Far and away 第九章ー別れ2
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リウヒは色を変えてゆく夕暮れの空と城下を、東宮の小庭園から眺めていた。もうすぐキジが来る。

心臓が小さく跳ねまくって、止まらない。祭りか。祭り状態か、わたしの心臓は。

ああ、簪は曲がっていないだろうか、襟はちゃんと抜けているだろうか。

そわそわと確認するように、手をあちこちへとやる。

が、ときめく感情とは裏腹に、心の隅っこは冷静だった。キジが言うだろう言葉も検討が付いていた。言ってほしくない、でもあの男は絶対そう言うに違いない。

「ごめんな、時間とらせちゃって」

「キジ!」

女官に案内されたキジが、頭をかきながらやってきた。女官はそのまま下がってゆく。

「居心地のいい場所だな」

「うん、気に入ってるんだ。眺めもいい」

ここから見えるティエンランの城下と、その先に広がる草原、山、そして端に見える海の光景をリウヒは愛していた。

「本当だ。すげえ」

風が緩やかに吹いて、簪の飾りが小さく鳴く。

「警備の者とかいないのか。やけに静かじゃねえか」

「人払いしてある。押し倒してくれてもいいぞ」

「するか馬鹿」

存分に本気を込めた冗談は軽く一蹴された。しばらく二人で並んで城下を見下ろしていた。

「おれさ」

キジがぽつんと言った。

「海に戻るよ」

ああ。リウヒは目を閉じた。ああ、やっぱり。

冷たい悲しみが足の先から這い上がって、体を侵食していくのが分かる。

「頭領がまた受け入れてくれるか分かんないけど、まあ、その時は他の船に乗るか、漁師にでもなってさ」

その声は笑いを含んでいて、とても楽しそうに聞こえる。腹が立った。

わたしはこんなに悲しいというのに、ひどい男。でも泣いて縋るのは嫌だった。

分かっている。

「キジの居場所は、あの海原の彼方なんだな」

「ああ。山でもねえ、宮廷でもねえ、海がおれの住処だ」

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「いかないで」

願望が勝手に口をついて出てきた。キジに向き直って、その顔に手が伸びる。

駄目だ、止まらない。

「いかないで」

お願いだから、いかないで。わたしの前からいなくならないで。

だって。

「わたしは、わたしはキジが、好…」

「それは違う」

キジが、差しのべられたリウヒの白い手を取った。黒い瞳を覗き込む。

「お前はさ、あの異様な状況の中で縋るものがほしかったんだよ」

今まで、大切に育てられて来たんだろう?怒鳴られた事も、はたかれた事もなかったんだろう?だから、びっくりして勘違いしたんだよ。まるでヒヨコが初めて見るものを母親と思いこむように、おれを特別視した。そうしてくれる人だったら、きっと、おれじゃなくてもよかったんだ。

お前は弱っちい女だからな。

沁みるような笑顔を浮かべて、キジの視線はリウヒの瞳から、その手へと移った。

「勝手にわたしを決めつけないで!わたしはキジが好き、理由はどうだっていい、キジが大好きなの!」

涙があふれてくる。泣いて縋るのは嫌だったのに。笑顔で見送りたかったのに。

キジは何も答えてくれなかった。黙って自分の手をリウヒの手に絡ませたままだ。それが答えなのだろう。

「小さな手だな」

自分の白くて頼りない手を、キジの日に焼けたゴツゴツした手が愛撫する。

節くれたキジの手を、リウヒは涙を滴らせながら見ていた。縋るように絡みつく自分の手と、それを包み込むように優しく絡まる男の手。踊るように縺れる白い指と茶色い指。

「一つ、頼みがある」

「なに?」

リウヒが濡れた顔を上げた。

「おれの名前を呼んでくれないか。お前のその声で」

「キジ…」

「もう一回」

節くれた指が華奢な指を撫でる。

「キジ」

「もう一回」

白い手を茶色い指の腹が這ってゆく。

「キジ!」

抱きつこうとしたリウヒの体を、キジの腕が浚い抱きしめる。噛みつくように口づけをされた。貪るように応ずる。何度も何度も深く。

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激流のような愛おしさの中でふと思った。

 

ねえ、キジ。

薄紅色の黄昏の中、一緒に溶けて空の塵となろうか。誰もいない静かな夕暮れ時に。

肉体は消えても、意識の一部は残るに違いない。だってこんなにあなたが愛おしい。

そのまま、戯れるように一体となって、天に昇って西へ行こう。

わたしとあなたの二人だけで。

誰にも邪魔をされずに二人だけで。

永遠にただ二人だけで。

 

キジの唇が離れた。

現実に戻ったリウヒの頬に涙が伝う。何を考えていたんだろう、わたしは。だけど、思うだけならいいじゃないか。せめて思うだけなら。

縋る自分の唇と体を、キジは静かに引き離してゆく。そして再び白い手を取った。

「ありがとう、リウヒ。お前がおれの人生の中にいてくれてよかった」

「キジ…」

このまま、わたしを残して去っていくのならば、一緒についてゆきたい。

海原の彼方へ。

でも、それは叶わない。王だから。ティエンラン国の王だから。誰も肩代わりできない、わたし一人にしかできない。恋する男について行く事もできない。

なんて不自由なんだろう。だが、それを選んだのはわたし自身だ。自ら国を、大義を背負った。全てをかなぐり捨てて、ここを出て行く事はできない。大義を果たす責任があるから。

キジの片方の手が伸びて、自分の涙をぬぐった。

「強くなれよ、リウヒ。そしてこの国を守れ」

ああ、大好きな男の顔。大好きな男の手。大好きな男の言葉。

リウヒが頷くと、キジは手を離した。白い手から、ゆっくり茶色の手が引き抜かれてゆく。完全に離れても、白い手は中に浮いたままだった。

一度も振り返らずに遠ざかってゆく男の背中を、リウヒは黙って涙を流しながら見ていた。その姿が消えても動かなかった。

夜のとばりがおりて、辺りが闇に包まれ始める。星たちが控えめに瞬き始めた時、リウヒは嗚咽をあげてうずくまった。

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****

 

 

まだ星の残る早朝、大門下。クロエは海へと旅立つ親友を、見送りについてきた。

二人だけだ。リウヒはいなかったが、キジは別れはもう言ったからと笑った。

「なあ、本当にいくのか」

戸惑ったままのクロエに、キジが頭をかく。

「そんなこと、この恰好をしているおれを見て言われても」

粗末な綿の衣に、水筒や弁当をいれた風呂敷。

「本当にここを出て行くのか」

「今、その状態だろ」

なんで出て行くんだ。

「だって、リウヒはお前を…。お前もリウヒを…」

涙がポロポロと流れだす。おれが恋した女は、お前が好きなんだぞ。お前だってリウヒが好きなんだろう。どうして出て行くんだ。

「お前、朝っぱらから酔ってんの?それとも素で泣き上戸?」

からかうように言ってクロエの頭をワシワシとかきまわす。

「人間な」

手が離れた。

「色恋沙汰がすべてじゃねえんだ」

クロエは顔を上げた。キジの顔からなんの表情も読み取れない。本気でそう思っているのか、自分に言い聞かせているのか。それでも不承不承頷く。

「…そうだ、これ白将軍さまから預かっていたんだ。キジに渡してくれって」

ずっしりとした袋を渡す。

「なにこれ、重っ!」

「金三十」

はい、とキジがその渡した袋をクロエに差し出した。思わず素直に受け取ってしまう。

「いらね」

「キジ!金は大切だって、お前が教えてくれたことだろう!」

叫ぶとキジは鼻を鳴らした。

「おれが助けたのは、国王陛下じゃなくてリウヒだ。だからいらねえ。その金は、そうだな。弱小海軍の資金にでもしてくれ」

理由になってない。クロエはため息をついた。

一年間、ほとんど一緒に過ごした親友。共に酒を飲み、商船を襲い、嵐の中で走り回って、青空の下で笑い合って、同じ女に恋をした大切な親友。

ティエンランの宮廷は、愛すべき国王を浚った海賊船を憎んでいる。特に海軍はそれが顕著で「追いつけ追い越せ打倒アナン」を合言葉に団結力を深めている。そして、あの元王子がまた大切な国王を誘拐しないとは限らないし、当の船は当てつけの如く、ティエンラン周辺を荒らし回っている。左将軍は、そこを強調して多額の予算をふんだくった。これから海軍は発展していくことだろう。海の知識がありその船に乗っていた自分も、勿論組み込まれている。

そして目の前の親友は再び、アナンの船に帰るという。次に会うときは、敵同士かもしれない。もう会えないかもしれない。それでもキジは笑った。

「人生長いんだ。またいつか会えるさ」

「そうだな」

クロエも笑った。

「その時まで元気で」

「お前もな」

肩をたたき合って、キジが離れる。

一度も振り返らずに遠ざかってゆく親友の背中を、クロエは黙って見送っていた。

悲しくも寂しくもなかった。またいつか会えるさ。そう思っていたから。

 

しかし二人が会うことは、生涯二度となかった。

 

説明
ティエンランシリーズ第二巻。
兄に浚われた国王リウヒと海賊の青年の恋物語。

「お前はさ、あの異様な状況の中で縋るものがほしかったんだよ」

視点:リウヒ→クロエ
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コメント
華詩さま:コメントありがとうございます!いいところはすべてキジが持っていっちゃいました?(まめご)
初恋は実らぬもの、でもリウヒ思いはいつまでも心の中にあるんでしょうね。それにしてもキジ格好よすぎです。(華詩)
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