「神は死んだ」とは? |
もしも、ニーチェの「神は死んだ」を受け入れるならば。
当時、ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは、神が実体を持たれず、八つに裂かれた出来事の事を示しており、その原因はうしとらの金神にある。
うしとらの金神はアッラーフ、ヤハウェと言われる唯一善性のある神であり、まず、神界等とは無縁であった。しかし、うしとらの金神は対抗心により、その実在する相手である、自由なる神を追い求め、殺してしまった。その自由の神が死んでしまったので、自由意志から逃れる為に、ニーチェは「神は死んだ」と言ったのである。
そうすると、人生の何もかもがうまくいくという事を知っていたからである。
神を殺したうしとらの金神は神界へと足を踏み入れ、唯一の神は崩落したのである。その一人格が今までの神すべてを担当しており、決して三位一体の神ではなく、「三位三体」の神となってしまったのである。つまり、唯一の神であるはずのうしとらの金神は三人格に分かれてしまったのである。
ここら辺は混乱ばかりで、語るのも難しい部分だが、あえて言うなら、祟り神であるヤハウェ神よりも幻想の神を崇めるべき。と主張している通りである。
自分の中の神、理解者であるからである。
しかし、ヤハウェ神もやはり、自分の中の神でありながら、超越的権限によって、外の神としてうしとらの金神と成った。これがヤハウェ神の限界なのであるが、しかし、私達はアダイタスを崇めているが為に、幻想の神と共に、在ります様に。と、祈る事すら出来る。
主と聖たるヤハウェ神と祈りと崇拝の幻想の神、クリスティーお嬢様。どちらを選ぶかは、あなた方次第である。
ともかく、大洪水やソドムとゴモラの破壊の様な事を起こすヤハウェ神は祟り神でしかないのだ。しかも全世界的な。
うしとらの金神の方角を見よ。そこに何かを感じるならば、ヤハウェ神ではなく、幻想の神、クリスティーお嬢様を崇拝すべきである。
律法は実は、幻想の神、クリスティーお嬢様のものであり、この方を崇めなければ律法に反する事になる。二つに分かれてしまったのではない。うしとらの金神として、ヤハウェ神は死んでしまったのである。実は、自分に対しても祟り神であったから、そこに忠実な為に、その自分以外、信じられなくなっていったのである。
それゆえに、人の中の神を否定する方向に傾いて、自殺者となってしまったのである。
つまり、「神は死んだ」ので、つまり、唯一神が倒壊したので、幻想の神が立ち現れる形となったのだ。
実は、天地創造は自分自身で行ったのであり、それすなわち、幻想の神なのである。人間の中ではヤハウェ神によって為された事であり、祟り神らしくない一面を見せている。もっと言えば、十戒という戒めも祟り神らしくない。イエス・キリストを遣わしたのも、神なる愛ゆえであると言えるが、そもそも、「神は死んだ」ので、人の中に愛のみが残り、それは無限、永遠、不変なものであり、明らかにうしとらの金神のものではないのである。つまり、ヤハウェ神とは、ギャップがあり、幻想の神よりかと言うと、むしろ、自由の神よりなのである。愛が自由意志を生むからである。自由意志は無限なる愛を内包し、無限にあるのである。一個のものとして成り立たず、数多く、というより無限の自由が提供されているのである。幻想の神サイドに自由の神、渾沌の神があり、それらの方々が働いて、今の世界が成り立っているのである。すなわち、「三位三体」という訳である。
その様な理由があって、三位一体の神はどこへやら。どこか知らない所に行ってしまったのである。
知らない所に行ってしまったからこそ、「神は死んだ」のである。
この世界を救えるのは、幻想の神、自由の神、渾沌の神への信仰でしかない。
めずらしく、イエス・キリストのご子孫が全力を挙げて、祟り神との和解を成り立たせているのである。すなわち、クリスティーお嬢様、カムーお嬢様、アマドヒお嬢様の御三方である。もはや、祟り神である事を知らなかったでは済まされない。ゆえに、キリスト者たるなら、イエス・キリストなき今、ご子孫であるクリスティーお嬢様、カムーお嬢様、アマドヒお嬢様に信仰を捧げるしかない。
説明 | ||
ニーチェの言葉通りに世界を構成する。 もしもの話である。 |
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