かわいいひと
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 ニューヨークに数あるビジネスホテルの中のひとつ、その目の前に俺は立っていた。平日だからか人の出入りは激しく、世界の中心だけあって様々な人種が行きかっている。それでもこうして街灯に背を預けて、ぼんやりと人波を眺めているだけなのは、待ち人がひどく人目をひく容姿をしているからに他ならない。

「あ、」

 昼から夕方へ移り変わる合間の、高さの少し落ちた太陽。その光を反射するようにきらめく金色の髪を見つけた気がして反射的に腰を浮かせた。けれど、それがそのまま今日という日への期待の大きさを反映してしまっているようで、少し気恥しい。結局もとの体勢へと戻り、深く息を吐き出す。白くなる息。日中だというのに妙に空気が冷たく感じるから、多分頬は赤く染まっているのだろう。

 ちらり、と再び人込みへと目線を移すと、どうやら先ほどのは見間違いではなかったらしい。この人種の坩堝の中にいてもよく目立つトウヘッド。きょろきょろと動く顔はようやく俺に気が付いたようだ。ふわ、と遠目からでもわかるほど嬉しそうに笑われて、口元がついつい緩みそうになる。

 長い足でゆるゆると、わざとらしいほど落ち着き払った足取りで悠然と人の隙間を歩んでくる。それでも彼だって緊張しているのは一目瞭然だ。なにせマフラーにかけた左手は、しわになるほど強く握りしめているのだから。

「ごめんね、荷物解いてたら遅くなっちゃって」

 ふにゃりと申し訳なさそうに下げられた眉も、何の含みもない素直な謝罪も、そういえば俺たちの間では初めてだ。

「気にしてないよ、長旅で疲れてるだろ。何か食べに行くかい?」

 そしてロシアに返す言葉がこんなに素直なことも、同じように初めてだった。

「うん、あ、えっと」

「なんだい?」

 できるだけ焦って見えないように、わざとゆっくりと体を起こす。

「僕ねえ、したいことがあるんだけど」

 したいこと、という言葉に俺が首をかしげると同時に、ロシアの唇は意を決したように開かれた。

 

 

 世界中を巻き込んだ大喧嘩が終わってからというもの、俺とロシアは徐々にその仲を深めていた。ただし友人という意味ではなく、少し違った方向性で。

 彼の言動の端々に感じるのは俺への好意だ、と思う。そして俺が彼に抱く感情についても、恐らくは伝わっているはずだった。ポーカーフェイスは得意だけれど、彼の前で色々なことを取り繕って見せるのはもう飽き飽きだった。

 そうしてお互いの言動を探り合いながら徐々に、本当に少しずつ接近していたある日のことだ、

「アメリカくんの家に行きたい」

とロシアからの申し出を受けたのは。

 当然のことながら面食らったけれど、断る理由もない俺は二つ返事で了承してしまった。そして何をしに来るのか聞き忘れてしまったことに気が付いたのは、ぼんやりとしたまま家に帰って、これまたぼんやりとしたままベッドにダイブしたその後のことだ。日付まで決めておきながら何を今さら、と思うかもしれないが、多分あの時はお互い緊張しすぎていた。

 約束は昼すぎだというのに、そわそわと朝からああでもないこうでもないと、まるでティーンの女の子みたいにクローゼットをひっくり返して服を決め、とにかく彼を楽しませたいと全力でプランを考えた。  

 そしてそれはきっとロシアの方も同じだったのだろう。いつもの引きずる様なロングコートではなく、黒いジャケット風のコートに、薄手のストールを巻き付けている。靴だって形はフォーマルなのに、スエード調の生地というだけでどことなく温かみが生まれて、彼の素朴な雰囲気によく似合っていた。

 いつもと違う装いに、仕事絡みではないプライベートでの約束。性別こそ男同士だけれど、どの角度から見ても、これはデートだった。

 

 さく、と暗い室内にポップコーンを咀嚼する音が響く。ゆったりと座り心地のよい椅子は俺のお気に入りだ。ただ、ちょっと静かすぎると眠くなってしまうけれど。

 落ち合って真っ先にロシアが口にしたこと、それは「俺の家の映画を見たい」という至極ありきたりな、ありきたりすぎて俺の中から真っ先に外されていたデートプランだった。俺の家を研究するために、それこそ娯楽から国家機密までなんだって調べただろうに、どうして今になって映画なのか。きらきらといくつもの上演作品に目を輝かせるロシアの顔の中には、どうしたってその答えは見当たらなかった。

 ヒーローやらアクションやら、とにかく派手な演目が多い中、ロシアが控えめに指をさしたのはひっそりと隅の方に貼られていたラブストーリーのポスターだ。自分一人ではまず興味を持つこともないであろうそれに、俺はただロシアが選んだのだというたったそれだけで俄然、興味がわいたのだった。

 平日の昼間だからか、単純に不人気なのか。とにかく劇場内の客の数はまばらだった。おかげでロシアと二人、スクリーンの前、劇場の真ん中を陣取ることができた。

 ストーリーは淡々と進んでいく。褪せたような色彩、ゆっくりと変化していく画面の中の二人の関係。この光量では到底隣の顔など見えるはずもないのだけれど、スクリーンにくぎ付けになったまま微動だにしない視線から、ああ、彼はこういう映画が好きなのか、とぼんやり思う。実はちょっとだけ退屈していたのだけれど、たまにはこういうのもいいかもしれない。

 ロシアの横顔に向けていた視線をそうっとスクリーンに戻す。映像の中の二人は、丁度そのシルエットを重ね合わせるところだった。生生しさのない、女の子の喜びそうなロマンチックなワンシーン。それでもロシアはそれにいたく感銘を受けたようだった。ポップコーンに伸ばされることなくひじ掛けの上に置き去りにされた手のひらの上に、もうひとつ体温が重ねられた。それこそ心臓を落としてしまいそうなほど驚いて彼の方を向いたというのに、当の本人はスクリーンから視線をちらとも外さない。これじゃあまるで、意識している俺がおかしいみたいじゃないか、と叫びだしてしまいたいのに、ここは映画館の中なのだ。いくら俺だって劇場内ではお静かに、というマナーくらい知っている。だから俺も、何でもないことの様にスクリーンに向き直った。途端ふふ、と潜められた笑い声が耳を擽る。やられた、と思う間もなくぎゅう、と手を握られて、また一つ俺は悪態を飲み込んだのだった。

 

「君、いったい何考えてるんだい」

「ん?」

 映画館から出ての第一声はそれだ。同時に他の映画の上映も終了したのか、劇場から出てくる人数はそれなりに多い。お陰でようやく口に出せた言葉は潜めるしかなくなってしまった。

「……いきなり手を握るとか、どういうつもりだったんだいってことだよ」

「嫌だった?」

 きょとん、とまるく開かれた目は、まるで子供だ。純粋で、なんの策謀もない顔。う、と思わず言葉に詰まる。だってその聞き方は、あまりにも卑怯だ。

「い、やじゃないけど」

「そっかあ、よかった」

 そう言って満足そうに笑ったロシアがまた俺の手を握ろうとするものだから、慌ててジーンズのポケットに指先をねじ込む。あ、と開かれた唇が不満げに歪んだけれど、流石にこんな往来で手をつなげるほど図太い神経はしていないのだ。代わりに、歩調を少しだけ速めて彼の隣に立つ。肩が触れ合うか触れ合わないかの距離に数センチ上にある唇が満足げに弧を描くのが見えた。

 どうしようもないほど単純だけど、全く意味が分からない奴。そう改めて脳内の彼の人物評に書き加えた。

「で、この後はどうしたいとか、あるのかい?」

「ううんそうだなあ、……アメリカくんは何かしたいこととか、行きたい場所とかないの?」

 元々落ち合った時刻が昼を過ぎていたから、今は空もすっかり橙色だ。映画が二時間ほどだったことを考えると、多分もうディナーを取り出したっていい頃合だった。

「そうだな、君、おなかは空いてる?」

「あ、もうそんな時間なんだねえ。そういえばちょっと空いてるかも」

「じゃあどうせなら、俺の家の料理でも食べにいこうじゃないか」

 幸い、今日のためにおすすめの店はいくつかピックアップしてあった。ご飯がまずいと言われる俺のところにだって、それなりの店はあるのだ。

「うん、あ、僕お酒が飲めるところがいいなあ」

「それも含めて探してるから、安心してくれよ」

 彼がそれこそアルコールが含まれていればなんだって口にしてしまうのは周知の事実だ。それを踏まえての俺の発言に、なぜかロシアは白い頬を真っ赤に染め上げてしまったのだ。

「え、」

「……アメリカくんってさ、」

 かっこいいね、とマフラーで遮られて不明瞭になった言葉はしっかりと俺の耳に届いてしまったのだった成人した、そう小さくもない男が二人、押し黙ったまま顔を赤らめて歩いているのなんてあまりにも不審者じみている。けれど上がってしまった体温はどうすることもできずに、結局微妙な距離感のまま目当ての店にたどり着いた。

「わあ」

 ロシアがマフラーに埋めていた顔をあげて、白い息とともに感嘆の声をあげた。温かみのある光に照らされた木造の壁。見た目よりずっと広々とした室内は、クリーム色の壁紙に覆われ、光量を絞られた照明で柔らかく照らし出されている。カウンターに並べられた色とりどりの瓶はおそらくアルコールなのだろう。店の雰囲気づくりに一役買っている。料理も酒もなかなかおいしいと何かのメディアで話題になっていたのを、記憶の奥底から引っ張り出してきたのだ。ロシアが好きそうだから、という、ただそれだけの理由で。

 店内の隅の方にある窓際の席に案内され腰を落ち着けると、どっと空腹感が押し寄せてきた。メニューを眺めると、どちらかといえば家庭料理のような、店内の雰囲気と同じく温かみのある料理が多いようだ。ドリンク、特にアルコールも多いように見えるけれど生憎と俺は酒を飲まないから、これが品ぞろえの良いほうなのか悪いほうなのか、判断することができない。

「……ウォッカはないね、流石に」

 どことなく寂しそうにも聞こえる声音に、慌ててメニューから顔を上げると柔らかく微笑んだロシアとばっちり目が合った。どうしたの、と尋ねる代わりに傾げられた首に、取り繕うように言葉を連ねる。

「注文は決まったのかい?」

「え、ああ、うん。大丈夫」

 じゃあ、とウエイターを呼んでドリンクと、それからいくつかの料理名を告げる。彼は彼で、なにやらあまり聞いたことのない名前のメニューを頼んでいた。

 机の上に置かれた小さなろうそくの炎がゆらりと揺れる。今更ながら随分デートらしい店を選んでしまったことにじんわりとした恥ずかしさがこみ上げてくる。少なくとも俺自身はデートのつもりでいるのだけれど、彼はどうなのだろうか。映画の時には手を握られたけれど、あれはあれで雰囲気に流されただけだったのかもしれない。ここにきて急に弱気な自分が顔を出してくる。

「なあロシア」

「ん?」

 意を決して口を開いた俺に対して、返答はごく軽い。店内の光に照らされて、潤んだように光る紫色がじいとこちらを見つめてくる。

「なんで君、急にアメリカに来たいなんて言ったんだい」

 その問いかけが意外だったのか、はたまた最初からただの思い付きだったのか。ロシアは「う―ん……」と言った後、ろうそくの炎を見つめるばかりで何も答えてはくれない。それでも両手の指先を絡ませて視線を落とす姿は考え込んでいる様にも見えて、俺は居心地の悪い沈黙にじっと耐えた。

「……知りたかったからかな、アメリカくんの事」

「俺の事?」

「そう」

 ようやく返ってきた返答の真意はいまいち掴めない。だってそれこそ俺たちは相手のことが知りたくて知りたくて、これ以上ないほどに調べ尽くしたのだ。それでもなお知りたいだなんて、彼はこれ以上何を求めているんだろうか。

「だって僕、アメリカっていう国については色んな事を知ってるけど、アメリカくんについては何も知らないもの。好きな色とか、本とか。あとはいつもどんなことして遊んでるのかとか。そういうことが知りたいし、僕も好きになりたいから。だからアメリカくんのお家に来たんだよ」

 いつも通りの顔をしながら話す内容は、俺ではとても考えつかないようなことばかりだった。そういえば俺だって、ロシアという国についてはいくらでも話せるけれど、ロシア本人については何も話せることなどない。さっきだって、初めてロシアが好きな映画の種類を知ったくらいだ。

「なるほどなあ、確かに俺たち、お互いについてはあんまり知らないもんな」

 うんうん、とすっかり納得しきった俺とは正反対に、ロシアは何とも言えない微妙な顔をしている。

「どうしたんだい、変な顔して」

「うんあのさ、アメリカくん。僕一応君の事口説いてたんだけど、わかってる?」

「くどいて……っ、君何言ってるんだい!」

「えーだってこれデートでしょ?お店もいい雰囲気だし、そういうことかと思ったんだもん。あ、飲み物来たよ。やっぱりコーラなんだね」

「……っ、う、そうだよ」

 机の上に置かれたグラスの中ではコーラがしゅわりと淡い音を立てて泡を弾けさせている。ロシアの前に置かれたフルートグラスは、向こうが透けて見えそうな青に満たされていた。

「はい、じゃあ乾杯」

 テーブルの上からほんの少しだけ浮かせたグラスに、自分のそれをゆっくり合わせる。その間中じいと見つめてくるロシアの視線の中にさっきまでは気が付かなかった熱を感じとってしまって、ついグラスを持つ手に力が入ってしまった。今日はどうも、ロシアに動揺させられっぱなしだ。それがなんだか悔しくて、誤魔化すように一気にコーラを呷った。

 さてそんな動揺も、食事の前には全くの無力だった。運ばれてくる料理はどれも湯気からおいしそうで、さっきまでの甘い雰囲気も忘れて二人で食事に夢中になってしまったのだ。その間もずっと酒を飲み続けていたにも関わらず、ロシアの顔色は殆ど変わらなかった。淡々と口に運ばれるのは多分カクテルの類だ。色とりどりの液体が明かりを反射して、まるで宝石のように輝いて見える。

 そうして一通りを食べ終えた俺たちは、ようやくデザートで一息ついていた。上品なサイズのチョコレートケーキの隣に、これまた上品にアイスクリームが盛られている。普段の俺だったら物足りないと言い出すサイズだけれど、それなりに満腹を訴える胃には充分な量だった。

「そういえば君、明日はどうするんだい」

「お昼前には飛行機に乗るよ。そうじゃないとお仕事に間に合わなくなっちゃうから」

「……いつも思ってたけど、君ちょっと働きすぎじゃないか?」

「そうかなあ。ほら、僕のお家色々大変だから」

「まあ、そうだろうけど」

 にこにことデザートを口に運びながら話される内容に、どう返したものかと一瞬悩む。なにせ彼の家が大変になっている原因の半分くらいは、多分、俺にあるからだ。とはいえ俺だって明日は仕事だ。彼が俺の家に来たいと言ってから慌ててねじ込んだ休みは、流石にそんなに長くは取れなかった。

「そろそろ出る?飲み物もなくなったみたいだし」

 気が付けば、食後にと頼んだコーヒーはすっかりなくなっていた。そうだな、と返事をするより先に、ロシアがウエイターを呼んだ。そのままさらりと会計を済ませられてしまって、慌てて財布を取り出そうとするも、その行動はやんわりと押しとどめられた。

「アメリカくん色々案内してくれたし、今日は僕に払わせてよ」

「でも、」

 食い下がろうとする俺を前に、ロシアがううん、と指を唇にあてて考えるようなそぶりを見せる。

「あ、じゃあ次ご飯一緒に食べるときはアメリカくんが払ってよ。そうしたら平等でしょ?」

 ね、と念押しする姿には譲る気なんてひとかけらも見えない。見た目の柔らかさに反して、なかなかどうして頑固な性格だ。

「わかったよ、次だね」

「ふふ」

「何かおかしい事あったかい?」

「んー?アメリカくん、次も僕と出かけてくれるんだなあって思って」

 笑いながら席を立つロシアを、ついていかない頭のまま慌てて追いかける。またしても彼の言葉一つでいいように転がされてしまった。

 店の外はすっかり暗く、そして冷え切っていた。慌てて羽織っただけのコートのボタンを閉める。ロシアも、巻きっぱなしていたマフラーをきつく巻きなおしていた。

「そろそろホテルに向かおうか。明日の昼前ってことは、荷物整理したりするんだろ?」

「もうそんな時間かあ、ね、ホテルまでは一緒にいてくれる?」

「デートなんだろ。だったら、相手を送り届けるまでが俺の役目なんだぞ」

 相手の言葉を逆手にとってちょっとだけ恰好つけてみたものの、この手の言葉はどうにも恥ずかしい。けれどホテルへ向かう道を進みながらもさりげなくロシアの方を確認すると、嬉しそうに口元を緩めていたので、それだけで充分、恰好つけた甲斐があるというものだ。

 かつん、と静かな町の中に足音が反響する。道を行く人は少なく、冬の静かな空気が体にじわじわと染み入ってくるようだ。今なら手ぐらい繋げるかもな、なんて馬鹿なことを考えてみたりするけれど、それは今度のデートにでも取っておきたい。彼も乗り気なことだし、次はロシアに行ってみるのもいいかもしれない。

「アメリカくん、楽しそうだね」

「楽しいさ。君は楽しくないのかい?」

「僕はねえ、うん、今は寂しいかな。もうお別れしなくちゃいけないし」

「ああ、」

 ふと目線をあげれば、ロシアの泊るビジネスホテルまではあと少しの距離だった。それに気が付いた途端、無性に寂しさが襲ってくるけれど彼に気取られたくはなかった。それは俺の、ちょっとした意地のようなものだ。

「今生の別れ、ってわけじゃないんだし、仕事でもなんでも会う機会は沢山あるだろ?」

「……うん」

 ふ、と笑って見せる顔は、それだけでは覆い隠せないほど寂し気だ。彼が結構な寂しがりだというのは、こうして仲良くなるよりもっと前から知っていたことだ。

「それにロシア、」

「うん?」

「次だってこうして、出かけてくれるんだろ?二人で」

 無意識だろう、俯いた頬をつつくと、大変分かりやすく、そして心底嬉しそうにロシアは笑った。

「うん、楽しみにしてるね」

 こつん、と高らかに音を立てて、ロシアの足が止まる。ホテルの目の前、ちょうど、今日俺が背をもたれさせていた街灯の真下に立つ。

「それじゃ、ロシア。ちゃんと寝坊しないで飛行機に乗るんだぞ」

「やだなアメリカくん、僕そんなことしないよ。アメリカくんもお仕事、頑張ってね」

 じゃあ、と手のひらが降られるのを見て、背を向けかけた俺を「あ、」と間の抜けた声が追いかけてくる。

「どうしたんだ、」

 い、と続く言葉は、空気を震わせることはなく、柔らかい感触に遮られた。それがロシアの唇だと認識するまでに一秒、キスをされているのだと理解するのにさらに一秒。それからたっぷり数秒間、目を白黒させる俺の唇とロシアの唇は合わさったままだった。どくどくと心臓の立てる音が、やたらとうるさい。きっと傍から見れば、今日見た映画の様に二人のシルエットは重なり合って見えるのだろう。そんなことを頭の隅、冷静な部分が考える。

 ふ、とようやくロシアの顔が離れていく。頬が赤い。そして、多分俺の頬も。

「またね、アメリカくん。良い夢を」

 ふわりとマフラーを翻してホテルの中へ消えていくロシアの足取りは、嫌になるほどゆったりとしている。接近した時に感じたわずかな煙草の香りと、甘いフレグランスがまだ残っているようで、頭の中がじんじんと痺れる。

 結局最後まで、彼に振り回されっぱなしの一日だった。悔しい。けれど、それを軽く上回る程度には、嬉しい。こうなれば次回までに、彼をぎゃふんと言わせる作戦でも練らなければ。そう決意を固めた俺は、ホテルを振り返ることもなく速足で帰路についた。さて、それにしても未だにどくどくとうるさく早鐘を打つ鼓動は、家に帰るまでに俺のことを離してくれるのだろうか。

 

説明
※2016/11/8にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです

ヤマもオチも意味もなくとりあえずいちゃいちゃするはるまち初デート
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