーーーーーーーーッ!」
正軒「画面見なきゃ停められないじゃん!」
こうして大混乱しているうちに有栖の生着替え映像は、全過程を再生し終えて自然に停まったそうな。
なんでも この映像は、卒業した先輩たちが有栖に無断で撮ったもので、プロポーションのよい部員が問答無用で狙われる伝統行事だとか。
正軒「……女子部って」
有栖「記念とか言われて無理やり渡されたんだが……、やっぱり早めに処分しておくべきだった…!」
無念そうに呻く有栖だった。
有栖「気を取り直して…よし、今度こそホンモノだ。今川夕菜、インターハイ決勝……と」
というラベルの貼ってあるDVD登場、そんなラベルがありながら なんで間違うんだ?
そしてメディアプレイヤー起動、再生…。
画面に映し出されたのは、これこそたしかに剣道の試合風景だった。試合場に睨みあう剣士二人、審判の「始めッ!」の掛け声とともに動き出す。
正軒「これのどっちかが今川焼きっていう子?」
試合中の選手は、当然ながら防具を着込んでいて顔も体つきも判別しがたかったが、正軒にはどちらが件の今川ゆーなであるかが一目でわかった。
だって、あまりにも姿勢が特徴的なんだもん。
今川ゆーなと目される選手は、剣道の使い手としてはあまりに構えが独特で、ぶっちゃけて言うと不恰好だった。
背筋は曲がって猫背となり、竹刀の切っ先はダラリと下がって腰より下に位置している。
…相手選手の、ピンと伸びた背筋に比べると、その だらしなさは一目瞭然だった。
正軒「だが……」
その一見 型破りの だらしない姿勢も、正軒の目には別の形に映った。
たとえば、たわんだ背骨は、獲物に飛び掛る寸前の身を伏せたネコのような。あるいは矢を放つ寸前、極限まで引き絞った弓のような。
折れ曲がった体躯は力の凝縮、まっすぐな形に戻るとき、押し固められた力が一気に解放される。
……そして、数秒の睨み合いの末、対戦相手が ほんの一瞬見せた隙を突いて、ゆーなの体は伸び上がり―――、
ビデオ『面ッ!』
試合は瞬時にして今川ゆーなの勝利に終わった。
それらを画面の外から観察する二人は…。
正軒「……速いな」
有栖「ああ、あのような基本を無視した構えで、何故ここまでの速さを生み出すことができるのか私には理解できん。まったく世の中にはおかしなヤツがいるものだ」
正軒「そんなことはないさ」
正軒は納得したような顔で言う。
正軒「この構えは、たとえるなら引き絞った弓だ、力を一気に爆発させるために力を溜めている。あの細い体でバカみたいに速く動けるのもそのためだ」
有栖「………」
正軒「そしてこの場合、基本から外れている、というのも有利に働く。基本から外れているっていうことはパターンがないということで、パターンがないと予測が立てにくい、予測が立てにくいと対応ができなくなる、それで速い動きが ますます速く感じてしまう」
有栖「…………」
正軒「特に、先輩みたいに基本でガチガチに固めた使い手には、な」
有栖「なッ?」
急に視線を送られて、大いに戸惑う有栖。
有栖「ば、バカを言うなッ、キサマに私のタイプがわかるというのかッ?先日一合 剣を合わせただけだろう!」
正軒「そんだけあれば充分さ」
そう言って不適に笑う正軒に、有栖は寒気すら感じた。
武田正軒。
素人であるはずの コイツから、底知れない何かを感じてしまう。
有栖「そ、そういうことならっ!」
有栖は、自身の動揺を押し隠すように声を張り上げた。
有栖「稽古の課題は決まったな!今川の速さに対応できるほどの反射神経を身に付ける!武田、用意をしろ!」
正軒「え?用意って?」
有栖「無論稽古だ、道着や防具は こちらで用意したから さっさと着替えろ!時間が惜しい!」
正軒「えぇ〜」
有栖「なんだそのイヤそうな顔は?」
正軒「稽古に付き合うとこまでは観念したけど。…道着に着替えるってのは………、なぁ?」
有栖「なぁ?とは なんだ?」
正軒「………(昔を思い出したくない、っていうか)」
有栖「はい?」
正軒「ともかく!別にこの格好のままでいいじゃんか!つーか そう決めた!俺は絶対に着替えんぞ!」
なんか断固とした姿勢をとってしまう正軒に、有栖はわけもわからず たじろいでしまう。
有栖「……ま、まあ そう言うなら無理にとは言わんが、しかし防具は絶対に着けてもらうぞ、安全のためだからな」
正軒「防具なら いいや」
道着はダメで防具ならいいって どういうこった?
そんなこんなで、ジーンズ・Tシャツの上から剣道の防具という珍妙な装備の武田正軒が完成した。
正軒「なあ先輩、この小手、すんげえ臭いんだけど」
有栖「剣道を目指すものなら誰でも通る道だ」
正軒「この兜…、イヤ面か?なんか湿っぽいし、視界も悪いし、側面全然見えなくなるじゃねえか」
有栖「皆そうだ、文句を言うな」
正軒「せんぱーい、胴って どうやって着ければいいの?……あ、シャレじゃないよ?」
有栖「うるさいなあ、もしかして知らんのか防具の着け方!」
有栖先輩に全面的に手伝ってもらって やっと防具を装着し終わる正軒だった。有栖の方も慣れた手つきで防具を装着し、稽古の準備はOKだ。
有栖「……というかキサマ、着け方を知らんということは、防具を着けたことがないのか?」
正軒「うん、生まれて初めてだけど?」
有栖「?」
正軒「竹刀を持ったのも、この前が最初だしねー」
有栖はますます首を傾げる。
先日、有栖の竹刀を弾き飛ばした紫電のごとき剣閃。ついさっき見せた冷徹な観察眼。明らかに素人とは思えない、なのに防具を着けたことがない?竹刀をもったことがない?
有栖「ま、まあいい、ともかく始めよう。最初は今川のことは意識せず自由に打ち合う、キサマの実力も見たいからな」
正軒「ういうーい」
有栖「では、…始めッ!」
…………スパンッ!
一本!
有栖「アレッ?」
有栖の竹刀は思いの外 簡単に正軒の頭部にクリーンヒットした。
有栖「弱いッ?」
有栖は愕然とした。まるで素人じゃないか。動きも構えも、ビデオの中の ゆーな以上にメチャクチャだった。
打たれた頭を抱えて痛がる正軒。
有栖「もう一度やるぞ、構えろ」
…………。
……パシンッ!一本!
有栖「やっぱり弱いッ?」
どういうことだ?これでは完全に素人と やっているようなものではないか。
先日見せた、あの達人のような動きは何だったのだ?
有栖「……というか、キサマ構えが全然なってないな」
正軒「そう?」
有栖「そうだよ!まず足!そんな ぼーっと直立に突っ立つヤツがあるか!剣を構えるときは右足を前、左足を後ろだ!」
正軒「こう?」
有栖「それに正眼の構えは、剣の柄が腹にくっつかないようにするものだ!剣の角度も違う、切っ先の延長が、相手の喉笛に届くように整えろ!」
正軒「へぇー」
有栖「へぇー、じゃない!」
有栖は いい加減に我慢の限界を感じた。
なんだコイツ、完全にズブの素人ではないか、自分はこんなヤツに負けて、なおかつ稽古の助力を受けようとしていたのか。有栖は自分のめがねのなさに愕然とする。
有栖「…………くっ」
有栖は悔恨の舌打ちを一つ。
有栖「もういい、ご苦労だった、帰って……」
正軒「あー、やっぱダメだ!」
正軒は突然言い出して防具を脱ぎ捨てる、面も小手も、胴も直垂も、何事が起きるのかと有栖は呆然と見詰める。
正軒「動きにくいし視界も狭いし、あと臭い!先輩に合わせようと思ったけど やっぱダメ!俺コレでやるから、いいよね?」
有栖「コレって…?」
有栖はますます呆然と、対する相手を見詰める。
今の正軒は、ドラゴン紫○のごとく その身からすべての防具を取り去った生身の姿に、右手一本で竹刀を下げている。裸同然といってよい。ジーンズやシャツごときで、どうやって竹刀の衝撃を緩和せよというのか。
有栖「オイ、素人見立てにもほどがあるぞ。竹刀とはいえ その衝撃は強力だ、防具がなくては思わぬ怪我をするぞ」
正軒「だって動きにくいんだもん、あと臭いし」
有栖「何度も『臭い』言うな!」
正軒「ああ、先輩は臭くないからね」
有栖「そんな取って付けたようなフォローをするな!たしかに私は小学生から剣道具に慣れ親しんでいるがな!…臭くないぞ私は、臭くないからな!」
正軒「そうだね、先輩は臭くないね」
有栖「哀れむように言うなぁーッ!」
もう頭にきた。
素人だろうとなんだろうと関係ない、有栖は、自分の道を舐める輩に鉄槌を下してやろうと心に決めた。
眼前の正軒は、右手一本だけで竹刀をもち、しかも その手をダラリと下げ、体にまったく力が入っていない。
その構えも舐めている。
片手で剣を扱うという技は剣道にもあるにはあるが、それは両手を使わないために不安定で、体のバランスを崩しやすく、成功させるのが難しい上級者向けの技なのだ。素人が気紛れでやれるものではない。
有栖「(フェンシングと勘違いしているんじゃないか?)」
考えるほどにむかっ腹が立ってくる。
もう決めた、そういうことなら素人に、剣の厳しさを心行くまで叩き込んでやろう。
有栖「その思い上がりを正してやるッ!」
有栖が床を蹴って突進する、そのタイミング、間合い、すべて完璧。正軒の脳天へ、刀身でもっとも威力が乗る箇所である切っ先三寸を最速で叩き込むことができる。
コレが防具のない頭に決まれば、脳震盪を起こして1〜2時間は起き上がれまい。しかし―――、
有栖「めぇーーーーーんッ、えっ?」
刹那、有栖は信じがたい光景を目の前にした。
正軒がいない。
つい今しがた目の前にいたはずの人間一人が消え去っているのだ、煙のように、何事が起きたかと混乱すること1,2秒、消失した相手は、またすぐに現れた。
正軒「足づかいは あゆむがごとし」
彼は、有栖のすぐ横にいた。面を被って狭まった視界、その視界のギリギリ外にいることによって消えたように見せかけたのだ。
正軒「普通に歩くように足を運べってことだ。そうすれば、己が移動は敵の意識をスリ抜け、さながら霞のように敵の視界から抜け出せる」
有栖「えっ?」
呆ける有栖に、凄まじい衝撃が襲った。
胴。
有栖の視界から消え、完全に隙を突いた正軒の竹刀が、有栖の胴を思い切りないだのである。
有栖「きゃあああうッ!」
その威力に、足の爪先にまで電撃が走るように錯覚する有栖。
意識が1,2瞬ブラックアウトした。呼吸を忘れ、思わず両膝を折って地面に崩れる。
有栖「(な、なんだコレ……?)」
自身 体験したことのない衝撃だった。彼女だって修行暦は長い、その長い間に大人の胸を借りたこともあったし、その威力をその見に受けて涙が飛び出したこともある。
しかし、今受けたコレは、それとも次元を画する一撃だった。
しかも正軒は、相変わらず竹刀を片手でもったままだった。
片手打ちでこの威力?
有栖は自分の目を疑う。
正軒「防具ってのは たしかに便利だな。相手を打つときに寸止めしなくていいから」
“このハンガーは、ズボンや靴下も下げられて便利ですね”ぐらいの気軽さで言う。
正軒「少し休む?」
有栖「ふざけるなッ!」
痛みを振り払って立ち上がる有栖、剣道家としての意地が、彼女を地面に留めない。
有栖「いぇーーーーーッい!!」
再び地面を蹴り、矢のような速さで襲い掛かる有栖。
しかし正軒は、そんなものなど児戯だとばかりにマタドールの優雅さで回避を決めると、またも片手打ちで、
バチンッ!!
有栖「きゃあうッ?」
片手だけで相手を叩き潰すほどの剣威が出せるのは、もはや腕力だけでは説明がつかない。
まずは腰の力、どっしりと腰が据われば据わるほど、足の踏み込みの力が腕先へと伝わり、両手と遜色ない威力を振るうことができる。
しかしそれを実戦で行うためには、驚異的なバランス感覚が必要だ。それこそ平均台の上を飛んだり走ったりしても足を踏み外さないほどの。
それだけの技量が、正軒にはある?
正軒「まだやる、先輩?」
有栖「も、もちろんだッ!」
そこから先は、有栖にとって地獄の時間となった。
防具なし、竹刀 片手もちとなった正軒の動きは、彼女の常識を大きく逸脱していた。
常識外れ、という点では有栖が宿敵とする今川ゆーなも その類だったが、正軒の異質さは ゆーなともまた一味違ったものだった。
例えるならば、ゆーなが目にも留まらぬ速さで飛び掛ってくるネコなら、正軒は奇怪な動作であらゆる隙間から忍び込んでくる、蜘蛛。あの八本の足で どこから迫ってくるのか わからない。
正軒の竹刀は、有栖の防御をかいくぐり、喉を、脇を、脇腹を、手首を、太腿を、足先を、股を、正確無比に叩き打つ。
どれもこれも、剣道のルールにはない人体急所ばかり。
有栖はもはや正軒に叩きのめされるのみだった。
引き回され、踏まれ、押さえられ、おびやかされ、うろめかされ、ひしがれる。そうして嵐のような時間が経過すること3時間、…いや1時間、いやいや30分ぐらい経っただろうか。稽古が一時中断し、正軒に振り回されるだけ振り回された有栖は、立つ力も失ってその場に倒れこんだ。
有栖「ゼエ……、ゼエ……」
実際に経過した時間は10分もなかった、しかし有栖にとって途方もない時間が過ぎ去ったかのように思え、少なくとも体力は、幻想の時間に対応するほど消費しつくしている。
正軒「先輩、大丈夫ー?ほらポカリ」
息一つ切らしていない正軒が、ペットボトルを差し出した。有栖は一目見るなりボトルを奪い取り、砂漠の遭難者のごとくゴクゴクと飲み干す。
正軒「ゴメンねー、軽めにはしたつもりなんだけど……」
アレで軽めだと。
有栖は何かしら抗議したかったが息が切れて言葉を発することもできない。呼吸が整うまでに たっぷり3分ほどを要した後、やっと出てきた言葉は……。
有栖「キサマ、何者だ?」
正軒「何者だ、と聞かれましてもね」
正軒は答えに困ってしまう。
有栖「キサマは明らかに素人だ、防具の着け方は知らないし、構えも全然なってない。それなのに剣のもち方、構えの取り方を変えるとバケモノのように強くなる。恐らく全国クラスでも まともに遣り合える者は少ないのではないか?」
正軒「いやー、そんなことも……」
有栖「とぼけるな!いつぞやキサマは言ったな、自分は異世界の勇者だと」
まだ覚えてたのか その与太話。
有栖「しかしな、私だってバカではないぞ。あれから自宅に帰り、食事を取って風呂に入り、風呂から上がって髪を乾かし、授業の予習復習をして床に入り、翌朝目覚めてハタと気付いたのだ、あの話はウソだったと!」
正軒「気付くの おっそい!」
せめて日付の変わる前に気付こーよ。
有栖「もう たわけたウソには騙されんぞ。…さあ話せ、お前は一体何者だ、どうしてそこまで剣の腕が達者なのだッ?そして、その剣の技は―――ッ」
有栖が、正軒に掴みかかった その時だった。
祖父「そこ誰かおるのかね、有栖?」
道場の入り口から白い髭を生やした禿頭の老人が現れた。
老いてはいるものの、首は太く 手足はたくましく、瞳に宿る光は若々しい、何かしらの達人であることを匂わせる肉体をもった老人だった。
有栖「お、おじいちゃんッ」
正軒「おじいちゃん?」
そういえば有栖が言っていた、ここは彼女の祖父が開いている剣道教室だと。
祖父「お前が急に教室を使いたいと言うものだから気になっての。アレだったら じいちゃん久しぶりに稽古を見てやろうかと思ったのだが……」
かく言う おじいちゃん手には竹刀袋が握られていた。可愛い孫にかまってやりたいと言わんばかりの態度だが。
祖父「しかし、相手は間に合っていたようじゃの」
ジロリ、視線が正軒を捉える。
正軒「うぐっ」
有栖「おじいちゃん、コイツは学校の後輩でな!稽古の手伝いをしてもらうために来てもらったのであって、別に深い意味は……」
祖父「お若いの、名はなんと申すのかね?」
有栖のお祖父さんの声音には明らかに剣呑さがあった。
それはそうだろう、と正軒は思う。可愛い孫娘が、こんな人目につかない場所で若い男と二人きり、自分が同じ立場だったら居合わせた男を殺す、絶対殺す。……男ってなんて業の深い生き物なんだ……!
正軒「……あのー、私の名は、ジョニー・デップです」
大胆な偽名だった。
正軒「……武田正軒です」
有栖「訂正するぐらいなら、最初から正直に答えろよ」
対して有栖のおじいさんは、正軒の名を聞いて じわじわと目の色を変える。
祖父「武田…?」
まるで、心当たりがあるとでも言うかのように。
祖父「……もしかしてアナタは武田燐太郎氏の息子さんではないかね?」
有栖「え?」
いきなり出てきた知らぬ名に、今度は有栖が目の色を変えた。
武田燐太郎(たけだ りんたろう)?誰だソレ?
そして当の正軒は、見るからに面倒くさそうな顔つきで、
正軒「まあ、一応そうですが」
祖父「やはり!燐太郎氏に その年頃の息子さんがいるとは聞いていたが、修養館に通われていたとは!」
正軒「ああ、いえ、あの…」
祖父の顔が喜びに輝き、正軒の顔がますます苦りきっていく。
そして一体何事かと当惑仕切りの有栖。
有栖「あの、おじいちゃん。一体どういうことなの?彼は……?」
祖父「なんだ有栖、お前知らずに彼とお付き合いしていたのかい?」
有栖「いや、付き合ってはいないけど」
祖父「この方はね、古流剣術の大家、武田燐太郎氏の御子息なのだよ。ワシも一剣道家として、彼の御父上の道場に訪問したことがある。燐太郎氏の息子さんは天稟の気があるとかで御本人も自慢なさっていた。そんな大層な方とウチの孫がお近づきになれるとは…!」
おじいさんは、もはや正軒のことを生き仏でも拝むような勢いである。
そして有栖は、祖父の言葉からいくつもの疑問を氷解させることができていた。
古流剣術。
現在の剣道とはまったく別の技術形態。剣道を知らないようで、達人級の剣技をもつ正軒の謎が一気に解けた気がした。
祖父「おお そうだ!有栖、彼にはウチで晩飯を食べていってもらいなさい。おじいちゃんは家に戻って、ばあさんたちに御馳走を用意するように言ってくるから…!」
有栖「あっ、おじいちゃん…!」
有栖が止める暇もなく、おじいさんは嬉々として道場を飛び出していった。
……なんだ あのはしゃぎよう。
二人取り残された正軒と有栖は、気まずい空気の中で互いを見合わせるしかなかった。
to be continued
説明 | ||
剣道部部長。山県有栖(やまがた ありす)の練習に行きがかり上手伝うことになった主人公武田正軒(たけだ せいけん)。 日曜日、彼女との二人だけの特訓が始まる。 剣道の素人かと思われた、正軒の実力は…? |
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