いっとうはじめの
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 立ち並ぶ本が傷まないよう、書架に当たる陽は殆ど遮られている。ただ、そこから少し離れた場所にある大机は、大きく採光の窓がとられているだけあって明るく、歓談や議論を楽しむ者があったり、将棋を指す者があったりと生気に満ち溢れている。

 ただし、それも平時の事だ。今はほとんどの者が出払っているために人影はひとつも見当たらない。丁度暖かく日の差す時間帯、贅沢にもいっとう暖かな場所を占有してしまうことにほんの少しの罪悪を覚えながら、犀星は木造の椅子を引いた。

 ひとつ取り出した本を捲るたび、鼻先を乾いた紙のにおいが擽る。嫌いな者にはとことん嫌われるのだろうが、少なくともこの図書館に降り立った者たちの中にこれを嫌う者はいないと断言してしまってもいいだろう。墨も紙も、空気があるのと同じくらい自然にそこにあってしかるべきものだ。

「犀星せんせ、」

 せんせ、と語尾を少し短く切り上げるような呼び方。わざとらしく甘えを含んだような声音に、犀星は苦笑と共に振り返った。

「怪我、もう治ったみたいで安心しましたわ」

「おかげさまでな」

 血の色の透けたような瞳をにい、と細める作之助は、ひょいとその痩躯を椅子と机の隙間に滑り込ませた。小柄な体が座れば随分と大きく見える椅子も、こうして手足が余るほど長い作之助が座るとどうにも小さく見える。

「しかしすごいな、補修というのは」

 たすき掛けにした袖から見える白い腕には、既に傷のひとつも見当たらない。つい先ほどまで潜っていた本の中で、犀星はその腕を大きく切り裂かれていた。決して浸食の度合いは高くなかったが、武器を扱う身にしては致命傷だ。結局、会派の筆頭を務めていた作之助の判断で、本陣へたどり着く前に撤退することとなったのだった。

「先生、腕からぼったぼた血ぃ流しながら大丈夫だーしか言わへんのですもん。もう見てるこっちが痛くて」

 顔をしかめ、おどけたような仕草で腕をさする作之助は、しかし確かな安堵の色をその瞳に滲ませていた。

「すまなかったな。おかげさまで、もうこの通りだ」

「で、寝てもいられんでここに来たっちゅうわけですか」

 勉強熱心なことで、と机に上体を机にぺったりと伏せて顔を向ける仕草はどうにも拗ねているように見えてしまう。そしてそれはおそらく、犀星の気のせいではないだろう。

「……先に、君の所へ行くべきだったな」

「そうですよお、誰が連れ帰ってきたと思うとるんですか」

「悪かった、悪かった」

 怪我をした右腕がもう何も問題なく動くことを示すように、ふんわりと柔らかそうに跳ね回る髪の毛を撫でる。とうに成人した男相手にする行為ではないかもしれないが、当の本人がそれは気持ちよさげに目を細めているのだからまあ良いのだろう。

「そういえば、君はどうして残っていたんだ?他の奴らはみんな、潜っている最中だろう」

 途端、うっとりと落ちかけていた作之助のまぶたがばちん、と開かれた。そうしてそのまま、驚いて固まった犀星をそれは不満げに睨み付けてくる。

「犀星先生、わしの話聞いとりましたか?」

「ん?ああ」

 一体何を言い出すのか、と返事もしどろもどろの犀星に向かってこれ見よがしに薄い唇がため息を漏らす。

「わしのこと、目の前で血ぃぼたぼた流されて、慌てて連れ帰ってきた人の無事も見ずにどっか行けるような薄情な人間だとでも思っとるんですか」

「あー……、そうだな、すまん」

 要するに、彼の方は犀星のことを余程気にかけてくれていたらしかった。そうなってくると犀星の方でもむくむくと申し訳ない、という気持ちが沸き起こってくる。

「こぉんな美男子が心配しとるんやから、お願いでも聞いてもらわんと割に合わんわあ」

「なんだ、元気になるお薬、とやらは持ってないぞ」

「違いますぅ」

 尖らせた唇のまま拗ねた声音を作って見せる作之助は、どうも犀星の前では年下らしく振舞うことに決めているようだった。今生では相手の方が幾分か年嵩の姿をしているとは言え、世話焼きの自覚がある身には別段不快ということもない。

「じゃあなんだ」

「そやなあ……、せや、犀星先生が今書いとるやつ、書き終わったらいっとう最初にわしに見せてください」

 作之助の髪に埋めっぱなしだった指先が、ぴくりと動く。空いた時間に詩作に耽っているのは確かだが、はてどこかで彼にその話をしただろうかと考え込む犀星を、まるきりいたずらっ子の顔をした作之助がにやりと眺めている。

「やーっぱり詩作っとったんですね」

「……謀ったな、君」

「人聞きの悪い。犀星先生がわかりやすいだけですよぉ」

「可愛げのない奴だな」

 そもそも犀星のほうでも詩人と名乗っている以上、別段ばれたからといって困ることはない。けれどもこうも作之助の思い通りに進んでいるのがどうも悔しくて、それに任せて思い切りよく眼下の髪をかき回した。

「あ、ちょ、何してはるんです!ぐっちゃぐちゃやないですか!」

 目に見えて慌てる作之助に、今度は犀星がしてやったりと笑う番だった。

「いいぞ、見せてやる」

「へ?」

「今書いているのが仕上がったら、真っ先に織田君、君に見せに行こう」

 作之助の目も口も、ぽかん、といっそ無防備なほどに大きく開かれる。

「……ええんですか」

「君が言い出したのに、随分遠慮するんだな」

 なんならきっちり約束でもするか、と小指を差し出した犀星に、作之助が慌てて首を横に振った。どうやらそんなことをしなくてもいいと、そう言いたいらしい。

「楽しみにしてますわ」

 ふにゃりと顔を幸せそうに緩めて、作之助は犀星の指先に頭をすり寄せてきた。つられるように髪に埋めた指を、ゆったりと動かす。

「しかし何故また俺の詩なんだ。酒でも甘いものでも、ねだるなら他にもあっただろう?」

「……笑わんでくださいよ?」

「ん?」

 数度、言いよどむように作之助の唇が幾度かむにゃりと動く。

「一回でいいから犀星先生の詩を、いっとう最初に読みたかったんです」

「なんだそりゃ」

「わしかて子供っぽいのは重々承知しとりますけど、最初の読者て、ちょっと特別でええやないですか」

「特別なあ」

 いつも調子よく振舞っている彼にしては健気な願いだと、つい顔をすっかり伏せてしまった作之助へ視線をやった。それが、いけなかった。明るい陽のもと、そこだけまるで紅を刷いたように赤く染まった作之助の耳を、犀星の目はしっかりととらえてしまった。

「え、」

「……犀星せんせ、」

 ゆっくりとした動きで伸びてきた手が、犀星の手に重ねられる。温度の低い指先が絡められ、しっとりとした手のひらから犀星の体温を吸い取っていく。

「一応、わし、犀星先生の特別になりたいって、言っとるつもりなんですけど、伝わっとります?」

 きゅ、と弱く指先に力が込められる。赤い瞳は魔力でももっているのか、潤んだようにきらめいて犀星の瞳を離さない。

「お、だくん」

 からからに乾いた口でようやく吐き出せた音は、犀星自身の耳でもわかるほど、焦りと困惑が混ざり込んでいた。そして、それは作之助にも分かったのだろう。諦めたようにひとつ、息が吐き出される音がした。すごすごと、絡まった指先は落ちるように元の位置に戻っていく。

「なんでもあらへん、忘れてください」

 ほんの僅かだけ上げられていた顔は、ごつん、とぶつけるようにしてうなだれてしまった。そこでようやく、彼を傷つけてしまったのだと気が付くくらいには、犀星の脳内は混乱していたらしい。慌てて何かを取り繕うにしたって、どこへ言葉を重ねても言い訳じみているような気がしてならない。

「……特別とかそういうのは、よくわからないが」

 びく、といまだに作之助の頭に置かれたままの手のひらから、震えが伝わってくる。

「しかしまあ、まだ誰にも見せていない詩の最初の読者に君を選べるくらいには君を気に入っているんだと、そういう事でひとつ、慰められてはくれないか」

「……なんやのそれ、」

 ぷふ、と吹き出すような音。それから作之助の上体がぐわりと持ち上がった。隠していたのか、耳だけではなく目元まで、ふわりと赤く色づいている。

「ずるいおひとやなあ、犀星先生」

 ゆっくりと長身が立ち上がり、座ったままの犀星に長く影を落とした。

「ま、今回は慰められときますわ。丁度みんな帰ってきたみたいやし、出迎えいかんと」

 それじゃあ、とひらひら手のひらを振りながら出ていく作之助の後ろ姿はすっかりいつも通りだった。そうしていつの間にそんな時間が過ぎたのか、犀星の耳にも人の話し声が届き始める。自分こそすっかり治ったことを会派の面々に知らせねば、と慌てて立ち上がり、本を返すため書架に向かって歩き出す。

 犀星のとった分だけひとつ隙間の空いた棚に本を差し込む。瞬間、薄暗さも手伝ってか作之助の言葉が何とはなしに思い出された。そういえばあの時、逆光になってよく見えなかったが彼は一体どんな顔をしていたのだろうか。そしてそのことを考えると、犀星の胸はなぜかちくりと、針を刺したように痛むのだった。

 

説明
※2016/11/22にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです

鈍感バトル室織
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