Far and away 第七章ー脱出 |
クロエの目線を辿ると、舳先をぼんやりと見つめていた。藍色の髪の残像を追っているのだろうか。熱が下がってやっと外に出られたというのに、今度は使い物にならなくなってしまった。それでも誰も何も言わない。キジが声をかけようとした時。
「なんだありゃあ」
見張り台の仲間が大声をあげた。その方向を見ると、中型の船が二隻、それを取り囲むように小型の船が六隻ほどこちらに向かってくる。
その帆に描かれているのは宮廷の紋、赤い鳳凰。
「ティエンランの宮廷海軍!」
かの有名な弱小海軍!
仲間は騒然とした。これを機会に嬢ちゃんをあちらに引き渡して…、いやどうすればいいんだ、頭領は鼻で笑って立ち向かうに決まっている。
案の定、アナンは一笑で片付けた。
「しゃらくさい、軟弱海軍が。砲を叩きこんで脅かしてやれ」
仲間たちは戸惑いつつも、砲の準備をしだした。にわかに慌しくなる。
海軍は恐るべき速さで、こちらに近づいてくる。そしてある程度の距離になると、二手に分かれた。小型船は二隻ずつ、三位置についている。
「大砲準備!」
頭領の声と共に、轟音が響き渡る。しかし、微妙な距離でかすりもしない。まるで砲を誘っておちょくっているようだ。
「頭領、旗信号です!」
「何をいってきたんだい」
「…陛下を、嬢ちゃんを渡せと…」
海賊たちは固唾をのんでそのやりとりを聞いていたが、男の伝言を聞いた頭領の顔に慄然とした。
「誰が渡すか!妹はわたしのものだ、全員戦闘位置に付け!皆殺しにしてやる!」
全身から怒りを発している頭領を初めて見た。寄れば瞬殺される、そんな殺気すら放っていた。
いつも、穏やかで落ち着いている男が。
それでもリウヒを逃すのは、いまが一番いい機会かもしれない。いや、今しかない。
キジは近くにいたクロエと他二人の男の肩を掴んで小声で言った。
「リウヒを逃すのは、今しかない。お前ら頭領の注意を惹きつけてくれ。おれは部屋の鍵を開ける」
二人の男は了解した風に頷いたが、クロエは顔色を変えた。
「そんな、キジ!リウヒを逃がすなんて…」
「ならお前も一緒に行け」
「な…!」
「リウヒと宮へ戻るも、ここに残るのも、お前が考えて決めろ。いいな」
そして急ぎ、頭領の部屋に向かう。幸い頭領は後甲板で死角になって見えない所にいる。
扉の中からやたらに叩かれる音がした。
リウヒが宮廷海軍に気が付き、出ようと暴れているのだろう。
針金で鍵を開け、扉を開ける。と、椅子を振り上げたリウヒと目があった。
「リウ…!うおおう、止まれ!おれを殺すな!」
「キジ!」
どんがらがらがっしゃんと椅子を放り出したリウヒは、そのまま抱きついてくる。
「キジ!キジ!」
「馬鹿こら離せ!今それどころじゃねえ!」
慌てて引き離そうとすると、後ろから痛い目線を感じた。
「キジ…。やっぱりお前…」
クロエが呆然としたように立っている。
ああああ、なんて間の悪い!
リウヒはよほど混乱しているのか、キジに抱きついたまま、泣きじゃくっている。
ああー。泣きたいのはおれだよ、リウヒー。
「ああもう、馬鹿!馬鹿二人!だから今は、それどころじゃねっつてんだろ!」
その声に、二人ははっとしたように、顔を上げた。リウヒもキジから離れた。
「ご、ごめん…。キジの顔みたら安心しちゃって…」
「仕方ないよな、怖かったんだろ」
キジの手が慰めるようにリウヒの頭を撫でる。
「だから、今は、それどころじゃあないんだろう」
後ろでクロエがイライラした声を出した。
「そうだ、兄さまは」
「後甲板にいる。この辺は死角だから見えないけど…」
「どうやってあそこまで行くか」
リウヒが指を噛みながら彼方を見た。泳いで行くには遠すぎる。第一この子、泳げるのか?
「泳げない」
「おれも」
あっさり二人は首を振る。
「じゃあ、小船を下ろしていくしかないな」
キジがため息をつきながら提案した。
「あれならなんとか…」
「なんの相談をしている」
キジたちはその声に、ビクリと身をすくめた。恐る恐る振り返ると、冷たい怒りの冷気を発している頭領の姿があった。後ろには男二人が、すまんというように手を合わしている。
「お前たちときたら…わたしは悲しいよ」
「頭領、この子は宮に帰るべきだ」
キジの声に、頭領の眉が上がる。
「それを決めるのはお前じゃない。わたしだ」
ゆっくりこちらに歩いてくる。当てられたように、足がすくんで恐怖がせりあがってくる。
「リウヒ。おいで。部屋に戻りなさい」
「嫌です」
低く落ち着いた声がした。
思わず、キジとクロエはその顔を見る。リウヒははっきりと兄の顔を見据えていた。
頭領、小型船が至近距離まで接近、と遠くから声がしたが、頭領は聞いてないようだった。
「我儘をいうんじゃない。部屋へ戻れ」
「嫌です」
いきなり横へ駆けだした。そして手すりによじ登りそこに立ちあがってふんばった。
駆けよった頭領やキジたちを、静かに微笑んで見下ろしている。
風になびく髪や深紅の衣がゆっくりとはためいて、一瞬時間が止まったように感じた。
気品すら漂うその姿に、キジは思わず感嘆した。
なんてきれいなんだ。
きっとまわりのみなもそうだっただろう。その証拠に誰も動かない。
「リウヒ…危ないからおりなさい」
頭領の声がする。先程の怒りは欠片もなく、狼狽した声だった。
「兄さま」
「お前はどこに行く気だい…」
「約束破ってごめんなさい」
「一生わたしの横にいると言ったじゃないか…」
「兄さま、さようなら」
沁みるような笑顔を残すと、そのまま後ろにゆっくり倒れた。
「リウヒ、リウヒ!」
兄の手は空を掴み、赤い衣が落ちてゆく。
キジが躊躇いもせず、身をひるがえしてその後を追った。落下してゆく娘を追いかけて。
あんの馬鹿!泳げないくせに、自分から海に落ちるんじゃねえよ!
アナンもすぐさま手すりに足をかけたが、海賊たちに押さえつけられた。男たちが団子になって腕や足に飛びつき、甲板に引きずられるように戻された。
「離せ!離さないか!リウヒが、リウヒが…!」
もがき手すりへ行こうとする頭領を男たちは必死になって止める。
「頭領、嬢ちゃんは帰してやってください」
「あの子は帰るべき所がある」
口々に懇願しながら暴れる男を押さえつける。
アナンは絶叫した。まるで子供を殺された獣のような、悲痛な叫び声だった。
海中で長い髪がそよいでいる。宙に浮いているかのように、光の柱が射す中を闇へとゆっくりとおちてゆくリウヒを目がけて、キジは死に物狂いで泳いでいった。
衣が邪魔で、うまく手足が動かせない。それでも水中で脱いでいる時間などない。
無我夢中に掻いて細い体に手を回し、上昇しようとすると髪や衣が水を含んでいるのだろう、とてつもなく重かった。
藍色の髪が、ゆらゆらと漂う。まるで深海へ誘っているようだ。
眠るような白い顔を見ながら、ふと思った。
なあ、リウヒ。
深い海の中、一緒に沈んで海の藻屑となろうか。誰もいない静かな海底で。
朽ち果てた体は、海の一部になり消えてゆくに違いない。
それでも抱き合い一体となって、冷たい海の塵になればいい。
おれとお前の二人だけで。
誰にも邪魔をされずに二人だけで。
永遠にただ二人だけで。
その時、頭上に影がよぎった。宮廷小型船の黒い船底が見えている。
正気に戻ったキジは、重い体を抱えて再び上を目指した。
馬鹿!おれの馬鹿!今、何を考えていたんだ!
「大丈夫か!」
声をあげて水面から顔をだしたキジに、宮廷の小型船がよる。リウヒが引き上げられ、自分も助けられながら乗り込んだ。
「場所を開けてくれ!」
叫びながら意識を失った少女を仰向けに横たえる。不安定な小舟の上だが仕方がない、事態は一刻を争う。
「リウヒ。おい、リウヒ!起きろ!」
耳元で怒鳴っても何の反応もしない。顎を上に持ち上げて、呼吸を確かめたが息はなかった。
「ああ、畜生、死ぬなよ。死ぬんじゃねえぞ」
小さな鼻をつまんで口に息を送りこみ、つましい胸の間を両手で何度も体重をかけて押す。
「お前あんとき、おれのおかげで目が覚めたって言ったじゃねえかよ。早く目を覚ませよ、覚ませ、馬鹿やろう」
もう一度、同じ動作をして再び両手で押す。
「お前はあそこに戻らなきゃいけないんだろう。頼むから死なないでくれ。おれの前から消えないでくれ。おれを残していくな。そんなん許さねえぞ」
瞬間、リウヒが、口から水を吐き出した。うっすら目を開ける。
「…ジは」
「気が付かれましたか、陛下!」
周りの男たちが声をあげた。
「キジはどこ?」
「ここにいる」
僅かに上がった白い手を、キジの手が浚うように掴みかき抱く。
「ここにいるから」
「キジ…」
安心するように微笑んだ。黒い瞳はまっすぐ自分を見つめている。
よかった。本当によかった。生きていて。
「お前、いきなり飛びこむなよ…。泳げない癖に。驚かすんじゃねえよ…」
声が震えているのが分かった。かがんで覗き込みながら、リウヒの顔に張り付いている藍色の髪をとってやる。
「でも、キジが助けてくれた」
その声はか細かったが、とても嬉しそうに聞こえた。
「ありがとう、キジ。…ねえ、キジ、泣いているの?」
「泣いてなんかねえよ、馬鹿。海水が目にしみているだけだ」
白さを通り越して、青くなっている頬を撫でる。リウヒは甘えるように目を細めた。
「お取り込み中失礼いたします、陛下」
突然、厳ついおっさんがにょっきりと顔を出してきて、キジは悲鳴をあげて身を引いた。
船は、左将軍のいる中型船の近くまで来ており、そこに回収されるという。
「じゃあ、まずこいつを連れて行ってくれ。水をすってものすごく重いんだ」
「嫌だ、キジがいい」
「無茶言わないでくれよ、おれ、もう限界」
リウヒは口を尖らせて横を向いたが、そのまま眠るように意識を失った。
中型船の甲板に降り立つと、少女は沢山の人だかりに囲まれたまま運ばれて行った。
キジ一人がポツンと取り残される。
当たり前だよな。王さまだものな。
遠くなるリウヒをほんやり見送っていると、人だかりの中から、銀髪の男がキジの方に走りよって、いきなり手をとった。
あまりの勢いにキジは仰天する。何この人、ちょっと怖い!そんな目で見つめないで!
「陛下をあそこから連れ出してくれて、御命を救って頂いて心から感謝いたします」
「やめてくれよ。そんなんじゃねえ」
おれが助けたかったのは、陛下じゃねえよ。リウヒだ。
男は深々と礼をすると、駆けるように集団の中に戻って行った。
彼方を見る。物心ついた時から乗っていた海賊船は小さくなっていた。なんだか頼りないような風情で浪間に漂っている。
「本当にありがとうございました」
振り向くと、あの厳ついおっさんが立っていた。
「礼を言われるほどの事はしてねえよ」
それにあんまり感謝されすぎるのも、居心地悪いし。笑うとおっさんは、横にたってキジと同じ方向に目線を向けた。
「もう一人、海に飛び込まれたようですが。ただ今、奥で休んでおります」
クロエか。あいつも泳げないくせに。キジは小さく笑う。
「案内してくんないかな」
頷いてこちらです、と踵をかえすおっさんの後をいこうとして振り返る。海賊船はいつの間にか消えていた。
****
目を開けると、いつの間にか知らない部屋にいた。ここはどこだ。もしかして、また夢なのか。たしか、海に飛び込んだところまでは覚えている。
ゆっくり起き上がると、目の前にカグラがいて驚いた。やっぱり夢?
「陛下」
カグラが嬉しそうに、手を取った。
「よかった、気が付かれて。二日間寝たままだったのです。このまま意識が戻らなかったらどうしようかと…」
「カグラ?本当にカグラ?これは夢じゃないの」
「現実ですよ」
どこからが現実で、どこからが夢なんだろう。
「今、船はティエンランに向かっています。アナンの船から海に飛び込んだあなたを、青年が助けてくれたのですよ。その方と、もう一方の青年も一緒に乗って…」
「キジとクロエも乗っているの?」
リウヒの勢いにカグラは驚いたように、目を開いた。
「キジは?どこにいるの、ねえ!」
弾かれたように寝台を飛び降りた瞬間、クラクラした。
「ああ、まだ無理はできない体なのですから…」
それに今は深夜ですから、二人とも寝ています、と諭され、リウヒは不承不承頷いた。
「明後日にはスザクに着きますからね。それまではしっかり療養をしてください」
「はい」
大人しくこっくりと頷いて、リウヒは寝台に横になった。
「カグラは?」
「おそばにおります」
「それはいけない、カグラも休んで。今までちゃんと寝てなかったんでしょう、隈ができている」
「では、陛下が寝るのを見届けてから、部屋に戻ります」
「そう言われると、寝にくいな」
クツクツ笑って、枕に顔をうずめたリウヒだったが、すぐに寝息をたてはじめた。
船はすべらかに浪間をぬって、ティエンランへと向かっている。
説明 | ||
ティエンランシリーズ第二巻。 兄に浚われた国王リウヒと海賊の青年の恋物語。 「兄さま、さようなら」 視点:キジ→リウヒ |
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コメント | ||
天ヶ森雀さま:コメントありがとうございます!そうなんですよ、トモキが育て方を間違えた(笑)。(まめご) なるほど、状況が過酷とは言え、リウヒは甘えたですね。きっと過保護なお兄ちゃんの責任でしょう(笑)。(天ヶ森雀) 天ヶ森雀さま:アウチ!ミスりました(汗)。(まめご) |
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