festa musicale [ act 1 - 9 ] |
「でさー、十六拍伸ばして四拍吸って、って言うのでもっと音を安定させたいんだけど、コツ教えて!」
「俺はダブルリードどころか木管すらやったことないんだから、そんなの分かるわけないだろ」
日曜日の昼下がり。場所は”空”。
なぜか開店と同時に灯が入ってきて、俺に対して演奏技術を伸ばすための質問をしまくるという事態になっている。
確かに日曜日は暇だけど。 でもずっとお客さんと話していて良いというわけでもない。 一応テーブル拭きや皿洗い、床磨きに窓磨きに豆の在庫チェックと発注、などなどエトセトラの多種多様な仕事が待っているのだ。
「でも、ペットとオーボエならつながるところはあるでしょ? 同じ管が細い楽器同士さー」
足をばたばたさせながら灯が言う。 ガキっぽい。
「まあなー…とりあえず、腹筋鍛えろ」
「やだ」
「どうして」
「腹筋割れちゃう。 女の子としてそれはどうなの」
確かに、女の子で腹筋が割れているのはあまり見栄えが宜しくはない気がする。 女性で腹筋が割れてて良いのは陸上選手など、本気でやっているアスリートくらいで充分だろう。
「でもある程度は仕方ないだろ? ちょっと鍛えてみるだけでもぜんぜん変わってくるから、とりあえず毎朝走りこむのが一番効果的だ」
もっともな意見だと自分でも思う。 しかしそれで納得するような灯ではない。
「いや、鍛えすぎるのは良くない!」
「鍛えすぎなところまで鍛えろなんて誰も言ってねー」
「いや、聞こえたね。 最近冷たいよー?」
「そんなことねーよ」
いや、どきり、とした。
顔には出ていないと思う。 でもとぼけているようでしっかりと人を見ている灯のことだから、何かしら感づいてしまうかもしれない。
「そんなことないけど、コンミスになるんだったらそれくらいは出来ないと、演奏を預けられないだろ? コンミスって言ったら指揮者の次に権限持ってる人なんだから」
「それ内容聞いたけど、ただの中間管理職的なイメージしかないんだけど」
確かに、コンミスになれば部員の意見をまとめて、指揮者に伝えることや、時には指揮者と対立してまで演奏を良い方へと持っていこうとする度量も必要になってくる。そういう意味では中間管理職的なイメージがついてしまうのも当然といえば当然なのかもしれないが、
「それでも、コンミスは誰よりも上手く、誰よりも努力して、信頼されなきゃいけないんだよ」
と、本来灯が聞きたかったであろう答えとは別の、正論を言う。
「…やっぱり」
と、灯が呟いた。 注意していないと聞こえないくらい小さな声で。
灯が帰るちょっと前に、新見が遊びに来た。
「よーっす、コーヒー飲みに来たー」
「いらっしゃい」
「じゃあ私そろそろ帰るね」
「ん、そうか? じゃ、いつもどおりで」
いつも通り、三百円を置いて灯が出て行く。
「…?」
新見が何か不思議なものを見たかのような目をして、自分がたった今入ってきて、灯がたった今出て行った扉を眺める。 こいつも勘が鋭い。
勘が鋭いから、現実をズバッと一刀両断してくる。
「君ら、ケンカかなんかしてんの?」
こんな風に。
「いや、してない」
「ホントか? 馨が忘れてるだけなんじゃないの?」
「ホントだよ」
ホントじゃない。 心当たりならある。 悪いのは多分俺で、それを灯は自分のせいだと誤解している。
そして目の前の新見は、俺のこの正体不明の感情を引き起こした原因の人間と同じバンドを組んでいる。 ここまで状況がそろっていて、この男が気付かないわけがないのだ。
だけど、それを解決するのは今じゃなく、俺の気持ちが全て片付いてからじゃないといけない。全部片付けて、洗いざらい清算するときが、謝るときだと思うから。
いつもの新見なら、この後も引き続き内容を聞いてくるはず。 そう身構えていたが、
「そっか」
とだけ言って、追求してこなかった。 触れられて欲しくないところだということを肌で感じ取ったんだろう。
それが出来るのが新見という男で、そういう繊細な感情を理解し、表現できるからこそ、SLEEKというバンドは歌で有名になれるのだ。
「まぁ、とっとと解決しろよ? とりあえずコーヒー」
と、席に着いて、いつものように注文してきてくれるのが、ありがたかった。
「ふぅ…」
珍しく閉店後に店長とゲームをしてしまった。 最近はあまりなかったけど、バイトに入りたての頃はよくやっていたから、少し懐かしかったこともあってか盛り上がった。 まぁそのせいで家に着く頃にはもう十二時を回っていたけど。
とりあえず一息つくためにコーヒー用のお湯を沸かす。 その間にパソコンの電源を入れ、メールをチェックする。
と、灯からメールが来ていた。
灯は普段はメールにタイトルをつけない。 めんどくさがりだからだ。
その灯が、
――『ねぇ』
と、タイトルを打っている。
ドクン、と。 心臓が飛び跳ねた気がする。
しばらく身動きが取れなかった。 お湯が沸いたときの音にビックリするまでは、一歩も動けなかった。 手には汗。一体何のようだろか。
とにかく今は沸いたお湯を無駄にしないためにもコーヒーを淹れて、少しでも落ち着くべきだと、頭の中でもう一人の俺が警鐘を鳴らしている。
(灯が、わざわざタイトルをつけてメール?)
とは言ってもコーヒーを飲んだくらいでこの焦燥感が収まるわけがなく。
意を決して開いてみる。
そこには、
――『ほんと、なんかあったでしょ。 今日のコーヒーも味が違った』
俺はそのメールを見たとき、衝動的に電話をかけてしまった。
やめておけばよかったと、電話を切ってから後悔したんだ。 だけど後悔先に立たずという言葉があるとおり、電話をかける前に後悔することは出来なかった。
『…もしもし』
「灯か?」
『そうだけど…ケータイにかけてるんだから確認する必要なくない?』
なぜだろう、そんな言葉にもイライラしてしまう。
「どうでもいいだろそんなこと。 そっちこそ意味わかんねぇメール送ってきやがって」
そんなことを言いたいんじゃない。
『でも、本当にそう思って心配してるんだから仕方ないじゃん。 相談してよ、力になれるかは分からないけど―――』
「なれるわけないだろ」
電話の向こうで、灯が息をのむのが伝わってきた。
『…どうしたの? いきなり声低くなって、ちょっと怖いよ』
「うるせぇな、関係ないだろ」
初めて、灯のことを「うっとおしい」と感じた。
それまでは二人で会話しているときにそんな感情はなくて。
ただ自分をさらけることが出来て。
楽しくて。
そんな関係がずっと続けば良いと思った。
そんな関係を、俺はいま、ぶち壊しにしようとしている。
『そんな言い方…!』
「大体だ、お前は俺のなんなんだよ?」
そうだ、なんなんだ。 恋人でもないくせに。 自分で自分を擁護する。
『私は、馨の親友だよ』
「あぁ、そうだな、恋人でもなんでもないよな」
『…何、言ってるの?』
何言ってるんだ、俺は。
自分でも意味が分からない。
でも、あのメールが来た時点で俺の心の壁は完全に崩れ去っていて。
流れ出る濁流が言葉の暴力に変わってひたすらに灯を攻め立てる。
「俺、お前と仲良くしすぎたかもな」
『…はぁ?』
「お前が俺にべったりくっついてくるせいで、お前のこと狙ってるやつとかがお前にちゃんとアタックかけられないんじゃないか? こないだだってSLEEKのギターと普通に仲よさそうに話してたけど、あいつお前のことホントに好きそうだったぞ」
何を言っているんだ。 あることないこと。
そんな話は聞いていない、作り話だ。
でもあの時、俺はそう感じた。
大体灯ほどの女を放っておく大学生がどこにいる?
男なら、と思うだろう。
なんで灯の浮いた話が一個も出てこない?
そんなの決まってる。
俺がいるからだ。
「もうさ、俺にべったりするのやめろよ。 大学に入ってからもうだいぶ経つんだから、俺以外のやつと遊ぶことも覚えろよ」
『……』
「俺と一緒にいても音楽しかないぞ。 あ、コーヒーはある。 でも恋も出来ない、勉強も疎かになりかねない、下手したら」
『もういい』
「あ?」
『もう良いよ…やめてよ…』
「…」
『分かったから…』
泣いている?
『ごめん、らしくなかった』
そう言って、灯は電話を切ってしまった。
説明 | ||
ついに運命のときがやってきました。 馨の選択は正しかったのでしょうか。 |
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