人間の尊厳の妨害および人間の尊厳の加味 |
帰納という論理学の思考法がある。
それによれば、「例を挙げて人間の前提を考える思考法」である。
例えば、人間が愛について考える時、「隣人愛」と「兄弟愛」と「愛敵」と「人類愛」というものを知っている。だから、愛に生きるのは良い事だ。
演繹という論理学の思考法がある。
それによれば、「すでに出た結論から導き出すさらなる答えを考える思考法」である。
例えば、「愛は良いものだ。」しかし、「愛は人を狂わせる。」だから、十分に気を付けなくてはならない。そこから「愛に生きるのは良い事だ。」を加えると、「愛に或(あ)る問題はあるが、基本的に愛に生きるのは良い事だ。」つまり、帰納という思考法から得た前提となるものを加えると、一般論としての愛と狂愛から来る論を一緒くたにして、まず、一つの結論が導かれるのである。
つまり、愛は人を狂わせるから悪い事でもあるが、基本的には良い事である。
という結論が導き出される。
演繹によれば、人間は幸せだとより良く生きる気持ちになる。「逆に」人間は不幸せだと死にたくなる。(ここにサタンの影がある。)
だから、私は不幸せだから、死ぬのである。という結論および言行の前提そのものが狂った人々がいて、演繹とか帰納とかによって導き出されるよりも、暗い暗い闇を見ている人々である。
逆に、人間は幸せだとより良く生きる気持ちになる。だから、私は幸せなので、生きるのだ。
これが普通の結論および言行の前提なのである。
しかし、前者は狂った論理を作る自殺願望者である。
闇に生きる人というものは、この様に、闇ばかりを見ているのであるから、倫理では抑えられないのである。ゆえに、この人々を救えるのは愛のみなのである。
愛は無条件である。生というものは常に、条件的なものなのである。これは演繹とか帰納よりも先にあった前提条件なのである。
ゆえに、肯定感を受ける人と否定感を受ける人と分かれてしまうものである。
肯定感を受ける人はより良く生き、否定感を受ける人はおそらく、死にたがる。
人間共通の感覚なのである。
つまり、人間が人間である為に、人々ははかりを持っているものなのである。
肯定感と否定感をはかりにかけ、肯定感が上回れば生き、否定感が上回れば死ぬ。
その様な結論が導き出されるのである。
この様に、論理学の通じない合理性というものがある。
その合理は、人間を箱として、生を入れるか?死を入れるか?という神の選択である。
生を入れれば、その人は生き、死を入れれば、その人は死ぬ。
つまり、人間は箱であり、何かを入れる器である。
「伝道者の書」では、こう言っている。
「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。」
その空(くう)に入れるべきが愛の生である。
愛なる神はその仕事に従事する為に、わざわざ天に昇られ、しかも、人間の為の箱を用意された。
Aという箱はAという人に繋がり、Bという箱はBという人に繋がる。
つまり、たとえではない。現実に起きた事なのである。
愛の生とは、誰かを愛し、神自身をも愛し、全てを愛し尽くす、生の事である。
例えば、Aという箱を持っているAという人が愛の生を入れられたとする。それはやはり、愛の生であり、ゆるす愛である。ゆるしていなければ愛ではない。生において無限の愛が、愛の生なのであり、無限の愛がすべての咎(とが)を駆逐(くちく)するのである。
もはや、生においては合理であっても、愛の生においては合理ですらない。
我々の出せる結論はその愛の生に至る事だけである。
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人間の尊厳について論理学に基づいて書いていく。 | ||
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