唐柿に付いた虫 46
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 真祖が上げていた左手を下ろし、一つ息を吐く。

 その吐息に安堵の色が混じっていたのを聞き取った男の顔が僅かに緩む。

「どうだ?」

「どらちゃんはーー、ぶーじーーー」

 その言葉自体は喜ばしい物だったが、今やはっきりと判る程に、彼女の言葉が間延びして聞こえる。

 それに、どらちゃん「は」という言葉も何か引っかかる。

「吸血姫は判ったが……お前さんは?」

 大丈夫なのか、と問おうとした男の前で、真祖の背中が揺らいだ。

「危ねぇ」

 ちょっとふらついたというのではない、明らかに重心がずれ、倒れそうな動きを見て、男が慌てて無事な方の左腕と体で、真祖の華奢な体を支える。

「うー、ごめんねー」

 ちょっとー、よそうしてたよりー……力を使い過ぎたーみたいー。

「力を?」

「お兄さんからー貰ったー、ちからでー、元のーせかいにー、もどるまでー、もつよていだった……どー」

 語尾が次第に不明瞭になっていく。

 美しい緑の目が、眠たげにとろりと霞む。

「もうちょっとでー、もとのせかいにーつうじるーもんがーーー」

 腕に掛かる重みが増し、瞼が完全に落ちる。

「おい!」

 意識を覚醒させようと、男が彼女を軽く揺する。

 その動きで、少しだけ意識が戻ったのか、真祖は、うーと低く唸ってから、うわごとのように口をもにょもにょと動かした。

 その言葉を聞き取ろうと近づけた男の耳に、囁くような声が辛うじて聞こえた。

「めーだーるーをー」

「めだる?あの円盤か?どうすりゃ良い」

 男の言葉に何か答えようと唇が動く、だがさらに寄せた男の耳にも、切れ切れの声しか拾えなかった。

「何だ、俺は何をすれば?」

「どらちゃんがー、ひっぱってくれるまでー、にーげーてー」

 その言葉と同時に、真祖の姿がふっと消え、男の手の中に掛かっていた重みが消失した。

「うおっと!?」

 変わって、軽くて柔らかい手触りが手に残る、それを取り落とすまいと慌てて胸元に抱える。

 白くて丸くてもちもちとした……それを見た男が思わず天を仰いだ。

「……なんてこった」

 彼の手の中には、すよすよと寝息を立てる白まんじゅうがぽてんと収まっていた。

 男にとっては、むしろこの姿の方が馴染みではあるが、今この差し迫った状況下でお目にかかりたい顔では無いのもまた事実。

 キーン。

 静まり返った世界で、澄んだ金属音が小さく響く。

 真祖の指先で回っていた円盤が、その力を失い地に落ちて跳ねた音に、男の意識が現実に引き戻される。

「めだるってぇのは、こいつの事か?」

 これが何かは男には窺い知る事も出来ないが、真祖とあの強敵のやり取りを聞いていた限り、この小さな円盤が力ある重要な物である事は間違いない。

 右手の指先は痛みに痺れ、小さな物を掴める状態では無い、男は痛みを堪えながら白まんじゅうを右手に抱え直し、空けた左手でそれを拾い上げた。

 ひやりとした金属の感触と、それ以上に寒気がするような得体の知れない力の波動が、それを掴んだ手から、ぞわりと体に這い上がる。

 異質な、明らかにまともなそれでは無い感触に、それを放り出したくなる衝動に駆られた男ではあったが、白まんじゅうがこの緊急の時に何とか彼に伝えて来た言葉である。

 我慢して左手にメダルを握りしめる、その男の視界に、不思議な物が不意に見えた。

 それまで、真祖が立っていた、その周囲の景色が歪んで見える。

(なんだ……こりゃ)

 世界が歪んでいる……そして異質なそれを体が拒絶するのだろうか、見ているだけで頭が痛くなってくるような気持ち悪い光景……だが、その景色が歪む様にはどことなしに見覚えがあった。

 妖怪退治の折にしばしば見る事となる、彼らが住処の周りに張り巡らした結界や、妖怪たちが本来居る場所「かくりよ」の入り口。

 あれとはまた異質な感じもあるが、これもまた、世界の境界があいまいな場所、という意味では似た状況という事か。

(そうか、こいつが「元の世界に通じる門」か)

 だが、真祖が最後に言ったように、これはまだ開き切ってはいない。

(畜生、何をすりゃ良いってんだ)

 こいつは放っておけば開き切るのか、それとも閉じてしまうのか。

 どらちゃんが引っ張るまで逃げて、と言われてもな……何が何やらさっぱりだ。

 知識がねぇと何もできんな。

 何か考えるよすがになる物は無いか、そんな縋るような思いで周囲を見渡す。

 その時、一瞬だが、真祖が何かの術で動きを封じた彼女と目が合った。

 その真紅の魔眼の発する眼気の中に、こちらに向かう意思を、確かに感じた。

 手の中の円盤から感じたそれとは違う、生き物が捕食者と正対した時と同じ寒気と悪寒が、男の背筋を駆け上る。

(来る)

 それは理屈では無い、本能が発する警告の声。

 奴は、真祖がこの姿になった事で、呪縛が解かれ掛かっている。

 そして、呪縛が解けた時、彼女はその次の動きで、彼と再び無力になってしまった白まんじゅう……真祖を葬る。

 次こそ、彼では抵抗も出来ない、仮借なき、全力を以て。

 ……時が無い。

(俺はどうすりゃいい、何ができる?)

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「これ以上ここに居ても益は無い……か」

 崩れ去った館をしばし睨んでいた鞍馬が、感情を殺した顔で首を横に振った。

 この有様では、異界の門を固定する場所としての力は失われたと見ていい……つまり、この場所を使って吸血姫が帰ってくる見込みはほぼ無いと言っていい。

 ここで使われていた呪法を調べるなりして、吸血姫を救い出す方法を捜すにしても、この瓦礫を撤去して何かを捜すにしても、今の鞍馬では知識も人手も、何もかもが足りない。

 今、吸血姫は異界を彷徨っているのか、それとも先に至れたかは窺い知る事は出来ないが、いずれにせよ、鞍馬に出来る事は今は無い。

 そして、ここで悔しそうな顔をしていて、空しく瓦礫の山を睨んでいるなどは軍師の務めでは無い。

 あと出来そうな事は……縛り上げた儀助の元に歩み寄り、鞍馬はその顔をちらりと見た。

 やはり、恐ろしい奴。

 敵が試みに失敗したのだ、少しくらいは勝ち誇るなり、こちらをあざ笑う顔でもすれば良かろうに、その顔には変わらず何の表情も浮かぶ事は無く。

 ただ、木彫りの面の如き、つるりとした表情がそこに在るだけ。

 感情の制御という意味では、下手な妖怪などより余程に恐るべき相手。

(稀にこういう化け物が出て来るから、人とは中々に面白いんだが)

 これでは何のとっかかりも無い……内心を垣間見せもしない相手というのは骨が折れるな。

 ため息を一つ吐きながら、鞍馬は静かに口を開いた。

「君の処遇をこの場で決める訳にも行かない、一旦式姫の庭にお連れして後の事とさせて貰う」

 鞍馬の言葉にも、彼の表情は動かない。盗賊団の一味などがまともに扱われるわけも無いと、覚悟は既に決まっているのだろう、

「……が、それとは別にだね」

 変わらず動きの無い儀助の顔を静かに見据えた鞍馬が言葉を継いだ。

「どうかな『番頭殿』、私と一つ取引をしないか?」

 猿轡を外すわけにも行かず、元より明瞭な言葉による返答は期待するべくも無い、だが鞍馬の目は、儀助の目の中に初めて僅かだが感情が動いたのを見て取った。

 こいつは何を言っているのだ、という不審と相手の意図を計ろうとする猜疑。

 それに向けて小さく肩を竦めた鞍馬が言葉を続けた。

「私も、今回の件に関しては、知りたい事が多くてね……君は色々知っているのだろう?榎の旦那の忠実な番頭殿」

 その言葉に儀助の眼光が、一瞬だったが細く鋭い光を宿す、さながら刃で斬り付けるが如きそれを確かに認めた鞍馬は、初めて彼からの手応えを感じていた。

 釣りで言えば当たりとまでは行かないが、魚影程度は見えた感覚。

(ふむ、やはりこの御仁は、あの主とは金でどうこうという薄っぺらい関係では無かったか)

 この意思の力の源泉が、幼時からの訓練による人間性の喪失と引き換えたそれなのか、それとも自分より大事な何かの為に命と魂の全てを絞り尽くせる人のそれなのか。

 鞍馬が試しに打ち込んでみた言葉の矢は、どうも的の近くを掠めはしたらしい。

 榎の旦那自身がどういう人物かは鞍馬も知れぬ、だが、これだけの盗賊団を組織し、この男を従えている時点で並の男ではあるまい。

 儀助と名乗っていたこの人物が首謀者で、あの旦那は傀儡という可能性も考えたが、それにしては自身を軽く扱い過ぎている点からして、可能性は低いと思わざるを得ない。

 では、彼の忠誠を捧げる相手が榎の旦那だけなのか、彼ら二人の上に居るだろう妖怪含めてなのか……。

 その辺りは気にはなる所だが、ここで更に追及を重ねるのは下策……今はこの位に留めるか。

「しかし君を庭にお連れすると言っても、馬や駕籠を仕立ててという訳にも行かないな、どうした物か」

 暫し眉間に皺を寄せていた鞍馬が、あれでいいか、と呟きながら潰れた厨の辺りをごそごそとあさり出した。

 瓦礫の山に珍しく小さな罵り声を上げていた鞍馬が、ややあってから、油や酢を入れて置く程度の、小ぶりの壺を引っ張り出した。

 それを暫し傷を検めるように捻ったり軽く指で弾いてから、これなら良いだろうと小さく呟くと、指先で何かを書き付けるように、壺の表面をなぞり出した。

「さて、少々失礼な運び方になってしまうが、危急の折だ、お許し願おう」

 軽く会釈をしてから、鞍馬は儀助の方に壺の口を向けて、底を数度ポンポンと叩いた。

 と、見るや、儀助の体が小さくなりながら壺の中にすぽりと吸い込まれた。

 軍師として修業を積んだ大陸暮らしの折に、嗜み程度に習い覚えた仙術の一つ、壺中天。

 悪戯のような術ではあるが、このような時には重宝だ。

 中を覗き込むと、儀助が流石に多少の戸惑いを見せながら、殺風景な周囲を見回している。

 それに向かって鞍馬は小さく声を掛けた。

 殷々とその声が壺の中で反響する。

「先程の話だが、君の協力次第では、後の事態の処理でこちらも多少手心を加える余地もあると考えている……これから庭に戻るその間、私の提案を少し検討してくれたまえ」

 相手の反応を確かめる事もせずに、そう言い終えた鞍馬は壺に蓋をすると、それを袂に放り込み、盗賊団の立てこもっていた山を飛び立った。

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 狛犬を中心に、さながら古代の人々が造り上げた環状列石の如くに、氷柱が直立していく。

 一つでもかなりの力持つ陣が、十重二十重に造り上げられていく様を、こうめは息を詰めるようにして見つめていた。

「これはまた、滅多に見られぬ凄まじき封じの陣術じゃな」

 仙狸の声にも、自然な讃嘆が籠もる。

 想定される相手が大地その物と言っていい、邪悪に汚されし龍王である以上、皆が持てる力を振り絞っているのは当然だが、これは何とも凄まじい。

 しかしあれじゃな……おゆき殿の術はどれもこれも寒くて敵わん。

 仙狸は普段軽く掛けているだけの上着の前をしっかりと締めながら、夏だというのに、彼女の力に呼応するように雪まで降りだした空を不平がましそうに見上げた。

 古き神々の系譜を継ぐおゆき。

 かつて、妖の侵攻を防ぐために山一つを風雪の結界に閉ざし、それを突破しようとしたこの庭の主に率いられた十人以上の式姫と、一人で対等以上に渡り合った、大いなる山神の化身。

 そのおゆきが、この庭を駆け抜けて来た狛犬を中心として、式姫とこの庭の力を一つに束ねながら封印の陣を織り上げていく。

 この陣を構成する氷柱、その一つ一つに、この庭に居る式姫一人ひとりの想いと力が込められている。

 陣を形作る蒼氷の煌めきが映る瞳を輝かせながら、こうめが口を開いた。

「これならば」

 行ける……期待感に満ちたこうめの声音、それを聞きながら、仙狸が小さく頷く。

「そうじゃな、これ程の力なれば、一時とはいえ、神霊に成り代わり、地龍の封を肩代わりする事も叶うか」

 だが、そう呟く仙狸の声に、一抹の危惧が籠もっていた事に、こうめは気が付けなかった。

「うむ、そして建御雷殿が自由になれれば、僅かな時間であれ、何とかしてくれる筈じゃ」

 こうめの脳裏に、玉藻前の分身として強大な力を振るう九尾の化身を軽々と屠り、雷霆を以て黄龍の現身を滅ぼし、その精髄を地中に再度封じた、彼女の姿が甦る。

 あれこそ、まさに天津神最強の軍神の力。

 彼女さえ動けるようになれば。

「神様が何とかしてくれる……のう」

 こうめの言葉を聞いた仙狸は、何とも言えない表情で小さく首を振った。

 確かに、この庭に居るだけで折々に感じる建御雷の力の程は疑いない。

 だが……。

 

「何かこう、尻尾がピリピリするッスね」

 その言葉通り、狛犬の尾の毛が逆立っている。

 途方も無い力が、庭中から集まって来ている。

 一つ一つが自分と同等、あるいは凌駕する存在たちから送られてきた力が、ここに蓄積し、更に相乗されていくのをひしひしと感じる。

 だが、それは同時に高揚感を伴う感覚。

 その熱に呼応するように身内の気がたぎり、狛犬は自然と手にした槍を握った。

 握る力が軽すぎては槍は手の内に収まらず、強すぎては、槍に狛犬の力が乗らない。

 その辺りの感覚は、狛犬が戦場を駆け抜けて来た中で、自然と会得したもの。

 そして、自分の体がそう反応した事で、狛犬には判る事があった。

 自分のすぐ隣に氷柱が立つ。

 そこから感じるのは、あの口うるさく厳しいが、優しく皆を見守る氷雪の化身の気配。

 時が来た。

 戦で先陣を切る時の……あの限界まで引き絞られた弓が放たれる時のような、あの。

「今よ、狛犬!」 

 おゆきの声が先だったのか、それとも、狛犬の体が動いたのが先だったか。

 狛犬は槍を振り上げた。

 自分の背に、皆の力を感じる。

「うおおおおおお、突撃ッスーーーーーーーー!」

 狛犬は咆哮と共にその槍を、陣の中央に力いっぱい打ち込んだ。

 狛犬の身長以上の長さの槍が、その半ばまで大地を貫いた。

 物理的なそれのみでは無い、この庭の力の大半を集約し、一心に地中深くにまでそれを乗せて貫く。

 その神威の一撃にすら比肩する激甚な力が、大地を揺るがした。

 霊力の衝撃が、陣を張るおゆきの元に届く。

 その一撃が深く大地を抉り、そしてその力がこの庭の下に封じられたあれに届いた事を、おゆきは感じ取った。

「上出来っ!」

 先陣を切った狛犬の後に続くように、おゆきは最後の呪を解き放った。

 林立していた氷柱が光を帯び、夜の中で互いに反射しあい、幻想的な光を乱舞させる。

 冬には大地を覆い、白く雪の下にその命の全てを封じるが如く。

 庭と式姫達から集めた力の全てを繋ぎ、荒ぶる龍を縛る鎖と為す。

「封縛!」

説明
式姫の庭の二次創作小説になります。

「唐柿に付いた虫」でタグ付けしておりますので、過去作に関してはそちらからご覧下さい。
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コメント
OPAMさん ありがとうございます。 おゆきのシーンは先にこのイラストがあって、あのイメージで行くか、という順序でした、良い挿絵になってたようで良かったです。 儀助や領主殿みたいなポジションのキャラ、実は好きなんです、彼らメインの話まで書こうという気は無いんですがw(野良)
みんなの想いを一つに束ねる方法が氷柱で陣を作るという予想外の方法で驚かされました。氷柱が立ち並ぶ美しい場面を想像しながら読んでいたら、想像を上回る美しい挿絵まであるという・・・素晴らしいです。そして、ここで儀助に焦点を当ててくるとは・・・これも予想外で、そう来たか!と唸らされました。(OPAM)
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式姫 式姫の庭 唐柿に付いた虫 真祖 鞍馬 狛犬 おゆき 

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