堅城攻略戦 序 |
敗北。
一敗地に塗れるという文字通りの、全て投げ捨てての逃走の果てに、何とか命を繋いだ、まさに惨敗。
不幸中の幸いか、死者こそ出さずに済んだが、それも式姫の力あっての事であって、彼の采配や判断の結果では無い。
実際、殿(しんがり)で敵を防ぎ、押し戻した蜥蜴丸、紅葉御前と悪鬼はかなりの怪我を負っており、暫く戦場には立てないだろう。
彼女たちを抱え、何とか以前に解放した宿場町まで逃げ込んだが、余りの大敗の前に、次に何をすべきなのかすら見えてこない。
大敗、というのも少し違うか。
正確を期すなら、あの戦では、自分たちは、勝負すらさせて貰えなかった。
彼らの進軍を阻んだのは、山を繋ぐように作られた城壁と、その後ろに控える城塞、そこに依った妖の鉄壁の守り。
皮肉な事に、それは人が築き上げ、長きに渡り人の世界を妖怪から守って来てくれた城。
破られる事無き、誉れ高き堅城。
そう呼びならわされた城が、今は妖怪達の支配する所となり、彼と式姫の前に立ちふさがる。
一つ救いだったのは、彼らも純粋な野戦では自分たちにそれ程分が無い事を悟っているためか、敗走する彼らを深追いする気配が、殆ど無かった事か。
こちらから手出しせねば、当面の危機は無かろう……だが、自分たちの進軍が完全に止められた事も紛れもない事実。
「これが、敗北か」
男の呟きが、がらんとした部屋の中に沈殿するかのように、低く消える。
本拠地たる庭から離れ、こうして私物の無い部屋に居ると、何ともいえない薄寒いような心持になる。
(我ながら、情けねぇ話だ……)
常勝などという夢物語などあり得ない以上、どこかで敗北する覚悟はしていたつもりだった。
捲土重来ともいう、負けた時の立て直し方、その後の処理こそが大事と、頭では理解してあれこれ考えて動いてはいた。
だが、こうして現実に敗北を味わってみると、その覚悟や準備という奴が、どの程度の物だったのか怪しくなる。
俺は……。
「ご主人、入っても良いかい?」
その時、障子の向こうから、歯切れのいい声が掛かった。
式姫にこんな顔は見せられない、男は軽く自分の頬を軽く叩いてから、無理に平静な顔を作り、元気そうな声を出した。
「邪鬼か、良いぞ」
「それじゃ、失礼して」
手に風呂敷包みを抱えた邪鬼が静かに入ってくる。
戦場では勇猛な鬼の顔を見せる彼女だが、端正で物静かな様は、普段余り鬼という印象を感じさせない。
「邪鬼が俺の所に来るのも珍しいな、何かあったか?」
その前に、茶でも淹れて来るか。
そう言いながら席を立とうとした主を手で止めて、邪鬼は居ずまいを正した。
「最初に、詫びを言わせて欲しいんだ……ごめん、ご主人」
そう言いながら差し出された風呂敷包みを、男は怪訝そうな顔で受け取った?
「俺に詫び?」
覚えが無いが、そう呟きながら風呂敷包みを解いた男の顔が、中身を見て驚きと、それ以上の喜びがない交ぜになった表情を浮かべた。
「こいつは……」
あの敗北の日に彼が着ていた物。
別に高価な物という訳では無い、ただ、父の着ていた物を仕立て直した普段着。
彼が両親を偲ぶ事ができる、数少ない形見。
あちこちが裂け、血と泥に塗れて、もう使い物にならないと思っていた着物が、綺麗な姿を取り戻し、そこにあった。
開いて仔細にみると、丹念な針仕事の跡がそこかしこに見える。
丁寧にかがり、似た色や模様の布を目立たなく継ぎに当てられ、落としきれないと思っていた血や泥の汚れも、かなり薄くなっていた。
「邪鬼、何で」
この服は。
「勝手に直しちゃって悪かったね」
邪鬼が困ったような顔で笑う。
「あたしに修繕してくれって持って来た服は、全部式姫のばっかりだったけどさ……これ、ご主人の大事な着物なんだろ?」
邪鬼には判った。
主が自分で洗って、捨てるに捨てられず衣裳部屋の隅の行李にこっそりしまい込んだこれが、彼にとって大事な物なんだと。
何も言わない、ただ、彼がその着物を行李にしまう時の僅かな躊躇いを、悔しそうな顔を、邪鬼は見ていた。
今は敗北から部隊を立て直さねばならない大事な時。
そういう大事な時に、主の性格からして、自分の物を後回しにするのは判っている。
直すかと聞けば、断られるだろう事も。
だが、放っておけば汚れは落ちにくくなり、布地も痛む……修繕するなら今しかない。
だから、黙って始めた。
式姫達の服を直しつつ、敵襲を警戒しての見回りや何やらで忙しい間を縫って、ちょっとずつ直していたから、遅くなってしまったけど。
「あたしの手が入っちゃ、元の服にはならないから、実は直して良いかちょっと迷ったんだ」
思い出というのは難しい物だ。
良かれと思ってやった修繕が、その人の思い出としての物を破壊してしまう事がある事を、彼女は知っているから。
邪鬼が直してくれた服を手に、言葉も無くこちらを見ている主の顔を正面から見て、邪鬼は言葉を継いだ。
「でも、これまだ着られるって……ご主人は身に着けたいと思ってるって、あたしには見えたからさ」
だから、ごめん、勝手なことして。
そう、僅かに俯いた、その邪鬼の手が握られた。
「……ご主人?」
「本当ありがとよ、邪鬼」
そう口にした主の顔を見て、邪鬼ははっとした。
主の顔に、疲労と、そして、拭えぬ苦悩が見えた。
だけど、それを見た邪鬼はどこかほっとした。
久しぶりに見た、主の素顔。
あの敗北以来、式姫には不安を与えまいと振舞って来た主の姿より。
今の方が。
「大事に、着させて貰うぜ」
そう、壊れたもんは直すしかねぇ。
この着物みたいに、丹念に、細かに心を砕いて。
壊れた過去を抱いてめそめそしている生き方を拒否したから、俺は今、ここに居る。
壊された過去を、世界を、多くの想いを継いで、元の形には戻せないにしても、直しながら……その先に。
ぎゅっと握ってくるその手に、彼女の修繕した着物を見る、その主の目に、力が戻る。
「うん……」
良かった。
「何度でもあたしが直してやるからさ、次は遠慮しないでよ」
「判った、けどまぁ、次に邪鬼の手を煩わす時は、皆に新しい衣装を仕立ててやる時でありてぇな」
にやりと、久しぶりに浮かんだ彼らしい笑顔に、邪鬼も笑み返した。
「その時は、頼まれなくても腕を振るわせて貰うよ」
「そうだな、そん時は頼む」
「失敗から学ぶのは大事な事だと、良く言うがの……」
人だろうが式姫だろうが、失敗から直ぐに新しい知恵が出れば、誰も苦労せんわい。
仙狸はそこで言葉を切って肩を竦めた。
「ま、そうだよな」
仙狸が淹れてくれた茶を、味を楽しむようにゆっくり口にする男に、仙狸は不思議そうな顔を向けた。
「ふむ、気落ちはしておらんようじゃな」
あれだけ盛大に負けたに。
「気落ちか、してたよ」
過去形でさらっと発せられた言葉を聞いて、仙狸はにまりと−出自である化け猫を思わせる顔でー笑った。
「よい事じゃ、何時までも辛気臭い顔をしとると、幸せと、失敗の後の好機が逃げるからの」
「失敗の後の好機……か」
何か考える様子で茶に口を付けた男を見ながら、仙狸も自分の湯呑を手にした。
「極端な話をすれば、戦なんぞな、百度敗れても最後にちょいと勝って、生きてそこに立っておれば良いんじゃよ」
「相手が西楚の覇王殿となると、俺なんぞじゃ百回も負けた日には、無事でいられる事やら」
自分の喩えを理解し、そう返して来た主に、仙狸はくくっと喉の奥で笑って、言葉を続けた。
「何、漢の高祖も、元を糺せばその辺の田舎やくざに毛が生えたような物じゃからな、人としての地金でお主とそう勝り劣りがある訳でも無いじゃろうよ」
そう言いながら急須に鉄瓶のお湯を足す仙狸に、主は存外真面目な顔を返した。
「成程な、それじゃその辺のやくざが、他の英雄豪傑押しのけて、最後に皇帝になりおおせた理由、それは何だと考える、仙狸?」
「ほう……」
そう問うた主の眼から、これがただの茶飲み話では無いという気配を感じ、彼女は居ずまいを正した。
「主殿も、成功者に倣うか?」
「仙狸も言ったろ、知恵が直ぐに湧いて出てくるわけじゃない……なら先人の知恵を借りるのも悪くはねぇと思ってな」
「尤もじゃ」
そう口にしながらも、仙狸はこの問いが、そう単純な安い教訓を求めた物では無い事を、何処かで感じていた。
床屋政談程度の薄っぺらい話なら、仙狸であれば幾らでもする事は出来る。
成功者の人生から逆算して、彼らが成功した理由をこじつけるのは、解釈の付けようで、無限に答えを生み出す事が可能。
漢の高祖の成功の因は、史記を適当に流し読みしただけの人でも、幾らでも挙げる事が可能だろう。
始皇の急速かつ無理多き統一、それが彼の死によって、大きな反動となり兵乱を呼んだ。
だが、始皇のそれが急激な社会制度の変更を伴う苛烈な政(まつりごと)だったとはいえ、長きに亘った戦乱の時代に幕を下ろした後の、安定の時代だったには違いない。
その治世を味わった庶民は、再度の戦乱の時代よりも、安定を……次の皇帝を求めた。
そして、始皇の後、最初に覇権を握った項羽の専横に耐えかねた、諸侯の離脱と高祖への協力。
人材に目を向ければ、起兵時から彼に従っていた蕭何の内政の才、国士無双とまで称された韓信を始めとして、陳平、彭越ら有能な参謀、将帥の協力。
そして何より、高祖が彼らの助言を虚心に用いる事が多かった事。
とにかく、数え上げればきりがない。それぞれ、自分の興味や関心、好みや主張や人生哲学を振り回し、歴史の大樹から好きに材料を切り取れば、尤もらしい事の一つや二つは語れる物なのだ。
それだけに、その行為に茶飲み話以上の意味を与える見識が必要。
この明敏で、かつ、どこかひねくれた主は、その辺りの事は百も承知の筈、その上で尚、仙狸にこの問いを発した理由。
しばし沈思していた仙狸が、一口お茶を啜ってから、ことりと、傍らの卓に萩焼の湯呑を置いた。
「張良」
静かに、端的に人の名を口にした、その仙狸の言葉に、一拍置いてから主が頷いた。
「……そうか」
やはり……と口中で男が呟いたのを、仙狸の鋭敏な耳は聞き取り、小さく頷いてから言葉を続けた。
「策を帷幄(いあく)の中に運(めぐ)らせ、千里の果ての戦を決し、区々たる戦場では無く、世界における彼我の勝敗を観る」
戦う前に、その布石にて帰趨を決する、偉大なる智者。
「劉邦を天下の覇者たらしめた、世界という巨大な画布に、王の世界を描く事の出来る」
今、個別の妖怪討伐の域を超え、合戦規模の戦いに直面した主に欠けている存在。
「軍師じゃ」