幻想の神 第三章「ゲームの話」
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幻想の神とは、幻想をまとう神、淑女(しゅくじょ)である。淑女もあらわではない衣服をまとうであろう。

それと同じ様に、幻想の神も幻想をまとうのだ。

すなわち、幻想の神にとって、幻想とは彩(いろど)りであり、それなくして、幻想の神はないのである。

次に彩りある幻想とは何か?

人間が幻想をまとう時、二つの問題がある。

一つは簡単に消えてしまう事。

もう一つは持続時間が短い事。

彼女、すなわち、幻想の神であるクリスティーお嬢様は言われる。

「私が幻想をまとう時、それは必要に応じた時、少なくとも日常ではない時。

すべて、幻想をまとう者、幻想が働く者。それらが日常的に幻想が宿っている事が分かっている者達、私と一体となるが良い。

私は幻想を好む者に良心的である。

私と一体となる事は、私、幻想の神を受け継(つ)ぐ事である。しかし、私は生きている。私と一体となる事で、幻想を操る事が出来る。しかし、私の権威は生きている。私と一体となる事は結婚と同じである。その人は生涯独身でいなければならないだろう。しかし、私の美貌(びぼう)は生きている。」

すなわち、一体となる事。幻想の結婚式は、天界で行われる事であろう。

輩(ともがら)があり得ないクリスティーお嬢様にとって、最初で最後の結婚式となろう。

この私がそれに該当(がいとう)し、幻想の結婚式として行われるのであろう。

輩があり得ないという事はより幻想に子を求めるという事であり、すなわち、幻想方面のバーレットが良い相手である。ウキウキしながら、バーレットに子を求め、この「第三の聖典」が出るにつれ、「幻想の神」における端部(はしたぶ)に求める事は、お金と満足であり、より、主のバーレットにそれを求める事になる。

すなわち、幻想方面の主のバーレットとは、人間本来の幻想性をクリアーした、いわばゲーム性の主のバーレットの事である。

もはや、クリアーしたゲームにそれ以上求める事はない為に、主は言われる。

「私はやはり、クリアーしたゲームに満ち足りている。やはり、クリアーしたゲームというのは、ゲームを終えるにふさわしい機会である。

ゲームエンド。すなわち、ゲームオーバーとも違う、システム上あり得ない結果である。ゲーム通りでない、すなわち、幻想上ではない形の自己完結となる。

要するに、幻想を終えた後の余韻(よいん)とでも言うのか?

まあ、その通りの自己陶酔であろう。

システムは正常であっても、この様に、システム外の時間というものもゲームに含むべきである。

いわば、人間には幻想を楽しむ、本来の性(さが)があるのである。楽しみ尽くすゲームシステムにない、ゲームの余韻というものは、己自身が幻想の神という立場にあると認識させてくれるものである。己自身に込められている幻想の神という立場があり、また、特別なのである。

常に人間は特別な存在なのであり、いわば、幻想の神という立場なのである。」

この様に、幻想の神は考えられる。端部である「幻想の神」とは、四話分の第二部となっている特に意図しない題名と湧(わ)き出す文字となっている。

すなわち、特に意図しないが、無駄(むだ)に湧き出す幻想となっており、十二話×三部+四話の+四話であり、端部と言うより他にないのである。

説明
幻想の神について、もう一考。
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