まちびときたる
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 有魂書へ潜るという行為をほんの軽い気持ちで承諾したことを、俺は早々に後悔していた。歪んだ街並み、ぐろぐろと不穏に螺旋を描いた雲は、嵐の前に似た鈍色だ。しかしどこからどう見たって嫌な予感だらけの世界ではあるものの、どこか己の目に馴染む、懐かしさすら感じるものだということは否定のしようもなかった。

 ぼんやりと、この先に待つ魂の持ち主が誰であるのかが分かる様な気がして、自然、唇が持ち上がる。

 革のブーツに包まれた足を一歩踏み出す。ざり、と音を立てて地面を強く踏みしめると同時に、目の前の空間がぐんにゃりとひしゃげた。現れたのは幾度かの戦いの中何度も倒してきた、あの憎むべき敵の姿だ。なまじこの世界の主が気難しい奴なだけに、生半可なことでは先に進ませてはくれないらしい。

「……勘弁してくれよ、全く」

 ばちん、と手の中の鞭の具合を確認する。そして風を切り、目の前の敵を薙ぐ。一発や二発で道を開けてくれないことなどは想定済みだ。

「さあて、そこをどいてもらおうか」

 自身を鼓舞するように声を上げる。なにしろ旧友を迎えに行く道中だ。くたばってしまっては恰好がつかないだろう。

 

 ひう、と呼吸と共に喉から枯れたような音が出る。時間の感覚などはとうに失われていた。幸い傷は殆ど受けてはいないものの、幾度も鞭を振るっていたために体力は底を尽きかけている。

 変わりばえのない景色に充実していたはずの気力もがりがりと削られていく。何でもありの世界とはいえ、途中から獣道に変わったりしないあたり、人柄が出るとは言えるのかもしれないが。地面を踏みしめる音は最初の力強さを無くし、さく、と慎重に踏みしめられるものに変わっている。

 ふ、と。道を行く俺の視界の中にひとつの扉が飛び込んできた。まるで最初からそこにあったかのように、目の前に唐突に現れた、木造の。

「あ―……、これを開けって、そういうことか?」

 がりがりと髪型が崩れるのにも構わず頭を掻きむしっても、返事をする声は勿論無い。ただ、返事のないその事実こそが肯定を示しているようで、見覚えなど全くないはずの扉に手をかけるのに、迷いは殆ど生まれなかった。

 ぎい、とまるで歓迎する様子のない軋んだ音を立てて、その扉は開いた。しろい壁、それから、ぽつんと人影がひとつ。まあそうだろうな、と予想と違わぬ、しかし随分と姿を変えた旧友にため息が漏れた。

「やっぱりお前だったんだなあ、龍」

 窓もないのにぼんやりと横を向いていた顔が、ゆったりとした動作でこちらへ向けられる。鼻筋の通った、整った顔の青年。緩やかに薄い唇が弧を描く。

「やあ、寛」

「久しぶりに会えたっていうのに、挨拶が軽すぎやしねえか」

「久しぶり……そうだっけ?」

 本気で疑問に思っているような口調も、ことりと傾げられる首もまるで純朴そのものだ。

「確かにそんな気もするなあ、だって寛、君ときたら僕が何度会いに行ったっていないんだもの」

「そりゃあ……」

 その後が、どうしても続かなかった。そりゃあお前、と軽口の様に続けられれば良かったのに、妙に空いてしまった間を不思議に思ったのか、芥川の瞳がゆるりと視線を合わせてくる。口の中が乾いて、舌が張り付くようだ。いくつもの出来事を残したまま、さらりと居なくなってしまった目の前の男は、こうして俺の胸をじくりと抉ってくるのだ。

「どうしたんだい、顔色が悪いようだけれど」

「お前が色々けしかけてくるから、ちょっと疲れたんだよ」

 とん、と部屋の中に腰を下ろす。椅子なんて気が利いたものはないので、地べたにそのままだ。けしかけた、という部分に心当たりがないのか、考え込むような様子の芥川は未だ、ここがどこなのかもわかってはいないのだろう。

「……居なかったもんは、しょうがないだろ」

「まあ君も忙しいからね、おかげで僕は待ちぼうけをくらってしまったわけだけれど」

「悪かったよ。……それで、何か用事でもあったのか」

「用事、ええと、そう、用事があったんだ。……ちょっと、今は思い出せないんだけど」

「なんだそりゃ」

 ううん、と唸って考え込んでしまう芥川は、やはりあの頃の続きを生きているつもりなのだろう。自ら断った命のことをすっかり忘れて。

「……なあ、それなら龍。俺もお前に大事な用があるんだが、先に話を聞いてもらってもいいか?」

「うん?僕に用事か、なんだい?」

 さて、どこから話したものか。考えながらひとつ息を吸い込む。そういえば、この部屋からは紙と、墨のなつかしい香りがする。

 

 ばちん、と目を開くと、目の前にはもはや見慣れた男の顔があった。

「おはよう、寛。随分とよく寝ていたね」

「……おお?」

 ば、といつの間にか机に突っ伏していた体を起こす。ばきばきと体中の関節が音を立て、凝り固まった筋肉が痛みを訴える。どうやら今の今まで夢を見ていたらしい。彼を連れてきた、あの本の中の出来事を。

「いくら戸を叩いても返事がないと思ったら、座ったまま寝てるから驚いたよ」

「あ―……」

 机の上にはぐしゃりと皺の寄った紙。どうやら、一日の記録を書き留めているうちに眠りこけてしまったらしい。気が付けば大きく取られた窓から差し込むのは月の柔らかな明かりではなく、眩いばかりの陽光になっている。

「で、君は見事に朝食を食いっぱぐれているわけだけれど」

「いや顔覗き込んでないで起こせよ」

「だってあまりにも険しい顔をして寝ているから」

「そんなのに怯むような奴じゃあねえだろ」

「まあまあ、そんな寛のために僕が朝食を持ってきてあげたよ」

「……ありがとうな」

 はい、と差し出された盆にはまだ湯気を立てる汁物とおにぎりがふたつ、それから申し訳程度の彩に沢庵がふた切れ添えられていた。

「湯も使わせてもらえるようだから、食べ終わったら行ってくるといい。今日は新たな本に潜るようだから」

「へえ、なんて本だ?」

「恩讐の彼方に」

 ぐ、と後ろに反るようにして伸びた体が、思わず止まる。

「それ、」

「君の本だねえ。だから君と僕が選ばれたという訳だ」

 頼りにしているよ、と肩を叩かれ、静かな足音が遠ざかっていく。丁寧にそろえて乗せられた箸を手に取った瞬間、そういえば、と思い出された問いは殆ど無意識に、空気を震わせていた。

「龍」

「うん?」

「どうしてお前、俺に会いに来てたんだ」

 くるりと振り返ってみれば、芥川はぽかん、と扉の前で口を開いていた。そういえば、俺にとっては夢と地続きだが奴にとってはまるでなんのことかわからないだろう。自分らしくもない、妙なことを口走ってしまった。

「あ―、いや、」

 しかし忘れてくれ、と続けようとした俺の唇はそれ以上動くことはなかった。合点がいった、というふうに、芥川の澄んだ青の瞳がにんまりと細まったからだ。

「ああそれはね、君の顔が見たくなったからだよ」

 部屋の扉がぱたん、と閉まった。しんとした部屋の中、残されたのはぽかん、と口を開く羽目になった俺だけだ。陽光が机の上にまで降り注ぎ、廊下からはぱたぱたと誰かの動き回る足音が聞こえる。

「……お前のそういうところ、どうかと思うぞ」

 ようやっと呟いた言葉は、どうしようもないほど情けない音をしていた。

説明
※2016/11/18にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです

芥川さんを連れてくる菊池さんの話
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