その日の顛末 |
冒涜的花火
「アズール氏って食べ物で実験するの大丈夫なタイプ?」
「大丈夫じゃないタイプです」
「じゃあ駄目か……」
「いやなにしようとしてるんですか」
夏の思い出が何かしら欲しい、みたいな、そんな話をしていたはずだった。
じゃあ花火なんてどうだろう、いいですね、なんて言っていたらこれだ。食品で遊ぶのは、飲食業に携わる者として到底看過できるものではない。
「ちょっとこれを見ていただきたく」
「はあ……?」
タブレットがふよん、と浮かんで僕の顔の前で静止する。動画だった。巨大な瓶にどんどんコーラを移していくのをぼんやりと見つめていたら、そのうち小さな、錠剤のようなお菓子を大量に準備し始めた。
「えっなんですかこれ」
「まあまあ」
さん、に、いち、と数えて、一気にそのお菓子が注ぎ入れられた瞬間だ。ぼん、と破裂するような勢いでコーラが吹きあがった。茶色の水柱が、天井にぶち当たっては雨の様に降り注いでいる。しかもこれ、室内での出来事だ。狂気を感じる。
「なになになになんですかこれ怖い」
「メントスコーラとかメントスガイザーとか言われるんだけど、知らない?」
「知りませんよこんな……こんな冒涜的な……えっちなみにどういった原理で」
僕の隣で画面を覗きこんでいたイデアさんが、にんまりと笑った。
「炭酸に刺激与えると二酸化炭素が吹き出すのはまあ知ってると思うんだけど、このお菓子……メントスのね、表面に小さい孔がめちゃくちゃあいてるんですわ。で、それを勢いよく放り込むことで、こんな大爆発起こしてるってわけ。まあメントスに含まれてるゼラチンとか、コーラの人工甘味料とか、派手にしてる要素は色々あるんだけどね」
「はあ……成程……勉強になりました……」
「で、アズール氏」
ぱしん、とタブレットを捕まえたイデアさんが、これ以上ないほどの笑顔のまま、僕の肩に手を置いた。ぐいんと顔を覗きこまれてもう一度、念を押すように問いかけてくる。
「メントスコーラ、興味ない?」
「んぐう……!」
信じられない。なんて人だ。流石このナイトレイブンカレッジに三年も通っているだけのことはある、見事な悪役っぷりだ。何度でも言うが、食品で遊ぶのは、飲食業に携わる者として到底看過できるものではない。看過できるものではない、のだが
「きょう、み、あります」
原理を説明されたら、実証実験をしたくなってしまうのが性だ。好奇心に抵抗できずに、僕は頷いてしまった。嬉しそうなイデアさんには無性に腹が立ったので、その脛につま先をめり込ませておいた。蛸なので足癖が悪いのだ、蛸なので。
*
「というか元々花火って話じゃありませんでしたか」
「花火みたいなもんじゃん?打ちあがってるし」
「こんな甘ったるい匂いまき散らす花火があってたまるか」
購買部で散々に買い込んだコーラのボトル、袋一杯のメントス。それから、最もメントスコーラの威力が高くなるよう計算されつくした実験専用のボトルを抱え、僕とイデアさんは運動場へと向かっていた。
運動場の使用許可はとってある。できるだけ広く、開放的で、掃除に時間のかからないところ。室内で実験するような愚行は、あの動画の人々だけで充分だ。時間帯も、真昼間ではなく夜に近い時間を選んだ。どう考えたって目立つ行為を目立つ時間帯にやるのは、イデアさんがもたないだろう。精神的な意味で。
適度に平らになった地面に荷物を置く。イデアさんが背負っていたリュックからビニールシートを広げ、その上にボトルを置いた。
「あ、これアズール用」
「はい?」
「ビニ傘。ほら、コーラの雨被ってべたべたになるの嫌でしょ」
「……ありがとうございます」
イデアさんは、案外こういう小さな気遣いがうまい。それが対僕に限られる、という事実に気が付いたのはつい最近だが、なんだか悪い気はしない。むしろ大変にいい気分だ。このままどんどん僕のことを特別扱いすればいいとすら思う。
ビニール傘を受け取って傍らに置き、買い込んだコーラをどんどん開封してボトルに注いでいく。イデアさんはその間に、メントスの外装をちまちまと剥いていた。どこから取り出したのかビーカーの中にぽいぽいと放り込んでいく。動画では錠剤のように見えていたが、こうしてみると意外と大きな菓子だった。同じようなものを目の前にしているから分かるが、ボトルが大きいせいで縮尺がおかしくなっていただけだ。
「イデアさんこちら注ぎ終わりましたよ」
「こっちも剥き終わったでござるよ」
ビーカーを手に、イデアさんが歯をむき出しに笑う。実験着を着ているのも相まって、マッドサイエンティストと言われても信じられる。なぜ運動着でないのかと言えば、実験といったら実験着だろうと安易に考えたからだ。汚れるのは承知の上で白衣を着用しているあたり、僕も大概イデアさんに毒されている。
「じゃあ行きますぞ」
「支えます?」
「多分濡れるけど……」
「横倒しになったらまずくないですか」
それもそうか、と頷いたので、ボトルを片手で、もう片手には傘を携えて準備を整える。イデアさんの真剣な目が僕の方を向いたので、しっかりと頷き返してみせた。
ざああ、と流し込むようにして、イデアさんがビーカー一杯のメントスを流し込んだ。あ、泡立ってきたな、なんて思えたのは一瞬だ。あっという間に膨れ上がった泡が、天を衝く勢いで噴き出した。
「うっわ!うっわ!ちょ、傘傘傘」
「なんであなた自分のもの持ってこなかったんですか?!うわ、僕も間に合わなかった……!」
甘ったるい匂いがあたりに広がり、糖分を含んだ液体はぼたぼたと夕立のように降り注いできた。ほんの少しだけ運動場に居た、事態に気が付いた生徒たちが、なんだなんだと寄ってくる。遠くではスマートフォンを構えて撮影をしている者もいた。
やがてコーラの水柱が落ち着くころ、僕たちはすっかりびちゃびちゃになっていた。傘の意味はない。野次馬の生徒も制服や運動着をべたべたにして、けれど楽しそうにげらげらと笑いあっている。ビニールシートじゃ到底防ぎきれなかったコーラが、そこいらに水たまりを作っている。
「どう、どうでしたアズール氏」
「いやこれ……めちゃくちゃ楽しいじゃないですか……」
「でしょうとも」
「でもやっぱり花火は別口でやりましょう」
これがふたりの夏の思い出とか、ちょっと僕が許せそうにないので。イデアさんはその言葉を聞いて、また歯をむき出しにして笑った。可愛くないのに、妙に無邪気で可愛らしい顔だ。
すん、と薄茶に染まった白衣の袖を嗅ぐ。甘ったるくてちょっとスパイシーな、コーラの強い匂いがした。
あと十年待って
イデアの正面にどっしりと座り込んだアズールが、その鋭いひとみを余計に鋭くさせた。その眼光があまりに苛烈だったものだから、イデアは思わず身構えてしまった。
「イデアさん」
「はひ」
「ザクロといって思い浮かぶことはありますか」
「……え、ザクロ?なに、アズール氏また新商品の開発?」
はて、と首を傾げ、自身の記憶容量に対して随分と乏しい食の知識を総動員する。駄菓子では駄目だ。あのスーパーおしゃラウンジに駄菓子なんてものは似合わないし、そもそもザクロ味なんてまずない。
「グレナデンシロップ……とか、なんか使ったやつは?」
「いえそういうことではなく」
「はァ」
「イデアさん自身が思い浮かぶことがあるかどうかをお聞きしたかったのですが」
「拙者ぁ?」
どうも要領を得ない問答だ。何が目的なのかがわからないお陰で、イデアも思考の方向性を定められずにいた。
「ええとね……あ、」
「なんです?」
「これ多分他の所にはない風習だと思うんだけど」
「はいはい」
「新年に玄関にザクロを投げつけるんだよね」
「何故」
自身の端末を弄り、今年初めの写真を取り出した。家族一人につき一個投げつけるものだから、玄関には赤い実と果汁が飛び散り、大変な光景になっている。
「うわっ……」
「なかなかすごいでしょ。これねえ、ザクロの中身が豊饒とか、富とかの象徴になってまして。で、飛び散れば飛び散るほどいいっていう……まあ占いみたいなもんですわ」
「へえ、ちなみにこれは良いんですか?悪いんですか?」
「ここまで多人数で割るとよくわかんないよね」
「駄目じゃないですか」
「あと結構果汁が赤くてさあ、玄関前の石畳とかめちゃくちゃ染み込むから血痕みたいになって掃除も大変」
「ああ」
ふたりしてひとしきりうんうん頷き合って、イデアは端末を回収した。
「こういうやつ?」
「惜しい」
「えッ正解とかあるの」
さっきまで随分と楽しそうにしていたくせに、アズールはあっという間に不機嫌そうに、再び眼差しを鋭くさせている。折角部室にいるのに、今日はまだ一つもゲームをしていないな、などと能天気な思考がイデアの頭の中でぐるぐると回っている。
「……イデアさんにとってザクロって」
「はい?」
「なんかこう、ひとに、食べさせたくなったりしないんですか」
かちゃん、とアズールがずれてもいない眼鏡をなおす、その音が妙に大きく響いた。それ以外は、会話も、時計の針の動く音もしなかった。十秒、二十秒と数え、沈黙に耐えきれなくなったイデアが、重力が倍になったかと思うほどに重い唇を無理やりに動かす。
「そ、れはその」
「忘れてください」
「いやあのアズール氏」
「忘れろ」
「理不尽だ……」
精一杯の勇気を振り絞ったというのに、これである。けれど、目の前の男のしろい首筋や耳の先が妙に赤くなっているのは見えているので、恐らくは照れ隠しだろう。そう思うと、なんとなく、理不尽な言動もかわいらしく思えてくる。
「なんかただ僕がめちゃくちゃザクロ食べたがってる人みたいじゃないですか」
「アズール氏人魚じゃん」
「そういう話ではなく。……その、嘆きの島には、好きな相手にザクロを送る、習慣があると、聞いたもので」
つまりは、イデアからその手の言葉を引きずり出したかったという所だろう。目線を逸らしたどたどしく呟かれる言葉がどうしたって愛おしくて、イデアは思わず天を仰いだ。
「天使か」
「人魚です」
「そうだね」
はああ、と大きく息を吐き出して、イデアはようやく少しだけ冷静さを取り戻した。それから他に部員がいなくてよかった、と心底安堵した。アズールもイデアも、他の誰かに見せたい顔はしていなかったので。
「あのねえアズール氏、確かに嘆きの島全体としてその風習がないことはないんだけどね、」
「……はい」
「風習が回りまわって今ザクロ送るのって、結婚とか婚約とか、そういうタイミングになってるんですわ」
「はい……はい?」
「だから、その、学生のうちに送るのは結構イレギュラーというか、正式に事が運んでからといいますか、あっむりだわごめんちょっと拙者恥ずかしくなってきた」
今度はイデアが赤面する番だった。フードをばっさりと被り、机に突っ伏する。布の隙間からはみ出た炎の髪が、ちろちろと赤く染まっている。
「……そ、の、事情を知らずに、大変失礼しました」
「いえ……あの……全然送りたくないとかそういうことではないので……送りたいなあとは思ってるので……卒業を、待っていただけると」
「あっはい」
どうやら一応、彼の中では何か計画のようなものがあるらしかったので、アズールはそれきり口を閉ざした。今日はもう部活にならないだろうな、というのは、言葉を交わしたわけでもないが、ふたりの総意だった。
お返しは少しづつ
※先天性女体化
なんでこんなに綺麗な子が、この辺境の地にやってきたのだろう。
アズールに対する第一印象はそれに尽きた。文化部棟の端の端で活動が行われるボードゲーム部は、所属者の八割が幽霊部員だ。強制ではないものの、なにかしらの部活や同好会に所属することが推奨されている学園内で、特に入りたい部活もないような生徒たちが便宜上入部をするような、そんな存在だ。
だから、入部希望と扉を開けた新入生が、うっすらと花の香りをまとわせた美少女だったことに、イデアは心底驚いて、それから恐る恐る部活を間違えてはいないかと確認した。
「間違えてはいませんよ。私、ボードゲーム部に入部希望なので」
にっこりと、モニターの中でしかお目にかかったことのないような、美少女のお手本のような笑顔を浮かべ、アズールは簡単な自己紹介をした。それからボードゲームの棚をしげしげと眺め、戦略性の高いゲームはどれですか、と問いかけた。それが、始まりだ。
*
「それがまあ今やこんな立派な守銭奴に育って……」
「イデアさん? 無駄口を叩いてないで、あなた自分の使う化粧品ぐらい自分で選んでくださいな」
「ごめんなさい」
眼鏡の奥の青灰色の瞳が、じっとりとイデアをにらみつける。今日のアイシャドウは紫なんだな、と場違いな感想を抱いた。
アズールとイデアは今、化粧品を選んでいる。画面をのぞき込むのが二人でも、選んでいるのは実質一人だ。イデアは専らNGを出す係で、あれがいいこれがいいと希望を述べるのは、専らアズールの役目になっていた。
「青以外はないんですか」
「ううん……ほら、髪と目がこの色だと、どうしても似合うのって限られてくるじゃん」
「似合う似合わないで選ばなくたっていいじゃないですか」
「んん?」
画面をスクロールしていた指が止まり、イデアの鼻先に突きつけられる。手袋で隠されて見えないが、今日も爪の先までぴかぴかに磨き上げられているのだろう。
「あのね、イデアさん。化粧は武装ですよ」
「ぶそう」
「そう。似合う似合わないは二の次です。いかに自分の心を高揚させられるか、それがポイントです」
「ほああ」
それは戦化粧というのではないだろうか、と思うだけ思って、結局イデアは口から奇妙な音を出すにとどまった。アズールにとっては、外界などまさしく戦場だろうな、と思い当たったからだ。
制服をまとい、髪を結い、化粧をしてようやく、アズールはオクタヴィネルの女帝になれるのだ。それはイデアの予想でしかないが、彼女の身なりが整っていなかったことなど、この一年の付き合いでただの一度もない。今日だって、髪のひと房、爪の先、身にまとう香りまでもが完璧だ。
「でもアズール氏は計算してるよね……?」
「当たり前でしょう。でもイデアさんは、私とは化粧の意味が違うでしょう」
「まあ、そうね」
そもそも事の発端は、イデアがたまには違う色もいいかな、なんて言いだしてしまったことにあった。出来心だ。アズールの目元が、唇が、毎日違う色で彩られているのを見て、ほんの少しばかりうらやましくなった。
ただそれだけのことだが、アズールはそれだけ、とは思わなかったらしい。ぽつりとうらやまし気に呟かれたイデアの言葉を聞くなり、タブレットを取り出し、ああだこうだと言い始めたのだ。普段から潤んだようにきらめく瞳が、余計にきらきらと眩しいような気がするのは、きっと気のせいではない。
「……お嫌ですか」
「なにがあ?」
「こうやって、見目についてあれこれ口出しをされるのは」
言うだけ言ってタブレットに向き直った、アズールの背が、妙に小さく見える。いや、元々華奢なのだ。昔は太っていた、なんて言っていたけれど、骨が細い。痩せ型とはいえがっちりとした骨格を持つイデアと比べても、その差は歴然だ。
「や、アズール氏なら別に。というか、私が言い出したから協力してくれてるんだよね?」
「まあ、そうなんですが」
「こんな不精な女に、ありがたいことですなあ」
「からかってます?」
「本心ですぅ。ありがとね、アズール氏」
きれいにセットされた髪型を崩さないように、慎重に頭を撫でた。見た目から予想するよりも、もっとずっとやわらかな手触りをしている。
ふざけた様な口調ばかりになってしまうけれど、実際、イデアは本当に感謝している。なにせ自分では決まったメーカーの決まった色しか買わないし、化粧を変えるといえば精々、制服と式典服のときくらいだ。それに、アズールが対価の話もせずにイデアのために何かをする、というのが、なにより特別な行為だと感じられるのがいい。
「……なら、いいんです」
「うんうん」
「で、リップの色なんですが」
「青」
「却下で。紫なんてどうです?」
「むらさきかあ……似合うかなあ」
「イデアさん美人なので、なに付けたって似合いそうですけどね」
「んん」
奇妙な唸り声て照れる心を誤魔化す。けれど、なんでもないように口にしたアズールの耳が、赤く色づいているのもしっかりと見てしまったので、イデアは余計にたまらないような気持になった。ゆるむ口元を、ぎゅうと気合で引き締める。
「私の選んだ色でいいですか」
「どうぞどうぞ」
「……恋人に口紅を送るときは、ちょっとずつ返してくださいね、という意味があるそうですが」
「ほ」
「私のも、そういう意味ですからね」
覚えておいてくださいね、と呟いたアズールが、あんまりにも愛おしくて、イデアは今度こそ顔を覆って崩れ落ちた。なおその直後、照れ隠しに思い切りよく足蹴にされたことだけは、ここに記しておく。
結局花火は見に行った
※未来設定
年末年始は稼ぎ時なのでうんぬんかんぬん言っていた同居人が、三十日の昼頃に帰宅したのは僕にとっては正に青天の霹靂だった。
ぼんやりとどこか焦点の定まらない瞳と、覇気のない挙動。もしかしてこの年の瀬に、風邪でも引いてしまったのだろうか。玄関でのそりと革靴を脱いだアズールの額にぺたり、と手を張り付かせてみる。異常なし。どうなっているんだ一体。
「な、ななななななに、どうしたの体調悪い? どっか痛い? 気持ち悪いとこある?」
「いえ、あの。体調不良ではないんです。その……イデアさん」
「どうしたの」
「年末年始ってどう過ごせばいいんですか?」
「本当にどうしたの?」
とりあえず、とアズールの手をひいてリビングへ連れていく。その行動に文句の一つも出ないのだから、本当に重症だ。
「部下にパートナーの方と一緒に住んでらっしゃるんですよねじゃあ年末年始ぐらい一緒に過ごしたらいかかですかクリスマスも働いてたじゃないですかとすごい勢いで休みをねじ込まれ、そもそも消化しきれていない有給が大量にあったものだから、誰にも止めてもらえず」
「ああー……なるほど……」
ほんのりとワーカーホリックの気配のあるアズールは、どうにも周囲の人間から見るといつでも過労死一歩手前に見えるらしい。実際、働いていない方が精神的に不健康になるきらいがあるので適度に忙しい方がいいのだが、今回は周りがそれを許さなかったようだ。
「そもそも僕らはパートナーではないと言ってるんですけどね」
「まあ収入に困ってないいい年の男二人が一緒に住んでたらそう見えるんじゃないの」
「そこも込みで同居し始めたとはいえ、面倒なのは変わりありませんね」
僕たちは彼の部下の言うパートナー、つまり恋人などという色っぽい関係ではない。ただ人間的相性がそれなりによかったため、諸々の事情を鑑みて同居を始めただけの先輩後輩、あるいは友人という関係である。
「拙者なんか働かなくていいなんて言われたらその場で喜び勇んで退勤しちゃう」
「あなたはそうでしょうけど」
今更のようにコートを脱ぎ、抱え込んだ鞄を床に置くアズールは、すでにそわそわと、落ち着きなく肩を揺らしている。ワーカーホリックの気配がある、どころではなく、完全なワーカーホリックだ。
「まあまあ。で、お休みいつまでなの」
「この年末と、年始は五日まで」
「じゃあ久しぶりにボドゲでもしますか」
「……イデアさん、仕事は片付いたんですか」
「元々三十日が仕事納めと決めてたので。個人事業主なので関係ありませんなあ」
じっとりと睨み付けてくる青い瞳をにまにま見返す。実際関係なくもないのだが、きりの良いところまで仕事を終わらせてあるので、このままアズールと長期休みになだれ込んだところでなんの問題もない。締め切りは守るタイプのオタクだ。
「なんでもいいよ。VRゲームでも、ボドゲでも、仕事全然関係ないギミックの発明でも」
「部屋からは出ないんですね」
「この年末に部屋から出て何すんのさ」
「花火でも見に行こうかと」
「余計カップル感強まるじゃん……」
新しい年のお祝いに、と僕らの住む国の首都では大々的に花火を打ち上げることが決まっている。そう離れてもいない街は、準備をして、明日の夜にでも出発すれば間に合いはするだろう。見に行くかどうかは別の話だ。
「いいじゃないですか。お付き合いしているわけじゃないのなんて、僕らが分かっていれば」
「さっき勘違いが面倒だって言ってたの、アズールの方でしょ」
「それはそれ。後々の付き合いがあるわけでもない他人にどう見られようが、僕もあなたも気にするタイプじゃないでしょう」
「そうだけどさあ」
新年を祝う花火なんていうリア充っぽいイベントに、どうしたって忌避感がぬぐえない。人が多いのも駄目だし、周囲が盛り上がれば盛り上がるほど、盛り下がってしまう自分の性格もわかっているから余計だ。
「仕方のないひとですね。新年なんて友人同士で騒ぐものなんですから、そんな気負わなくてもいいでしょうに」
「あれ、アズール氏あの双子は?」
「彼らはクリスマスに休んだ分働いてます」
「ああなるほど」
在学中からさらに背を伸ばし、いよいよ二メートルになろうかという二人は、アズールとの同居を始めてからすっかり身内のような距離感になってしまった。やたらめったら菓子をねだってくるフロイド氏と、妙な距離感で僕らを観察しているジェイド氏。身内に甘いんだか厳しいんだかわからないまま、それでも今のところはうまいこと付き合えている、はずだ。
「あれ、でも地元寒くて帰省しないんじゃ」
「リア充なので」
「馬車馬のように働かせて」
「今頃僕がいない分擦り切れるまで使い倒されてますよ」
にたり、とアズールがあくどい笑みを浮かべる。ようやく本来の調子を取り戻したようで、僕は思わずほ、と息を吐き出した。
「それじゃあやっぱり僕らは遊び倒すしかないのでは? 当てつけの様に楽しんでやりましょうぞ」
「勿論ですとも。なにからやります? ああでも先に温かいものが飲みたいですね。それからゆっくり吟味しましょう」
「はいはい。コーヒーでいい?」
「お願いします。あ、僕がゲームに勝ったらふたりで花火を見に行くというのはどうでしょう」
「嫌ですが」
アズールとゲームをすると、全戦全勝というわけにはいかない。連れ出され、寒空の下陽キャたちと花火を見ることになるだろう未来に思いを馳せる。なんとしてでも阻止せねば、と思い直し、僕はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
ちょっとした優越感のこと
「拙者風邪ひいたことないんですよね」
「えっ」
ぱたん、と相手に見せてはいけないはずの手札が、アズールの手から零れ落ちた。このゲームはもうご破算だ。
なんの話の流れだったか、とにかく風邪をひいたのひかないの、体調管理には気をつかってうんぬんかんぬん、その中でイデアが、そういえば記憶にある限り風邪をひいたことはないなあ、と思ったそのままを口に出しただけのことだ。たったそれだけのことなのに、アズールはすっかり理解できないものを見る目でイデアのことを見ている。その視線がちくちくと心の柔らかい所をさしてくるようで、イデアは思わず視線を外した。
「風邪をひいたことがない……」
「そんなめずらしいこと?」
「あんまり見かけませんね……。特にその、イデアさんあんまり元気いっぱいなタイプじゃないでしょう。すみません、嫌な気持ちにさせましたか」
「……まあ、ちょっと」
「すみませんでした」
自身の非さえ認めてしまえばすぐに謝ってしまえるのは、アズールの長所だ。そういうさっぱりとしたところを好んでいるから、イデアもできる限りはそれに合わせた対応をするようにしている。いいよ、と告げて、体温がうつって温くなったカードを机に置いた。
「いやさあ、僕、その、兄だったので」
「はあ……?」
「弟がさ、苦しんでたら、自分はしっかりするぞみたいな」
「いいお兄ちゃんですねえ。けれど気合でなんとかなるものですかね」
「まあもっと小さいころは体調崩すことぐらいあったと思うけどさ」
だから、実はちょっと風邪というものに憧れがあるのだと、そればかりは口に出さないでおいた。アズールが目の前で、心底うらやまし気にいいなあ、と呟いた。
*
だからまあ、因果応報というやつかな、と思わなくもないのだった。
「兄さん、大丈夫?」
「…………すごいしんどい」
普段から人の三倍や四倍は回っているはずの思考はさび付いたようだし、体は重いし痛いし、まぶたは勝手に下がってくる。暑いのか寒いのか、それすらわからないまま、イデアはのろのろと掛布団をどけてはかけ直すという、至極不毛な動作を繰り返していた。
「三十七度九分……うん、風邪だね」
「これが風邪……」
「風邪だね。なにか食べられそう?」
「ゼリー的な……ものなら……」
ぜい、とイデアが息を吐いたのを最後に、オルトは待っててね、と部屋を飛び出していった。しんとした部屋の中で、つけっぱなしのパソコンが小さく駆動音を吐き出している。体調不良特有の妙な心細さが煽られるようで、イデアは掛布団の中で膝を抱え込んだ。
「んん」
じわじわと垂れてくる鼻水を拭きとりたいのに、指のひとつすら動かすのが億劫で仕方がない。何もかもが面倒なのに、不快さと心細さだけがどんどん胸の内に蓄積していくので、風邪に憧れじみたものを抱いていた数日前のイデア自身をぶん殴ってやりたくなってきた。
こつ、こつと扉に何かがぶつかる音が聞こえた。それが扉をノックされた音だとイデアが理解する前に、部屋の戸は勝手に開き、ひとりの人間を部屋の中へ招き入れた。
「イデアさん」
「んん……? あ、……アズール氏……」
「体調不良だとオルトさんから伺いまして」
アズールが、手に持った袋を軽く掲げた。かさ、と音のなる、白いビニール。中身をあっという間にデスクの上に並べて、ペットボトルを手に取った。
「まずは水分補給ですね。体起こせますか」
「ん」
後輩の前で、というかアズールの前で、これ以上の醜態は晒したくない。その一心で、イデアはなんとか起き上がった。ヘッドボードにもたれ掛かり、ぼんやりと斜め下あたりに視線を落とす。
「……ちょっと顔拭きますか? 不快でしょう」
「んあー……ごめん……」
「いいんですよ」
差し出されたティッシュを何枚か抜き取り、垂れた体液を拭う。それをぐしゃぐしゃにまるめて、ベッドわきのゴミ箱に捨てる。それだけで充分すぎるほどの重労働をした気になって、イデアは何のために体を起こしたのかも忘れそうになった。
「ほらちょっとでいいので」
ティッシュの次に差し出されたのは、青いラベルの特徴的なスポーツ飲料だ。落とさないように両手で握り、傾ける。意識していないだけで随分喉が渇いていたらしい。結局三分の一ほどを飲み込んで、それからまた両手でゆっくりと、アズールにペットボトルを返した。
「ゼリーは? 食べれそうですか」
「なんとか……」
それだけを口にすると、今度は蓋を開けたゼリー飲料が差し出された。至れり尽くせりだ。イデアがちょっとだけ、風邪も悪くないかもしれないと思いだしたタイミングで、アズールもふ、と引き結ばれていた口元をゆるめた。
「どしたの」
「ああすみません。あの、兄だからしっかりするんだみたいなことを言ってらしたじゃないですか」
「ああ……」
そんなことを言ったような、言ってないような。イデアは首を傾げつつ、ゼリー飲料を口にした。思いの外多く流れ込んでいたゼリーに咳き込みかけたところを、背を撫でられたことでどうにかこらえる。
「だからその、しっかりしてないイデアさんをお世話できるのがちょっと楽しいというか……すみません、もしかしてまた嫌な思いをさせました?」
「全然」
勢いよく首を左右に振ったら、視界がくわんと揺れた。落としかけたゼリー飲料は受け止められ、イデアはべたりと布団に伏せた。
「何してるんですか」
「加減が分からなくて……」
「体調不良初心者なんですから、無理しないでくださいよ」
「はあい」
「いいお返事ですね」
冷えピタ貼りましょうね、と青い長方形を嬉々として取り出すアズールをぼんやりと見ながら、やっぱり風邪も悪くないな、とイデアはひとり、布団に埋まるようにして頷いた。
いわゆるひとつの彼女シャツ
※先天性女体化
綺麗なものは誰だって好きだ。それは、アズールも例外ではない。だから毎日違う形に髪を結い上げるし、シャツは体系に合わせたオーダー品だ。肩幅や、腕の長さに合わせるとボタンが閉まらないし、かといって胸囲に合わせるとだらしないほど大きなサイズを選ばなければならなくなってしまう。結局、清潔感を求めようと思うとオーダーにするのが手っ取り早く、ついでとばかりに内ボタンも付けてもらった。
「……アズール氏の服、私にはちょっと……あの……着れませんね……」
「ぐ、」
アズールのシャツを羽織ったイデアが、へろんと情けない顔で笑う。そんな顔をさせたかったわけではないのに、と思うのも後の祭りだ。
校内で発生した喧嘩に巻き込まれ、水魔法の直撃を食らったイデアにシャツを貸したのは、単純な下心だ。校内でも異彩を放つ美人の先輩に、けれど着飾ることに忌避感すら抱いている恋人に、たまには違う服装を見せてほしいという、下心。ついでに言うなら巷で言うところの彼シャツ、というやつを試してみたかった。この場合だと彼女シャツとでも言えばいいのだろうか。
上背もあるし、腕も長い。痩せて尖った肩が布を引っ張り上げて、袖口は肘を少し覆うところで留まっている。逆に胴体の方はぶかぶかで、内側のボタンをとめることで、どうにか隙間から彼女の胸を見せずに済んでいるような有様だった。
「これフルオーダー?」
「まあ、はい」
「なんていうか……うん」
イデアが、胸の部分の布を掴んで引っ張る。余った布地が前に引っ張られて、それが彼女の細さをやたらに強調する。そのあんまりな光景に、アズールは気を逸らすべくココアを入れ始めた。
「大変ですなあ」
「その確かめ方はどうかと思います」
「そう?」
「大体イデアさんだってフルオーダーじゃないんですか」
「拙者なんか既製品で充分ですわ」
けたけたといつも通りの、何もかもを小馬鹿にしたような笑い声。それに安心するのだから、私も末期だ。アズールはため息をつき、それからちらりと襟からのぞく、イデアの細い首を見た。余分な肉のひとかけらもない体だ。当然首回りもあっていない。ましてや、イデアは苦しいのか第一ボタンを外している。白いシャツの内側に見える青いような肌が目に毒だった。
「もう少ししたら乾きますから」
「ありがとね。寮に戻っても良かったんだけど、なんか驚いて腰抜けて」
アズールがイデアを連れ込んだのは自室だった。自身も相当に焦っていたらしい。彼女の部屋に送り届ければ万事解決だったのに、こうして濡れた服を甲斐甲斐しく乾かしたりしている。
「はいどうぞ」
「どうも」
青いマグカップは、彼女のためのものだ。こんなところまで細い指先が、マグカップを受け取り、妙に幼気な仕草で口元に運ぶ。少し前まではうらやましいばかりだった無駄のない体が、今はどうしたって見ていられなくて、アズールは再び気を逸らすための作業を探し始めていた。
横顔ばかり眺めてる
アズールがぼけっと空を見ている。本当だ、嘘じゃない。あのアズールがぼけっとしてるなんて僕も信じたくないけど本当なんです。オタク嘘つかない。
「アズール氏」
「はい」
「あっすごい聞き流し感。アズール、あずにゃん、あずあず〜聞いて〜拙者の話聞いて〜」
「ぶん殴りますよ」
「直球の暴力宣言じゃん」
す、といつものきれいな真顔に戻ったアズールが、きりりと暴言を吐く。ちょっとふざけて呼びかけただけでこの仕打ちである。
「何見てんの?」
「珍しくて」
改めてアズールが空を見上げる。僕も一緒になって見上げてみる。部活終わりの冬の空は、真っ黒に曇っている。その中にちらちらと舞う白いもの。雪だ。
「……雪?」
「初めてちゃんと見ます」
「へえええアズール氏どこ出身だっけってああ……珊瑚の海か……」
「見たことがないとは言いませんが、冬は海も流氷に閉ざされていて海上に顔を出すような機会もないので」
「そっかあ……」
外廊下から顔だけを突き出して、アズールは尚も空を見上げている。落ちてくる雪を目で追って、地面に辿り着くところまでを見守って、着地した瞬間に溶けて消えるのに驚いている。
「雪は積もるものだと聞いていましたが」
「ああ、明日の朝くらいには積もってるんじゃない?」
「溶けてますけど」
「こんだけ降ればちょっとは積もるでしょ。要するに溶けるより早く降れば積もるんだし、あそこらへんは水分も吸い込みやすいから積もりやすいんじゃないかな」
「考えて見ればそうですね……」
氷ですもんね、と呟いたアズールが、それでも僕を随分素直に尊敬の目で見てくるので、気恥しくなって目を逸らした。僕の煽りに苛立った顔も勝利の笑顔も一通り見てきたけれど、こんなに素直な尊敬を向けられたことはないのだ。それもそれでどうなんだという気もする。
「積もったら遊ぶものだとも聞いてるのですが」
「あー……まあ……雪だるま作ったりとか、雪合戦したりとか……? そういうの、小さいころにやったきりだけど」
「雪だるま」
「雪丸めて、重ねて、材料色々持ってきて顔作って、マフラー巻いたりとかなんか、そういうの」
「なるほど」
じ、と考え込む横顔。尊敬できらきらと視線が反れたことで、ようやく僕は息ができるようになった。遠い遠い弟との記憶を引っ張り出して答えた甲斐があるというものだ。そういえばもう何年も雪で遊ぶなんてことはしていなかった。今更誰かと遊ぼうとも思わないけれど。寒いし、結構疲れるし、僕は生粋のインドア派なのだ。
「小さい雪だるまをラウンジに飾ったら季節感が出ていいですかね」
「拙者に聞かないで」
「わかりました」
最近になってオクタヴィネル寮内に開店したモストロ・ラウンジという聞くからにオシャレな店は、なんとアズールが店長を勤めているらしい。一体どんな取引をしたのかまで、その一部始終を知っている僕としては末恐ろしい後輩だ、と思うことしかできない。
とにかく、そんな数多の生徒の屍の上に立つ陽キャ御用達の店のことを、僕に聞かれても困るというものだ。開店当時に何度か誘われたが、いまだに一度も行ったことはないし、今後も行く予定はない。
「じゃあ雪だるま作るのだけ手伝ってください」
「何故?」
「だって作ったことないんですよ。経験者に聞くのが早いんです」
「拙者とてここ数年は作ってないので」
「イデアさん僕さっきあなたに勝ったんですけど」
「よっしゃがんばります」
ここで理不尽な命令をされて、ラウンジ内部に飾るところまでお手伝いお願いします。なんて言われた日
には生きて帰れる気がしないので、即座に手のひらを返した。おあつらえ向きに明日は休みだ。彼のことだから、そこも含めて計算だろう。
「じゃあ明日の朝中庭に」
「せめて校舎裏にしない? 注目集めたら拙者死ぬ」
「ああなるほど、わかりました。では校舎裏にしましょう」
理解が早いのは彼の美点だ。理由さえ話せばそれなりに対策しておいてくれるので、そのあたり大変ありがたかったりする。
明日の予定まで決めたところで、ようやくアズールは歩き出した。すっかり冷え切った体が、ぶる、と震える。
「さむ」
「先に戻っててもよかったのに」
「いやなんか」
「はい」
斜め下のアズールの顔を見る。いつもの、すましたきれいな真顔だ。それからさっきの、ぼけっと口も目も開いて空を見つめていたアズールの顔を思い出す。まるで子供だ。実際、僕らはまだまだ子供なんだけれど、それにしたって子供っぽかった。
「拙者も珍しいもの、見たんで」
「そうですか?」
自分自身の口元が緩むのが分かる。アズールはそれ以上何も言わず、ただ足音だけがいつもより高らかに石造りの壁に反響していた。
灰になるまで、全部
※未来設定、バウムクーヘンエンド
深夜にようやくたどり着いた最寄りの駅で、僕は滅多に手に取らない安いアルコール飲料と、煙草を買った。銘柄はなんでもよかったから、できるだけ重そうなものにした。
商品を袋詰めする店員が、ちらとこちらを見る。どうみたって高級そうなフォーマル、華やかで、祝いの席に出席してきましたという服を着ているから、目立つのは当たり前だ。実際、結婚式に出席した、その帰りだった。
イデアさんが結婚すると聞いたのは、ちょうど半年ほど前だった。しかも、本人からの報告でもなんでもなく、卒業してからもしつこく連絡を取り続けているジャミルさんからの伝聞だったのだから腹立たしい。そこは一番仲が良かったであろう僕に、最初に報告すべきではないんですか。勿論、言えるはずもない。ナイトレイブンカレッジを卒業してから数年、やりとりなんて殆どしていなかった。
店員からビニール袋を受け取る。安酒の缶は想定より重く、がちゃがちゃと袋の中で耳障りな音をたてた。自動ドアをくぐると、夏の夜らしく汗ばむような熱気と、冷たい風とが、同時に首筋を撫でていく。
あれ程結婚に向かない人もいないだろう。
電灯の少ない道を歩きながら、僕は随分遠い記憶になってしまったかつてのイデアさんを脳内で再生する。自分勝手だ。わがままだし、偏屈だ。でも寮長をつとめられるくらいには面倒見がよく、優秀で、それなりに後輩に慕われる程度には世話焼きだった。
がしゃん、とまた袋の中で酒が揺れる。スーツも靴も嫌いじゃないけれど、今は二本しかない足に纏わりつく感触が不快だった。歩調を速めて、家路を急ぐ。
一生独身でいる、なんて選択肢は、多分最初からなかった人だ。明確な話はなにひとつしたことが無かったが、本人の言動の端々からそれはにじみ出ていた。血を絶やさないようにする義務のある人間というのは、どこにだっているものだ。
海沿いに家を建てたのは正解だった。眼下に広がる海は暗く黒く、時折波が月明りに細く輝いていて、それをじっと見ていると、ささくれだった気持ちが少しばかり落ち着いてくるような気がする。気がするだけだ。オートロックを開けるとき、イデアさんにこの家のセキュリティの相談をしたことを思い出してしまった。たしか、それが最後のやり取りだった。家にだって招いたのに、やっぱり来ることはなかった。
扉は重そうな見た目に反して、すう、と音の一つもたてずに閉じる。そういう造りだ。廊下を突っ切って、階段。寝室のドアを開け、揃えもせずに革靴を脱ぎ散らかす。
スーツを脱ぎ捨て、シャツを放り投げ、眼鏡は服に引っかかってどこかに落ちた。プロにセットを頼んだ髪をぐしゃりとかき回す。硬い感触。スプレーで固めた毛先は、故意に乱すことすら許してくれない。
イデアさんのタキシード姿は、驚くほど様になっていた。スタイルいいんですから、もう少し服装に気をつかったらいいじゃないですか。そう何度も告げた学生時代の自分の審美眼は、間違っていなかった。長い手足を白に包んで、青いタイは鮮やかで、どうせこれが最初で最後になるんだから、もっとよく見ておけばよかった。隣でほほ笑む、白いドレスの人にばかり気を取られていたのが、今になって悔やまれる。
部屋着に着替え、脱ぎ散らかした衣服をぼんやりと見下ろす。
「燃やしますか」
口に出してしまったら、それが一番いいように思えたので、脱ぎ散らかした服と、酒の入ったビニール袋を持って階下に降りた。海に面した庭は、こんなことのために作った訳ではないけれど、今は心底作ってよかったと思える。
抱えた服を芝生の上に投げ落とす。高級な布地が、てらてらと上品に光っている。ちょっと名残惜しいが、作り直しだ。それでいい。口座の残高を思い出しながら、地面に防火の魔法と、衣服に向けて火の魔法を放った。
基礎的な火の魔法は、何の魔術的処理もされていない布に対しての効果は抜群だ。ふわ、と大きくなり、すぐさま布の山は黒い煙と、赤い火を吐き出した。
室内につながる窓辺に座って、買ってきた酒を開ける。人工的な甘味と、舌に妙に残る苦味。とんでもなく不味いけれど、そういえばイデアさんはこういうものを案外好んでいた。ジャンクで、安っぽくて、わかりやすい味。式で出た料理は随分いいものばかりだったけれど、彼は楽しめただろうか。それを気にする権利は、もう僕のものではない。もう、もなにも、僕のものだった瞬間など一度たりとも無かったのに、勝手に自分のものだと思い込んでいたにすぎない。
袋の中から煙草を取り出し、パッケージを眺めてみる。包装の薄いビニールを破って箱を開けると、かすかに煙草独特の、甘いような苦いような香りがする。嫌いではない、が、舌に影響が出ると困るので、一度か二度経験として口にしてからは吸っていなかった。
一本抜き出し、口にくわえる。
「ライター……」
ふ、と視線が吸い寄せられる。目の前では布の山が、ごうごうと燃え盛っている。そっと近づいて、煙草に火を灯した。顔を炙られるような熱に、眼球がちりちりと乾く。好都合だ。いつもより多く溜まった水分を、このまま蒸発させてしまいたい。
窓辺に改めて座り直して、煙を吸い込んだ。ぐわん、と脳の揺れる感覚。舌に残る嫌な苦味。嗜好品というけれど、どう楽しめばいいのかも僕にはわからない。
細くのびては消えていく煙を目で追って、それからまぶたを閉じた。照れたような、ちょっと俯いて笑う顔。真剣な顔。身内にしか見せない、甘さの滲んだ顔。僕だけが知っていたいと望んだそのどれもが、今日、他の誰かのものになった。それだけのことで、こんなにもボロボロになってしまう自分が嫌で、僕はまた煙草を吸い込んだ。
その日の顛末
はつはつと黄金の油の中で、こんがりと衣をまとった鶏肉が泳ぐ。いち、に、さん、と数を数えて、止めた。隣のバットには、二度揚げ待ちの浅い色をした唐揚げが山を作っているからだ。
「ねえフロイド、これ作りすぎじゃあありませんか」
「そお?」
ぐるん、とボウルの中身をかき回し、出来上がったサラダにつう、と落としていく。オリーブオイルをベースにしたドレッシングは、黄緑とも黄色ともつかない絶妙な植物の色をしている。そのさわやかな味わいは、二人ともがとうに知っていた。なにせ、この日が来るまでに散々試作を繰り返していたので。
「別にさあ、アズールひとりで食べるってわけじゃないんだし、いいんじゃね」
「まあひとりでも食べきるとは思いますが」
「でしょ? じゃあやっぱりいいじゃん。あ、サラダできたー」
「あとなんです、唐揚げはもうじきできますよ」
「サラダでしょ、スープでしょ、唐揚げがあってーデザートは仕込んであるし……ドリンクもう作っていい?」
「お願いします」
じ、と油に目線を落としたままのジェイドを、フロイドは気にも留めない。だって唐揚げは揚げ具合が命だ。少しでも揚げ具合を間違えようものなら、アズールは無邪気に首を傾げて、そっとカトラリーを置くだろう。罵倒や嫌味が飛んでこないのならましだと思う人間もいるかもしれないが、なにも言われない方が傷付くことだってある。
ドリンクと言ったって、やることといえばデコレーションぐらいだ。冷やし固める必要があったので、あらかじめグラスごと冷蔵庫へ入れていたドリンクを取り出す。下の青はブルーハワイのシロップで、上の薄金はスパークリングタイプのアップルジュースだ。アップルジュースの方に少しゼラチンを入れているので、ゆるいゼリー状になっているはずだ。固まり具合を確認したフロイドが、バランスを見ながら慎重にさくらんぼを乗せていく。
「唐揚げもできました」
「ジェイドえらぁい。こっちもオッケー」
ひょいひょいと大皿料理とドリンクをトレーにのせるフロイドは危なげもなく、ジェイドもいくつもの取り皿を抱えている。
「喜ぶかなあ」
「当然でしょう」
人数は少なくとも、彼の実家での祝い方にできるだけ似せたのだ。喜んでもらわなくては困ってしまう。
ふたりは顔を見合わせ、似た顔でにんまりと笑った。
*
「アズール・アーシェングロットさんの誕生日まであと二日だよ!」
「兄ちゃん君をそんな慈悲のないリマインダーにした覚えはありません」
「兄さんが急かしてくれって言ったんじゃない」
「ごめん」
ぐ、と口を引き結ぶ。彼の誕生日まであと二日。プレゼント入手のタイムリミットまで、あと二日だ。
「アズール氏何貰ったら喜ぶかなあ」
「兄さんのプレゼントしたいものじゃダメなの?」
「ううん」
それでもいいんだけど、とイデアは自身の誕生日に貰ったマグカップに視線を注ぐ。それでもいい。それでもいいけれど、できれば喜んでもらえるものがいい。しかし彼に喜んでもらえるようなプレゼントのあてなんて、イデアの抽斗にはとんと入っていないのだ。無償労働も現金も喜ばないだろうしなあ、と考えているあたり、万策尽きた感がある。
「僕なんかが食器プレゼントしても鼻で笑われそうだし」
「流石にそんなことはしないんじゃないかな」
「そうかな」
「うん!きっと笑顔で受け取って、棚の奥の方に大事にしまっておいてくれるよ」
「それ使われないやつじゃん」
この期に及んで弟が辛らつだ。兄は悲しい、が泣いている場合ではない。悲しみは乗り越えるものだと、色々なアニメやゲームも言っている。
うんうんと唸って、頭をひねって、けれどひとつだけ、プレゼントしてみたいものはあるのだ。それこそ本当に、イデアだけが楽しい可能性だってある。プレゼント、というのもおこがましい、ただの押し付けかもしれない。
「あのさ、オルト」
「うん?」
「……ボードゲームってさ、プレゼントしたら喜んでくれる、かな」
途端、ぱ、とオルトの顔が華やいだ。おおきな瞳がきらきらと、いつもより多めに輝いている気がする。小さな機械仕掛けの手がイデアの骨ばった手を取り、ぶんぶんと上下に振った。
「いいと思うな! アズールさんも、きっとすごく喜んでくれるよ!」
「そうかな……何このオタク自分の趣味押し付けてんだって思われるんじゃないかともう気が気じゃなくて」
「そんなことないよ。だってアズールさん、兄さんや僕とゲームしているとき、すごく楽しそうだもの」
「そう?」
「うん!」
青い炎を宿した小さな頭が、こっくりと振られる。それだけで、イデアはいつだって何もかもが上手くいくような全能感を味わうことができる。
「……よし、とりあえず本当に時間ないから、購買部に」
「僕も行くよ」
「ありがとね」
にこにこと笑う弟の手をぎゅ、と握って、イデアはいつものパーカーをいそいそと羽織った。こんなにやる気に満ち溢れた外出は、彼にとっては随分珍しいことだ。
*
今日は実に良い日だった。
ベッドに腰かけ、スマートフォンをチェックしながら、アズールはこれまでのことを思い返していた。朝から祝いの言葉は沢山もらったし、クラスメイトからいくつかのプレゼントももらった。これは予想外だったので素で驚いてしまったが、まあいいだろう。
無理やり隣に座ったジャミルからは、不審げな一瞥と素っ気ないお祝いしかもらえなかったが、まあそんなものだろうと思っていたのでそれでいい。アズールの中では、来年にはプレゼントの受け渡しができるようになっている予定だ。
やっぱりメインは部活と、ディナーだろう。
イデアはもしょもしょと何事か言い訳じみたことを言いながらも、アズールの好みそうなボードゲームをくれた。基本的に人と関わろうとしない彼が、誰かと一緒に、対面しなければ遊ぶことのできないボードゲームというものをプレゼントしてくれたことそのものが嬉しかったのだ。明日以降説明書を熟読し、初戦からブチ負かす計画である。
双子の主催したディナーパーティは、ささやかながら実家のそれを真似てくれたのだろう。今日ばかりはカロリーを気にしないと言いおいたのは確かだが、山盛りの唐揚げが出てきたときには、一瞬こめかみの辺りを引きつらせてしまった。結局全部、三人の胃の中におさまった訳だが。こういう日のために、普段の摂取カロリーを抑えているのだから、問題はないはずだ。
楽しかった。幸せだったと、久しぶりに心の底から思う。祝われるのは良いことだ。嬉しいことだ。生まれたことを祝福してもらえるなんて、それはなんて素晴らしいことだろう。
ぶうん、とベッドに置いた端末が低く唸る。アズールの口元が、思わず緩む。年相応のやわらかく、幼い笑みだ。震える端末をうやうやしく持ち上げ、表示されている名前をそっとなぞってから、通話アイコンを押した。
「母さん、」
右の耳に届く聞きなれた声に、ふ、と息を吐いて、アズールは目を閉じた。次に帰るときには、きっと鉱物が皿いっぱいに準備されていることだろう。本当に、今日は実に良い日だ。
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※2021/02/27にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです Twitterで書き散らしていたイデアズやイデ+アズの小話まとめ |
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