歪の檻と杯 2 |
環織都2
「織都ー、かーえーろっ!」
にこにこと、不気味なほどに明るい笑みを浮かべている香槻は、廊下から顔を出している。すでに帰り支度を終えてしまっているのだろう。肩で溜め息を吐きながら、鞄を閉じる。
「わかったよ」
家や塾で使わない教科書たちは机の中に入れっぱなしにしておく。毎日毎日、五教科の教科書を持ってくるのは辛い。なるべく持ち帰るようにはしているが、どうしても無理なときは引き出しに一教科だけ置いていく。さすがに、他の誰かのように思いっきり置いていくほどの勇気は無かった。
彼らのようになりたくない気持ちもあるが、『優等生』というレッテルに合わないから、という理由もないわけではない。結局、居場所を失くしたものが負けなのだ。
廊下を通って昇降口のすぐ傍。ブツッ、というスピーカーからの小さなノイズ。発せられたのは教員三年目の広瀬智明の声。若くて気さくで、けれども上の立場としての威厳も失われていない、そんなよくできた教師だった。
「二年、坂原香槻くん。応接室に来てください」
呼び出しをくらった当の本人は、気にする事無く飄々と自分の靴を取り出している。
気にすることではなかったが、訊いてはいけないことでも別に無い。
「おい、行かなくて良いのか」
「んー、まあいいでしょ。毎日会ってるし」
広瀬教師は自分のクラス、一組の担任だった。
「今日は早く母さんのお見舞いに行きたいしね。ちゃんとした理由があるんだから、まあ多少は大丈夫でしょ」
昇降口を通って、通路を通って校門へと出る。校外に出ればすぐに人通りの多い交差点や住宅街が広がる。だが、すぐ近くの住宅街に住む生徒はこの校ではあまりいない。近い、という理由だけで入学できるような、生半可な学校ではないからだ。
横断歩道の前で信号が変わるのを待つ。周りには数人の同校の生徒。部活に入っていない生徒の数はそう少なくない。もともと水瀬中学、という肩書きの為にわざわざ遠くから受験して登校してきている生徒がほとんどで、何らかの志があって来ている生徒は数えるほどしかいないだろう。部活に専念する熱意よりも、いかに自分が今の成績を保ち、上に食い下がれるかが大切なのだ。
「おい、織都」
声を掛けられてすぐに、肩を引っ張られたかと思うとすぐに前に突き出されるように押される。反動で白と黒のコントラストを踏み越えようとする身体を慌てて支える。
ブロロ、と目の前を大型トラックが通り過ぎる。思わず、冷や汗が出た。
「おい、あぶないだろ!? 何考えてるんだ!」
背後で香槻が、肩を押したらしい人物に罵声を浴びせる。そちらを向けば、見覚えのある顔ぶれ。先程まで、校庭でサッカーをしていた二組の男子生徒数人だった。その表情は全て、何処かで嫌悪を抱いている。
それを見て、何も思わない自分に嫌気が差す。慣れているだけ、という一言で済む問題ではあるが理解と納得では全く意味が違うのだ。苦しくてたまらない。
「坂原、大丈夫だ。……別に構わないしな」
まるで嘲笑うかのような笑みを浮かべてやれば、彼らの怒りは一層膨らむ。だからと言って、彼らにそう目立った反撃など出来やしない。ここは、大変な思いをして入学までこぎつけた、己を監視する学校のすぐ近くなのだから。
怒りも嫉妬も、くだらない。どれほどそれを膨張させたところで、そこには虚無しか広がっていない。そんな感情を抱くのは、ただひたすらにそれしか出来ない馬鹿だけだ。そう思えば、少しだけ胸の中の霧が晴れる。
「織都、」
「早く帰るぞ」
言葉を遮ってしまえば、その言の葉は意味などを持たない。信号は変わったのだから、進まなくてはならない。立ち止まれば、全部においてかれる。
はやく。
――はやく、ここからにげださせて。
『裏切るのは簡単、信じるのは難関』
坂原香槻2
会話が無い。
半透明な壁が、確かにそこに存在している。見えそうなのに、けれどやはり見えない、壁が出現している。安易に飛び越えようとすれば、逆に遠のくばかりだ。
「織都、僕は」
「なんだ?」
まるで何でもないようにしている声のずっと奥は、震えてなどいないのだろうか。平気な顔をしていれば、なんでも解決するわけではない。どうしても君の本当の心が見えない。
不器用だからと言って、関わっていけないのは哀しいことではないのか、と思う。手を伸べることは、彼にとって苦痛なのかもしれないね、とも思う。
けれど、自分の立ち位置を変えるつもりなどなかった。自分の意志を変えることで、彼が救われるなんて、絶対に思わない。
「君が何を思っていても、僕は彼らに怒りを抱くよ」
彼は酷く驚いた顔をした。何故かなんて想像つかない。ただひたすらに、先程の彼らに怒りを覚える。何をしたと言うわけでもないというのに、勝手な被害妄想で、軽い気持ちで人を殺そうとする。誰も、彼の本質を見ようとなんて、しない。
どうしようもなく空しくなることばかりだった。
二つ目の大きな道路。ここには信号が無く、車の通りを見計らって渡らなければいけない。故に事故が多く発生している。
けれど、未だに信号や歩行者用の何らかの措置が取られる予定はない。近くの住人ももう、そんな期待を捨てている。きっと、ここはずっと変わらないのだろう。
車が目の前を通り過ぎる。先程の出来事を思い出して少しだけ苦い顔になった。一歩間違えばどうなってしまっていたかを考えて、怒りが僅かに盛り返す。静寂を前に、全部を壊してしまいそうな衝動が、胸を突く。
「織都。ねえ、君は――」
言葉は続かない。不思議そうな顔をして織都が顔を覗いてきていたが、それを気にする余裕すらも、どこかへ飛んでいってしまっていた。
横断歩道に飛び出したスカートの裾が、目に付く。考える暇もくれず、身体は自分の信じる道を守ろうと勝手に動き出す。奔れ、ただ速く。
「香槻!?」
織都が顔を上げて自分の背後を見やるのを感じる。平淡な、抑揚の無かった声に感情が篭る。そういえば、彼に名前を呼ばれたのは、初めてかもしれない。少しだけ、嬉しく思う。だが今は、そんな場合ではなかった。
道路の真ん中で停止している女子生徒の腕を掴む。引き返そうか、そのまま向こう側に行ってしまおうかと少しだけ迷い、直進を選ぶ。
車はすぐそこまで迫っている。彼女の腕を、一層強く握りしめた。抵抗する力も、従う力も、彼女には残っていないようだった。けれど今はそれがありがたい。誰かが苦しんでいる姿を見るのはもう散々だった。
流れる髪が美しい、――孤高の鷹の姿がそこに在る。
死んだように止まった鷹は、ただ静かだった。
『命の先に喜びを見つけよう』
野摘英花2
「坂原、大丈夫か」
隣の彼に、環織都は話しかけている。坂原――香槻か。そういえば、隣のクラスにそんな名前の男子がいたような気もする。よくは、覚えていない。興味も無かった。
「うん、僕は大丈夫。君は?」
無垢そうな笑顔を向ける男子に、思わず身の毛がよだった。嗚呼、嫌だ。偽善者に関わるとろくなことにはならない。早く帰りたい。
「ええ。おかげさまで」
表面上だけの言葉をすらすらと喋るこの口は、物心ついたときから便利だった。この二枚舌は、ひとえに親の教育の賜物だろう。少しくらいは、感謝してもいいかもしれない。ほんの、少しだけ。
けれど、それだけで全部に納得できるわけではない。許せないことだってあるし、苛立ちを感じずにはいられないことだってある。
「ここらへんは信号がないからね。気をつけたほうがいいよ」
そんなことはとうの昔から知っている。わざとだ。
「ご忠告ありがとう。今度から気をつけるわ」
本当に、この二枚舌には助けられてばかりだ。人の気に障らない、ものの言い方。誰からもできるだけ好かれるような、物腰。嗚呼、考えるだけで笑える。
くっだらない取り繕いで人間関係なんて四方八方に分かれてしまう。その境界に存在しているものは、何だと言うのか。
「それじゃあ、私は用事があるから。……ありがとう」
折角、義務から逃れられると思ったのに。こんな退屈で無機質な世界から、逃げられると思ったのに。
きっと彼は、世界が素敵だとでも思っているのでしょう。間違いなのに。
それでも私が私である限り、私が私として生きていく限り、義務だけは一生付きまとう。逃れられるとは思わないし、事実今現在でも逃れられていない。それが何よりも信用のできる確かな答えだった。
多分、それが真実。
どれだけ溜め息を吐こうとも、誰かが赦してくれるわけじゃない。赦されたいとも思わない。一体誰に、誰が許しを乞えと言うのだ。一体私が何をしたと言うのか。
どちらにせよ、現状は変わりはしないというのに。逃げることも納得することも、何もかもが許されていない。
空を仰げば、溜め息と共に憂鬱が広がった。厚い雲に覆われて、太陽の光なんて見えない。
曇天が広がっていた大空から、一筋の光が差す。
曇り空から覗き始めた素敵な青空を、無粋な月が掻っ攫う。
うんざりするほどに、光なんて見えない。
『酷く曇天で、けれども晴れはじめた空を』
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とある場所の、とある学校で。 世の無常を嘆いて、歪んでしまった学生達の物語。 |
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