30秒後、ハッピーエンド
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 扉の重々しい印象を裏切って、ドアベルはかろん、と思いのほか軽い音で鳴った。

 外観同様、年季の入った内装だ。使い込まれることで飴色に染まった木造の机や椅子が、重々しくも温かみをもって、客を迎え入れる。店内に入って数歩、滑るように近づいてきた店員に待ち合わせの旨を伝えると、店の奥、観葉植物でうまく目隠しをされた一角へと案内された。

 

「これは、随分とお若い方だ」

 

 ゆったりと、待ち構えていたように上げられた瞳は、灰がかった青。眼鏡のレンズ越しにもよくわかる知性が、その目の中に爛々と輝いている。銀色の髪は顔周りでふんわりと跳ね、被ってきたのだろうボルサリーノは机の脇に置かれていた。服装も相まって随分と落ち着いた佇まいに見えるが、やり取りをした限りでは十代の、まだ少年と言っていい年齢だったはずだ。

 

「初めまして、ミスター」

「そんなに畏まらないでいい。フランクと呼んでくれ」

「ではフランク。改めまして、アズール・アーシェングロットと申します。僕のことも、どうぞアズールと」

 

 無駄のない所作で立ち上がったアズールが、握手を求めて手を伸ばした。その細い手をフランクが握り返すと、にっこりと左右対称に口角が上がった。成程、中々やり手らしい。

 お互いに一通りの自己紹介を済ませ席に着くと、すぐにウエイターが、湯気の立つカップを運んできた。この店の売りであるコーヒーの、苦みある香ばしい香りが席に漂う。

 商談をするにあたって、店を指定したのはアズールだった。貫禄ある趣に違わずアルコールの提供も行っているはずだが、これから仕事、というときに酒を口にするわけにもいかない。口に運んだコーヒーの、酸味と苦味のバランスのとれた味は、この店を選んだ者の舌が肥えていることを、如実に証明していた。

 

「いい味だ」

「ええ。僕も時々利用するのですが、お口に合ったようでよかったです」

「学生には少し高くはないかな」

「これでも商売をしている身ですので。それに、良いものを知っておくのは、経営者として当然のことでしょう」

 

 すい、と細められた目は、随分と蠱惑的だ。フランクは自身もわずかに微笑んでみせながら、気付かれないように目の前の少年を観察していた。

 慣れている。自分を魅力的に見せるということにも、見られるということにも。

 そういうタイプは嫌いではない。自分の価値を分かっている人間というのは、大抵の場合優秀だ。

 

「……さて、それでは話をはじめても?」

「ふふ」

「何か」

「いや、そう焦るものではないよ」

 

 言外に若さを笑われたのだと、アズールは気が付いた。神経質そうに細い眉が跳ね、けれど口元は優雅に笑んだまま、カップを手に取り口元に運ぶ。熱さに怯みそうになる舌を誤魔化しながら、コーヒーで苛立ちを流し込んだ。

 

「失礼しました」

「構わないさ。ただ、この一杯を飲みきってからでも、遅くはないだろうと思ってね。それともこの後、なにか用事が?」

「まさか。今日はフランクさんとの約束だけです」

「敬称はいらない」

「……フランク」

 

 フランクはそれでいい、というように二、三度頷き、コーヒーが残り少なくなったカップを、一旦ソーサーへ戻した。少しだけ身を乗り出し、アズールに顔を近づける。避けないのは予想通りだ。組んだ手をわざとらしく机の上に置いて、それから囁くような声でひとつ、提案を口にした。

 

「君さえ良ければ、私のオフィスへ招待しても?」

 

 ひたり、と一瞬、アズールの動きが止まった。

 

「……光栄です。でも、よろしいのですか?」

「構わないさ。大事なことは他の人間の目のないところで話すにかぎる」

 

 形ばかりの謙遜を口にし、アズールはわずかに視線をさ迷わせた。それから、しっかりとフランクの目を見つめ返し、口を開いた。

 

「では、お言葉に甘えて」

「よかった実は車を外に待たせてあるんだ」

「そうだったんですか」

 

 残りのコーヒーを飲みきり、二人はほとんど同時に立ち上がった。フランクが会計には少し多い紙幣を机に置いて先導する。

 アズールは店員に一礼し、気障な態度で扉を開けたまま待っているフランクに笑みを返した。手に持ったボルサリーノを浅く被り、つばの影で、青い瞳をぎらぎらと光らせた。

 

 用意されていた車は布張りの座席がシックで、丁寧なエスコートで乗り込んだアズールの体をしっかりと受け止めた。次いで乗り込んだフランクが、手探りでシートベルトを装着するのを見て、アズールも慌ててそれにならう。途端にく、と押し殺したような笑い声が聞こえた。

 

「失礼」

 

 フランクは誤魔化すように咳ばらいをし、運転手にいくつかの指示を出した。即座に走り出した車の滑らかな動きに、運転手の技量と、車の性能が伺える。

 

「こういった話をするのは、あまり経験がないのかな」

「そうですね……」

 

 不慣れだ、と言われているのだろう。アズールの頭の片隅で、プライドが音を立ててじりじりと燃え立つような気がする。勿論、表に出すような馬鹿な真似はしない。考え込んでみえるよう視線を落とし、それから顔を上げた。

 

「学内で営業している店……飲食店、なんですが、その店を立ち上げる際に何度か」

「なるほどね」

 

 男の目に控えめに映るように笑いかけてみたのは、少々あざとすぎたかもしれない。けれど、今フランクの機嫌を損ねるのは、得策とは言い難い。

 フランク・ポリプス、輝石の国出身の三十五歳。食品の輸出入を手掛けており、業界内では一、二を争うやり手と噂の男だ。実際、その勢いは飛ぶ鳥を落とす、という表現がぴったりで、五年前に設立したばかりの会社は、かなりの速度で規模を大きくしていた。

 

「カフェでは随分と大人びた子だ、と思っていたけれど、そうであれば不慣れなのも頷けるね」

「お恥ずかしい限りです」

 

 不慣れ、と表現されたことに、アズールのこめかみに青筋が浮いた。フランクが寛容に、柔らかな笑みを浮かべたのが余計、腹立たしい。己の見た目が与える印象、というものをよくわかっている人間の微笑み方だ。

 清潔感と、知性のある、大人の男性。

 まだ経営者としては若手なのもあってか、貫禄よりは若さを前面に押し出しているようだが、あと数年もすれば髭でも生やし始めるのだろうな、と勝手な予想を立ててみる。

 

「卒業後も経営を?」

「予定では」

「君ならば大丈夫さ。経験さえ積めば、ね」

 

 自分がその経験を積ませてやろう、という傲慢さの滲んだ発言だった。さっきからちらちらと見え隠れする不遜に、心底から不快になるような精神構造はしていないが、アズールの謙遜がひとつも汲み取られていないことは確かだ。それも、恐らくわざと。フランクは、予想よりずっとアズールのことを子供だと、なめてかかっている。

 ぼんやりとこの先のことに考えを巡らせているうちに、車は大通りを外れたところを進んでいた。晴天の昼間だというのに、路地のそこかしこが薄暗く、それがアズールにかすかな違和感となって積み重なる。帽子のつばと髪に隠された眉が、ひくりと不審げに跳ね上がった。事前の調査によれば、フランクのオフィスはあのカフェからそう離れたところでは無かったはずだ。

 声をかけるべきだろうか。そう逡巡して、やめた。フランク好みの、経営者としては少々世間知らずな若者の猫を被ってしまった手前、妙な勘繰りを口にしたと不興を買うのは避けたい。頭の中にいくつか無難な話題をピックアップし、途切れた会話を繋ぎ合わせるようにそっと切り出す。

 

「ところで、」

 

 ぷしゅ、と緊張感の欠けた、何かの吹き出すような音がした。

 

「どうした?」

「いえ、今何か音が……っ?!」

 

 臭いがした。人工的な甘ったるさの中に、つん、と鼻の粘膜を突き刺す刺激の混じった、あからさまに危険な薬品の臭い。アズールがそれに気が付いた数秒後には、視界に白い煙が現れた。いつからかは知らないが、車内に薬の噴霧装置を仕掛けられていたに違いない。

 

「なんだこれは、っ、」

「フランク、煙を吸っては駄目です」

「ぐ、うぅっ……」

 

 白く煙っていく車内で、フランクのまぶたが落ちた。アズールは咄嗟に鼻と口をハンカチで覆ったが、声をあげた拍子に大分煙を吸い込んでしまったらしい。脳がぐら、と揺れるような感覚があった。

 車体は振動しているから、まだ走行を続けているはずだ。運転手の様子が見られないのが気がかりだが、十中八九意識はないだろう。このままいけば、どこかの壁や建物にぶつかるか、この先の海に転落するか、とにかく事故は避けられない。

 ぐらん、とまた脳が揺れる。耐え切れずにに倒れた体を、シートベルトが斜めに固定する。

 

「く、そ……」

 

 ぷしゅ、と間抜けな音がもうひとつ。追加された薬品に、たかがハンカチに一枚では到底抗いきれなかった。思考がまとまりを無くし、白く塗りつぶされていく。まぶたが落ちきって、視界が暗くなる。そうしてどっぷりと深いところまで沈んでいく中で、アズールは無意識に青い光を思い描いていた。

 がたん、と車が一際大きく震え、アズールはそこでぶつりと意識を手放した。

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「ではこれより寮長会議を始めます。みなさん、お揃いですね?」

「お待ちください学園長」

 

 仮面の向こうの金色が、声のした方を撫ぜるように動いた。朝一番、授業の始まる前に召集されたにも関わらず、リドルはいつもと変わらぬ規律正しさで、はっきりと挙手をした。すました顔で隣席に座ったジェイドを一瞥し、口を開く。

 

「副寮長の彼が、何故ここに?」

「ふむ、その話はこれからしましょう。なにせそれこそが本日の議題、いえ、重要な連絡事項ですから」

 

 悠々と椅子に腰かけたままだったクロウリーが、手袋に包まれた手をぱんと打ち鳴らし、立ち上がった。困惑と緊張で、会議室の空気が張り詰める。集められた寮長達も、常とはどこか違う、鬼気迫ったものを感じていた。

 会議室には半円の机があり、七脚の椅子が等間隔に置かれている。一番端からリドル、アズール、カリム、中央にレオナ、ヴィル、イデア、机の逆端にマレウスというのが常の席順だ。普段からタブレットでの参加を決め込んでいるイデアや、なぜか会議に招かれないマレウスも、今日に限っては間違いなく全員が、生身で会議に出席していた。

 

「さて、単刀直入に申し上げましょう。現在、オクタヴィネル寮寮長のアズール・アーシェングロット君は行方不明です」

 

 ざわ、と張り詰めた空気が一気に動いた。六対の視線がジェイドに突き刺さり、それから詳しい説明を求めるように学園長へと向けられる。

 

「どういうこと?」

「ここからは僕が説明を。よろしいでしょうか」

 

 一番に口を開いたのはヴィルだった。その真摯な声を遮るように、落ち着きはらった仕草でジェイドが立ち上がる。同意するように頷く者もいれば、視線で先を促す者もいる。ジェイドはそれを一段高いところから確認し、淡々と話し始めた。

 

「元々昨日……日曜日は、一日外出している予定でした。遅くとも消灯時間までには帰寮する、と本人から聞いていましたので、それまでは僕が寮長代理を。ただ消灯時間になっても帰りが確認できず、念のため日付けが変わるまでは待ちましたが、今日この時間に至るまで一切連絡が取れない状況です」

「行先は?」

「学園の近場にあるカフェだと聞いています。店にも連絡はしたのですが、それらしき人物は随分前に退店していると」

「連れは?いないの?」

「それは、」

「どうせ商売だの契約だの、胡散臭いオハナシでもしにいったんだろう。違うか?」

 

 どう説明したものかと言葉に詰まった一瞬をついて、レオナが気だるげに口を挟んだ。ジェイドは数瞬ののち、首を縦に振った。そもそも、アズールのやっている商売や、性格を知っている者からすれば、その用事を推測するのは容易いことだ。

 

「その通りです。ラウンジの件で、取引の予定がありましたので商談に」

「ハッ。だったら自業自得ってやつだろ。なんで俺たちがここに呼びだされてるんだ?」

 

 レオナの小馬鹿にしたような態度に、ジェイドは一ミリも表情を動かさなかった。特に思うところもない。自業自得、と言われれば、まあそうだろうな、程度の気持ちはあったが。ただ、他の者にしてみればそうではないらしく、やめなさいよ、とヴィルがレオナの背を勢いよく叩き、リドルは随分心配そうな顔をしていた。

 

「……見つかりそうな手掛かりとか、そういうのはあるのか?」

 

 自身の経験と重ね合わせているのか、青い顔をしたカリムが恐る恐る声を上げた。現状、この場の共通認識として、誘拐の線が強まっているのは明らかだ。

 

「一応、商談相手にも連絡は」

「警察には」

「それはもう少し、待っていただくことはできませんか」

 

 議論の行方を見守っていたはずのクロウリーが、唐突に強い口調で割って入った。

 

「学園長、どういうことです」

「絶対に出すな、というのではありません。ただこちらでも捜索を行いますので、そうですね……あと数日、待ってはいただけないでしょうか」

 

 絶対に出すなというのではない、などと嘯きながら、声には強制力があった。ジェイドは迷う振りで視線を逸らし、どうしたものか、と思案する。

 

「出たわね、学園長の事なかれ主義。それ本当に捜索する気ある?」

「ありますとも!どうしてそう信用していただけないのか、これでも私、教育者ですよ!?」

「どうだか」

 

 クロウリーがあちらこちらに反論を始めて、会議室はにわかに騒がしくなる。こうなってしまえば建設的な議論はしばらく難しいだろう。

 突然、ジェイドは突き刺さるような視線を感じた。敵意も何もない、だた観察すような熱のない視線。それが、真正面から向けられていた。随分と無遠慮に注がれるそれを、気付いていない振りでやり過ごす。けれど愉快なことが起こりそうな気配に、口角が上がるのは抑えきれなかった。慌てて口元を覆い隠したから、誰にも見つかってはいないだろう。

 

「それで、結局僕たちは何をすれば?」

 

 威厳を音にしたようなしん、と静かな声が、騒がしい会議室の空気を引き締めた。声の主であるマレウスは、ゆったりと会議室を見回し、ジェイドで一度視線を止め、それからクロウリーへ顔を向けた。

 一度、わざとらしい咳払いが静まり返った室内に寒々しく響いた。それから、できるだけ厳しそうに聞こえるよう作られた声でもって、決定事項が伝えられた。

 

「今後はジェイド・リーチ君が寮長代理となりますので、何かあったら手助けをお願いします。助け合いは重要ですから」

「冗談だろ」

「あら、いいじゃない。あのアズールに貸しを作れるんだから、いい機会よ」

「お静かに。もうひとつ、こういったことがありましたので外出は一旦禁止。各寮生への伝達をお願いします。勿論、アーシェングロット君が見つかり次第、解除となりますので」

「見つからなければ?」

 

 静かとはいえ、どこか緩んでいた空気が一瞬で緊迫したのを、部屋中の誰もが感じ取っていた。それは最悪の想像だった。誰しもが考え、けれど決して口にはしなかった想像。それをためらいなく言葉にしたのは、この会議中、一言も声を発しないかと思われていたイデアだった。

 重ねて、彼が問う。

 

「見つからなかったら、どうするの」

「見つけますよ、必ず。学園の威信にかけてね」

「……そう」

 

 ひら、とイデアが手を振り、それでこの話は終わり、ということらしかった。踏み込んだことを口にしたわりに、随分とあっさりした終わり方だ。

 

「では他に何もなければ解散とします。各自このまま授業へ向かってください」

 

 すでに一限は始まっている時間だった。がたがたと椅子が引かれ、三々五々に退出していく。全員が出るのを見送ったのち、ジェイドも会議室を後にした。

 意識してペースを落として歩きながら、ジェイドは数歩前を行く男の背中をじっと見つめた。先ほど、ジェイドに観察するような視線を向けていた張本人、行方不明になったアズールの、たしか恋人。

 会議室の中で見たのとは別人のような覇気のなさで、イデアはどうやら鏡舎へ向かっているらしかった。

 

「イデアさん」

 

 ひく、とパーカーに包まれた肩が跳ねた。数秒、そのまま立ち止まり、ゆっくりと振り返った顔は困惑に塗りつぶされている。

 

「なに、」

「いえ、少しお話をしませんか」

 

 クロムイエローが爛々と、長い前髪の下で光っている。温度のない、観察するような視線。鉱物めいた冷たさに見つめられるのは、ジェイドにしてみても中々の威圧感があった。並の人間であれば怯んで、逃げ出してしまうかもしれない。

 ことん、と伺うように首を傾げ、イデアが口を開くのを待つ。立ち止まっているからには、会話をする意思はあるのだろう。

 

「あの、さあ」

「はい」

 

 どもりもせず、思いのほか静かな声が廊下に響いた。

 

「なんで君らは着いていかなかったの」

「僕と、フロイドのことでしょうか」

 

 イデアの首がちいさく、縦に振られた。パーカーのポケットの中に突っ込まれたままの手が、もぞもぞと所在なさげに動いている。

 

「呼ばれませんでしたので」

「そう、なんだ」

「はい。それに預かりものもありますし」

「……寮のこと?」

「ラウンジもですね。責任者がいないと回りません」

 

 ふうん、と興味があるのかないのか分からないような返事をして、イデアは背を向けてしまった。珍しいことだ。いつもならば、ジェイドに怯え会話になど到底ならないというのに、今日に限ってはそれもない。第一、視線だけでなく、声にも、態度にも、何もかもに温度というものが感じられない。

 だから、ジェイドは少しばかり油を注ぐつもりで、口を開いた。

 

「恋人でしょう。アズールのこと、心配ではないのですか」

 

 俯き加減の丸い背中が、動きを止めた。ゆっくりと、いっそ余裕すら感じられるような動作で、イデアが振り返る。とん、とん、と一定のリズムでスニーカーが床を踏み鳴らし、瞳は明確にジェイドを見据えている。

 

「僕たちが着いていけばこんな事にはならなかった、と。そう思っていらっしゃるのでは?」

「……悪いけど、答える義理がない。急いでるから」

「イデアさ、」

 

 去っていく姿を、呼び止めようとした。けれどジェイドの足は動かなかった。拘束の魔法を使われたのではない。背筋を冷や汗が伝っていく感覚が妙に明確で、気分が悪くなる。

 清廉な花の香りがした。鼻先をなぞり、空気にすう、と消えていく。イデアの魔力の残滓だ。魔法の形すら取っていない、純粋な魔力そのものをぶつけられて、ジェイドの体は反射的に硬直していた。

 

「じゃあね」

 

 踵を返したイデアの背中が、今度こそずんずんと遠くなっていく。詰めていた息がようやく吐き出せるようになったころには、もう廊下にはジェイド一人しかいなかった。

 イデア・シュラウドという人間が、優秀な魔法士であることは知っていた。知っている、つもりだった。目の当たりにした力は、ジェイドの予想の何倍も強いものだった。

 

「……アズールも、厄介なひとを捕まえましたね」

 

 固まってしまった体を軽く伸ばし、ジェイドは教室へと歩き出した。内ポケットをそっと抑え、アズールからの預かりものが、確かにそこに入っていることを確かめる。本当なら、預かりものに関することでイデアに聞きたいことがあったのに、好奇心が勝ってしまった。

 ふ、と鼻孔を花の香りが通り抜けた。それに気が付いてしまえば、まだ体中にイデアの魔力の残滓がこびりついているような気がして、ち、とひとつ、舌打ちが零れた。

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 土曜日、ジェイドがアズールの自室に呼ばれたのは、ラウンジのクローズ作業を終えたあと、深夜に差し掛かろうかという時間だった。

 入室するや否や、アズールがマジカルペンを一振りする。潮の気配がどこからともなく漂って、ジェイドの横をすり抜けた。かたん、と鍵のかかった音がする。念には念を入れる性格のアズールのことだから、防音魔法も同時にかけたのだろう。廊下を行き交う足音もぴたりと途切れた。もとより防音性の高い部屋だから、魔法までかけると外界から隔絶されてしまったように感じる。

 

「明日の予定を確認したいのですが」

「紅茶でもいれましょうか」

「この時間ですから、カフェインの摂取は遠慮します」

 

 それで眠れなくなるほど敏感な体質でもないだろうに、と思いながら、ジェイドはアズールの対面に腰かけた。

 フロイドも含め、三人で会議をするとなると、VIPルームかアズールの自室に集まることになるから、部屋には勉強用のデスクの他に、小さな机とセットの椅子が三脚置かれている。寮の中でも一等広い、寮長室ならではだ。

 

「明日のことですが、前々から言っていたように僕は一日留守にしますので、寮のことは頼みましたよ」

「承知いたしました。ラウンジは間に合いそうですか?」

「正直間に合わない可能性が高いです。なので、明日処理の必要な仕事は最低限、お願いします。ホールはフロイドに任せてしまいなさい」

「わかりました」

 

 そこまで一息に喋ってしまって、アズールは一区切りするように小さく息を吐いた。まだ何か話があるのだろう。沈黙を守るアズールを催促することもせず、ジェイドはいつも通り、薄く笑みを浮かべながら黙って座っていた。

 

「明日の商談ですが、もしかすると二号店の足掛かりになるかもしれません」

「うまくいけば?」

「ええ、うまくいけば」

 

 く、と喉奥で詰まったような笑い声が鳴った。うまくいけば、というからには、計画は万全なのだろう。下手を打てばどうなるのかは知らないが、こと商売に関してアズールが失敗するとは思えない。ジェイドははなから心配などしていなかった。

 

「もし僕が日付が変わっても帰ってこないようであれば、学園長に報告を。通常通り授業もありますし、外出届は一日分しか出していませんので」

「それはうまくいかなかった場合の話ですか?」

「最終的にはうまくいくに決まっているでしょう」

「帳尻を合わせてうまくいったように見せかけるの間違いでは」

「一言多いんだよお前は」

「そういうの、本当にお上手ですよね。見習いたくはないですが」

「今すぐその口を閉じろ」

 

 き、と睨み上げられたところで、どうせ二人のいつものやり取りだ。迫力もないし、お互いまず恐怖を感じるようなことがない。ただ、この楽しいやり取りが失われるのはあまりにも惜しいから、できることならばアズールの計画の、一番うまくいった状態で帰ってきてほしいものだ。

 

「イデアさんには言っていかなくていいのですか?」

「……まあ、今回はラウンジの商談ですし」

 

 途端に挙動不審に視線をうろうろとさ迷わせ始めたアズールに、ジェイドは笑いがこみ上げてきて仕方がなかった。やれセキュリティだなんだとラウンジのシステム関係には散々巻き込むくせに、危険が及ぶかも、という局面には、部外者扱いをするのだからいただけない。恋人というのは、そんなに薄情な関係なのだろうか、と思わないでもなかった。

 もっとも、放置した方が確実に面白いので、ジェイドだって積極的に指摘したりはしないが。

 

「確認事項はこのくらいですかね」

「そうですね……ああジェイド」

「はい、っと、」

 

 ぽすん、とジェイドの手の中に、なにかが飛び込んできた。アズールが投げ渡してきたものだ。なにがなんだかわからないまま受け取ってしまったが、手のひらに感じる感触は、小さく、軽い。

 

「なんですこれ」

「預かっていてください」

「は?」

「じゃあ僕はもう寝ます。お前もさっさと部屋に帰るんですよ」

 

 呆然と立ち尽くすジェイドの背後で、かたん、と鍵の開く音がした。いつの間に魔法を使ったのか、人の気配も戻ってきている。本当に、感心するほど精緻な魔法だ。防音魔法自体は基礎的な魔法だが、こうも堅牢に、緻密にかけることのできる者は少ない。

 退出を促されてしまったので、ジェイドは不服さを隠しもせずにのろのろと寮長室を後にした。途端、扉は軋んだ音のひとつもたてずに、ひとりでにぴったりと閉まった。これはあんまりにも強引すぎないだろうか、と愚痴のひとつも言いたいような気持ちの一報、ジェイド自身、その強引さを楽しんでもいた。

 のろのろと部屋に戻る。まだ明るい部屋の中で、片割れであるフロイドは寝間着でベッドに寝転がり、はみ出した足をぷらぷらと振っていた。

 

「おかえりぃ」

「ただいま戻りました」

「アズールとお話し?」

「ええ、明日のことについて、ちょっと」

 

 寮服を脱ぎ、ハンガーにかける。ショール、ジャケット、タイと順番に脱いでいき、シャツとスラックスだけの姿になってようやく、ジェイドは投げ渡されたものを確認した。

 それは、名刺ほどの大きさをしたカードだった。薄い青色。端には白く、特徴的なマークがひとつ印字されている。光にかざしても裏は透けない。触ってみても、紙なのかプラスチックなのか、はたまた金属なのか、ジェイドには全く判別ができなかった。

 

「なあにそれ」

「預かりものですよ、アズールからの」

 

 いつの間に近くに来たのか、フロイドはジェイドの肩越しにカードを見つめていた。手に取り、隅々まで眺めまわし、それから端のマークに気づいて心底楽し気に口角を吊り上げた。

 

「なんだろうね、これ」

「なんでしょうね」

 

 フロイドにつられるようにして、ジェイドの口もにんまりと歪む。色といい、マークといい、連想される人物はただひとりだ。さっきは都合よく部外者扱いをしていたが、結局のところアズールも、公私を分けきれてはいないということだろう。

 

「フロイド、ひとつお願いが」

「ん?なあに」

 

 内緒話のようにひそめられたジェイドの声に、フロイドは取り繕ったような真面目さで、大仰に頷いてみせた。

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  ぴちゃん、とどこかで水の垂れる音がした。

 深くまで沈んでいた意識が、ゆるゆると浮き上がっていく。一方で体は、このままどこまでも沈み込んでしまいそうなほどに重く、頭の中はもやがかかったようにぼんやりとしている。

 ぴちゃん、ともう一度、水の垂れる音がした。

 手首が締め付けられたように痛む。背中には不快に湿った、固い板のような感触があった。血の気がうせ、冷え切った指先を動かそうと試みたが、ほんの少しも動いてくれそうにはない。あきらかに車の座席ではない感触が、誘拐されたのだという事実をアズールに突きつけてくる。

 ぴちゃん、とどこかで垂れる水の音が、まともに働かない頭を焦りで塗りつぶしていく。

 アズールは意識的に、ゆっくりと呼吸をした。人の気配はない。ここには誰もいないはずだ。けれど、本当にいないと確認ができない以上、意識が戻ったことを知らせるのはまずい。音が立たないように、できるだけ静かに息をする。上下する胸の動きすら抑えて、けれどできる限り多くの酸素を取り込めるように。

 そうしてしばらく呼吸をするうち、頭のもやは少しばかり晴れたようだった。まぶたの上に圧迫感がある。目隠しと、腕の拘束。感触からして魔法は使っていない。使えないのか、あえて使っていないのか。

 ぴちゃん、とどこかで水の垂れる音がする。そのたびに、指先の温度が失われていくような気がする。

 錯覚だ。けれど、視覚が封じられている以上、錯覚だと断ずるだけの根拠はない。ひんやりと温度を無くした指先から、血が滴っていないと言えるだけの根拠は、どこにもない。痛みはまだどこか遠く、ぼんやりとしか感じられない。体の感覚の全てが鈍い今、本当に怪我のひとつもしていないとは言い切れず、余計に体中の血の気が失われていくような気がした。

 聴覚を遮断していないのがわざとだとしたら、犯人は随分と趣味が悪い。水の垂れる音を、自分の血の垂れる音だと錯覚させるような拷問があるのを、アズールはどこかで目にしたことがあった。死んだり、発狂したりする可能性は薄いが、確かに精神的には消耗している。

 ぴちゃん、とどこかで水の垂れる音がして、それに混じっていくつか足音も聞こえてきた。

 できるだけ静かに息をして、足音を聞くのに集中する。こつ、かつ、と硬い音がひとつ、ずる、と引きずるような音がふたつ。集中しているとはいえ、まだ鈍い聴覚でもこれだけ聞き取れるのだから、詰めが甘い。気配を殺すのに慣れていないのか、あるいは意識が無いからと油断をしているのか。

 

「……で、どこに……」

「お……声……、……えたら……する」

 

 ひとりが喋ると、もうひとりが咎める。後者がリーダー格の男だろうが、その男の声だって聞こえているのだから、気を抜きすぎだというほかなかった。それにしてもこの声、どこかで聞き覚えがある。

 そうこうしているうちに、車内で吸った薬は周囲の状況が探れる程度には抜けてきたようだ。背中に触れる硬い感触、これはおそらく椅子の背だ。座らされた状態で、後ろ手に手首を縛られている。足首はそれぞれ、椅子の足に。アズールの予想では、犯人は非魔法士である可能性が高かった。

 目隠しにはかなり厚みのある布が使われているようで、まるで光を通さない。おかげで今が何時ごろなのか、知る術もなかった。仮に目隠しがとられていたとして、果たしてこの場所に時間が分かるほどの日光が入るのかどうかも知らないが。

 かつ、こつ、と硬い足音が近づいてくる。真正面で止まった気配に、体がこわばりそうになる。意識的に力を抜いて、だらりと弛緩しているように見せた。

 ふ、と笑うような息の音。ゆっくりと後頭部に手が差し入れられ、髪がゆるく梳かれるのに、背筋が泡立つような嫌悪を感じる。愛撫の類ではない、例えるなら、商品の状態を確かめる売人の手つきだ。そのまま数度、髪の流れに沿って梳かれ、手が離れていったころには、アズールの全身はすっかり鳥肌が立っていた。

 目の前で、人の動く気配がした。

 

「目が覚めると面倒だ、薬を」

 

 瞬間、ぶわ、と意識が覚醒した。聞き覚えがあるのは当たり前だ。鷹揚を装った、低い声。車内で昏倒したのは振りだったらしい。傲慢で得意げな、あの微笑みが目に浮かぶようだ。

 できることなら罵倒して、目線の先にあるだろう靴につばのひとつでも吐きかけてやりたかった。けれど、まだ駄目だ。目的は、まだ達成できていない。ぐ、と歯を食いしばるのと同時に、首筋に冷たいものが宛がわれ、そうしてまた、アズールの意識は暗闇へと落ちていった。

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「兄さん、兄さんどうしたの?」

 

 どん、どんと断続的なノックの音が、イグニハイド寮の静かな廊下に響いている。

 普段ならば、体調が悪くても気分が沈んでいても、オルトの呼びかけに対して一応の返事はしていたイデアは、寮長会議のあとから一言も発さず、ただ部屋に閉じこもっていた。眠っているわけでも、体調を崩したのでもないことは確認済みだ。すでに二限目が始まろうという時間だが、タブレットで出席をしている様子もない。

 その気になれば、この寮内に存在する全てのセキュリティを解除できてしまうオルトだが、前例のない行動をとる兄相手に、そんな力を行使したくはなかった。

 

「……兄さん、僕部屋の前にいるから、なにかあったら声をかけてね」

 

 放っておいた方がいいのだろう、そう判断して、オルトは部屋の前で待つことにした。あんまりふらふらと飛び回って、いざという時にエネルギー切れを起こしては困る。廊下の壁にもたれ掛かるように座り込んで、しばらく開かない扉を見つめていた。

 部屋の中のイデアは、といえば、定期的に清掃をしているオルトのお陰で、かろうじて万年床にならずに済んでいるベッドの上で、つま先まで布団をかぶって体を震わせていた。あんまりにも心配そうな弟の甘い声に応えられなかった不甲斐なさが、余計に自己嫌悪に拍車をかける。

 室内灯をひとつも付けず、カーテンを閉め切ったイデアの自室は、まだ午前だというのに薄暗い。うおん、と起動しっぱなしのパソコンがうなりを上げている。静かなはずの機械の駆動音がよく聞こえるほどに、部屋は静まり返っていた。会議を終え、自室に戻ってすぐにベッドに潜り込んでしまったから、傍らに積んだ本や、いつも授業に出るのに使用しているタブレットが床に転げ落ちてしまっていた。

 もともとは、恐怖から体を震わせていたのだ。寮長会議のあと、呼び止めてきた相手をろくろく確認もしないまま振り返り、挙句、相手にも責任の一端があるとはいえ、威嚇じみた真似までしてしまった。その相手がジェイドだということに気が付いてすぐ、自室へと駆け込んだのだが、思い返せばなんて恐ろしいことをしてしまったのだろう。

 あの挑発的な発言に、はっきりと怒りを覚えたのは間違いない。なぜ着いていかなかった、と問う声が、非難めいていたのも自覚がある。

 馬鹿みたいな嫉妬で、八つ当たりだ。信頼し、全てを預けられる立場にあるジェイドに対する嫉妬で、イデアになんの相談も、一言の言伝も残さないまま危険なことをしているアズールに対する、八つ当たりだ。だからこそ突いてほしくなかったし、それがわかっていたからこそジェイドも口に出したのだろう。そう考えると本当に、ジェイド・リーチという男は心底性格が悪い。

 結局、馬鹿みたいなことをしている自覚があるからこそ、イデアは布団を引っ被って、こうして自己嫌悪に体を震わせているのだ。

 ふう、と震える息を吐き出して、ようやく少しだけ布団を剥いだ。延々とこうして震えていたいけれど、別のことに意識を割いてしまった方が楽になることはわかっていた。そうやって考えられるようになったこと自体、オルトにとっては感動ものだったらしい。えらいね、すごいね、といたく褒められてしまった。

 ベッドから腕だけを伸ばして、拾える範囲の本を拾ってしまう。届く範囲には、タブレットは落ちていなかった。イデアは覚悟を決めて、ベッドに手をついた。鉛の詰まったような体をなんとか持ち上げると、上体から布団がずるりと滑り落ちていった。

 床に散乱する本、タブレット、なにかのコードに走り書きのメモ。そろそろ片付けなければ、オルトに強制撤去されてしまうかもしれない。なんとか小さなスペースを確保して、むき出しの足裏を床につけた。

 

「オルト」

 

 数刻ぶりに出した声は、乾燥してしわがれていた。それでも、その声を聞きつけたオルトが、扉の向こうで動く気配がする。

 

「兄さん、体調は?」

「大丈夫。ごめんね、心配かけて。今鍵開けるから」

 

 自室の鍵には、イデアの権限でもって色々と細工をしてしまっているが、内側からであればイデアの声ひとつで開錠可能だ。いくつかの機械の駆動音がしたのち、扉は自動的に開いた。現れたオルトがひどく悲しそうな顔をしているのを見て、思考の隅に追いやったはずの自己嫌悪が引き戻されるようだった。

 

「喉が渇いているなら、冷蔵庫にミネラルウォーターが入っているはずだよ」

「ありがと」

 

 言われるがまま、部屋の隅に置いた小型の冷蔵庫からペットボトルをひとつ取り出す。キャップを捻り口を付けると、自覚していたよりずっと喉が渇いていることに気が付いた。そのまま四分の一ほどをゆっくりと飲んで、残ったものはデスクの隅へ置いた。

 

「なにかあったの?」

「うう……あの、うん、あのさ、ア、アズール氏が、」

「うん」

「昨日から、行方不明、らしくて」

「え!」

 

 部屋の中ほどに浮かんでいたオルトが、天井付近まで一気に浮き上がった。滑るようにイデアの目の前まで移動し、金色の目をぱちぱちと瞬かせている。

 

「あのでも、行方不明も多分アズール氏の計画の一端というか、あの双子に任せておけばそのうち帰ってはくるだろうし」

「でも兄さん、心配でしょう?」

「……うん」

 

 オルトの言葉に、イデアはようやく素直に頷けた。心配だ。今どこにいるのかも、何をされているのかもわからない恋人を心配するのは当たり前だ、と勝手に感情を肯定されたような気になる。目の奥がじんと痛んで、目の前がぼやけた。

 

「じゃあ、オクタヴィネル寮は大変だね。なにかお手伝いしてきた方がいいかな?」

「いや、ジェイド氏もフロイド氏もいますし、一応は大丈夫じゃないかな」

「えっ」

「ん?」

 

 しんみりとした空気に不似合いの仕草で、オルトの首がこてん、と傾けられた。つられたようにイデアも同じ角度に首を傾け、なにか変なことを言っただろうかと己の言葉を反芻する。

 

「僕てっきり、あの二人も一緒にいるんだと思ってたんだ。でもそうだよね、お仕事あるもんね」

「お仕事」

 

 唐突にかたん、と思考が切り替わった。

 仕事、そう仕事だ。アズールが必要とすれば、寮があっても店があっても、あの双子は必ず着いていくはずだ。なにせ今回はすでに、計画内に含まれる明らかな身の危険があったのだから。

 けれど、そうしなかった。そうしなかったことに意味がないとは、イデアにはどうしても思えない。意味のない行動はしない男だ。全てに意味があり、最後には必ず笑っている、そういう男だ。

 かたん、かたんと今までに得た情報がピースになって、パズルのように形を作っていく。

 イデアは現実世界での動き方を考えるよりも、機械の構造や、新たなプログラムを構築する方が向いている頭のつくりをしている、と自認していた。だから、これが正解かはわからない。けれどもし正解であれば、あの二人は寮内でこそやるべきことがあるから、残っている。アズールに着いていかなかったのではなく、アズールが着いていかせなかったのだ。

 

「オルト」

「なあに」

「天才」

「それは兄さんでしょ」

「ありがとね。僕ちょっとやることできたからさ、授業休むね」

 

 オルトが、ふよふよと浮いたまま再度首を傾けた。

 

「うん、ちょっと、アズール氏のお手伝い。欠席理由は……まあ、体調不良、とかで」

「もう。あんまり休んで留年しないでね」

「出席日数数えてるから大丈夫」

「僕にできることある?」

「……とりあえずは、ないよ。オルトは学校戻りな」

 

 ありがとうね、と伝えれば、オルトは天使のような微笑みを残して部屋を出て行った。イデアの作った弟ながら、実によくできた子だ。

 しっかりと部屋を施錠し、普段予備として使っているパソコンを引っ張り出した。ホログラムのディスプレイとキーボードを、取り出した予備機に接続しなおす。メインのマシンより性能は落ちるが、学内のシステムに入り込むぐらいであれば問題はない。最悪本体を破棄することになるから、メインマシンは使いたくなかった。

 大枚をはたいて買ったゲーミングチェアに腰かけ、髪をひとつに結い上げる。なんとなく、気合が入るような気がするのだ。イデアの動きに合わせて、ぶおん、とホログラムが光る。薄暗い部屋の中、イデアの顔がそこだけ青く照らし出された。ヘッドフォンを装着し、細く、長く息を吐き出した。思考からノイズが取り除かれ、意識がただ、目の前の画面にだけ集中していく。

 

「よし」

 

 たん、と長い指が、空に浮かんだキーボードの上で滑らかに動き出した。

-6ページ-

 

 正直なところ、寮長の代理を務めることで、ここまで自由に動き回れなくなるものだとは思っていなかった。

 ジェイドは、モストロ・ラウンジのフロアで営業用に張り付けた笑顔を振りまきながら、思うように進まない事態に苛立っていた。表に出したつもりは毛頭ないが、もしかすると少しくらいは漏れ出してしまっていたかもしれない。ついさっきも、ドリンクを配膳したテーブルで、ジェイドを目にした生徒が随分怯えた顔をしていた。五番テーブル、と脳内にメモをとる。あとで少しばかり、サービスでもした方がいいかもしれない。

 空のトレンチをカウンターに置いて、オーダーシートを確認する。まだドリンクの出ていないテーブルが二つ、フードの提供ができていないテーブルは三つ。フロイドが別件で外しているせいもあり、週の初めだというのに、目の回るような忙しさだった。

 ぼんやりと思考に耽っていたジェイドの目の前に、すい、と滑るようにしてドリンクが置かれた。グラス底の深い青から、炭酸のごく薄い水色まで、涼やかなグラデーションを描くノンアルコールのカクテルだ。ドリンクを載せ、その間に出てきた他の商品もまとめて載せる。今出揃っているオーダーさえ捌いてしまえば、少しは時間が取れるはずだった。

 

「ジェイドさん」

「はい」

 

 トレンチを持ち上げたところで、横から駆け込んできた従業員に声をかけられた。自然な動作で、それは僕が、と手を伸ばされる。

 

「キリの良いところまではやりますよ」

「いえ、むしろ書類の方がまずい状態なので、そっちをお願いできないかと」

「ああ成程。ではこちらはお願いします」

「任されました」

 

 妙に恭しく両手を差し出してきた男は、確かジェイドと同級生のはずだ。現状責任者であるジェイドをたてつつ、気配がひりついているのを察知し、さらりとバックヤードに促す。その手腕にアズールの教育の成果が見えた気がした。元来持ち合わせている寮の気質による部分も大きいかもしれないが、なんにせよ今はその気遣いがありがたい。

 カウンター内とキッチンに声をかけて、革靴の足音も高らかに書類の積まれたバックヤードへ入る。本来ならアズールが座っているはずの執務机は空で、どこか寂しさのある光景だった。今日中に処理しなければならない書類をより分け、店用のノートパソコンと共にVIPルームへと移る。

 休憩や在庫の補充で時折人の入るバックヤードよりも、防音設備もしっかりと整えられたあの部屋の方が、仕事に集中できるだろう。今日は今のところ使う予定もないはずだし、来客があればそのまま通してもらえばいい。

 執務机が空なのはここも変わらないが、使う気にはなれなかった。自分が使うべきものではない、という意識があった。アズールのために調整された机や椅子の高さは、ジェイドの体には合わない。そういう細かなところでアズールの不在を感じては、身動きのとれなさに苛立ちが募る。そもそも、ジェイドがそう感じていることこそが、イレギュラーな事態ではあった。

 来客用のソファに腰かけ、ローテーブルに書類とパソコンを置く。力尽きたように、ジェイドの状態がずるん、とソファの背もたれから滑り落ちた。任された仕事を投げ出すようなことはプライドが許さないが、それだけで動くには燃料が足りない。

 ジェイドは楽しいことが好きだ。自分の思うままに動き回りたいし、楽しそうなことがあるのなら進んで首を突っ込みたい。任された仕事が円滑に回ることよりも、自分が楽しめる結末に着地できることの方が、ジェイドにとっては重要だ。アズールは厳しいようでいて、それなりに自由に動かせてくれていたのだな、と今更ながらに感心する。

 ジェイドは楽しいことが好きだ。この計画は楽しいこと、と判断するのに十分な材料が揃っていた。けれど、今はそうではない。予定調和は嫌いだが、身動きが取れないのも好きではない。ジェイドにとっては、今が丁度その状態だ。

 

「難しいところですね……」

 

 ふう、とため息をついて、重たい指で書類をつまみ上げた。本当なら今すぐ全てを投げ出して、フロイドに合流したい。が、任されてしまった以上は仕方のないことだ。ここはぐっと我慢して、アズールに後でなにがしかの対価を請求しよう、とジェイドが決めた時だった。

 こつ、こつ、と二度、VIPルームの扉がノックされた。

 念のためマジカルペンに手をかけながら、扉を小さく開く。その隙間から覗いた、ノックの主たる従業員は。誰が見てもわかるであろう困惑を、顔中に浮かべていた。

 

「お仕事中すみません」

「いえ、どうされました?」

「お客様が」

 

 ジェイドはそこで一度、考え込んだ。ポイントカードを貯めた客相手だとすると、アズール以外は対処ができない。

 

「支配人に用事であれば、また後日と」

「ああ、いえ、そうではなく」

 

 慌てた従業員の声に、ジェイドはおや、と眉をゆがめた。

 

「副寮長に、用事があるとのことです」

「……どなたです?」

 

 声はなく、代わりに戸惑ったような沈黙が返ってきた。あの、と呟いたかすかな声が、なんとかジェイドの耳に届く。

 

「イグニハイド寮長の、イデア・シュラウドさんです」

 

 ゆらり、と扉の向こうで炎が揺れたのを目にして、ジェイドは驚きに喉を詰まらせた。二、三度口を開閉させて、自分の口内がひどく乾いていることに気が付いた。唾液でなんとか湿らせて、口角を左右対称に引き上げる。獰猛な笑顔になってしまっただろうか。イデアをここまで連れてきた従業員が、ひ、と引き攣れたような悲鳴を上げた。

 

「どうぞ、こちらに」

 

 恐る恐る、まるで部屋全体にトラップが仕掛けられていると思い込んでいるような足取りで、イデアは部屋へ入ってきた。従業員に目線で退出を促し、扉がしっかりと閉められたのを確認する。施錠し、机の前で立ちすくむイデアを、ソファにそっと座らせた。

 

「何か飲まれますか?」

「い、っいいいいいや、だいじょうぶ、です」

「では、お食事は」

「いやっ!あの、ほん、とに、なんにもいらないから」

 

 朝、廊下で会話したときのような覇気は、まるで消え去っていた。青く光る炎の髪は、心なしかしぼんでいるようにも見えるし、クロムイエローの瞳はうろうろと、ジェイドから視線を逸らしたがって不審に動き回っている。

 わかっている。用事をすませ、すぐにでも自室に帰りたがっていることも。なけなしの勇気を振り絞って、ここまで来ているのだろうことも。ジェイドとは、こんな状況でもなければ一言だって会話をしたくはないだろうことも。全部わかっている。ただジェイドは、捕食者側であるという矜持を、少しばかり傷つけられたことに対する、意趣返しがしたかっただけだ。

 

「では、一体なんの御用で」

「こ、これ」

 

 ジェイドの言葉を遮る勢いでずい、と差し出されたのは、イデアの髪によく似た青の、半透明の棒だった。マジカルペンより少し短く、鉛筆程度の細さしかない四角柱だ。内部になにか組み込まれているようで、機械の部分が透けて見えている。

 

「これは?」

「内通者のデータ。使ったら、破棄していいから」

「は」

 

 きょとり、と見開かれたジェイドの目をどう解釈したのか、イデアはますます挙動不審に、手をわたわたと忙しなく動かしながら、滑らかとは言い難い口調で話し始めた。

 

「えっと、あの、さ、探してるのかなって、ごめん。通信記録とか、あと監視カメラの記録とか、色々見たらどうにも外部の人間と連絡を取っているようでして。で、ええと、ここの寮生もいたんで正直拙者の捏造、とか言われたどうしようかとは思ったんですが、でもアズール氏の目的とか、そもそも人魚だってこととか、全部相手に漏らしてるからクソヤバ案件だし、で、一応、連絡とってた外部の人間含め内通者のデータ全部そこに入ってるから。ただいつまでも持ってると危険な可能性があるから、まあ然るべき使い方をしたらそれごと壊しちゃってくださいでは拙者はこれにて」

「お待ちください」

「ぐええ」

 

 ジェイドは説明を終え、あっという間に立ち上がったイデアの、制服代わりに着込んだパーカーの裾をあらん限りの力で掴んだ。ぶちん、と繊維が盛大に千切れるような音がしたが、そんなことには構っていられない。奇妙な鳴き声を発したまま固まってしまった体を、もう一度、丁寧にソファにエスコートする。

 無理やり手の中に押し込まれた青い棒、イデアによれば内通者のデータが余すところなく入っているらしい記録媒体を目の前で振って、なんとか正気を取り戻させる。

 

「これ、いつの間に調べてくださったんですか」

「え、あ、の、ごめんなさい!拙者の出番じゃないなとは思ったんだけど、もうなんかいてもたってもいられなくてつい」

「イデアさん」

「ヒン」

「……怒っている、わけではありません。本当に」

 

 意識的に、ゆっくりと言葉をつないだ。無意識に乗り出していた上体をソファに預け、深呼吸をする。その呼吸音にすら肩を震わせたイデアが、怯えたように、けれどしっかりとジェイドと目を合わせた。

 

「会議のあと……その、なんで君らは校内に残されてるんだろうって考えて。ああ、あの時は本当にごめんなさい余裕なくてめちゃくちゃキレました。はい。……で、その校内でしかできない仕事を任されてるんじゃないか、という予想から、内通者のあぶり出しを、ですね」

「朝のことはこちらも責任がありますし、謝らないでください。つまりこれは、朝から今までの数時間で調べた、と」

「まあその、うん。学内のシステムとか、セキュリティ意識のないパンピの端末とか、拙者にかかればちょろすぎるくらいなので……」

 

 謙遜なのか自慢なのか、他人には判別のつかない言葉を残して、イデアはまた視線を落としてしまった。室内に、沈黙が満ちる。ジェイドはなにか言葉を発しなければ、と思いながらも、発するべき言葉を見つけられずにいた。恐ろしい才能だ。アズールが交友を結びたがる理由がよくわかる。そこから発展して、恋仲にまでなってしまった理由は、ジェイドにはまだよくわからないが。

 

「そうだ、対価を」

「いやいやいやいいいい、いいです、ほんとに、むしろ今すぐ帰らせていただければそれが対価になるというか」

「まあまあそうおっしゃらずに、こんな貴重な情報をいただいておいて、なんにもお渡しせずに帰してはアズールに怒られてしまいます」

「いやいやそしたら拙者からアズール氏に言っとくし、そもそもそんな大した労働ではないですし、ちょっとお役に立てたらなーなんていう下心でやっただけなので」

 

 イデアはほとんど半泣きの様相で、対価を固辞した。一秒たりともここにいたくない、という強い意志を持って、ソファから腰を浮かせる。それでもなお、ジェイドは引き下がるつもりはなかった。優雅に顎先に指をあて、この情報に見合う対価を見繕っている。大した労働じゃない、というが、今のジェイドにしてみれば喉から手が出るほど欲しいものだったので。

 ふ、と色の違う双眸が、中腰のイデアを見つめた。部屋の照明に、鈍い金色がそこだけあやしくきらめいた。

 

「イデアさん」

「ひゃい……」

「こちら、もしかしたら対価にはなりませんか」

「はい?」

 

 ジェイドは内ポケットから、預かりもののカードを取り出した。それを目にした途端、イデアのまとう雰囲気ががらりと変わり、ジェイドは心底安堵していた。どうやら対価として、この上ない正解だったらしい。

 名刺ほどの大きさをした、薄青のカード。端に印字されたマークは、彼のパーカーや、タブレットに表示されるアイコンと全く同じものだ。

 

「これ、どこで」

「アズールから」

「……え、あ、アズール氏……」

「使い方は分からないのですが、製作者はイデアさんでしょう。マークが付いている」

 

 白い指先が、ジェイドの手の中からカードを抜きだしていく。そっと光にかざして、傷ついたり壊れたりしていないかを確認した。

 

「そう、そうだね、拙者の作ったものですけど……え、待って使い方説明されてない?」

「ええ。やはり重要なものでしたか」

「重要というか、これがあるなら……ああ、もうアズール氏一周回って馬鹿なのかな。いやこうなることも計算済み……?もうなんもわかんない……おうちかえりたい……」

「イデアさん?」

 

 ぶつぶつと何事かを呟き続けるイデアは、名前を呼ばれたことにも気が付いていないようだった。呆れたような、焦っているような顔で、髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜている。そうしてひとしきり混乱したのち、ようやく現実に戻ってきたらしい。手の中のカードを見つめながら、とつとつと説明を始めた。

 

「これね、簡単に言うと転移魔法の使えるカード。二枚一組で、事前に使用者の魔力を込めておく。で、例えば今回みたいな緊急事態に、片割れのカードを持ってる人のところに、もう片方のカードを持ってる人が転移できるようになってる。まあ、ものすごい長距離とかだと、魔力反応がどこにある、くらいしかわかんないんですけど……」

「……つまり、これがあればアズールの場所もわかるし、なんなら助けにもいけると」

「その通り。だから、ジェイド氏に預けたんなら最悪これで助けてもらおうっていうことだと思う、ん、だけど」

 

 でも使い方の説明受けてないんだよね、と視線で尋ねられたのに、頷き返した。ジェイドが予想するに、イデアに聞け、ということか、もしくは自分で使い方を考えろ、ということだったのだろう。製作者本人の手にカードが渡ってしまうのは、彼の予想の範囲外かもしれない。そう思うと、ジェイドはひどく愉快な気分になった。

 

「イデアさん」

「え、あ、はい」

「アズールのこと、よろしくお願いします」

「いやまってまってそれ僕に助けに行けってことですかね」

「そうです。ほらやっぱり、映画などでもヒロインの危機はヒーローが助け、キスで終わるのが定番でしょう?いくらあの冷血守銭奴……失礼、我らが寮長としても、恋人に迎えに来てもらえるのであれば驚きに喚き……ではなく、泣くほどに喜んでくれると思うんですよね」

「ごめんジェイド氏なんか怒ってる?」

 

 怒っているというか、呆れていた。自分がこんなに不自由な思いをしたのだから、少しぐらいはやり返したい、という思いはあった。

 燃える毛先がぽふ、と火の粉を散らし、空気に溶けて消えていく。うう、と唸り声を上げたイデアが、仕方無さげにカードを握り直した。指で挟んだそれに、じわじわと魔力を込めていく。ぶつ、ぶつ、と口の中で転がされる言葉は、転移魔法の詠唱だ。唐突に、カードは青く燃え始めた。転移が始まる、と感付いたジェイドが、巻き込まれないように一歩下がる。

 

「怒られても、僕のせいじゃないからね」

「勿論」

 

 カードはいつの間にかひとつの炎の塊となり、イデアの全身を取り囲んだ。ぐあん、と一際大きく膨れ上がり、部屋のそこかしこを青く照らし出す。

 ジェイドがあまりにの眩しさに目を閉じた次の瞬間にはもう、塵一つ残さずに炎も、イデアの姿もかき消えていた。部屋はもとの静けさを取り戻し、魔力の残滓だけが花の、うっすらと甘い香りになって漂っている。

 

「……お見事」

 

 ほう、と感嘆からため息が漏れた。一体どれだけの時間と才能があれば、この鮮やかな魔法に至れるのだろう、と考えたすえの、感嘆だ。あまりに圧倒的な才能を目の当たりにすると、嫉妬をするどころか喜悦すら感じるのだということを、ジェイドは初めて知った。かつて彼を語るとき、天才、と言い切ったアズールの声が、今になって思い出されるようだった。

 しばらくジェイドが放心しているうち、どんどん、と強く扉が叩かれた。

 

「はい」

「ジェイド今平気?」

「ああフロイド、大丈夫ですよ。開けますので少々お待ちを」

 

 内鍵を開けると、にんまりと楽し気に笑ったフロイドが、するりと魚じみた動きで部屋に滑り込んできた。ついさっきまでイデアの座っていたソファに腰かけ、書類をぴらぴらと弄び始める。

 

「なんか楽しいことあったぁ?」

「ええ、これを見てください」

 

 イデアから渡された記録媒体に、ジェイドの魔力を込める。途端、ふわん、といくつものホログラムディスプレイが宙に浮いた。使い方の説明はされないままだったが、どうやら正しい方法だったらしい。青く光る画面の中には、いくつものメッセージのやり取りや、内通者とみられる生徒の名簿が記録されていた。

 

「うっわすっげー!ジェイドが調べたの?」

「まさか。イデアさんが持ってきてくださいました」

「やるじゃん。で、本人は」

「アズールを迎えに」

 

 ぱちり、と妙に幼い仕草でフロイドは目をしばたたかせた。

 

「は?」

「あのカード。迎えに行くためのものだったようです」

「マジ?ていうかジェイドそれ渡しちゃったの?」

「だってこれだけ情報を貰ったんですから、対価をお渡ししないと」

「そうだけどさあ」

 

 不満げな顔を隠そうともせずに、フロイドはソファにうつぶせに寝転がった。自由に長い足が収まり切らずに、ぶらんとひじ掛けの向こう側に投げ出されている。

 

「で、ここに名前があんのを絞めちゃえばいいの?」

「その通り。ま、鬼ごっこみたいなものですよ」

「やるけどさあ?今回俺らの出番ぜーんぶ取られちゃったじゃん」

「それだけ愛の力というのはすごいんですね」

「さっむ……」

 

 二の腕をさすりながら、吐き気を催したような顔色でフロイドが起き上がった。ディスプレイを覗き、ジェイドと共に名簿を頭に焼き付ける。寮、学年、クラスまで記載されているのだから、たったの数時間で済ませたとは思えない、細やかな仕事だ。

 

「誰からいく?」

「この方で」

 

 ジェイドが指し示した名前を確認し、フロイドがふらりと立ち上がる。骨のない相手だろうが、今回ばかりは仕方ない。五番テーブルで怯えた顔をしていた生徒は、すぐにでもここへ引き摺られてくるだろう。これでサービスは済んだな、とジェイドは脳内のメモに赤線を引いた。

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 夢を見ていた。青い夢だ。

 ゆらゆらと揺れる青に手を伸ばす自分を、真上から見下ろしていた。ああこれは夢だ、と理解しながら、その青が、誰のものなのかまで、わかっていた。

 揺れては近づき、止まっては遠ざかり、夢の中のアズールはそれを追うわけでもなくただ手を伸ばしている。今更こんな夢を見るなんて、未練がましいにもほどがあるだろう。笑っても、青は一向に近づいてはくれない。

 夢なのだから、どうせだったら振り向いてくれればいいのに。

 恨みがましい考えだけれど、少しぐらいわがままを言ったとして、アズールのことを見捨てるような薄情な人間ではないはずだ。

 ふわ、と意識が上昇していく。最後に見てから、せいぜい一日二日空いた程度だというのに、その青が、心底恋しかった。

 

 目を開けると、椅子に縛り付けられていた。室内だ。一度目に意識が戻ったころとは、また違う場所に連れてこられたらしい。ポケットに刺していたマジカルペンは、当然のように奪われていた。

 

「お目覚めかい」

 

どろりと粘着質な声が、頭上から降ってきた。確信に満ちた言葉だ。気絶しているふりは、もう通用しないだろう。

 睡眠薬か麻酔薬か、薬物を過剰に投与されたことで、アズールの頭はがんがんと殴りつけれられるように痛んでいた。体の感覚からして、依存性はなさそうだ。ゆっくりと、できるだけ頭を動かさないようにして前を向く。

 

「……おやフランク、ご無事のようで何より」

「どうも。今は外しているけれど、運転手も無事だよ。気分は?」

「最高ですよ。頭は痛いしあなたはピンピンしているし、おまけに体の自由を奪われているときた。今すぐそのツラ殴りつけてやりたい」

「おお怖い」

 

 おどけたように手を挙げた男、フランク・ポリプスは、カフェで見せた友好の仮面を投げ捨て、下卑た視線でじろじろとアズールを品定めした。人に対するものではない、まごうことなき商品扱い。目の前にあるアズールという商品の価値が下がっていないかどうか、それだけを確認していた。

 ならばこちらも、とアズールは、室内を視線で物色した。フランクが優雅に腰かけているのはひじ掛け付きの椅子。モノクロームにまとめられた室内は、こんな時でも品よく纏まっている。ただ、アズールの縛り付けられている木製の椅子ばかりが、古く、汚く、調和のとれたインテリアを見事にぶち壊していた。

 

「ここがあなたのオフィスですか。それで、この後はどうなるんです?国外脱出?それともこのまま、金払いは良くとも趣味の悪い成金クソ爺の所にでも売り飛ばされるんでしょうか」

「ここがオフィスなのは正解。君は綺麗だからちょっと観察しようかと思っていたんだが……うん。そっちが君の素か。嫌いじゃないけれど、私の趣味ではないな」

「それはなによりです」

 

 首から上を動かして、アズールは尚も室内を観察した。オフィス、と言っていたが、設備を見るとほとんど私室だ。ソファ、ローテーブル、大型のテレビにはいくつものスピーカーが繋がれている。フランクの座る椅子の傍に小さなテーブルがあり、琥珀色の液体で満たされた瓶と、グラスが二つ、それにアイスペールが置いてあった。先ほど観察、といっていたが、どうもこのまま晩酌まで楽しもうという魂胆らしい。心底、反吐が出るほど素敵なご趣味だ。

 

「それで、君はどこまで知っているのかな」

「どこまで?」

「言動からして、ある程度は知っていて商談に来たんだろう?」

 

 手元のグラスに氷と硝子瓶の中身を注ぎ入れ、馴染ませるように軽く回す。そうすることでアズールの元まで、甘いような苦いような、独特の香りが漂ってきた。いかにも高級そうなウイスキーの香りだ。けれど、少しだけ違和感がある。

 グラスを持ったままのフランクが近づいてくるのに合わせて強くなる匂いに、アズールは思わず顔をしかめた。

 

「僕がどこまで把握しているかなんてお見通しでしょう。生徒まで内通者にして、僕の動向を把握していたくせに」

「おや、証拠があって言っているのかな」

「証拠なら今頃、僕の部下が突き止めてますよ。ヒントなら渡してきた」

 

 ひくん、とフランクの、太く整えられた眉が持ち上がった。自分の優位性を疑うこともなく笑みを浮かべていた口元が、真一文字に引き結ばれる。そうすると、彼の酷薄な内面が、じっとりと表に染み出してくるように見えた。

 

「他には……そうですね。例えば、表向きは食品の輸出入と銘打っているけれど、食品と銘打った人魚や獣人を売買していることや、香辛料と偽って薬物の取引をしていること。まだまだ知ってることはありますよ」

「学生風情が」

「ナイトレイブンカレッジのね。あなたは知らないかもしれませんが、僕こう見えてエリートなんですっ……」

 

 ウイスキーの並々とつがれたグラスが、アズールの真上でひっくり返された。氷の冷たさと、濃いアルコールの香りとが一気に押し寄せ、ただでさえ痛む脳がぐらんぐらんと揺れる。

 

「勿体ないことを、するんですね」

「口には気を付けた方がいい。妙なところに売り飛ばされたくなければ、ね」

「気を付けようが気を付けまいが、結末は変わりませんよ」

「どうかな。タコの人魚は希少だから、いくらでも売り手は見つかる」

「へえ、なんだ。まだ売り手が決まっているわけじゃあないんですね」

 

 がん、と椅子ごと足が蹴りつけられた。冷たい色をした瞳が見下ろしてくるのを、あえて余裕あり気に見つめ返す。もう一度、今度は逆の足を蹴られ、アズールも流石のことに呻き声をあげた。フランクはいい気味だ、というように鼻で笑い、それからアズールの、すっかり煤けてしまった髪を掴み上げた。

 

「こんなに生意気だとは思わなかった。特定される前に君を売り飛ばしてしまえば終わりさ」

「できればいいですね?僕の部下は優秀だ」

 

 言いながら、ふと頭に過ったのは、さっきまで見ていた夢のことだった。青い炎の髪を持つ、恋人の夢。今ごろ何をしているだろうか、少しは心配をしてくれているといいのだけれど。

 目の前の男の所業も、内通者の情報も、頼みさえすればすぐにでも調べてくれるだろうが、恋人を自分の仕事に巻き込みたくないという気持ちは、アズールの中にも一応備わっている。それで自分が危険にさらされているのは本末転倒だが、それはそれ、これはこれだ。

 フランクは、興味を失ったようにアズールの髪から手を離した。予備動作もなく落とされた頭に、振動が響くように痛んだ。最初に見せていた有能そうな男の印象に似つかわしくない、焦りと怒りの滲んだ雑な所作だ。精神的に追い詰められていることを隠そうともしない振る舞いに、アズールは呆れにも似た思いでいた。まあまあ周到に人を誘拐しておいて、いざ口で抵抗された程度で怒り出すのだから、正直予想よりもずっと小物だ。

 

「いいさ。どうせ朝日を拝む前に運び屋が来る」

「なるほど、取引は夜明け前と。いつもそうしてらっしゃるのでしょうねえ?」

「本当に減らず口だな」

「失礼。どうも部下の悪癖がうつったようで」

 

 もう苛烈な怒りを隠そうともせず、フランクは元の席に座り直した。一度目に目が覚めたとき、足音は複数聞こえた。革靴ではない、恐らくスニーカーの音。あれが運び屋だったのだろう。足を組み、ウイスキーを注ぎ直す一部始終がどうにも芝居がかってみえる。散々な目にあっておきながら、アズールは目の前で繰り広げられている全てが、安っぽい三流映画のように見えてしまっていて、笑いをかみ殺すのが大変だ。

 室内にも腕にも、時計はない。眼鏡も含め貴重品はほとんど没収されてしまっていた。残ったのはせいぜいタイピンくらいのものだった。アズールの背面にあるのが、この部屋唯一の窓だ。太陽とは違う、冷たく冴えた月の光が差し込んでいることから、まだ夜も浅い時間帯だろう、とあたりを付ける。

 アズールは靴裏をこつん、と椅子の足に当てた。二度、三度と繰り返して、そこに仕込んだものは没収されていないことを確認した。もしこれが捨てられているとなったら、最悪の事態も想定しなければいけないところだった。

 ちり、と靴の裏側が、気のせいかと思うほどかすかに熱を発した。

 

「そうだ、君も飲むかい」

「結構です。未成年ですので」

「最後くらいいいじゃないか。売られた先で成人できるかどうかもわからないし、良いものを知るのも経営者の仕事、だと言っていたじゃないか」

「どうやっても飲ませたいようですが、無駄ですよ。さっきあなたに引っ掛けられたので充分だ」

 

 それにさっきから、ウイスキーの香りに混じって、別の臭いがしていた。アズールの人より敏感な鼻は、フランクに酒を浴びせられるより前から、かすかな刺激臭を感じ取っている。薬品独特の、危険を知らせる臭気だ。

 被ってしまった分は粘膜に振れたりなどしないように避けているが、フランクは薬入りの酒を平然と口にしている。彼の会社で取り扱っているスパイス、の類だろうが、常飲しているのは間違いないだろう。

 

「飲ませたいのなら、魔法でもなんでも使えばいいのでは」

「馬鹿にしているのかな」

「何がです」

「……本当に、生意気な」

 

 フランク・ポリプスは非魔法士だ。

 ネット上にいくつもある真偽不明の噂話のひとつだ。アズールは、今日まで思っていた。けれど魔法を使わない拘束や、輸送、それに今の言動を鑑みるに、どうやらそれは真実らしい。

 この世界において、魔法士の存在というのは非常に大きなものだ。それは商いの世界でも変わらず、経営者として名を馳せている者を百人リストアップしたとして、半数以上、下手をすれば七割近くを魔法士が占めている。表立っては誰も口にしないが、非魔法士差別も、まだ根強く残っている。

 そんな世界でフランクが違法な商売に手を出したのも、魔法士に対する嫉妬があったのではないか、と想像するに難くない。が、アズールにとっては心底どうでもいいことだ。たかが一個人の事情など、交渉のカードとしての興味しか持ちようもない。

 靴の裏がまた、かすかに熱を発している。そろそろだ。椅子の足に擦り付けるようにして、仕込んだものをはぎ取る。硬い床にかつん、と音を立てて落下したのを、足を鳴らしてごまかした。

 

「さっきから随分と落ち着きがないね」

「これが落ち着いていられる状態ですか?手足を縛られて、夜明け前には売り飛ばされる。そんな状況で落ち着いて、のうのうとその時を待っていろと?」

 

 ふ、と息を零したフランクは、アズールの焦ったような言葉に納得し、さっきまで威勢よく減らず口を叩いていた相手の余裕ない表情に、にっこりと微笑みかけた。鷹揚で傲慢な、吐き気がするほど完璧な、若き実業家の笑顔だ。

 さっきはぎ取った仕込みが、また熱を発した。かすかではなく、しっかりと、革靴の底を通してその熱を伝えている。ようやくだ。アズールは余裕なさげに装った態度を一転させ、尊大に、勝利を確信した顔で笑った。

 

「僕と雑談に興じてしまったのが敗因でしたね、フランク。言ったでしょう、気を付けようが気を付けまいが、結末は変わらないと」

「なにを、」

 

 がたん、とフランクが椅子を揺らした。

 

「なんだ、その、光は」

「慈悲の心をもって、その質問に答えてあげましょう。さ、繋がりますよ」

 

 靴の裏に仕込んでいたのは、イデア謹製の転移カードだ。一際熱く、青く光ったカードを、縛られた足で出来る限り遠くへ追いやった。途端、モノクロの部屋の中に青い炎が溢れだした。その光景は、フランクは勿論、アズールの想像すら覆すものだった。

 小さなカードから次々に湧き出す炎が、生きているかのように床を、家具を、壁を、天井を舐る。そしてその炎の中央に、一際高く立ち上る光があった。アズールには、それがなんだかわかっていた。うっとりと見上げ、無意識に手を伸ばす。まるで、あの夢の再現だ。

 一方でフランクは、何物も燃やすことのない炎が、部屋中を這いずり回るのを唖然として見つめていた。グラスが床におち、硝子の破片をぶちまけて粉々に砕けた。

 二対の視線を受けた光はぶわん、と広がり、炎を巻き込んであっという間に収束した。

 人がいる、とフランクが認識できたのは、部屋の中で起こっていたなにもかもがすっかり鎮まり、光の収束した先にいた影からぎらん、と敵意にまみれたクロムイエローを向けられた、その瞬間だった。

 

「いやもうめちゃくちゃ渦中じゃん」

「うっわ台無しですよ……もっとかっこいいこと言えないんですか?」

「はァ?拙者とてめちゃくちゃ頑張ったんですが?カードだけじゃ転移しきれなくて、魔法使って補助までしたんですが?」

「そんな遠いんですかここ……」

 

 イデアは指の一振りでドクロ型のガジェットを取り出し、アズールの拘束を解いた。それから、服に滴っていた酒や氷の雫も、魔法で払ってしまう。

 

「ありがとうございます。このお酒、正直薬臭かったので助かりました」

「えっそれ大丈夫?口とか目とかに入ってない?」

「大丈夫です。ご心配おかけしました」

「いやほんと、本当にさあアズール氏……いや、ちょっとこの話後でにしよう。逃げないでね、僕ちょっと怒ってるからね。で、目の前のこの今にも穴という穴から汁垂れ流しそうな男が犯人でよろしい?」

「よろしいです」

「はいはい」

 

 ぐりん、と人外じみた動きで振り返られたフランクは、自分がグラスを取り落としたことにも気が付いていなかった。目も口も、驚愕に限界まで開かれている。一歩、また一歩とイデアが近づいてくるのに、ようやく少しばかりの正気を取り戻したのか、慌てて椅子から立ち上がろうとした。

 できなかった。

 体はべったりと座面に張り付いていた。革靴の底は、なにか、見えない力で床に縫い留められていた。

 じろじろと無遠慮にもたらされる視線は鉱物めいた冷たさで、冷や汗がどうっと溢れ出していく。人だ、と姿かたちだけで認識したけれど、本当に目の前の存在が人なのかどうかすら、わからなくなっていた。

 

「あのさあ」

「は、」

「きみが人身売買しようがクスリやろうが生徒に犯罪の片棒担がせようが、僕に被害が来ないならいいよ。でもさあ、アズール氏は駄目だよ。だって僕に被害が来るからね。なんでこの子に目を付けちゃったかなあ……たかが一生徒、一人魚って思ったのかもしれないけどさあ。ねえ、わかる?」

「な、なに、を」

「わっかんないかあ……あぁあ、これだから馬鹿は嫌いだ。ねえアズール氏、こいつどうしたらいいの」

「イデアさんにお任せします」

「フヒッ、そりゃどうも」

 

 白い手が、死角からぬうと伸びてきた。頬を包み込む指の、あまりの冷たさに心臓が痛いほど鳴る。さっきまであれだけ饒舌に喋っていたというのに、上からフランクを覗きこんでくる顔は、一切の表情が抜け落ちていた。

 いっそ幻想的な美しさの青い炎が灯る。冷たい炎だ。それはただフランクの足元を包み、体中を舐めるように這いずっている。これだけの大きさの炎に包まれているのというのに、体の奥、もっと深い部分までひんやりと冷え切っていく。ひい、と漏れた声は引き攣っていて、その音すら飲み込んで炎は大きく育っていく。

 

「……一生かけて、後悔しろ」

 

 イデアの静かな、確かな怒りの声を合図に、炎は一気に膨れ上がった。フランクの影を飲み込み、全身を飲み込み、大きく、大きく膨らんでいく。眩しさに閉じようとしたまぶたは、悴んだように動かなかった。視界が炎に飲み込まれていく。意識もろとも、全てが青く染め上げられていく。

 ぶつん、と途切れるようにして、フランクの意識は燃え尽きたような黒に塗りつぶされた。冷たく、深いところへと落ちていく。

 

 イデアがようやっと手を離したころには、フランクはだらりと力なく手足を投げ出し、目を見開いたまま意識を失っていた。

-8ページ-

 

「で、結局ここどこなんです」

「輝石の国」

「糞野郎の地元じゃないですか……。畜生、もう少しスマートに事を済ませるはずだったのに」

 

 アズールのマジカルペンや貴重品は、邸内の別の部屋に捨て置かれていた。無くなっているものがないかを確認し、建物を出る。

 外観はオフィス、というには洒落た見た目をしていた。アズールが閉じ込められていたのとは別の部屋は、壁の一面が窓になっている。人目のない、うっそうとした高台に作られているからこその構造だ。

 アズールとイデアが高台を折り始めたころには、外はすっかり暗く、肌寒さを感じるほどの気温になっていた。月がこれだけ冴え冴えと輝いているのも、空気が冷えているからに違いない。

 

「アズール氏、あれいいの?商談してたんでしょ」

「ああ、あれはいいんです。僕が取引しているのは別の方ですから」

「は?」

 

 のそのそとアズールの後ろを着いてきていたイデアの足が、思わず止まった。二、三歩先で、アズールも足を止め、振り返る。なにがそんなに問題なのか、とでも言いたげな顔に、イデアは目線だけで説明を促した。

 

「僕が取引をした会社からのお願いだったんですよ。あの男を潰せってね。表向き食品の輸出入とかほざいてましたけど、食品と銘打った人魚やら獣人やらを薬漬けにして売り飛ばす、とんでもない悪徳商人ですからね。しかも詰めが甘いときた。だれが好き好んであんなのと取引しますか」

「い、いやいやいや、それ依頼してくる会社もやばいよね?」

「こんなに大事になる予定じゃなかったんですよ。それに、卒業後の足掛かりまで作れそうだったので」

 

 すみません、と謝った声は、まるきり口先だけだった。反省の色などどこにも見当たらない。

 

「あの二人に詳細を話さなかったのは」

「内通者がいたからでしょ。聞かれたらまずいから。拙者が調べてジェイド氏にリスト渡しておいたから、今頃全員ギュギュッと絞められちゃってるんじゃないですか」

 

 歩き出そうとした姿勢のまま、アズールは勢いよく振り向いた。長時間の拘束のおかげで、いまひとつ言うことを聞かない四肢が、よたりとバランスを崩す。慌てて近づいたイデアがその体を支え、それから大きくため息をついた。

 

「アズール、あのさあ」

「はい」

「君が優秀なのもひとりでなんとかできちゃうのも、計画に不備なんかまずないだろうことも、自分の商品価値を貶めるようなことをしないってのも全部知ってるけどさあ」

「光栄です」

「アズール」

「ごめんなさい」

 

 殊勝なお返事だ。その真剣な響きに免じて、イデアは口を挟んだことだけは許してやろうと思った。

 

「でもさあ、心配するんですよ、こっちは。君が危険な目にあってるってわかってて、それで動かないでいるのとか無理なんだよ。拙者好きな子にはかっこつけたいタイプなので」

 

 滔々と語って聞かせた言葉に、アズールは邪気なく目を瞬かせた。そういえば眼鏡どこ行ったんだろうな、とイデアは今更になって気が付いた。

 

「……好きな子の前で、かっこつけたいタイプなのは、知りませんでしたね」

「僕も君とオツキアイしてから知ったので。なので、あのねえ、せめてこれからなにするとかどこ行くとか、そういうの誰かしらに何かしらの手段で伝えていってくれませんかね。主に拙者に、主に!拙者に!」

「だって危険なことに巻き込みたくないじゃないですか」

「それは僕も同じだって発想に辿り着いてほしかったんだよなあ」

 

 イデアの腕に縋りつくようにしながら、なんとかふたりで歩調を合わせて歩き出す。ひらけた場所にさえ出られれば、学園側と連絡を取れるからあとはどうにかしてもらおう、とのことなので、アズールはその提案に甘えることにした。

 

「もしかして、結構心配をかけましたか」

「めっちゃくちゃに。心臓潰れるかと思った。あとジェイド氏に喧嘩うっちゃって、それでも心臓潰れるかと思った」

「なんで僕がいない間にそんな楽しそうなことするんです?」

「君がいなかったからやっちゃったんだが?」

 

 ぽふん、と頭の上に置かれた手のひらが、アズールの髪をかき混ぜていく。イデアにしては雑な所作だ。目に見えて衰弱しているのはアズールの方だが、イデアもまた疲れ切っていた。なにせ、朝からずっと働きっぱなしなのだ。一日の活動限界は、とうに超えていた。

 

「そういえばイデアさん、最後のアレ、なにしたんですか」

「アレ?」

「炎が広がって、気付いたらあいつの意識が無かったので」

「あ〜……あれはね、うん、ちょっと魂の端っこ焦がしちゃったかなって。ていうかアズールこそ放置でよかったの?警察とか」

「焦がす……?ああ、戻ったら諸々の証拠を報道機関と警察に投げる予定でいますし、ほらこれ」

「んん?」

 

 アズールが胸元をごそごそとやったかと思えば、銀色の、小さなタイピンを取り出した。一見普通のタイピンだが、イデアの目には別物として映っていた。

 

「……録音?」

「そう!流石イデアさんですね。証拠が足りなければこれを提出しようかと」

「えっなんで僕以外の人間が作ったガジェット使ってるの信じられない。誰作?」

「嫉妬するところがおかしいでしょう。ネットで買いました」

「もっと高性能なの作るからそれはポイして」

「全部終わったらそうします」

 

 しばらく軽口を交えて歩き続けていると、ようやくひらけた場所へ出てきた。長いこと歩いていたような気がするが、イデアとのやり取りのお陰で随分と心身ともに落ち着いていた。アズールはとりあえず、むき出しの土の上に座り込んだ。イデアはその間に助けを呼ぶことにしたようだ。

 猫背のままスマートフォンを耳に当て、何事かを話しているイデアをぼんやりと見つめる。

 アズールの立てた計画ではカードから飛び出してくるのはジェイドか、フロイドのはずだった。計画は随分と狂ってしまったが、湧き出してくる青い炎を見た時、アズールは言いようのない安堵を覚えていた。この人が来たのならば、もう大丈夫。その安心感は、決して根拠のないものではない。

 なんとか通話を終えたイデアが、疲れ果てたように自分も地面に座り込んだ。丸い背中を、青い髪が滑り落ちていく。ほとんど無意識のうちに、アズールは手を伸ばし、その髪に触れていた。夢のなかで散々手を伸ばした青が、今は自分の手の中にある。それがどうしようもなく、嬉しかった。

 

「僕イデアさんのことすごく好きみたいです」

「わあ」

「なんですその反応」

「いや、あの、不意打ちするから……あ、あと十分くらいしたら、鏡が現れるからそれくぐって来いっ、って」

「どうしました」

「いや、な、んで距離を、詰めて」

 

 ずい、とアズールが前に出ると、イデアがその分後ろに下がる。何度かそうしたやり取りを繰り返し、イデアが観念して止まったところで、アズールは口を開いた。

 

「キスしてくれませんか」

「唐突だなあ?!」

「だってハッピーエンドはキスで終わるのが定石でしょう。僕はあなたに助けてもらったし、無事学園に帰ることができる。めでたしめでたし、で終わるためにも、キスが必要だと思うんですよ」

「アズール氏それ全然理論になっていないのですが」

「キスするのに理論が必要だなんてはじめて知りました」

 

 イデアは顔は勿論、耳も首も真っ赤に染めて、毛先は赤く燃え盛っていた。照れているのはわかっていたが、アズールも譲るつもりはない。奇しくもアズールを迎えに行く前のイデアに、ジェイドはほとんど同じことを言っていたのだが、当然アズールが知る由もなかった。

 

「ほら、イデアさん」

「ちょ、せかされると照れるから」

「鏡が出る前に、ほら」

「う、うんん」

 

 覚悟を決めたイデアの、温度の低い手がアズールの肩にかかった。その温度に、安堵と少しの緊張が湧いてくる。

 転移のための鏡が現れるまではおおよそ十分。それまで、キスを待ち続けるのも悪くないな、と柄にもないことを考えながら、アズールはそっと目を閉じた。

説明
※2020/07/03にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです

計画的に誘拐されるアズールとその周辺の人々。
・名前ありのモブ、イデアズ以外のキャラクターがかなり登場します。
・軽度の暴力描写があります

!再録と書き下ろし加えて本にしました。!
https://www.melonbooks.co.jp/fromagee/detail/detail.php?product_id=1165779
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