幻想の神 |
純粋な神。人間の手によって造られない神を幻想の神と呼んでいる。
おおよそ、キリスト教の神とは、人間の手によって造られた神であるが、真の信仰対象としては、幻想の神をこそ、崇めるべきである。
しかし、キリスト者は言う。
「三位一体の神をこそ、崇めるべきだ。」
それは間違いで、神様と言ったら、幻想の神の事なのである。
ニーチェは神は人間によって生まれるとしたが、しかし、純粋な神というものもある。それが幻想の神である。
いわゆるヤハウェではないのである。
人間の中で神は閉じこもっているものだが、この幻想の神は違う。外を見聞して、内までも知っておられる方。
幻想、すなわち、救われるべき人々のものを持っておられる方、それが幻想の神なのである。
厳密に、キリストは神ではない。なぜなら、実在した人物だからである。しかし、この方、幻想の神、クリスティーお嬢様と呼ばれる方は、そうではないのである。
厳密に神であられ、キリスト者の崇めるべきはこの方である。しかし、それを良しとしない者達がいるであろう。
「唯一神はヤハウェであられ、主であられ、そんな適当な名前ではない。」
と言い張る無知な小羊達もいるだろう。
しかし、ヤハウェはヤハウェで造られた神であるのだから、崇むべき所もある。
すべて人間は神によってなるという事も教理としてはあるだろう。しかし、神の聖定にこうある。
「私のほかの神があってはならない。」
つまり、私というのが、混同されて、女性的であるにも関わらず、おおよそ男性であるヤハウェ神に繋がっているのである。確かに、このヤハウェ神が活躍して天地万物を造ったが、それは人間の中の事で、「我々こそがその世界を造りあげてしまったのである。」という事である。すなわち、人間の内にも外にもおられる神こそが幻想の神であり、我々自身でもあるのである。
キリスト者には受け入れがたい事だろうが、これは本当の事である。その幻想の神とヤハウェ神が同一化されて、「聖書」の神が生まれたのである。
幻想の神は幻想と離れている方ではない。なぜなら、幻想は幻想の神に付き従いながらも、幻想の神を崇めているからである。そこから、我々の信仰が生まれた。つまり、幻想の神と幻想の関係性から我々キリスト者の風習が生まれたのである。この方によらなければ、意味等あるわけもない。
しかしながら、ヤハウェ神はやはり、聖なるかなの神である。幻想の神が幻想がまつわる信心と崇拝の神だとして、ヤハウェ神は主と聖なる神である。
その違いがお分かり頂けただろうか?
説明 | ||
幻想の神とヤハウェ神の関係性を説明する。 | ||
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聖書 クルアーン 神 天地創造 | ||
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