恋と呼ぶにはあまりに
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 年中涼しい賢者の島も、八月ともなると随分暑くなる。もっとも、魔法による空調で温度の保たれた寮内では季節を感じることはまずないのだけれど。

 帰省するときにすら使わない、大型のキャリーバックに必要な服を詰め込む。興味もないし、大して持っていないと思っていたけれど、取り出してみると案外量があるのだから驚きだ。研修先で着る服はキャリーバックへ、それ以外は実家行きの箱の中へ。

 

「……こんなもんかな」

 

 なんとかキャリーバックの蓋を閉め終え、立ち上がる。床に積み上がったいくつかの箱。ゴミの詰まったビニール袋。紐でひとまとめにした雑誌や教科書。燃えるゴミはあとで燃やしてしまうし、実家に送るものは屋敷に転移するよう魔法をかける。古紙類は寮の前に出しておけば、回収されるはずだ。やることを頭の中で整理して、残したものがないか、部屋の中をぐるりと見渡す。

 明日、僕はこの寮を出ていく。

 出席日数ぎりぎりではあったが、なんとか四年生に進級することができた僕は、輝石の国にある、魔導工学の研究所で技術研修を受けることが決まっている。寮にはもう、ほとんど帰ることもないだろう。

 長期休暇は実家に帰ることになるし、研修とはいえ技術力を見込まれているのだろう、即戦力として期待されているから、そうそう学園にも戻ってくることはなくなるはずだ。

 弟は研修先に連れていく。今までのように自由に生きてもらうことは難しくなるかもしれないけれど、オルトのいない生活は考えられなかった。今はとりあえずスリープモードにして、彼専用の寝台に入ってもらっている。

 

「よし」

 

 燃えるゴミの入ったビニールの口を縛って持ち上げ、古紙は魔法で浮き上がらせる。明日には去る自室とはいえ、一年間お世話になった我が城だ。外に出るのは最小限にしたかった。

 ふわふわと浮き上がる古紙が、歩きなれた廊下を先導する。途中すれ違う後輩たちにおっかなびっくり一礼し、談話室を抜け、外へ出る。夏だというのにひやりと冷たい霧が立ち込め、相も変わらず不気味な雰囲気の寮だ。ここを見るのもほぼ最後になるのだと思うと、感慨深いような気がしてくる。

 古紙を玄関口に置き、ゴミの袋を抱えたまま、寮から離れた空き地に向かう。なぜか一年通して咲き続けている水仙の群生地を抜け、適度にひらけたところに袋から出したゴミを置いた。

指を一振り。ドクロ型のデバイスが炎を吐き出し、あっという間に燃えるゴミが青い火に包まれていく。僕はそれをぼんやりと眺めては、柄にもなく学園での生活を振り返っていた。いよいよ離れるにあたって、なんとなく寂しいような気分があったのもたしかだ。

 

「あなたの炎が、この世の何よりも綺麗だと思います」

 

 ごう、と燃える火の中に、その声が聞こえたような気がして、僕はゴミの入っていた袋を、構わず握りしめた。不敵な笑み、銀の髪。僕は彼を、思い出ごと学校に置き去りにしていく。

 

 *

 

「イデアさんの思う綺麗なものってなんですか?」

「まぁた唐突に。そうやって拙者の集中力を欠こうとしたって無駄ですぞ」

「そんなんじゃありませんよ」

 

 アズールの手の中から放られたサイコロが、ころりと机の上を転がる。3の目で止まったそれは、きっと狙い通りだったのだろう。満足気に駒を進め、さあどうぞ、と目線で急かされる。

 

「ただほら、あんまり何かを褒めるところを見ないので」

「そう?そうだっけ……そんな気がしてきた……」

「だから、何なら褒めるのかな、というところからでてきた質問ですね。というかイデアさん、なにかを綺麗だと思うことあります?」

「拙者にもあるわい」

 

 サイコロを振る。出た目は5だ。いち、に、と心の中で数えて駒を進める。

 

「そうだなあ……」

 

 綺麗なもの、と言われても、たしかにすぐには出てこない。そ、と視線を正面に向けると、アズールはゲームそっちのけで僕の顔を興味津々に覗き込んでいた。

 

「そんな見られると回答しづらいんですが?」

「おやすみません。顔でも隠しましょうか」

「いいけどさあ……ううん、例えばなんだけど、エラーもなく、綺麗に無駄なく書かれたコード、とか、機械のさあ、継ぎ目のないつるっとした曲線とか、……あのさ、アズール氏、なんか言ってよ」

「いえ……」

 

 いえ、と繰り返して、アズールは途方に暮れた様な顔をしている。どうせ、僕からこんな表現が出てくるとは思わなかったとか、そういう失礼なことを考えているのだろう。僕だって、口を開いてすぐ、こんなするすると言葉が出てくるとは思っていなかった。

 

「……いいですね、そういうの」

「はあ」

「好きなものを好きだと、綺麗だと思えるの、いいですね。イデアさんにもそういう感性があると知れたのは大変な収穫です」

「えッ拙者なんだと思われてたの」

「人間」

「そう……ですけど……?」

 

 そうだけど、そういうことではない。アズールがこういう、訳の分からないことを言い出すときは、大抵話を強制終了させようとしているときだ。煽り倒して会話を続けるという選択肢がないわけではないけれど、気は進まなかった。

 ここ最近はいつもそうだ。核心を避け、けれど当たり障りがないというには刺激的な言葉の応酬をする。芯のない、すっきりとしないやり取りが多くなっていた。それを嫌だな、と思う気持ちが無いわけでもないが、どこか安心したような気分になるのも事実だった。触れてほしくない核心なんて、心当たりもないのに。

 

「アズール氏のさあ、」

「はい」

 

 サイコロを転がす。出た目は2だ。ち、と舌打ちが聞こえて、珍しくも狙いを外したらしかった。

 

「君の思う綺麗なものって、なに」

 

 かつ、と厚紙に当たる駒の音が、やたらに大きく聞こえた。会話をするにしては奇妙なほど長い沈黙が落ちる。

 しくじった、と思った。避け続けていた核心に、無遠慮に触れてしまった実感があった。あっという間に噴き出した汗が、べたべたと冷たく皮膚の上を這いずるように落ちていく。

 

「あー、いや、答えなくても」

「僕は」

 

 震える声に制されて、喉の奥が引き攣った。

 

「あなたの炎が、この世の何よりも綺麗だと思います」

 

 手の中で弄んでいたサイコロが、いつの間にか床に落ちていた。組まれた指。伏せられたまつげが震えるのすら見えるようだ。懺悔をする人、というのは、きっとこんな姿をしているのだ。

 開け放った窓から風が吹き込む。アズールの、銀の巻き毛がふんわりと揺れている。それがこの世のなによりも綺麗に見えたことを、多分僕は一生忘れられないだろう。この学園で過ごす、最後の部活動の日のことを。

 

 *

 

 燃え盛っていた火はいつのまにか小さくなり、灰を残すだけになっていた。じんわりとこめかみを濡らす汗は、暑かったからではない。伸ばしたパーカーの袖で拭って、僕は霧の中で立ち尽くしている。

 正しく先輩と、後輩だったはずだ。最後まで、そうありたいと願って、そう行動してきたのだから。だからなにも後ろめたく思う必要なんてないはずなのに、胃の奥底に黒く凝り固まったままの罪悪感は消えてくれない。消えることはないだろう。わかっている。わかっていて、僕は気がつかないふりをしている。

 いい加減部屋に戻ろう。

 霧の奥、寮に向かって一歩踏み出した瞬間、向こうからゆっくりと人影が迫ってくるのが見えた。長細い影、獰猛な気配。もしかしてここが墓場になるのかな、なんてろくでもないことを考えながら、僕は足を止めた。

 

「どうしたんですか、イデアさん。まるで死刑囚のような顔をして」

 

 鈍い金を物騒にきらめかせて、霧の中から現れたジェイド・リーチは僕の前に真っ直ぐ立ってみせた。

 

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「どうしたんですか、イデアさん。まるで死刑囚のような顔をして」

 

 いつも白い顔をより白くして、けれど驚くことに目線は逸らさず、イデアさんは唐突に現れた僕のことをじっと見つめていた。

 

「どうもこうもないでしょ」

「察しが良くて助かります」

「……拙者に用事、でいいんだよね?」

 

 卑屈に細められた瞳が、じっくりと僕の気配を探っている。別段彼をどうこうしよう、という気持ちがあるわけではないのだけれど、あちらはそうは思っていないらしい。折角だから威嚇のひとつでもしてみせようか、という気分になったところで、イデアさんは深く息を吐き出し、張り詰めた気配を緩めてしまった。

 

「そうですね。立ち話もなんですから、お部屋に招いていただいても?」

「それ拙者の台詞では?」

「まあまあ。ほら、早く」

「ウツボこわ……」

「怖い生き物ですよ。海のギャングですから」

 

 引き下がる気は無い。彼もそれを感じ取ったのか、背を丸めたままふらふらと寮まで先導してくれた。

 足元に白い霧が絡みついて、それがどうにも不快で仕方がない。イグニハイド寮に訪れたことは幾度もあるが、どうにも雰囲気が合わないのだ。底冷えするような冷たい気配は、単純に温度だけの話ではないだろう。

 

「で、なに、話って」

「おや、てっきりわかっていらっしゃるのかと」

「全然。ジェイド氏が、僕に用事があるんだろうなってことは、なんとなく」

「おやおや」

「おやおやじゃないんだよなあ……」

 

 談話室に屯していたイグニハイド寮生たちが、わらわらと姿を消していく。まるで逃げ惑う小魚だ。面白い光景だけれど、それに割く時間がないのが惜しかった。

 暗い廊下にいくつものホログラムディスプレイが青く光を放っている。表示されている内容は、なんとなくわかるものもあれば、さっぱり理解できないものもあった。それらをひとつづつ検分できるくらいには、前を行くイデアさんの歩みは遅かった。

 寮内の一等奥まったところに、彼の部屋はあった。うっすらと響く、機械の駆動音。余程聴力が優れていないかぎり聞き取れないだろう。扉は滑るように開き、まずは主が入室した。手招かれるのに従って、僕が。

 部屋の中は実に閑散としていた。家具は元の備え付けのものしかなく、この後出す予定だったのだろうゴミの袋がいくつか。部屋の中央に、鮮やかなブルーのキャリーバックが鎮座している。

 

「座る場所もないけど」

「お気になさらず」

 

 イデアさんはベッドの縁に腰かけ、僕は床に座り込んだ。ぎょっとした彼がクッションを取り出そうとするのを制し、微笑みかける。途端にましになっていた顔色を青ざめさせるのだから、まったく警戒されたものだ。

 

「イデアさん、アズールとなにかありました?」

「……どうせそんなことだろうと思ったよ」

 

 嘲る、というのがふさわしい口ぶりだ。ついでにひとつ鼻も鳴らし、膝に置いた手をがっちりと組み合わせた。

 

「ないよ。なんも」

「ない」

「なんにも起きないように振舞ったんだから、ないよ。君のユニーク魔法でも使ってみる?」

「いえいえ」

 

 この人の嘲りは、イコール苛立ちだ。自分の思考についていけない、彼基準にしてみれば馬鹿な奴ら、を嘲笑し、ついてこられないことに怒りを覚える。天才とは難儀なものだ。一瞬片割れの顔が脳裏を過り、そんなことをおくびにも出さずに微笑みを作り直した。

 

「ならいいのです。先日、最後の部活だと随分楽しみにしていたようだったのに、帰ってきたアズールの様子がおかしかったので」

 

 びくん、とあからさまに肩が震えた。いい人だ。わかりやすくて、怖がりで、揺さぶりのかけ甲斐がある。

 

「様子が」

「ええ、帰ってくるなり自室に閉じこもってしまって。強引にでも入ってしまおうかと思ったのですが……」

「しなかったんだ」

「流石にプライベートというものがありますから。それにどうも……泣いている、ように聞こえたので、勝手に入室するのは無粋かと」

「泣いてる?」

 

 ほとんど伏せられていた顔が、勢いよく上げられた。ぎょろりと驚きに開かれた目が、雄弁に詳しい説明を求めている。

 

「扉越しに聞いただけですから、何とも言えませんけどね」

「あ、そう……」

 

 本当にわかりやすい人だ。それ以上の情報がないとみるや、驚くほどの速度でもとの体勢に戻ってしまった。ただし、その顔色だけは依然青いままで、それだけでもイグニハイド寮に足を運んだ価値があったと思わせられる。

 

「イデアさんが原因でないのでしたら、他になにかあるのでしょう」

「……だと思うよ」

「そうですか。では僕はこれで」

「それだけ?」

「ええ」

 

 では、と告げて立ち上がる。目の前の扉があっという間に開いて、廊下への道を指し示した。

 扉を出る直前、軽く一礼をし、退出する。音の一つもなくぴっちりと閉められた扉を見ているうちに、腹の底から笑いがこみ上げてきて仕方が無かった。

 僕が他の原因を仄めかしたときの、あの瞳の輝きといったら、ちょっと他に代えがたいものがあった。自分以外の原因があるなんて夢にも思わない、当たり前に自分が傷つけたのだと思い込む傲慢な輝き。僕はイデアさんの、そういう無意識な驕りが中々に嫌いではない。きっとアズールだってそうだろう。

 嘘はついていない。様子がおかしかったのも、部屋に閉じこもってしまったのも、全てが本当のことだ。泣いていたように聞こえたのだって、僕が無粋だからと部屋に立ち入らなかったことだって、本当だ。ただし、片割れは躊躇せずに預けられた鍵を使って入室していたが。

 来訪の目的は、イデアさんがいいように解釈してくれたので、わざわざ説明はしなかった。アズールへの心配があったことは否定しないが、一番の目的は彼の動揺した姿をみることだ。できることなら、あの日に起こったことの顛末を知っておきたかったが、この様子じゃあ難しいだろう。

 廊下を通り、談話室を抜け、寮の出口に立つ。先ほど逃げ惑っていた小魚たちに視線をおくり、震えたところで扉を開けた。濃い霧だ。本当に、この霧だけはどうも好きになれない。

 鏡舎に向けて歩くうち、彼の弟には会わなかったことに気が付いた。少しばかり残念なような気もする。あの朗らかさは、この薄暗く湿った寮において、一種の清涼剤だ。ふわふわと飛びまわる機械の体。幼く甘い声。僕は、あの素直な子供のことをそれなりにかわいがっていた。きっとイデアさんとこの学校を出ていくのだろうから、最後に一言ぐらい、交わしておきたかった。

 水面のような鏡をくぐり、鏡舎に戻る。知らず詰めていた息をほう、と吐き出した。どうやらあの霧に、柄にもなく緊張させられていたらしい。

 今日はラウンジのシフトも入っていないし、と、僕は植物園に足を向けた。暖かい、というより暑い気温のなか、あそこは一定の気温に保たれているので比較的過ごしやすい部類だ。

 ふ、と幼く甘いあの声が鼓膜を揺らした気がして、思わず周囲を見回した。勿論声の主が居るはずもなく、石造りの廊下はしんと冷えて静かなままだ。これは僕の、ただの記憶に過ぎない。いつかもこうして静かな廊下を、たまたま行き会ったオルトさんとふたり、話をしながら植物園に向かったことがあった。

 あの時、一体何の話をしていたのだったか。思い返しながら、柔らかな絨毯を踏みしめる。

 学校のこと、教師のこと、生徒のこと。それから、そうだ、お互いの家族の話をした。機械だとは思えないほど、柔らかく、悪戯っぽく笑っていたのを思い出す。

 

「兄さんはね、アズールさんのことが大好きなんだ」

 その時になってはじめて、僕はオルト・シュラウドという生き物のことを恐ろしいと思ったのだ。

 

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「兄さんはね、アズールさんのことが大好きなんだ」

 

 僕は内緒だよ、と笑った。だって、兄さんはそのことをきっと誰にも言っていないのだ。

 たまたま廊下で行き会ったジェイド・リーチさんは、目を大きく見開いて、心拍数を一瞬だけ上げた。表情はすぐにもとの状態に戻ったけれど、一瞬上がった心拍数だけは。わずかに早いままだ。

 

「……それは、どういう理由から出てきたんでしょう」

「アズール・アーシェングロットさんの話をする兄さんの心拍数は、いつもの1.25倍にもなるんだ。体温も上がっているし、」

「あ、なるほど。データですか」

「うん」

 

 なるほど、と納得したように頷いたジェイドさんは、ひとしきり考え込んで、それからにっこりと笑って見せてくれた。

 

「オルトくん」

「なあに?」

「それはね、決して他の誰かに言ってはいけませんよ」

「勿論だよ。本当はね、誰にも言うつもりは無かったんだけど。でもジェイドさん、あんまりお話が上手だから」

「光栄です」

 

 廊下にはひとりぶんの靴音が響いている。僕も隣に並んで同じように足音を立ててみたいけれど、この姿にはいまだに足をつけてくれない。開発自体はできているから、僕に歩くという行為をしてほしくないだけなのだろう。兄さんは、僕のことを弟としてかわいがってくれるけれど、人としては扱ってくれない。

 

「僕も廊下を歩きたいなあ」

「お兄さんに頼んでみては? もしくは、お力をお貸ししましょうか」

「ううん」

 

 僕だけのお願い、ではきっと願いは叶えてもらえないだろう。けれど、ジェイドさんがいればどうだろう。少し考えて、やめた。聞いてくれるかもしれないけれど、それは兄さんの優しさではなく、彼や、双子であるフロイド・リーチさんへの恐怖だろう。

 

「やめておくよ。でも、ありがとう。ジェイド・リーチさんは優しいひとだね」

「おやおや」

「違った?」

「僕としては優しくあろうと生きているつもりなのですが、あまり理解されないので」

「そうなんだ。こんなに優しいのにね」

 

 きょとり、と目を見開いたジェイドさんが、高い所を飛んでいる僕をじっと見つめる。その瞳が、いままで見たことのないような色をしているから、僕は分析するように見返した。これはいったい、何と呼ばれる感情だろう。

 

「オルトくんは、」

「うん」

「……素直な、いい子ですね」

「ありがとう!」

 

 僕が褒められると、兄さんのことも褒められているようで嬉しくなる。ジェイドさんは未だに瞳を見たことのない色にしているけれど、あまり詮索しすぎてはいけないよ、と言われているから気にしないことにした。僕の中にある様々なデータに照らし合わせてみれば、きっと正解は見つかるだろう。けれどそれは、時としてとても失礼なことになる。

 

「ところで僕はこれから植物園に行こうと思うのですが、オルトくんはどうされますか」

「僕は……」

 

 もとはといえば、ボードゲーム部に顔を出そうかと思っていたのだ。最後だし、兄さんや、アズール・アーシェングロットさんと遊べるのもこれで最後になるだろうから。

 

「もしかしてボードゲーム部に向かう途中でしたか」

「そう思ってたんだけど……」

「ええ」

「最後くらい、ふたりにしてあげた方がいいのかなって」

「おやおや」

 

 鏡舎を抜け、いつの間にか僕たちは植物園につながる橋まで来ていた。この先にあるのは、魔法薬学室と植物園、あとは監督生さんの住んでいるオンボロ寮だけだ。ジェイドさんは、僕の回答を待つようにじっとその場で立ち止まっている。

 

「……ふたりきりには、しない方がいいと思いますけどね」

「え?」

「いえ、こちらの話です。それで、どうします?」

 

 ぽつりとつぶやかれた言葉は、僕の耳には届かなかった。彼の声は低く響くから、意図的にひそめられると集音するのが難しいのだ。

 橋と、もと来た道とをなんどか見比べて、僕は引き返すことに決めた。

 

「僕はもう少し校舎の方をお散歩してくるね」

「そうですか。では、ああオルトくん」

「うん?」

「もしかしたらご挨拶もこれが最後になるかもしれないので、どうかお元気で」

「うん、ジェイド・リーチさんも、元気でね」

 

 もう少しお話をしていたいけれど、もうこの学内を見て回れる時間も少ないのだと思うと、ゆっくり散歩するのも悪くない。僕が手を振ると、手を振り返してくれる。そういうところが優しいな、と思う。彼が色々な人から怖がられているのは知っているけれど、怖いだけの人ではないのだ。多面体、僕の中ではそういう人だ。

 ふわふわと浮かびながら鏡舎の横を通り、購買部の前を抜ける。この学園は広大だ。いつも部屋に閉じこもっている兄さんには、ちょっとした移動でも大変だっただろう。メインストリートが見えてきたところで、木の影に見覚えのあるターコイズブルーが見えた気がして、思わずそこで停止した。

 

「……あれ、クリオネちゃんじゃん」

「フロイド・リーチさん、こんにちは」

「こんにちは。こんなとこでなにしてんの?」

「お散歩中だよ」

 

 頭のあちこちに落ち葉をくっつけて、フロイド・リーチさんはのっそりと木の間から這い出してきた。きっとお昼寝をしていたのだろう。動作もいつもよりのんびりとしている。

 

「オレはねえ、お昼寝してた」

「頭に葉っぱついてるよ」

「うええ」

 

 ぐしゃぐしゃと無造作に髪をかき混ぜるものだから、ついていただけの落ち葉は余計に髪に絡まってしまっていた。見かねた僕が近付くと頭が差し出される。見た目はそっくりなのに、ひとつひとつの動作がなんとなく可愛らしいような気がするのは、フロイドさんの方だ。

 

「取れたよ!」

「あんがと。クリオネちゃん、部活でも顔出すの?」

「ううん、そっちは最後だから、ふたりにしておこうと思って」

「……ふうん?」

 

 今の今まで柔らかかったフロイドさんの瞳が、すう、と細められる。そうされると妙に冷たく見えるので、僕はあまり好きじゃない。

 

「いいけどさあ、あのふたりだけにしとくと碌なこと起きねーよ」

「えっ」

「ええ?」

「そうかなあ……」

「そうだって、クリオネちゃんのオニーサン、絶対死にそうな顔して帰ってくるから、ちゃんと慰めてあげてね」

 

 そうかなあ。

 もう一度繰り返して、僕は遠くに見える校舎を見上げた。兄さんとアズールさんが仲良くしてくれるのなら、それは大変嬉しいことだ。きっと仲良くゲームをしていることだろう、と僕は思っているけれど、フロイドさんには違うものが見えているのだろうか。

 

「ねえフロイド・リーチさん」

「んん?」

「なんで兄さんが死にそうな顔して帰ってくることになるの?」

「うーん」

 

 靴音が高く響く。石畳の道に、暑い空気の中に硬い音はいくつも消えていく。フロイドさんがこめかみに流れる汗を拭って、じい、と僕のことを見つめている。

 

「なんかさあ、こういうの本人がいねーところで話すの、あんまりよくないんじゃね」

「あ、」

「わかんないけど。アズールとか、ホタルイカ先輩とか、そういうの嫌がりそう」

「そっか……」

 

 それはそうだ。当たり前だ。特に兄さんは、自分のあずかり知らないところで自分の話をされるのを、特に嫌がるから。それが嘘でも本当でも、褒めていても貶めていても、すべて自分が嘲笑されているのだと思い込んでしまう。

 

「まいっか」

「えっ」

「あれ、やっぱいらない?」

「えっ、あ、ううん……兄さん、嫌がるかなあって」

「そっか」

「うん」

 

 こん、と硬い音がした。フロイドさんが石を蹴った音だ。メインストリートの向こう側に消えて、見えなくなっていく。

 

「……そんなかわいーもんじゃないと思うけどね」

 

 果たしてフロイド・リーチさんの言った通り、その日の夜、兄さんは死にそうな顔をして部屋に閉じこもることになるのを、この時の僕はまだ知らなかった。

 

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「……そんなかわいーもんじゃないと思うけどね」

 

 そう言ったことを思い出したのは、アズールが帰ってきてベッドに突っ伏して、延々呪いみたいな泣き声を吐き出しているときだった。

 タオルと、スポーツドリンクを何本か。それだけを持って合鍵を使って入ってきたオレを、アズールは追い出すこともしなかった。視界に入っているのかも怪しい。延々顔をベッドに埋めていてなんにもできないから、結局空いた椅子に座って、銀の髪がぴょんぴょんと跳ねる後頭部を見守っている。

 

「アズールさあ、」

「うるさい」

「勝算ないって自分で言ってたくせに、なんで最後の最後で自爆してくるわけ?」

「うるさい!」

 

 ぶん、と投げられたクッションを難なく受け止めて、抱え込む。ふかふかだ。ところどころ湿った気配があるのは、もうこの際気にしないことにする。

 

「知らないけど、どーせアズールのことだから計画だって立ててたんでしょ? じゃあそれでよかったじゃん。なんでそんなになってんの?」

「お前になんかわかるものか」

「そりゃアズールが話してくんなきゃわかんないでしょ。オレら別の生き物なんだから」

 

 引き攣った息を漏らして、アズールが顔を上げる。いつも念入りにセットしている髪の毛はぐちゃぐちゃだし、涙と汗で皮膚にぺったりと張り付いている。赤くなった顔。目は充血しきっているし腫れているし、本当にひどい有様だった。

 

「イデアさんが言ったんですよ」

「うん?」

「君の思う綺麗なものはって」

「うん」

「ゆるされたのかな、と思うじゃないですか」

「ううーん……」

 

 その辺の微妙なラインは、残念ながらオレにはさっぱり理解できない。理解できないけれど、アズールなりになにか思うところがあったのだろう。

 

「まあ適当に流されましたけど」

「そっかあ」

 

 そりゃあ残念だったね。

 そういう思いを込めてスポーツドリンクを手渡したら、アズールは殆ど全部を飲みきってしまった。一本だけじゃなくて、何本も持ってきていてよかった。そのままタオルも手渡して、顔を拭くよう促してやる。

 いつもなら、こんなカッコ悪いところを見せたアズールで遊んでやるところだけれど、今日ばかりは流石に駄目かな、と思ったのでやめた。オレは偉い。きっとあとでジェイドだって誉めてくれるはずだ。カッコ悪いのはそうだけれど、心底から傷付いているところに指をねじ込んで傷を抉りだすようなことは、流石のオレだってやらない。だってそんなのは楽しくないから。

 

「アズールはさあ」

「はい」

「先輩のこと好きだったの?」

 

 沈黙。それから、アズールが二本目のペットボトルを開ける音がした。飲み込んで、また沈黙。オレが段々と暇を持て余してきたころになって、ようやくアズールは口を開いた。

 

「わかりません」

「はあ?」

「でもあのひとが他の誰かのものであることに、我慢がならない」

「また欲張りなこと言ってる」

「考えた結果そうなったんです」

 

 ちょっとだけ落ち着いたような口調で、アズールは続ける。ベッドに座り直して、壁に背をあずけて、眼鏡を外した瞳はぼんやりとどこか遠いところを見ている。

 ほらやっぱり、かわいいものじゃなかった。柄にもなくため息なんてついて、あまったスポーツドリンクを飲み込んだ。ぬるい。甘い。あんまりおいしくなくて一口でやめた。

 大体アズールが抱く感情が、そんなにかわいらしいものであるはずがないのだ。どうでもいいか、どろどろしてるかの二択だ。今回は随分どろどろしていたようだけれど、本人はここに至るまで気が付いていなかったらしい。

 

「あのひとが他の誰かのものになるのを考えただけで腸煮えくり返りそうなんですよ」

「ふは、すっげーこというじゃん」

 

 アズールの、偽物の体の中に行儀よく収まっている偽物の腸が煮えくり返るところは、正直ちょっと見てみたい。

 

「でも好きかと言われるとわかりません」

「そっか」

「これ好きなんですかね?」

「しらね」

 

 そんなのオレが知るわけがない。アズールももう、何が何だかわからなくなっているんだろう。ず、と鼻を啜りながらスポーツドリンクを飲んで、ちょっとだけ顔をしかめた。今更になって常温のこれがあんまりおいしくないことに気が付いた顔だ。

 

「イデアさんは僕のこと好きだと思うんですよ」

「すげー自信だね」

「事実です」

「へー」

「でも、あの人多分自分からは一生手を伸ばさないんですよね」

「うん」

「だから僕がチャンスを……って聞いてます?」

「はんぶんくらい」

 

 嘘だ。本当は、三分の一くらいしか聞いていなかった。だってアズールの話が退屈なのだ。オレはただ、アズールが体調崩したら嫌だなとか、ジェイドが分かり辛く心配してんな、とか。そういうの諸々含めて様子を見に来ただけなのに、こうして相談相手にされるなんて思ってもいなかった。相談されるだけならばまあいいとしても、そういう、細かな感情の機微というやつを求められると荷が重い。そういうのは、ジェイドとアズールのふたりが考えることだ。

 

「まあ僕としてもお前にそんな細かいことを求めてるわけではないので」

「じゃあジェイドにしなよお……」

「ジェイドは明日一日寮長の代理として動いてもらうので駄目です」

「アズールお休みすんの?」

「これからスポーツドリンクを飲みつつ顔を拭いつつお前に一晩中愚痴を語り聞かせるので明日は起きられません」

「やめて」

 

 勢いよく椅子から立ち上がったオレの足が、その場で張り付いたように留まる。というか、本当に張り付いている。アズールはいつの間にかマジペンを取り出していて、本当に油断も隙もあったものじゃない。

 

「オレ寝たいんだけど?」

「どうぞ。起こしますけど」

「やだ!」

「勝手に部屋に入ってきたんだから、それぐらいはするべきでしょう」

 

 するべき、とか全然意味が分からない。こんなのは心配損だ。ぐいぐいと足を引っ張っていたら靴だけを残して足がすっぽ抜けて、それで俺はなにもかものやる気を失ってしまった。お気に入りの靴を履いて部屋に帰れないのなら、歩いている意味すらない。椅子に座り直して、ぐでん、と背もたれに体重をかける。なんだかみしみしと嫌な音を立てているような気がするけれど、そんなの知ったことじゃない。ぐい、と腕を後ろに伸ばすと、アズールの怒声が飛んできたけれど、それも無視する。

 

「ちょっとフロイドやめなさい備品壊れたらどうしてくれるんです」

「どーもしない」

「お前の給料から天引きするぞ」

「やだぁ」

「やだじゃありませんよ子供か」

「まだ十七歳なんでコドモですう」

 

 ぎ、と歯ぎしりの音が聞こえてきて、オレは思わず笑ってしまった。鼻を啜る音や、聞くのも辛いような泣き声が聞こえてくるよりずっといい。本来の調子を取り戻したようでなによりだ。それはそれとして、今椅子の背もたれが折れたところで絶対に給料からの天引きなどさせないけれど。

 抱き込んでいたクッションをアズールに投げ返す。キャッチできずに顔面で受け取っていたのを笑って、オレはベッドのふちに座り直した。

 

「泣きやんだねえ」

「なんとか。このあともうひと泣きする予定なのでちゃんと付き合ってくださいね」

「泣いてるとこ写真撮っていい?」

「良いわけないだろ」

「これあげる」

「ひとのはなしを聞け」

 

 一口だけ飲んだスポーツドリンクをアズールの手に押し付けて、至近距離でぐちゃぐちゃの顔を覗きこむ。涙のあとはべたべたと頬に跡を残しているし、髪は手櫛で梳いたくらいじゃ戻らないだろう。ものすごくカッコ悪くて、めちゃくちゃにしぶとくて、いつものすまし顔よりずっとアズールらしくて面白い。

 

「飲みものと食べもの取ってくんね」

 

 わさりと頭をひと撫でして、立ち上がる。背中に小さな、けれど芯のある声が投げつけられた。

 

「フロイド、僕ね」

「ん?」

 

 振り向く。そうしなければよかった、とオレはすぐに後悔することになった。あの青い目はきらきらと光って、けれど底なしの沼のように黒々としていたから。

 

「イデアさんに忘れられたくないんですよ」

 

 笑った口元のいびつさは、きっとまぶたに焼き付いて離れない。予感があった。アズール・アーシェングロットという男は、泣き虫タコちゃんのまま、きっと怪物になってしまったのだ。

 

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「イデアさんに忘れられたくないんですよ」

 

 だからそう、後にも先にも、あんな捨て身の策に打って出たのはあの瞬間だけだった。

 イデアさんはどうも僕に夢を見ているらしい。そう気が付いたのは一年も半分を過ぎたあたりのことだった。腹黒で悪徳で、けれどかわいい後輩。そう見られていることに悪い気持ちはしなかった。むしろ、ちょっといい気分ですらあった。

 名前を呼ぶとためらいつつも振り返って、それからうすく笑ってくれるのがいい。この警戒心の強い男をそこまで懐かせた自分の手腕に惚れ惚れする。いや、惚れ惚れしていた、が正しい。どうしようもない自惚れだ。どうして自分だけが彼を手懐けることができるなどと思い込んでしまったのか。どうして、僕以外に彼の内側に立ち入る人間がいないと思っていたのか。

 

「イデアさんの思う綺麗なものってなんですか?」

 

 綿密に練り上げた計画の、最初の一手はこれにしようとずっと考えていた。おどけた返答。宥めすかしてもらった答えはほとんど予想通りの代物で、予想通りだったからこそ心底腹が立った。核心から目を逸らし続けるイデアさんにも、慢心していた自分自身にも。

 

「好きなものを好きだと、綺麗だと思えるの、いいですね。イデアさんにもそういう感性があると知れたのは大変な収穫です」

 

 嫌味のつもりはなかったが、彼にはそうは聞こえなかっただろう。あるいは、一種の煽りか。ゲームの最中だったのも、本心を隠すのに一役買ってくれた。僕は本当に、思っていたのだ。好きなものを好きだと、綺麗だと思えることは素晴らしいことだと。

 僕の思う綺麗なもの、を聞かれるだろうと思っていた。予想をしていたのに驚いてしまったのは、あまりにも事が簡単に進みすぎているからだ。ち、と漏れた舌打ち。狙いを外したサイコロの目。こんなにも動揺していることばかりが、計画の範疇外だ。

 

「あー、いや、答えなくても」

「僕は」

 

 情けないほど声は震えていた。取り返しのつかない時間は、もうすぐそこまで来ている。

 

「あなたの炎が、この世の何よりも綺麗だと思います」

 

 イデアさんの手の中で弄ばれていたサイコロが、いつの間にか床に落ちていた。指を組み、目を伏せる。彼の視線から逃れるように。あるいは、この世界に存在するのかすら定かではない神に、懺悔するかのように。

 開け放った窓から風が吹き込んだ。イデアさんの青い髪が、ゆらゆらと奇妙に揺れている。その炎が好きだった。この世の何よりも美しいと思っていた。いつかそれに触れてみたかった。その機会は、もう二度とこない。僕が今台無しにしたのだ。

 イデアさんが口を噤む。きっと彼から言葉が出てくることはない。ただ、彼は一生忘れないはずだ。この学園に残していく僕のことも、ただ一つのこの瞬間のことも。それでいい。それが全てだ。そうなるように、僕が仕組んだ。彼はこの先一生僕を忘れず、僕がつけた傷と共に歩んでいく。

 部活終了の鐘が鳴る。後ろ髪を引かれるようにして、イデアさんが出ていく。僕はにこやかに手を振って、それから、窓の外に目をやった。日は随分長い時期だが、それでも外は赤く染まっている。一週間後には彼は寮からいなくなるし、ボードゲーム部は廃部が決まっている。僕は当然無事に、三年生に進級することが決まっている。彼にも僕にも、一生消えない記憶を刻み付けるだけ刻み付け、賑やかな日常の中に埋没していく。

 自室に着いた途端に涙が出てくるのはちょっと予想外だった。びちゃびちゃに泣いているうちに、フロイドが部屋に入ってくるのも。ただ失恋をしただけの友人、そういう立ち位置で扱ってくれるのは、非常にありがたい。実際は故意に相手を傷つけ、それに満足しているただの人でなしだ。

 食事を持ってきたフロイドが、呆れたように僕を見ている。

 

「あのさあ、愚痴言うとか言ってたわりになんで仕事してるわけ」

「落ち着くんですよ、こっちのほうが」

「ふうん。オレ帰っていい?」

「話し相手にぐらいなってくれてもいいと思いません?」

 

 はあ、とこれ見よがしなため息。ベッドに倒れ込む音がしたが、あのサイズでは足がはみ出てしまうだろう。そのまま何度か、足をばたつかせている音がしていたが、やがて静かになった。

 

「ベッドに食べこぼさないでくださいね」

「むむ」

「フロイド」

「アズールもこっちきて食べない?うまくできたよ」

「……これだけ、終わったら」

 

 実際、書類は随分中途半端なところだった。あといくつか内容を確認して、サインをして、学園長に提出をする。最後の一工程だけは明日でいいから、実際はサインをするところまでで終わりだ。

 

「せっかくオレがすげえ頑張って作ったのに、そういうことする」

「ありがとうございます。本当に、これだけ終わったらそっちに行きますから」

「アズールなに怖がってんの」

 

 ひたり、と時間が止まったようだった。窓越しの海が揺れるのを見て、世界が動いているのを確認したほどだ。空気は冷え切り、フロイドの視線が背中に突き刺さる。

 

「な、に」

「なに怖がってんの、って聞いてんだけど」

「なにも」

「嘘つき」

 

 笑いを孕んだ声が、僕の言葉を易々と否定していく。ベッドが軋んだ。冷えた空気の中、フロイドだけがそれを感じないように動き回る。

 

「アズール、」

「なんですか」

「なにが怖いの」

「だからなにも怖がってないって言ってるだろ」

 

 苛立ちを露わにしてしまった。悪手だ。フロイドに、付け込む隙を与えてしまった。背中を粘ついた汗が濡らす。さっき補給したばかりの水分を、こんなことで使ってしまっている。

 じっと沙汰を待つ。けれど、フロイドは追撃してこなかった。諦めたのか、飽きたのか。たぶん後者だろう。僕はそっと詰めていた息を吐ききり、ゆっくりと吸った。地上にはすっかり慣れたはずなのに、やけに呼吸が苦しい気がする。

 中途半端なところで手を止めてしまったから、書類にはインクの染みがついてしまっていた。気に入りの、青黒いインクが紙の繊維にそってじわじわとその範囲を拡大している。書き直すのなら早くしないと、そう思うのに、僕の手は動かない。

 

「アズールさあ、」

「なんですか」

「記憶っていつか薄れるものじゃん。俺だって、ジェイドだって、アズールだってそうでしょ。なんであの先輩はそうじゃないって言いきれるの」

 

 僕は一つも忘れたことはない、と言おうとして、止めた。恨みもつらみも、残された傷も、僕はひとつ残らず覚えている。けれど、イデアさんもそうとは限らない。

 

「おバカなタコちゃんだねえ」

「なんの話をしてるんですか」

「なんだろうね。わかんないならいいよ」

 

 投げ捨てるようにそれだけ告げて、フロイドはいよいよ本当に黙り込んでしまった。僕はいまだに、書類に広がる染みを見つめ続けている。

 過去は風化する。分かっていたことだ。傷は癒える。それも、分かっていたことだ。じゃあ僕は、どうすればよかったのだろうか。過去にはなりたくなかった。他の誰かと同じというのは、どうしたって耐えられなかった。顔も知らない彼の未来の友人と同じ枠に収まっていたくはなかったから、彼に傷をつけることを選んだ。

 好きか、と問われても答えられなかった。僕の知る恋は、みな柔らかく優しく、相手を傷つけるようなものではありえなかったから。でも、もしもこの激情がそうなのだとしたら、もっと他にやりようはあったのではないだろうか。ひょっとして気が付いていなかったのは僕だけなのではないだろうか。

 

「……僕は、間違えてしまったんでしょうか」

「さあ?」

 

 興味の抜け落ちた声が、相槌を打つ。じくり、と胸の辺りが痛んだような気がした。書類についたインクの染みは、もうどうしようもないところまで広がっている。青黒い血痕のようにみえるそれを、僕はただ、じっと見つめていた。

 

説明
※2020/10/26にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです

ふたりで過ごす最後の日に起こった出来事について。

※幸せな話ではありません
※イデ→ジェ→オル→フロ→アズの順で視点が移動します
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