麗しのサブマリン
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麗しのサブマリン

 

 

 

 

「女の球だろ」

 通りすがりに耳に入った。

「俺だったらホームランだ」

 その一言がカチンと来た。

 声の主へ振り返っても、彼は気づいていない様子だ。

(打てるもんなら、打ってもらおうじゃない!)

 ボールをぎゅっと握り締め、マウンドへ向かう。

 彼との対決が待ち遠しい。

 自信満々のスイングで空振りし、悔しがるカオを楽しみにして。

 

 夏の空の下、太陽の熱を目一杯に吸った熱風によってグラウンドの砂埃が舞い散る。

 ――あと一人。

 ピッチャー西原ヒカリはスコアボードに赤く点灯するアウトカウントを無感情に眺めた。

 チームでただ一人の女の子でピッチャーをつとめる。切りそろえている短い髪と成長期の早い女の子らしく同年代の男の子と背丈は変わらず、ぱっと見はチームメイトの少年たちと遜色ない。

 今日も先発を勤め、最終回までやってきた。

 大粒の汗が前髪の先から零れ落ち、、地面に染み込む。

 ――熱いのは嫌いじゃない。汗はイヤだけど。

 ――でも、もっとイヤなのがいる。

「四番、ピッチャー、石崎くん」

 石崎と呼ばれた少年はすでにバットを持って、コールされるよりも前にベンチから現れていた。砂埃を鬱陶しそうに払いのけ、右バッターボックスへ入る。

 そして、真剣な目つきでピッチャー西原ヒカリを捉えている。

 思わず戦慄が走る。あの目が怖いのだ。

 グローブに収まるボールを汗で湿る右手でぎゅっと握って、ヒカリはキャッチャーのサインにうなずく。石崎の強い眼力がつくりだす緊張感にすくみそうになりながら、奥歯を噛み締め、投球動作に移る。

 左足を上げ、身体を捻っての体重移動。弓を引くように右腕を後ろに反らし、勢いをつけて肩口から腕をしならせる。自身の全体重をボールに篭めて、右手の人差し指と中指で同時に押し出す。リリースされたボールにはバックスピンが掛かり、キャッチャーミットまで風を切り裂き、直進する。

 ヒカリの直球はバッターに触れられることなく、キャッチャーミットまで飛び込んだ。

 革のキャッチャーミットから威勢のよい音が響く。

「ストライック!」

 審判が張り切ってコールする。

 キャッチングのコツの一つとしてピッチャーにこの音をよりよく聴かせることとあるが、ヒカリはその話に納得できる。自分の投げた球がコース通りに決まって、それを証明する返事のごとく、キャッチの音がよりよく聴こえればボールに誉められたような気分になるのだ。

(ナイスピッチングってね!)

 緊張感に包まれる最終回のマウンドで、自分の投球を誉めた。

 最終回まで投げぬいたヒカリ。

 あと一人抑えれば勝ち投手となるのだ。スタミナ面をあまり誉められたものではないヒカリの身体も最終回というテンションに、落ちていた球威も球速も復活を遂げた。

 精神面の充実が、体力を凌駕する。こうなったヒカリは負ける気がしないと思い切って投げ込む。そして、いつも以上の力を発揮するのだ。

 硬式少年野球であるリトルリーグの最終回は六回。九回の裏まで試合が行われるプロ野球や高校野球と違って短く、六回の裏までしか行われない。

 そして、マウンド上のヒカリにとって、六回で試合が終わるというのはありがたかった。ちょうどスタミナが切れる具合なのだ。先発して完投できるちょうどよいタイミング。

 もっとも、リトルリーグにはまだ体の出来ていない子供の保護という名目で初回から登板して七回以降の延長戦までは登板出来ないのである。そんな理由も手伝って、特に自分のチームがリードしている六回になると途端に元気になる。

(この試合はあたしのもんだ!)

 プレイボールという審判の宣言に合わせて第一球を投げ、試合を動かし、最後のアウトも自分が取る。それが出来なかった日のヒカリはいつも機嫌が悪い。例え、大量点を取られた時より機嫌が悪い。

 そして、今日の試合はヒカリのもっとも機嫌が良いパターンだった。

 一対〇でヒカリのチームが勝っている最終回二アウトの場面。ただ、障害として立ちはだかるのは、一塁、二塁、三塁、すべてに走者がいることだ。言い換えれば相手チームの逆転サヨナラのチャンス。だが、ヒカリは怖気づいたりしない。あと一つ、アウトを取れば勝ちなのだから。いつでも攻め気で勝ちに行くヒカリの性格。マウンド上ではチーム一、気が強い。リードするキャッチャーの子のサインを無視することも多々ある。

(この場面で相手は石崎だし、なんて抑え甲斐があるんだろ!)

 ヒカリが唯一、三振を取れていない相手チームの四番でエースの石崎隆。ヒカリはこの石崎相手に執拗に空振り三振にこだわる。

 石崎だけが、本当に討ち取れないのだ。

 石崎という少年のバッティングは素晴らしかった。

 だからこそ、ヒカリは石崎を空振り三振にさせて、悔しがる彼の姿が見たいのだ。涼しい顔してヒカリの自慢の直球をピンポン球の様に飛ばす彼を、ヒカリの球が打てなくてムキになって突っかかってくるようにさせてやりたいのだ。

 ヒカリはふうっと息を吸い込んで、精神を集中させた。

 ストライクは後二つ。

 ここからが勝負なのだ。石崎はよく一球目を見送ってくる。

 ヒカリの頭にボール球を投げるような考えはない。

(そんな球、投げる意味ないし)

 チームメイトの男の子より潔く、真正面からぶつかって勝負し、抑えるのが楽しいし、大好きなのだ。

 しかし、過去の勝負を振り返ると圧倒的に力負けしている。

 得点圏にランナーを置くような場面で一度も討ち取ったことはなく、ましてや空振りの三振にさせたこともない。ランナーがいない時ぐらいである、まともに凡打にさせたのは。

 いつもは好きにやれという監督ですら勝負はなるべく避けろという指示を送る。だが、このゲームは一対〇の上、二死満塁という状況だ。試合に勝つためには勝負しか道は無い。

 ヒカリにとってはどっちにしろ勝負する気でいたので差はない、むしろ好都合だ。

 敬遠だ何だという作戦上云々といった面倒なやりとりがなくてやりやすい。

 よいバッターほど討ち取ったときの喜びが大きいことをヒカリは本能的に知っている。

 だから、ヒカリは石崎の勝負にこだわる。

(あと二つ!)

 キャッチャーの少年からのサインに頷く。コースも決まった。

 あとは彼の構えるミットに投げればいいだけだ。

 何も怖いことはない。

 要求されたコースに全力で投げ込めばよいだけだ。

 何も恐れることはない。

 彼のリードが合っているかどうかなんてどうでもいい。コントロールが抜群に良いヒカリは指示どおりに投げられる。

 キャッチャーの子は実に弱気だが、なんだかんだでいつも指示どおりに投げて結果を出しているのだ。

 だから、石崎相手だろうとその考えを変えるつもりはない。

 だが、胸騒ぎがする。

 キャッチャーの彼が構えた内角の低め、そこは嫌だ。直感的に嫌な予感がするのだ。

 でも、もうサインに頷いてしまった。

 後戻りなんてできないし、したくない。

 大きく息を吸って、迷いを振り切り、自分の投球を信じて、彼のミットを信じて、投げた。

 ボールをリリースした瞬間、自分のベストのボールであることがわかる。これで打たれてしまえば、もう、それ以上のものは望めない。

 ボールは突き進む。

 同時に、汗が滴り落ちる。

 

 ――俺だったら、ホームランだ。

 

 緊張する心臓の鼓動音を打ち破る音があった。

 嫌なセリフが脳内にこだまする。

 石ころのように固い硬式球が金属バットに当たる高い打球音。高校野球でおなじみのあの音だ。

 その音はどんな音よりも大きくて、感情を抉り取るような、最低な音。

(芯だ)

 石崎の力でボールをバットの芯で捉えれば、ボールの行方は明らかだった。

 レフトの頭上を通り越し、外野とスタンドを仕切る境界線を越えていった。

 文句無しのホームランだ。

 しかも、走者は満塁。投手としては最低最悪の逆転サヨナラ満塁ホームラン。

 石崎はベースを涼しい顔してまわっている。

 ガッツポーズは少し腕をつき上げるだけだ。石崎のチームメイトはハイテンションな笑顔を見せているのに、石崎はさも当然そうな顔つきで笑う。

 いや、ヒカリを嘲笑しているかのように見える。

 リトルに入った当時、通りすがりに耳に入ってしまった一言が否が応でも思い出される。

「女の球だろ、俺だったらホームランだ」

 打たれるたびにこの言葉が頭に蘇る。鮮烈に。

 そのたびに悔しくて、涙がじわりと浮かぶ。

 野球帽をぐっと深く被って、涙目を隠しながら、堪える。

(マウンドの上で泣いたり、しゃがみこんだりしたら、そのピッチャーの負けなんだ)

 野球バカの父がいつもヒカリが負けるたびにそうやって説くのだ。

 その言葉どおり、どんなに打たれてもヒカリは泣いたりしないし、しゃがみこんだり、マウンドを放棄したりしないと心に誓っている。

(立ち向かう限り、本当の負けじゃない)

 わかってる。次は抑えればいい。だけれども、この、自分を壊されたような感覚は何度味わっても心に堪える。何度も何度もヒカリの自信を打ち砕いた石崎だからこそ、ヒカリは牙を向いて、より空振り三振に拘るのだ。

 キャッチャーの少年がヒカリの肩を叩いた。

「ドンマイ……ん、大丈夫?」

 ヒカリは顔を上げて答える。

「大丈夫。次は負けない」

 キャッチャーの少年はそんなヒカリの言葉に微笑んだ。チームメイトが諦めないのもヒカリの不屈の精神から来ている。

「挨拶だよ、行こ。次は抑えようぜ!」

 キャッチャーの少年に促されながら、ホームベース付近に整列するチームメイトに混じる。その姿は涙を堪えた、一人前の敗戦投手だった。

 そんな試合が頻繁にある。

 ヒカリはいつもいつもいつも勝てない。

 大事な場面で勝負を挑んでは負ける。

 それでもヒカリは挑みつづける。

 どうしても一度は勝ちたいという想いを胸に。チャレンジャーの気持ちを大事にして。

 いつか必ず、三振して悔しがるカオをさせるという目標を立て。

 地区大会でどんな成績を修めようが石崎を抑えるまでは本当の勝利じゃない。

 最強のライバルと確信していた。

 その彼だって、ヒカリとの対戦は必ず投手としてマウンドに上がってくる。

 全力で投手としての差も見せ付けてくる。だから、負けられない。

 だが、小学生最後の試合のバッターボックスに立って、打てないながらも石崎を睨みつけていたヒカリが気づけば病院のベッドで横たわっていた。

 ひどくぼんやりした頭は試合終わっちゃったかなとちょっと残念な気持ちが先に出た。

 最終回は石崎に打席が周ってきて、もう一度勝負できたのだ。

 今度こそ抑えるはずだったのに、と。

 やがて、目覚めたヒカリに気が付く人影。

 心配そうに見つめる両親の姿。

 ようやく思い出す、ああ、そうだ、石崎の球に当たって、倒れて、そのときにまたバットかなにかに当たって……気が付けば病室。

 そっと患部に手を当てる。たんこぶの様になっているが外見はそれほどでもないようだ。

 だが、意識はまだぼんやりしていた。

 母が涙ながらにヒカリの包帯の巻かれた頭を優しく抱きしめて言う。

「もう、野球はお終いよ。あなたは女の子なんだから」

 お父さんとは違うのよ、と結びながら。

 こめかみに響く鈍痛のせいでヒカリは母の涙ながらの取り決めに、なんとなく、頷いた。

「うん、そうするから。だから泣かないで、お母さん」

 

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 右肩が熱い。

 昨晩の壁当てが影響しているのだろう。

 気分に身を任せてついつい投げすぎてしまったのか、まだあの音が頭の中で鳴り響いている。コンクリートの壁に跳ね返る硬球の音。寂しく、悲しく、それでいて孤高な高音。

(こんなことを、いつまでも続けているんだろう)

 誰も相手のいない一人だけのキャッチボール。

 無論、それはキャッチボールとは呼べず、壁当てなのだ。

 冷たいコンクリートの壁。一方的に壁に描かれた奇妙な星型な目標に向かって投げ続ける。

「夜中に変な音がすると思ったら、またあなたなの?」

 そして、その姿を見かけた公園の隣家の主婦が口を挟む。

「ほら、もう帰りなさい。女の子がこんな夜中にうろうろしちゃ駄目よ。それに、この公園は野球禁止なんだからね」

 その声に愛想良く頷いて、体は反抗するように半ばヤケクソ気味に一球投じた。

 が、コンクリートの壁はただ冷たい音を伴ってボールを跳ね返すだけだった。

 

 まどろみの中で昨夜の自分の姿が滑稽に映る。

 前に進めばいいものをいつまでも同じ事を繰り返している。

 右肩が熱い。

 痛めてしまったのだろうか、これからも使いつづける大事な肩なのに。

(使わないくせに大事だなんてよく言うよ……)

 自嘲気味に笑い、肩を撫でる。

 ふと、目が覚めた。

 パチリと瞼を開ける。見慣れた布団にくるまっていた体をムリヤリ起こす。カーテンからの木漏れ日が眩しく、思わず手で覆う。

 肩はなんともない。熱いのは夢の中の話しだ。

 リトル時代に石崎相手に躍起になっていた頃をこの肩は覚えているのだ。投手の命ともいえる肩。この肩を通じて投げた速球をあれだけ打った相手なのだから、身体は簡単に忘れない。

(今度の春が来ればハタチになるってのに。まだ小学生の頃のこと、引きづってる)

 暖かい日差しがゆるやかに部屋を照らす。

 きっともう午後を回っているのだろうと枕もとのデジタル時計を覗き込めば、SUNの一四時と表示されている。ヒカリは髪をくしゃくしゃと掻いて、ベッドから起き上がる。

「でも、石崎と対戦してる夢なんて、久しぶりに見たなぁ」

 思わず口に出てしまった。

 自称全盛期のリトルリーグ時代。ヒカリが対戦したバッターでただ一人、一度も空振り三振に取れなかった男の子、石崎隆。

 昨晩の壁当ての影響か、夢の中では石崎と死闘を演じていた。

 夢の中でまで打たれなくたっていいじゃないと悪態をつきながら、雑貨棚の中から適当にカップ麺を取り出す。

 パッケージを破いてやかんを用意すると、待っていたかのようにベッド脇に置いたガラステーブルの上で携帯電話が着信メロディを伴い、わめきたてる。

 振動機能のおかげもあって、ガラステーブルの上で着信すると、今にもガラスが割れそうな音を立てる。マナーモードにしていても震えていれば気づく仕掛けだ。

「おはよー、次の土曜って空いてるー?」

 従姉妹の香織の快活な声が携帯越しに響いた。

「空いてますよー、また急ぎの仕事ですか?」

 やかんのお湯の沸騰具合を見て、携帯を左手に持ち替え、コンロのガスを止める。

「悪いねー、ちょっとねー、一人ダウンしちゃってさー、人手不足なんだわ」

 カップ麺をおもむろにあけて粉末スープをかけ、お湯を注ぐ。

「お礼するからさー」

「あ、じゃあ、おいしいお店紹介してください」

 カップ麺の蓋を閉め、めくれないようにテレビのコントローラーを上に置く。

「いいよー、フランスでもイタリアでも中華でも回らないお寿司でもなんでも任せて」

「そういって、前回マックだったんであんまり期待はしてないんですけどー」

 仕事が終わった、ご飯食べに行こう、しかし、財布を見たらお金がなかったなんてオチだ。仕事は抜け目ないが、プライベートではどこか天然ボケな姉のような従姉妹の香織。

「まあまあ、今回は大丈夫だから、大船に乗ったつもりで任しといて。あぁ、それとも、ヒカリちゃんの場合、野球のチケットの方がいいかな?」

 ヒカリはピクっと反応して、時計を見る。午後二時を過ぎていた。

 日曜の昼下がりとくれば決まっている。カップ麺の重石代わりになっているテレビのリモコンのスイッチを押す。

 チャンネルを適当に流す。どこか一局くらいはやっているはずだ。

 そして見つける、ローカル局の贔屓放送ではあるが、まあそれも悪くない。休日のプロ野球のデーゲーム。

「ご飯の方がいいですね。あたしには一緒に行くヒトいないしー。ま、独りで行くのもいいけど、ね」

 常識がないとコミュニケーションできないというが、専門知識にしたって同じことだ。ファンなら誰でも知っているはずのことを知らない時点で話が弾まない。その誰でも知ってるはずという常識知識の敷居が妙に高いことはいけないことだと思っているが、あまりに濃い知識を蓄えすぎたために、感覚が一部麻痺しているとしかいいようがない。

 自分の振りたい話に誰もついて来れない寂しさを味わう、あるいは違う生き物を見るような目で見られるなら、一人の方がいいと決め込み、ヒカリは友達付き合いを悪くしていた。そのためか、ヒカリの周りには本当に理解ある友人しか残っていなかった。

 赤木香織はヒカリの友人ではなく、年の離れた従姉妹同士だが、いつの間にか先輩後輩のような仲になっていた。理由はなんだったか、それはヒカリも覚えていない。

「あれえ? 最近の入ってきたとか言うバイト君は? 高校球児なんでしょ? サッカー少年だったっけ?」

「って、まだ一回しか会ってないんですけどー」

 半分家族のようで親友のようでもあり、理解者である香織はヒカリの話相手であり、相談相手だ。しかし、趣味はサッカー、主にJリーグが専門で野球は空振り三振とホームランしかわからないらしい。サッカーは見ても欧州派のヒカリだからこそ、またすれ違うのである。

「まあいいや、人が来たから切るね。また連絡するから。それじゃねーバイバイ」

 香織さんは一人で話を終えて電話を切った。ヒカリは適当に相槌を打つだけ。まあ、いつものパターンである。

 台所まで箸を取りに行くのが面倒なので、コンビニ袋の中に入れっぱなしの割り箸を二つに割る。箸を口で咥えながら、カップ麺の蓋を両手であけ、いつまでも待っていられないヒカリは大抵固めの麺が迎えてくれる。

(やっぱ、赤いきつねは固めよね)

 などといって、ずるずるとすする。食欲が先行し、テレビをつけていたことなどすっかり忘れていた。そうだ、香織さんが野球がどうのというから、なんとなく野球の試合を探してしまったのだ。

 改めて、テレビを見る。スコアは三回表、三対〇のようだ。

 解説を聞き流すと、どうやら初回の立ち上がりに攻めたらしい。それ以後は緊迫した試合展開が続いているようだ。

(ほら、微妙なスライダーにひっかけてファーストゴロ)

 そのとき、携帯が鳴った。

 ヒカリは箸を置いて、またかと思いつつストラップを引っぱって携帯を取る。

「はい、もしもし」

「ああ、ヒカリちゃん?」

 中年の女性の声が響いた。バイト先の店長だ。

「今日ちょっと早く来てもらえないかしら?」

「えーとっ、今日ですか?」

「そうよ。この前新しく入ったジュン君に色々教えたいのよ、久しぶりに男の子が入ったからほら、色々……」

 新しく入ってきた高校生の男の子、細野ジュン。店長はもう名前で呼んでいる。相当気に入ったんだとヒカリは当たりをつけている。おしゃれで童顔でかわいいし、礼儀正しい、尚且つスポーツもできる。正に店長のストライクゾーンだ。

 放っておくと店長はいつまでも喋ってしまうのでとりあえず、一旦携帯を耳から離して、ヒカリはため息をつく。

 手早く店長の話をぶった切って、話を終わりにしようと携帯を耳に当て、何気なく泳がせていたヒカリの目がとんでもないものを捉えた。

 テレビの中で、バッターボックスに入ってくる選手。選手紹介のテロップが出るまでもなく、その横顔でわかる。

 封印された記憶の奥底から稲妻のように鋭く浮かび上がる、あの時の光景。あの時、あの時代にも同じように右バッターボックスに向かっていた。

 

 ――あたしはマウンドでいつもあの眼を見てた。

 

 睨んでいるのとは違う、心の底まで突き刺さるような、そう簡単に折れ曲がらない強い意志をもった眼差し。

「さて、今日スタメンに抜擢された石崎ですが――」

「調子は悪くないようですね。ルーキーらしく思い切りのいいスイングをしますから、ピッチャーとしてはある意味嫌でしょうね」

 実況と解説が彼を知らない視聴者のために紹介をしているが、ヒカリの耳には何も入ってこない。

 そして、耳元で店長が今日の客はどうだとかこうだとか愚痴っているが、反射的に相槌をつく自分がいる。眼は、心は、懐かしい顔にたっぷりと注がれていた。

「第三球、決まりました。カウントは二―一。今のはどういったボールですか?」

 実況と解説が一球ごとに今のボールの意図は、などと推測を立てるが、ヒカリは知っていた、そんなものは彼に解説する上で役に立たないことを。

 あれから十年近く経っているのに、ヒカリにはそれがつい先日のことだったかのように思える。なにしろ変わっていないのだ、この石崎という男は。

(ただ、でかくなっただけ)

 そして、ピッチャーが振りかぶって、ピッチングフォームに入る。

(……打たれる!)

 勘。それもなんの裏付けもない直感の中の直感。

 ヒカリが石崎と対戦していたとき、いつも打たれる直前に感じる恐怖。それが、時を越え、テレビモニタ越しにヒカリの肌を襲った。

 ぞわ、と鳥肌が立つ。

 石崎の自信満々のスイングは相手ピッチャーの速球を見事に弾き返し、左中間にライナーで突き抜けていく。弾道の低さから、そのままフェンスに激突、左翼手がフェンスに跳ね返ったボールを捕まえ、二塁手に送球。

 石崎本人はセカンドストップ。余裕の二塁打だ。

 当の本人は表情を変えずに、ヘルメットを被りなおしている。

 ヒカリは身体が熱くなっていくのを感じ、思わず携帯をぎゅっと握る。

 あのスイング、あの自信に満ち溢れたスイングを空振りさせたときの喜びが堪らないのだ。あの快感を味わうためにピッチャーをやっているようなものだ。

 自信満々のバッターを空振り三振に討ち取って、相手が悔しがってバットを叩きつけようものなら、それこそ投げがいのある相手といえよう。

 この手で、この腕で、全力で投げた速球を夢中になって振りぬくバッターがいるからこそ、野球が楽しいのだ。

 短かったヒカリの野球人生の中で最高のバッターである石崎隆。

 ヒカリのどんな球をも打ち返し、ヒカリの投球に一度も空振り三振をしなかった最強の打者。

(あの界隈じゃ、石崎以外三振を取れない日なんてなかったのにね)

 テレビカメラが塁上の石崎を映すたびに、ヒカリは凝視する。

 そして、ヒカリの知ってる限り、あの界隈では、最高のピッチャーだった。俗にいう、エースで四番というチームの中では頭一つ、いや、二つも三つも抜きん出ていた。

 今は打者に専念しているようだが、あの当時の石崎隆という投手はヒカリのさらに上を行くピッチャーなのである。せめて、打者としての石崎を抑えるとヒカリは躍起になっていたものだ。

「それが今じゃ、プロ野球選手」

 つぶやいたつもりはないが、自然と口から漏れたようだった。

 石崎がドラフト下位でプロ球団から拾われた時にヒカリはテレビ越しに喜んだ。

 それが一年前だというのに、まるで昨日のことのようだ。

「え、なに、ヒカリちゃん、なにか言った?」

 携帯電話の向こう側から店長の声が響き、ヒカリは我に返った。

「まあそういうことだから、今日は一時間早く来てね、待ってるから」

「はい、はい。それじゃ失礼します」

 ヒカリはいつものように合わせるように適当に返事をしてデンワを切った。

 なんだかよくわからないが、とにかく一時間早く行けばいい。そういうことらしい。

 ヒカリは寝そべってテレビモニターを見つめる。

 そこにはスリーアウトでチェンジになり、ベンチに下がる石崎隆の姿があった。

 テーブルの上の赤いきつねの麺はヒカリの態勢よりも伸びていた。

 

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 沈みかけの夕日が河川敷を照らしていた。

 自転車を押しながら遊歩道を歩くヒカリのハンドバッグから今日何度目かの着信メロディが鳴り響く。

「あー、もしもし、いやそのー、自転車がパンクしましてー、すいません、急いでいきます」

 自転車の故障時に急ぐも何もないのだが、そういっておかないと、気の短い店長がさらにヒステリーを起こす。ヒカリはため息をついた。

 なぜにバイトの時間を忘れるほど熱中してあの試合を見ていたのか。

 気が付けば試合終了まで見てしまった。そこで店長からデンワがかかってきたわけだ。

 極めつけは愛用自転車アルベルトのパンクである。このアルベルトはなぜか急いでいる時に限ってガラスの破片や画鋲を踏んづけてしまうのだ。メーカー曰く、パンクしにくいつくりらしいが、肝心なときに役に立たないときがある。

 この役立たず! といって蹴飛ばしたくなる気持ちを抑えながら、ヒカリはアルベルトのハンドルを押していった。

 長い長い河川敷の遊歩道の直線に市営のグラウンドがあり、その脇を歩いていると、時折り耳に入ってくる声がある。

 NとYのロゴが縫われた紺色の野球帽のツバをふと上げると、グラウンドで野球やサッカーを楽しむ人々が目に映る。今日はいい天気だし、さぞや楽しいだろうと適当なことを思いながら、やはりアルベルトを押していく。

 

「あ、あぶなーい!」

 

 ヒカリは後方から少年の叫びを聞いた。

 まさか、それが自分宛ての声だとは露にも思わない。

 風を切り裂く音が右後方から聞こえたなっと感じた瞬間、ヒカリの後ろ右肩を貫くようにボールらしきものが激突した。

 ヒカリはその勢いに押され、アルベルトごと前に崩れ落ちる。ボールの当たった後ろ右肩も痛いが、車体に圧迫した胸に鈍痛が響く。

 ヒカリは「いたたた……」と呟きながら上体を起こして現状把握に努めた。

 前見て右見て左見て、後ろを見て……、そこにいた。

 野球帽を逆さに被る小学生らしき男の子。気まずそうに立ち尽くしている。

 ヒカリの倒れた傍の雑草群に軟式球が転がっているところを見ると、取りに行きたいが、どうしようと迷っているのではないかと、ヒカリは予想を立てた。

「ちょっと、今あたしに当てたの君?」

 気づかないうちに声音が強くなっていた。

「う……」

 彼は言葉に詰まっていた、そんなに怖い顔をしているかと思うとできるだけ平静を装うようにしたいが肩の痛みはひいてくれない。しかも利き腕の右肩。大事にしているところだけに荒ぶる心はなかなか収まらない。

「す、すいませんでした!!」

 彼は帽子をとって謝った。

 ヒカリは拍子抜けした。

(これくらいの年の野球少年っていうのは素直じゃないと相場は決まっていたはずなんだけど)

 時代が変わったかのか、あるいはたまたまそう思い込んでいるだけなのか。

 ここで目くじら立てて説教している暇もない。ヒカリは素直な態度の少年に気を良くしてボールを拾った。記憶の中の誰かと比較しても意味は無い。今は今なのだ。

「これ、キミ達の?」

 少年は頷く。

 ヒカリは軟球をぎゅっと握った。かなり黒ずんで砂がついて埃っぽいし、傷跡だらけだ。それでも使いつづけるのかと少し感心しながら、少年と距離を取った。

 少年は近づこうとするが、ヒカリがそこに立っていてと適当にジェスチャーで指示する。

 距離にして十五メートル。少し、近いかもしれない。

 ヒカリは軟球を握って、振りかぶった。

「キミはね、ピッチャーの利き腕にボールぶつけたんだよ。その責任はとってもらうからね」

「は? ぶつけたの、俺じゃな……」

 少年の弁解が終わる前にヒカリは投球モーションに入っていた。

 地を這うようなアンダースロー。腕が後ろから前に半月を描くように大きくしなる。

 地面すれすれから飛び出した球を前に少年は反射的にグローブを差し出したようだったが、ヒカリはにやりとする。

 少年の手元でかくっと曲がりながら落ちたのである。変化球だった。

 斜め下に落ちながら伸びるボールを少年は防げなかった。わき腹をえぐり、彼の後ろにボールが転々としていく。

 少年はわき腹をさすりながら、イラついた表情でボールを追いかけていった。

 ヒカリは満足そうにアルベルトを起こして道に戻る。

 だが、携帯の時計が目に入ると途端に頭が冷静になった。

(急がなきゃ。あたしはここにいていい人間じゃないんだから)

 楽しそうに練習する人々を見ないようにした。帽子を深く被って。

 

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「災難でしたね」

 高校生のジュンは店長の姿が見えなくなった途端、ヒカリに話題を振ってきた。

 茶系に染めた手入れをしている髪を掻き分けながら、まだ少年らしい顔つきを残した端正な顔立ちの十七歳は愛想良く微笑んだ。かっこいいよりはかわいい系の彼だが、ヒカリとしては単なる後輩である。店長みたいに騒ぐことは無かった。

「まあね。でも、ジュン君も大変でしょ。店長の相手するの」

 彼は適当に苦笑いする。

「いやまあ、教えてもらわなきゃいけないことが色々あるみたいで」

 雑貨の補充の復習をさせながら、適当に世間話に花を咲かせる。

「そう。そういえば西原さんて野球詳しいらしいですね」

 ポンと手を打つジュン。

 ヒカリの手が止まった。

 どうせ店長が吹き込んだのだろうが、ここで手が止まったのは失敗だった。有無を言わせずに確信を与えてしまう。

「初出勤のとき、僕のこと、肩が強いんだ〜とかいって感心してましたよね?」

「そりゃ、キャッチャーとかセンターとかやってるっていわれたらそう思うでしょ」

「いやー、普通、そんなこと、思いつかないんじゃないかって……」

 ヒカリはふと顔が熱くなってくるのを感じる。どうやら、余計なことを言ったらしい。

「いや別にカマにかけたわけじゃないんですけど……さっきもスポーツ新聞みてたし……」

 ヒカリの表情の変化に気づいたか、ジュンは慌てて弁解する。

「……ちょっとココ頼むね。レジやってくる」

 ヒカリは頬を手のひらで冷ましながら、お客さんが並ぶレジに向かった。

「怒らせちゃったかな……?」

「どうせあたしは“普通じゃない”わよ」

 お互いの独り言はさりげなく二人の耳に聞こえた。

 やがて、客足が乏しくなってきたところで、ジュンはまたしても話し掛けてくる。

(仕事しろよ……高校球児)

 ヒカリは心の中で呟いた。

「店長が西原さんが遅刻するのは珍しいとか行ってましたけど?」

「そりゃあねえ、この店で一番真面目で礼儀正しく素直な店員ですから。っていっても、他の人が多いんだけどね」

「そうなんですか?」

「そう。気をつけたほうがいいよ。あの店長、根に持つからどんな嫌がらせされるかわかんないし」

「怖いなー。やっぱ中年のおばさんは敵にまわさない方がいいってことですね」

「世間的にはそうだよね」

「でも、今日は西原さん、そんなに言われなかったみたいですけど、これも普段の行いですか?」

 ヒカリの勘が予防線を張った。

「なにがいいたいのかな?」

「いやべつに、いつも真面目な西原さんが遅れた理由ってどんなかなって」

 ふふん、と笑って、一言。

「プライベートなこと」

「そうですね、失礼しました」

 ジュンは笑っていった。

「まさかー、野球見てたなんてことはないですよね」

 同時に、ヒカリは手でつかんでいた小銭の束を落とした。

「ちょっと、ちょっと、拾って拾って」

 慌ててしゃがんで小銭をかき集めるながら、

ヒカリはジュンの頭を小突いた、

「からかってんの? それとも、なんか恨みでもあるとか?」

「えーと、僕、まずいこと言ってます?」

「いや、別に。なんかからかわれている感じがして、ね」

 ふと、声音を落とす。

 小銭をかき集めて、元の立ち位置に戻るとヒカリはつぶやく。

「どうせあたしは野球オタクですよ」

 聞き逃さなかったのか、ジュンは追うように言葉を続けた。

「っていう話しを今日店長から聞いたんで、実際にどうなのかなって思って」

 笑顔が腹立たしい。

 今日遅れたことへの嫌がらせはそれだったかと、ヒカリは苦々しく思った。

「で、実際どうなんですか?」

「どうってなにが?」

「休憩室にヤンキースの帽子が置いてありましたけど、あれって」

「あたしのです。勝手に触らないで下さい」

「触ってませんけど。メジャーは観るんですか?」

「選手くらいは知ってる」

「見に行きたいと思いません?」

 はあ、そうだねとヒカリは適当に相槌を打つ。

「っていうか、僕、去年見に行ってきましたよ。あれはサブウェイシリーズだったかなー」

 途端にヒカリの手が止まる。止まったついでにジュンの首根っこに手が回る。

「自慢?」

「あ、やっぱり、興味あるんですねー」

 サブウェイシリーズと聞いて、ピンとくる女の子はそうはいない。

 だが、そういう意味でヒカリは普通じゃない。

 サブウェイシリーズといえば、メジャーリーグのニューヨークに本拠地を置いたヤンキースとメッツの交流戦の通称だ。

 このチームはリーグが違うことから同じ地区にあっても普通は対戦することはなく、リーグ間交流戦でしか勝負することがない。サブウェイシリーズの名はどちらのスタジアムも地下鉄で通えるためにその名がついたとヒカリは記憶していた。単純にニューヨーク・ダービーとは言わない辺りが洒落ている。

 ヒカリはまだメジャーを味わったことはない。

 第一、海外すら行ったことがないのだ。

 そこで当たり前に見に行ってきましたよ、ではヒカリとしては癪に障る。

「僕の父が草野球チームつくったんですけど、それのレクリエーションで行ったんですよ。まあ遠足みたいなもんですよ。親睦会でもいいですけど」

「それで?」

 ヒカリは無感情に続きを促す。

「いやもしよければ、メジャーリーグ観戦ツアーのある草野球チームにどうかなあとお誘いしたかったわけですけど」

「旅行代理店のキャンペーンじゃあるまいし、今ならメジャーリーグ観戦ツアーだって? なにいってんの? あたしがそんな餌に釣られるとでも思ってるの」

「そんな怒んないで下さいよ。僕だって一緒に野球やりましょうよっていいたいですけど、さすがに女の子にそういう切り出しもないなあと思って」

 ふん、とヒカリは鼻で笑う。

「わかってないなあ」

 ヒカリは途端に笑顔になって、つぶやいた。

「あたしは直球勝負が好きなんだけどねえ」

 

 

「それで、結局そのコと野球見に行くことにしたんだ」

「いやあ、なんか成り行きで」

 ヒカリは苦笑した。

 香織が隣で喋りながらも青信号を確認してワゴン車を発進させた。

 助手席に座っているヒカリが後ろを振り返れば撮影用の機材やセットの材料、ゴミ、イスやテーブルなどが無造作に積んである。まるで小規模な引越しのようだった。

「だから今日のお礼はやっぱりチケットにしてってこと?」

 香織は難なく荷物満載のワゴン車を操り、都内の細い路地を抜けていく。

 伊達に走り屋は自称していないようで車の扱いには一日の長があるようだが、ただぶっとばすだけの香織の暴走が走り屋的行為というならば、繊細な運転技術と対を成すものではないかとヒカリは考えたが、香織にしてみれば同じらしい。

 香織の車捌きに感心して、彼女が何を言っているのかすっかり聞いていなかった。

「ペアで一万円は超えるか……うーん」

 ヒカリはなにかいやな予感がした。このままだと指定席のかなりいいところを払わせてしまうことになる。

「いや、別にそんな仲じゃないんで」

 なんだ、と香織はつまらそうな顔をする。

「せっかくだからいい席で楽しんでもらおうと思ったんだけどなあ、お姉さんは」

「その割には値段に渋い顔だったかなと」

 香織はそれこそ苦笑いで返した。

「いやあ、ばれちゃってるか」

「今日はこのまま夕飯食べて帰りましょう。どうせあたしが見に行くのは二軍戦ですから」

 ちょうど目の前の信号が黄色から赤に変わるところで香織は急ブレーキを踏んだ。

 ヒカリはつんのめりながら香織の言葉に備えた。

「ちょっと、何考えてんの!! 年頃の男女が多摩川土手のオンボロ球場になにしにいくのよ! それはちょっとマニアックすぎるでしょ、せめて外野席の応援団に混じって大声はりあげるとかならわかるけど、二軍戦って」

 ヒカリは少し赤くなりながら弁解の声をあげる。

「だって、近いし、安いし」

「いやだからってねえ、もうちょっとこう……あぁ、でも、あんたらしいといえばそうかもしれないけど、いやそれにしても……もう、罰として今日の晩餐はファミレスね!」

 えー、と非難の声をヒカリはあげるが、どうせ元々期待していないので素直に従うことになった。車は目の前のドリンクバーのあるファミレスの駐車場に乗り込む。

 暖かい店内で落ち着くと香織はふうっと息を吐いてヒカリをねぎらった。

「今日はお疲れ様ね、いつもいつも悪いね、無給で」

「いやいや、いい体験させてもらってるんで」

「まあねえ、あのタレントのおばちゃんなんつったっけ」

「ちょっとディレクターが忘れてどうすんの。藤尾さんでしょう」

「藤尾さんね、あんたのこと気にいってたよ。だからたぶん次のロケも頼むかもしれない。あのおばちゃん、気難しくてね、嫌なのよ、あたしゃ。ヒカリちゃんがいるといないとだと、だいぶ違うんだよ。いやこれホントの話ね、いつかヒカリちゃんが学校のテストで来れない時があったじゃない? そん時が大変でさあ」

 ヒカリはまた責められるかと思ったが、意外と今日の仕事の話を延々と続ける香織に相槌を打ちながら、ふと先日のジュンとのやり取りを思い出した。

 

「野球、見に行きませんか?」

 たまたまバイトの上がりの時間が同じだった日にジュンから声を掛けられた。

「ジュン君の器量なら引く手数多なんじゃないの? 別にあたしに誘わなくたって」

「いやあ、素人さんばっかりなんで、それもどうかなと」

「それじゃあなにか、マニアックなあたしがいいってか?」

「いやまあぶっちゃけそうなんですけど」

 別に照れてる様子も無く、普通に言う姿もちょっと可愛げがないが、言葉を少し置いた後、ヒカリは簡単に結論を出した。

「こんどそこで二軍戦やるんだけど、そこなら見に行ってもいいかな」

 そこ、とは近所の二軍球場なのだが、ジュンは違うところに突っ込んだ。

「二軍戦ですか?」

 驚きと好奇心の入り混じった目。珍しいものを見ているような目つきをされるのはヒカリはあまり好きではない。

「そう、二軍戦。ちょっと見たいものがあるんだけど」

 わかった、とジュンが手を叩いて、故障した選手を数人上げるが、そうじゃないとヒカリは答えて、適当にごまかした。

「なんで、二軍戦」

「来期の戦力分析とか有望な選手の新規開拓とか」

 もちろん嘘である。そこまで面倒くさいことは専門誌に任せたほうがいいだろう。

「へー、そんな趣味あるんですか」

「まあ、ね」

 有望な選手の新規開拓は嘘じゃないとだけヒカリは思う。

 

「……って、聞いてるヒカリちゃん」

 香織さんの声が聞こえた。

「あ、はい」

 適当に答えると香織さんはこれ見よがしに言う。

「なあに、もうデートのことで頭がいっぱいかな」

 そんなつもりじゃないといい終わらないうちに香織さんは言葉を続ける。

「それで、近いうちにピッチャー西原ヒカリはまたマウンドに立てる日が来るのかな?」

 ヒカリは息を飲んだ。

 マウンドに立って、自分の投げたボールでチームメイトを一喜一憂させる存在への道は近い。少なくとも、ジュンの草野球チームに参加すればいい、たったそれだけだ。

 だが、ヒカリの声色は暗かった。

「……お母さんとの約束がありますから」

 香織は安っぽいパスタをちゅるっとすって、約束の意味を咀嚼していた。

「ああ、約束ね。おばさんも罪なことするなあ」

 ヒカリは黙ってその言葉を聞く。

「でも、そろそろ時効じゃないかな。だって、子供の頃の約束でしょ。もうそろそろ成人だし、好きなことをした方がいいと思うな、あたしは」

 高校卒業して家出上京、かなりのどさくさと無茶を繰り返してフリーランスのテレビマンとしてとして活躍する自由人の赤木香織らしいアドバイスだ。

 ヒカリは食後のコーヒーがいつになく苦く感じた。

 

-5ページ-

 

 

 

「あら先輩。どこに行かれるんですか?」

 河川敷の遊歩道をジュンと雑談しながら某プロ野球団の二軍球場へ向かう途中、目の前に茶髪でミニスカートの女の子が立ちふさがった。

「それと、そちらの方は?」

 笑顔のまま、その瞳はヒカリの姿を捉えて離さない。

(ジュン君の知り合い? あたしの後輩だったらわかるしなあ……)

 高校はここから離れた私立高、中学の後輩は知れた顔だ。とすると自分ではない、ヒカリは隣を見た。

 いかにもめんどくさいことになったなあと渋面のジュンがいた。

 地元民が良く使うこの河川敷の遊歩道で知り合いに遭遇する確率は高いはずだ。

 こういう自体は想像できなかったのだろうか。

 ジュンの表情を見ていると厄介ごとに巻き込まれたような危うい感覚が身をよぎる。

 川面から流れてきた風を受けて目の前の女の子の髪が揺れる。

 ジュンは少し考えながら、口を開いたようだった。

「ユキちゃん、紹介するよ。こちら、ファルコンズの救世主になってくれる西原ヒカリさん。うちのバイト先の先輩」

 また風が流れた。さきほどより強い風だった。

 ユキちゃんと呼ばれた彼女は軽くミニスカートの裾を抑えながら、まだヒカリに対して見定めるような視線を続ける。

「先輩〜、救世主とかいってホントですかあ? また適当なこと言ってません? わたしは騙されませんよ〜」

「いやほんとだって。ああ、そうだ、これ持ってきたんだ」

 ジュンは慌ててカバンから白黒のパンフレットを取り出し、ヒカリの前に差し出す。

「うちのチームのパンフですよ、渡すの忘れてました」

 活動理念やらメンバー紹介やら白黒の写真付きで載っている。代表が細野豊となっているあたり、確かにジュンパパがやっているのだろう。そして、この四角いサングラスをしたスーツのオジサンだろうと当たりをつける。

 だが、今はそんなことよりもヒカリとしては彼女の目つきの悪さをどうにかしてほしい。悪者扱いというのはどうも気が気でない。

「えっとそれよりも」

 と、ヒカリは口を挟もうとするが、ジュンがユキを紹介する。

 高校の後輩で野球部の元マネージャー。

「元?」

「はい。やめちゃったんです。諸事情がありまして、ね、先輩」

 なんとも答えにくそうな顔をしている。

「でもバカですよね、先輩とわたし追い出してもいいことないのに」

 邪悪に微笑む。

「ユキちゃん、その話は長くなるから今度にしよう」

 負けずに邪悪に微笑むジュン。

「それで、今日は?」

 謎の微笑をさえぎるようにヒカリが口を挟むとユキはえーっと、と考えている。

 この二人の関係は置いといて、なにかワケありの二人であることは明確だった。

(もう、巻き込まれたかなー?)

 そんな考えが頭をよぎった。

 刹那、ヒカリ目掛けてまっすぐ飛んでくるボールが目に入った。

 声を出す暇も無く、ヒカリは持ち前の反射神経で身体をしならせて避けた。

 飛んできたボールはそのまま土手の草むらの中へ飛び込んでいく。

「わっ! あぶない!」

 ユキは一呼吸置いて声を挙げた。

「大丈夫ですかぁ?」

 間の抜けた声で、形だけでも心配するユキにヒカリはなんともないことをジェスチャーで示した。ヒカリはヤンキースの帽子のツバを挙げると、視線の先にこの前の少年が佇んでいるのが見えた。

(仕返しか)

 ヒカリは自分の体めがけて投げられたとしか思えない迷いの無い球筋だったと分析する。

 その少年をユキが見つけると、声を荒げて彼の名を呼んだ様だった。

「ユウ君! なにやってんの、あぶないでしょ!!」

 ヒカリが疑問に思う前にジュンが解説した。

「あ、彼はユキちゃんの弟で槙原ユウイチっていうんですよ、僕達のチームの最年少野手」

 なるほど、一見素直に謝ったように見せて結局仕返しをするような少年がチームに居るのか、とヒカリの頭にインプットされた。

(さぞかし素敵なチームなんだろうね)

 思い切り投げ返した自分のことを棚に上げながら、ヒカリは苦笑する。

 そんなヒカリを見て、、ユウと略された少年は姉の下に駆け寄って、ヒカリを指差す。

「このねーちゃん、この前俺にぶつけたんだぜ。だからその仕返しだ」

 ヒカリはいつのまにか腕を組んで少年を訝しげに見ていた。

「なんだよ」

 ヒカリの態度に思い当たることでもあったのか、虚勢を張る。

「ちょっと待って、どういうこと? 知り合いなの?」

 ユキが間に割り込んできた。

「順を追って説明していいかな?」

 ヒカリは無感情に答える。

「西原さん、いいんですけど、そろそろ急いだほうがいいかも。試合始まっちゃいますよ」

「試合ってなんですか?」

 ユキがめざとく好奇な瞳を浮かべる。

 ヒカリはまた一つため息をついた。

 いったいどこから説明すれば彼女は納得してくれるだろうか。

「それに、ぶつけられたって、どういうこと?」

 ユキが今度は少年もとい、弟の顔色を窺う。

 ヒカリの視線もじっとユウを捉えた。

「あんな速い球、とれるかよ……」

 ぼそぼそっと喋る少年の態度にヒカリはふふっと笑った。

「そんだけの人の肩にぶつけたんだよ、キミは」

「アレは俺が拾いに行っただけだろ。なんで俺が悪者なんだよ」

「ボールの持ち主はキミたちだったんでしょ? それなら同じでしょ。連帯責任」

 諭すようにヒカリは語るが、隣で聞いているジュンとユキがちんぷんかんぷんな表情で見つめている。

「えーと、知り合い?」

 一番わけがわからないのはジュンのはずだが、意外と冷静に手を差し伸べた。

「まあ偶然に」

 ヒカリが先に答える。

「会話から察するに、もしかしてユウくんは西原さんの球を受けたの?」

 ヒカリの反応をあまり気にしないで、ジュンは今度をユウに質問の矢を向けたようだった。

「受けたっていうかさ、拾ってくれるもんだと思ったら、思いっきり投げてくんだもん。いきなりあの速さはとれねーよ」

 ヒカリはニューヨークヤンキースの帽子を被りなおした。その動作にジュンはなにか感じ取ったらしく、ユウの肩を叩いた。

「あのさ、悪いけど、その様子、再現してくれない?」

 その申し出をユウが理解するまで数十秒が要するらしく、理解したときには嫌そうな表情があらわれた。

「そういえば、ジュン君はわたしの球、まだ見てないんだっけ」

 ヒカリはぼそっという。

「そういえば、見てませんでしたね」

 それは申し訳ないというよりは、明らかになにかを期待した興奮気味の口調だった。

「よくもまあ、それで草野球チームに誘ったね。野球知ってれば誰でもよかったのかな?」

 ちらっとユキの視線がジュンに動いたのヒカリは見逃さなかった。

「そんなことないですって。素質ありそうかなって」

 えー、とユキは反論の声を挙げる。

「さっきは救世主って言ってませんでしたか? 先輩」

 旗色はジュンが悪そうだが、ヒカリはそんなことは興味がない。

「少年、ちょっと受けてよ。救世主かどうか、キミのお姉ちゃんに見てもらうから」

 えー、と明らかに嫌そうな顔をするユウだが、軟式のボールを軽くヒカリに向かって放り投げた。何も言わず、それを受け取ると、ヒカリは少年との距離をおく。

(十八・四四メートルってこのくらいかな?)

 マウンドから、ホームベースまでの距離。

 まずは軽く肩ならし。ふわっと浮いた山なりの弧線を描くキャッチボールらしいボールが少年の元へと飛んだ。少年の左手のグローブがほとんど動くことなく、胸の前辺りでキャッチする。

 ゲッとジュンが声を挙げる。

 ヒカリは微笑む。

 キャッチボール一つとっても繊細なコントロールできっちりしたフォーム。腕だけではなく全身をきっちりと機能させている。わかる人がみれば、どれだけ綺麗な形になっているか、わかるものだ。

 ユウからのワンバウンドの球を受け取ると、もう一球同じ球を投げた。先程と見事に同じ場所。これには少年も驚いたようだ。

「姉ちゃん、野球やってんの?」

「だから、ピッチャーだって言ったでしょ?」

 軽くあしらいながら、同じようなスロー。同じ場所に落ちる。

 目を丸くしているジュンを不思議そうに見ているのは少年の姉ユキだった。

「すごいんですか?」

「ウソから出た真ってやつかなあ」

「ウソだったんですか?」

「いやいやいや、例えだよ、例え」

 ふーんとユキは疑いの目をそらさない。

「そろそろいいかな」

 ヒカリはちょっと座ってみて、といったジェスチャーをユウに向かってする。

「俺、キャッチャーなんてやったことないよ?」

 救いを求めるようにジュンとユキを見つめる瞳に彼ら二人は気づくことも無く、ヒカリは自分自身を指差し、ユウに自分を見るよう催促のジェスチャーをした。

 だが、いつまでたってもソワソワするユウに業を煮やしてか、少々強い口調で叫んだ。

「ちゃんとコッチ見ないと、また痛い目あうよ!」

 少年は覚悟を決めたのか、瞳はヒカリの姿をしっかり捉えたようだった。

(そう、それでいい)

 むしろ“これを望んでいた”と言うべきだったかもしれない。

 キャッチャーはピッチャーのことをしっかり見なければならない。そして、しっかりと受け止めなければならない。

 ヒカリは投球動作に入る。

 足を上げて、体重移動。後ろに振られた腕がしなるのと同時に上体が沈んでいく地面すれすれの投法。宙に上げた左足を着地、しっかりふんばって、球を放つ動作、体重の載った腕がボールに勢いをつけ、放つ一瞬の時。いわゆるリリースポイントである。

 アンダースローのスピードボールは川から流れる風を横切るように切り裂き、少年のグローブめがけ、突き進む。

 パアンと革に響く音。

 音量こそ大したことはないものの、ヒカリはその音に満たされていく想いを感じた。運動量とは関係無しに鼓動が高鳴るのだ。

(人が受け取る球ってやっぱ最高!)

 自分の放った球をしっかりと受け取ってくれる人間がいることはヒカリのこの上ない喜びなのだ。

 ユウは球を受けたグローブをとっとと外し、もう受ける気がないような素振りをする。

「ってえ〜」

 痛覚をアピールするように手をブンブン振る。

「ナイスピッチング!」

 あわせるようにジュンが一歩踏み込んだ。

 ヒカリは軽く手を振ってその声に応える。

「は、はやーい。すごーい」

 ユキも思わず感心する。

 そして、カバンをごそごそと探ってインスタントカメラを取り出す。

「一枚いいですか?」

 いいよとヒカリが返事をする前に、

「投げるカッコしてもらえますか?」

「カッコだけ? ちょっと照れるんだけど」

 頭を掻きながら、一息つけてシャドウピッチング。

 先程とまったく同じモーションで投げる瞬間をシミュレート。

 ボールを離すタイミングでフラッシュが焚かれる。

「かっこい〜」

 シャッターを切りながらユキはつぶやく。

「絵になる〜」

 一通り事が済むとヒカリは質問攻めの矢面に立たされた。たった一球で身分証明になるどころか、ちょっとしたヒロインだ。

 ただ、ヒカリを憂鬱にする質問がひとつだけある。

「どっかのチームに所属してるんですか?」

「どこにも」

「え。てことは今野球やってないってことですか?」

「……そういうことになるね」

 高校球児を見慣れているユキとジュン。そんな二人でさえ、ヒカリの投球をわずか一球で気にいったらしい。興奮気味に矢継ぎ早に話すジュン。女であることを除いても、それなりの能力があると思ったのだろうとヒカリは推測するが、野球をやっていないという事実に彼らは不思議がり、なおかつ、ヒカリも不思議だった。

「ちょっと約束というか決まりがあってね」

 守らなくてはいけないと一人で思い込んで、その道を閉ざしてしまったのかもしれない。

 でも、約束は約束なのだ。

「えー、どうみたって、練習はしてるじゃないですか」

「まあ、ね。気晴らしついでに」

 自嘲気味に。

「立ち話もなんだからさ。話するならどっかいかない?」

 ふと、ヒカリはジュンにアイコンタクトのつもりでウインクする。

「あのさ、向こうの球場で二軍戦やってるからさ、今から見に行かない? ジュンくんが奢ってくれるってさ」

 ユキはわたしも行きますと強く言って、ユウはおごりだったら絶対行くと言って、いつのまにか、四人で野球談義になった。

 たった一人で投げていたあの日の夜が馬鹿らしい、ヒカリは不意にそう思った。

 

 

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 内野席の一塁側のベンチ裏。

 一軍戦なら値段の張るような良い席に四人は陣取った。全席自由ならベンチ裏がいいとヒカリが主張したのに従ったものだ。

「あんな球、どうやったら投げられるんですかぁ〜?」

「アンダースローってすごくね?」

 だが、せっかくの良い席でもおしゃべりに余念が無い。というよりも、ユキとユウの槙原姉弟がしつこいくらいにヒカリを質問攻めにしているだけなのだ。

 ジュンはじっとグラウンドの選手を見やる。

 やはりプレイが気になるのだろうか。目の前にいるのは二軍とはいえ、プロ選手なのだ。

 ヒカリはユキとユウの質問に答えながら、目は電光掲示板に注がれていた。

 そこには一人の選手の名前があった。

『六番 石崎 』

 いつもはテレビ中継で観戦するのだが、二軍に落ちてしまってはテレビで拝むことは出来ない。

 そこそこ打てていたのにも関わらず、二軍に落ちてしまったのは怪我から復帰した有名選手との入れ替えだったと知ったのはバイト先で流し読みしたスポーツ新聞の記事からだったが、その後、一向に一軍に上がって来ないのが気になって、こうして本人の前に出向いたというのが今回の真相なのだ。

 ただ、石崎のことを目の前の三人の誰一人として話していない。

 だから、なぜ二軍戦と問われれば、若手選手のチェックとしか言い訳のしようがない。

「カッコイイ選手います〜?」

「姉ちゃん、選手名鑑買ってよ」

「そんなの自分で買いなよ、あたしいらないもん」

「もしかしたらイケメンいるかもしれないじゃん?」

「そこまでしたくないし〜」

 ヒカリはコートのポケットから一冊取り出す。

「ポケット名鑑? 用意いいですね〜」

 ジュンが楽しそうに突っ込む。

 ヒカリは何も言わずに帽子のツバを直す。

「ちなみに西原さん、お気に入りっ選手っています?」

「あ、それ、あたしも聞きたーい」

「オレもー」

 バックスクリーンの電光掲示板を一瞥しながら、

「え〜とね、水原勇気とか里中智とか国立球美とか」

 それを聞いて、クスクスと笑うのは細野ジュン。

「西原さ〜ん、漫画じゃないっすか、全部水島新司の。しかも全員アンダースロー」

「よく知ってるね」

「野球人なら基本です」

 言い切るジュンに思わずそうか? とヒカリは首を捻る。

 グラウンドに視線を戻した同時に快音が響いた。

 プロが使う硬球はバットの真芯で叩くと本当に良い音がする。

 そして、打球はセンターバックスクリーンへ綺麗な弧を描き、落ちていく。

 打った側のチームのベンチが盛り上がっていた。

 観客席からでも雰囲気が感じられる。その意気揚揚とした感覚にヒカリは違う意味で想いを馳せていたりもする。

「うちましたね〜、ホームランですよ〜」

「誰、誰?」

「石崎? 知ってます? 西原さん」

 わざと言ってるのか、そんなはずはないと思いながら「去年のドラ六」と解説する。

「ドラ六って麻雀じゃないんだから」

「なんですか、それ?」

 ドラフト六位の略だよ、と意味がサッパリわかってないユキに丁寧にジュンが説明する。

「年棒も契約金も最低額で掘り出し物的な選手かな」

 すかさずヒカリはジュンの解説を捕捉する。

「よく知ってますね」

「それぐらい知ってるよ」

 むしろ、知っているからここにいるというのが正しい。

「なんか先輩楽しそうですね〜」

 批判めいた口調でユキは食って掛かる。

 ヒカリはわき目でその様子を楽しみながら、ふと、立ち上がった。

 何気ない仕草で、三人が三人とも気にしていないのを確認して内野席をさらにベンチに向かって降りていく。

 そして、ベンチの真裏のネット裏。

 ヒカリは帽子を取った。

 ホームベースを踏んだ石崎がチームメイトに叩かれてベンチに戻ってくるところだった。

 ちょうど、真正面。

 ヒカリはいいタイミングだと思った。

「石崎ー! ナイスバッティン!」

 声を張り上げて、帽子を振った。

 ちらと振り向いた、彼のその目と視線があった。

 時間にして、ほんの数秒も無かったかもしれないが、ヒカリは石崎の表情を読み取れた。

 驚いているのがよくわかる。

 そして、なにげなく自然の動作の振りをして彼も軽く手を上げる。

 

 ――あいつ、あたしのこと、まだ覚えている!

 

 その後、石崎はすぐにベンチに入ってしまったが、ヒカリとしては一瞬のコンタクトをえらく気に入った。

 それだけ変わってないってことか、と腑に落ちないところもあるが、些細な問題だ。

 存在は忘れられてはいないという確信があるからこそ、姿も覚えられているヒカリの心は結論を急いだ。

(あいつも忘れてはいないわけだ、あたしに対してのあの一球を)

 顔面めがけて飛んできた強烈な直球。

 あれは痛かった。ヒカリは心の中で何度も呟く。

 身体的な痛みでもあり、人生の痛手でもある。

(あれがなければあたしだって……)

 そう思い始めると堪らなくなる。心の奥底からにじみでるような強い感情。重たい。色はきっと黒だ。ヒカリは目を瞑る。

 ……なんのつもりで、ここへ来たのだろう。

 石崎の姿を確認してどうするつもりだったのだろう。

 呪いの言葉を掛けたかったのか、それとも、単にがんばっているかつてのライバルをさわやかに応援するつもりなのか。

 時々わからなくなる。

 ヒカリは観客席とグラウンドの境界線のネットを鷲づかみにする。

 ピッチャーとしての西原ヒカリの人生を狂わせた石崎隆の姿をヒカリの目は探しているが、なかなかベンチから出てくる様子がない。もうチェンジのはずなのに。

「西原さん、もしかして、石崎と知り合い?」

 気づかぬうちにジュンが隣にいた。ヒカリはその指摘にぎょっとしながら、我に返った。

 ネットから手を離す。力を入れているつもりは無かったのにもかかわらず、手のひらにネットの痕がついた。

「……さっき、西原さんに向かって手をあげてましたよね、彼。なるほどね、それぐらい知ってるってそういう意味だったんですね」

「見てたの?」

 観察されていた、とヒカリは自分のうかつさを恥じた。

 客観的に見て、照れているという表現が近いかもしれない。頬が少し熱くなる。

「いやー、いきなり応援してるからなんだろうと思って」

 そういえば、そんなことを言ったのが、きっかけだったかもしれない。

「知り合いっていうか、うん、まあ、知り合いって言えば知り合いかもね」

 お友達ではない。住所は知らない。電話番号だってしらないし、直接会話したのも数回だ。

「そういえば、ほとんどコンタクトとったことないのに、なんで知り合いなんだろうね」

 口に出すつもりも無い言葉が勢いあまってこぼれ落ちた。

「もしかして、野球仲間とか?」

 ヒカリはジュンの勘の鋭さが嫌いになりそうだった。

「そうだね、ライバルって所かな。リトル時代の」

「へー、リトルだったんですか、僕は軟式でした」

「そう。それで、そのころ夢中になって対決したライバルって覚えてる?」

 ジュンは首を捻る。

「ライバルですか? うーん、今は散らばってますからねー。あいつはどこにいったとかその程度ですよ」

「それで、どこにもいかなかったら、きっとライバルとして不甲斐ないよね」

 ヒカリはジュンからグラウンドに視線を戻すと、いつのまにか守備についている石崎がいた。どうやらベンチから出てくる瞬間を見逃してしまったらしい。

「先輩、ヒカリさんと何の話ですか〜? あたしも混ぜてくださいよ〜」

 ジュンは笑いながら、

「専門的な話〜」

 と、お茶を濁す。

 だが、なにか閃いたようにジュンは手を叩く。

「ユキちゃん、さっき話しに出た石崎って選手ってヒカリさんの知り合いらしいよ」

「マジで!」

 反応が良かったのはユウの方。

 ヒカリが気づかないうちに全員集合していたらしい。

「サインもらえるかな?」

 いくら新人選手ともいえども、プロ選手。腐っても鯛。

 野球少年の目は輝いた。

「俺、色紙買ってくる、ねーちゃん、カネ」

「あんたが欲しいなら自分で買ってきなよ」

「いーじゃん、ケチ」

 不満を垂れながらもユウは早足で駆けていった。

 ヒカリとしてはその姿にプレッシャーを感じる。

「言っとくけど、あたしコネなんて無いよ?」

「でも知り合いなんですよね?」

「っていってもね、こうやって生で見たのは七、八年ぶりかなあ。直接会ったの小学生のときだよ」

「じゃあ、ちょうどいいじゃないですか、会いに行きましょうよ!」

 今度はユキが手を打った。感動の再会に同席できる、と目が語っているのだ。

「あたしは別に会いに来たわけじゃないし」

「うそだあ」

 やはりジュンから探りが入ると途端に頭に来るようだとヒカリは再認識する。

「見に来たの。会いに来たんじゃないの。別に会いたくないし、話すこと無いし」

 試合はそろそろ終盤に差し掛かっていた。

 もしかしたら帰るといっても差し支えないかもしれない。

「試合もそろそろ……」

 だが、色紙とサインペンを持って慌てて駆けつけたユウの姿にその言葉が止まった。

「買って来たぜー! ねえねえ、他の選手ももらえるかな? それだったら、俺、姉にするならコッチの姉ちゃんの方がいいかも」

(人の気も知らないで)

「な、なんだよ」

 ヒカリの視線が気になったのか、ユウはたじろぐ。

「じゃあ、出待ちしようよ」

 慌ててジュンが提案する。

 ヒカリの事情とは関係なしで、球場の裏から出て行く選手にアタックするらしい。

 勝手にやるとはよく言ったもので、確かにヒカリがなにをいってもユウは突撃するつもりになってしまったようだ。

 少年にしてみれば、プロならば誰でもいいのかもしれない。

 ――会わなくてすむ。

 ヒカリはみんなの見ていない影でほっとする。

「誰のサインもらおっかな」

「好きな選手の方がいいよ」

「えー、あんまり知らない奴ばっかなんだよなー」

 スコアボードの選手名を指差しながら、ユウは考え込む。

 ヒカリの事情と試合の進行そっちのけでジュンとユウの作戦が進められている。

 ヒカリは横目でその様子を観察しながら、最後のイニングまで試合を見届ける。

 結局、石崎隆の打席はあれから回ってこなかった。

(四打数一安打二打点。凡打一つ、三振二つ、一ホーマー)

 石崎の成績を反芻する。

 話すことなど何も無いはずなのに、ヒカリの目は石崎を追っていた。

 中学時代、ユニフォーム姿のまま西原家のインターフォンを押そうかと躊躇している石崎の姿をヒカリは思い出した。結局押さないまま、帰っていった彼の姿を。

 あれが最後に見た姿だったかもしれない。

 結局のところ、恨みなんて実は無いのだ。

 全部自分の思い込みなんだ、どこかでヒカリの心がそう言っていた。

 自分の決断力の無さが、自分からマウンドを奪っていってしまったのだ。

 それを石崎のせいにしようとしている。

 

 ――くだらない。

 

 あんなにいいピッチャーを再起不能にした、石崎は野球雑誌で身の上を語っていた。

 それは誰のことだ。

(再起不能になったのはあんたじゃないか)

 ヒカリへのデッドボールの影響は彼の心に直撃した。ヒカリが野球やめたのはあぶないから、石崎がピッチャーをやめたのはヒカリが野球をやめるようなきっかけをつくってしまったから。

(もったいない。あんだけの才能を)

 名投手の芽を潰したのは自分の方なのだという結論。もう一つの可能性。

「馬鹿馬鹿しい、なんで被害者が加害者の心配しなきゃいけないの」

 ジュンとユキとユウはヒカリのいきなりの発言にそれぞれきょとんとした。

 唐突のつぶやきは癖なのかな、とヒカリはつぶやきながら、微笑んだ。

「あたしも出待ちするわ、ちょっとあいつに一言いわなきゃ」

 

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 球団のバスが扉を開けて待っていた。

 これに乗って帰るのだろうかと考えるが、見たことのある選手がちらほら出てきては自家用車や自転車に乗っているところを見ると、各々違うのかもしれない。

 ユウは誰にアタックしようか迷っているらしく、キョロキョロと挙動不審この上ない。

 有名なら誰でもいいじゃないかと問いに対して、うーんと首を捻る。

 警備員の目が光る中、少し臆病風に吹かれたのかもしれない。

「あたしがもらってきてあげようか?」

 柱の影に隠れて、ユウはこくりと頷く。

「次は自分で行きなよ?」

 またこくりと頷く。

「ヒカリさん、もしかして出待ちの常連ですか?」

「さあ、どうかな」

 意味深に微笑む。

 そんなことより、気が付けば西原さんからヒカリさんに呼び方が変わっていた。ユキがヒカリのことをそうやって呼ぶものだから、つられているのだろうと適当に考えているうちに選手が数人出てきた。

 ヒカリはその選手群に向かって駆けていく。

「すいませ〜ん、サインもらえ……」

 そこで言葉が止まった。

 思わず顔を覆いたくなる。

 なんで相手を確認しなかったのか、と自分を責める。

「西原か?」

 選手達のその傍らに石崎がいた。

 舌打ちしたくなる気持ちを抑えて、色紙を後ろ手に隠した。

「なに、知り合い?」

 石崎の隣の選手が訊ねているが、当の本人はまあとかそうですとか適当な応えだ。

 相変わらず、喋るのは下手なようだ。

「ひさしぶり、元気?」

「まあな」

 おまえ、もうちょっとマシな答え方ないのかと先輩にどやされる石崎。

「そういえばサインがどうとかいってなかったか?」

 余計なお世話を、とヒカリはこの選手に関して舌打ちをしそうになった。

「ほら、サインぐらいしてやれよ。あ、俺たち居たら邪魔か?」

 ヒカリは一歩退いて首を振る。

「まあまあ、そう照れない」

 名前も知らない二軍選手の手が差し出される。あとで名鑑を見て、踏んづけてやろうと心に誓う。

 彼は自分が拒絶されたのがわかるとにんまりしてバスへと足を向ける。

「んじゃ、先バス乗ってるわ」

「すぐいきます」

 

 律儀だな。ヒカリは相変わらず、と言いそうになったが、喉元で堪える。

「いいのか?」

 なにがいいのか、なのかよくわからないが、たぶん、サインの話だろうとヒカリはあたりをつける。

「ちょっと頼まれたんだけど、書いてもらっていい?」

 色紙とペンを差し出す。

「ユウくんへ、でユウはカタカナでいいよ」

「一人分でいいのか?」

「あたしはいらないよ、石崎のサインなんか」

「そうか」

 彼は苦笑いしたようだった。

「早く一軍いけるといいね」

「そうだな、そのうちな」

 つまらない会話だ、ヒカリはそう思った。

 石崎はあまり慣れていない感じでサインを書ききる。ルーキーはルーキーでも知名度の低いドラフト下位で一軍に入ったのが最近、期間も少しだけという有様ではサインをねだられるのも少ないだろうとヒカリは邪推する。

「ん、ありがと」

 礼を言って、踵を返そうとした。

「おまえ……」

 おまえという言い方にカチンと来たのかもしれない、思わず足を止め、最後まで聞いてしまった。

「まだ野球やってるか?」

 うっ、と息を呑んだ。

 振り向いて、黙ること数秒、

 うまく、言葉が出ない。

「なんでそんなこと聞くの?」

 代わりに、つまらないことを訊ね返していた。

 石崎は自分の野球帽を指差した。

 ヒカリにとってはヤンキースの帽子だ。

「いや、西原ってピッチャー以外の姿を想像できなくてな。今だって野球帽を被ってる」

 野球をしている姿しか見たことが無い。プライベートは想像できない、そういいたいのだろうか。野球チームに所属しなくなったのは中学時代からと知っているはずだとヒカリは思う。単にやってないではすませられないが、やっていないのは事実だ。

「当たり前でしょ、あたしはピッチャーなんだから」

「そうか」

「今度こそ、あんたを三振に討ち取る自信はあるよ」

「楽しみだな」

「草野球でよかったら、招待するけど?」

「そうだな。また西原の球が打てるのは楽しみだ」

「よく言うよ、散々打ったくせにさ」

 適当に笑いながら、ポケットの中に突っ込んだ手が紙切れに触れた。

 思い当たる節がある。

 紙切れを開いてみると、やはりそうだ。ジュンの草野球チームのパンフ。

「もし、来れそうだったら、ここに連絡とってみてよ」

 持っていたサインペンでパンフの裏に自分の携帯番号を添えて手渡す。

「じゃあね、サインありがと。あいつも喜ぶよ」

 石崎が乗り込んでバスが大量の排気ガスを吐きながら、出発する。

 バスの窓からちらりとヒカリを窺う石崎の視線。

 なにもアクションをせず、ただ黙って、ヒカリはバスが見えなくなるまで見送っていた。

 そして、バスが行った後、改めて貰ったサインを見返すと、急にそれが自宅に飾ってある風景が思い浮かんだので腹が立った。

(誰がこんなもの、欲しがるもんか!)

 落とさないように抱きしめて、夢を抱える少年の元へと届けた。

 

 

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説明
ライバルがいた。
リトルリーグで女の子ピッチャーをつとめた西原ヒカリは周りの
男の子は簡単に三振に討ち取れるのに、一度も空振りの三振に
討ち取れないライバルがいた。彼の悔しがる顔を見るのが夢。
だがある日、ライバル石崎隆から放たれた一球が運命を変えた。

目次--------------------------------------
<<前編>>
01 「運命のデッドボール」
02 「将来の夢はなんだっけ」
03 「野球少年 その一」
04 「野球少年 その二」
05 「来期への分析とか若手の発掘とか」
06 「サブマリンの一撃」
07 「サイン」

<<後編>>
http://www.tinami.com/view/109444 
08 「鏡に映る女の子」
09 「アルベルトの修理」
10 「細野ファルコンズ」
11 「マウンドへ」
12 「今回だけ特別に」
13 「ユニフォーム姿見られた」
14 「ストレートに」
http://www.tinami.com/view/110602
15 「香織の仕事」
16 「答えなんて決まってる」
17 「ライバル再び」  
18 「麗しのサブマリン」
19 「エピローグ」
(発表:06/05/05 完結 07/05/05)
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コメント
NEKOさん>ありがとうございます。全編公開したので時間の空いてる時にでもどうぞ^^(みすてー)
個人的には面白いと思います。続きが楽しみです。(乾坤一擲)
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