掌編集
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一. 合間

 

「死ぬか」

 そう言って彼はネクタイを適当な所に結んで吊るしてそれを見た。ぷらぷらと揺れている。あまりに何の変哲も無いので彼は、これをして人の世の真理と思い込みたくなった。

「……生きるか」

 彼はそう言って点けっぱなしのパソコンの前に座った。時間潰しのゲームが起動されたままになっていた。彼は素早くそれを終了し、次に夕飯の支度を始めた。

 冷や飯を電子レンジで温め、フライパンに油を敷いて冷凍餃子を焼いた。最後にインスタント味噌汁を、お湯を掛けて用意した。((嗅|か))ぎ慣れた変わらない味噌の香りと餃子の、やはり嗅ぎ慣れた香ばしい香りが部屋に満ちた。

「いただきます」

 箸を流しから軽く水洗いして持ち出し、夕飯を食する。作るのが早ければ平らげるのも早かった。何故なら味わい飽きたから。思い入れも無くただ平らげる。その繰り返しの日々。部屋には食器の乾いた音と彼の((咀嚼|そしゃく))音が繰り返された。

「死ぬか」

 彼は再びネクタイの前に立った。((揺|ゆ))れは収まっている。重力に引かれて失われてしまったのだ。決意が失われてしまう様を暗喩していたかのように。

「……生きるか」

 彼は寝ようと思った。寝間着を掴み、弛げな足取りでトイレを併設したユニットバスの風呂場に入った。一度シャワーを出して、お湯が付いていなかったことに気が付いて風呂場から手を伸ばしてお湯の電源を入れた。少しシャワーを出しつづければ間もなくお湯が出た。彼は無言で、ただ行水の如く体を洗った。髪を乾かすのも面倒だと思い、ぐしゃぐしゃと体をバスタオルで拭いたら彼は直ぐに寝間着を着込んでベッドに乗り込んだ。そして((暫|しばら))く考え、ベッドから這い出してベランダに出た。夜の街の、ネオンライトや家屋からこぼれた灯りが闇の中に見えた。

「明日は、何をしようか」

 ((呟|つぶ))いた言葉に、アパートに帰り着いたくたくたの新人サラリーマンが上を見上げた。

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二. 垢塗れ

 

 おじいちゃんがぼくに言いました。

「タロウ、お前は立派になる為に勉強せにゃいかんぞ!」

 おじいちゃんの力強い言葉に感動したぼくは一生懸命勉強しました。

 おじいちゃんが死んだ後、お父さんがぼくに言いました。

「一度っきりの人生なんだ、悔いのないように自分のやりたいことをしっかりやり遂げろ」

 お父さんは正しい。ぼくは自分の将来を考えはじめました。ぼくは幸せになりたいと、人を幸せにしたいと思いました。

 お父さんが事故で死んだ後、お母さんがぼく言いました。

「早くたくさん稼げるようになって、お母さんに楽をさせておくれ」

 お母さんの悲しそうな言葉に僕は懸命になって勉強して、いい仕事を選んで働きました。

 ぼくが結婚した後、妻が言いました。

「私、あなたが仕事を辞めて夢を叶えようとするのは反対します。リスクが大きすぎるでしょう?」

 ぼくは悲しくなりました。それでも妻の言うことが間違っているとは思わなかったので、人道活動に身を投じることを諦めて家庭の為に、家族の為に働くことにしました。

 息子が、ぼくに言いました。

「お父さんは僕の事をなにも分かっちゃいないよ!」

 どうしてそんなことを言うんだろう。ぼくはとても悲しかった。ぼくは息子を幸せにしたかった。それでも、ぼくの幸せを息子は拒みました。

 孫が、死に際のぼくに言いました。

「それで、お爺さんは結局何をやりたかったの?」

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三. 随筆風

 

 秋が来た。私はその頃仕事場の窓越しに、夏雲の去った空を眺めていた。大気が少しずつ冷えて行くのを肌で感じた。冷房の効いた仕事場ではそれが分からない。私はそんな仕事場が嫌いだった。

 秋雨が降る日、私はじっと家で時間が経つのに任せていた。何を果たそうと云うことも無いのだから。私はじっと椅子に座って天井を眺めていた。悪化した視界の端を横切る血管の薄い影を追って。それを十分に愉しむと、私は外に出た。傘を掴んで、部屋着の雑然たる有様のままに、私は夕方の雨の中を歩き出した。夏と違って、夕暮れは灰色で((仄暗|ほのくら))い。

 舗装された道を退屈な足取りで歩いた。もう何度も歩き続けた道なのだから。私は敷居を((跨|また))ぐ様にして公園に入った。雨に((濡|ぬ))れた公園には誰も居なかった。遊具の内側に((蹲|うずくま))っている誰かが居たかと思ったが、ぼんやりとした遊具の端でしかなかった。私は公園を歩いた。水を含んだ土の上。水溜まりを避け、しずしずと、練り歩くように。幼い頃はここで遊んだはずなのに、その時遊んでいた遊具の姿が思い出せない。そこにはまだ新調されてさほど経っていないそれの数々が雨に打たれて佇んでいた。思い出せもしないのは当然だった。

 帰り道、街中を流れる小さな川を眺める。昔はもっと((濁|にご))った水だったが、この雨の中でも底が見える((透|す))き((通|とお))り具合だった。川沿いに立ち並ぶ街並みは特段変わった様子もない。私はそれがいかにも違和感のないことが不思議な様に思われた。((傘|かさ))に((滴|したた))る雨音に耳を澄ませながら、川の流れを見下ろしていた。こんな時に気が休まる内は何も心配は要らないものだ。私は再び歩き始めた。良く知った道は、往時と何も変わらなかった。忘れられたように道の端に立つ小さな((祠|ほこら))を((一瞥|いちべつ))して通り過ぎる。踏切で列車が走り抜けた。水の((撥|は))ねる音を聞いた。みな、私は愛していた。

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四. ((蝕|むしば))み

 

「遺書の書き方なんて知らないわ。書き残さねばならないことなんて……」

 そんなことを言って彼女は自殺したのです。((骸|むくろ))の佇む様に私は激しく泣きました。私は悲しかった。泣き疲れて眠って、次の日の朝日に眩く((瞼|まぶた))を焼かれて目覚めました。誰かが私に毛布を掛けていました。

 骨を拾って壺に納めて。立てられた墓に収められたそれに私は再び泣いたのです。私は自分がかつてこうまで涙もろかったとは知りもしませんでした。私を慰める人々にも取り合わず私は沢山泣いて、それで殆ど((幽鬼|ゆうき))じみた足取りでようやく自宅へと帰り着きました。自分の部屋がまるで丸一年空けた後の様な異様な静けさと重苦しさで私を迎えました。私は何をするでもなく((暫|しばら))く天井を見ていました。眠りは無意識を覆い尽くしました。

 もう一度起きて。また更に起きて。私は確かに自らの悲しみが少しずつ癒されてゆくのを感じました。私が彼女から受け取った全てが今の私を支えているのだとやがて信じられるようになる程度には。私は日常に回帰しました。初めは自分の((隣|となり))に彼女が居ないことに、時折違和感を感じましたがやがて私はこの空席を連れとして過ごすことが出来る様になりました。これが彼女の残したものなのだと。私と彼女の送った全ての証なのだと。((傲慢|ごうまん))かもしれませんが私には何だか誇らしくさえ思われたのです。私は新しい道を行くことが出来ると信じられました。

 私はもう一度恋をして、その女性に想いを告げました。彼女は静かにそれを聞いていました。彼女は言いました。

「あなたはそうして、その人に無尽蔵なあなたの愛情を食らわせたのね? 彼女が耐え切れなくなる程に? ……私にもそれを((呉|く))れると((云|い))うの?」

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五.  説教

 

 忘れられた様な心地に何を悩んでいるのだろう、あなたよ。あなたの持つ幻の((総|すべ))てはやはり、まやかしに過ぎない。なら、あなたはただそれを振り払って光明の下に歩み出るべきなのだ。

 さすればよかれ、光の下には光の下に((棲|す))む生きとし生けるものらがあなたを待つ。あなたを見て、あなたを((憐|あわ))れむどころかあなたを愛おしいと思う者がある。あなたは夜の雨に濡れて汚れ落ちる桜の花弁ではない。((向日葵|ひまわり))の様に光を求めて頭を上げる。やがては実を付けて種を播く為に。

 秋も知らず、それ故に飽きも知らぬあなたよ。しかし((厭|あ))けるその心地はあなたをただ不幸にする。あなたを((誘|いざな))う者の薄ら笑いに薄ら笑いで応えているだけに過ぎない。あなたでさえ、それがわかっている筈であろうに。

 だから、あなた。((臥所|ふしど))を後にして、((微睡|まどろ))みの悪夢から目覚めよ。そしてあなたのたった一つの愛を見つけ出し給え。そしてそれがあなたの総てとならんことを。さぁ。

 

「放っておいてくれ!」

 

 ――ただ聖者は説く。しかし説かれる者が聖者でなく、聖者足り得ず、そして愚者足り得ずんば、ただ成り損ないの((凡|すべ))て、或いは凡ての成り損ないに過ぎないのかもしれない。

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六.  花落ちる

 

 街角の植え込みの合間にある、その樹にはいたずら描きがされてあった。頭を差し出す((髑髏|どくろ))の絵。大人たちはこんな不吉なものを放っておくことを良しとせず、しかし樹を傷つける訳にも行かないのでそのいたずら描きのある部分を反射カバーで((覆|おお))った。覆うべきは本当なら外側であろうに、歩道の側が反射する。その樹だけどこか街角の景色の中でも一等不格好となった。

暫く時が流れ、樹の隣で一人の女の子が立った。彼女は薄汚れたカバーが今にも外れそうになって居るのを見、その隙間から例のいたずら描きが垣間見えるのを見た。彼女は興味本位でこれをずらし、全容を覗き見る。不気味な髑髏は褪せるところなく残っていた。彼女はその不吉さに樹の隣を立ち去った。

 女の子が、成長して一人の大人となって街へと帰って来た。彼女が男を連れてたまたまその樹のそばを歩いた。この樹は齢を重ねて苔が幹の多くを覆っていたが、その反射カバーだけは律儀に取り換えられ続けていた。男が、思い付いた調子で言った。

「このカバーの下どうなってんのかな?」

「何も無いでしょ」

 冷たく女は言い捨てた。その下に何があるかを知っていたから、空っとぼけた。二人はその場を立ち去って、妙齢の男女にままある仲睦まじく見えてどこかお互いをもどかしく、思い通りにならない異性の難しさに心を悩ませながらその日を過ごした。

 

 月も((翳|かげ))る闇夜だった。女は車を運転していた。街には街灯があって道は確かに見えたが、古ぼけた街灯の数々は自動車の前方ライトより大分心許無く思われた。その日、彼女は男と喧嘩をして((苛々|いらいら))していた。一生分の罵倒を投げ付けてやったぐらいだ、しかしそれでも((憤懣|ふんまん))((遣|や))る方ない。浮気である。集中力を欠いていた彼女に、その樹に最も近い街灯が点滅して故障し掛かっていたのは運が悪かったのだろうか?

 彼女は路上の暗闇の中に、人影を見た。余りにも突然、見落としてたものが急に現れた様な感じだった為に彼女は急ブレーキを踏むと共にハンドルを左に切った。……彼女は、人影を避けるに至った。後続の車両が、同じく左に切って樹に激突した。彼女は停まった車から急いで出て、樹に突き刺さった車両もそこそこに路上に在った筈の人影を探した。既にどこにも無かった。車の運転手は駆け付けた警察に酒気帯び運転で検挙された。目撃者としての役目以外の何も彼女が果たすことが無かったことが彼女には不思議に思われた。……あれ程苛々していたのに。

 

 樹は著しく痛んで、切り倒されることが決まった。それは丁度花が咲き誇る季節だった。美しい花々諸共切り倒すのは忍びない。しかし安全の為にとこの感傷的な意見は退けられた。反射カバーが外され、人々はその下にあったものを見る。陽光に晒されずとも、何度となく風雨に侵食されてうっすらとだけいたずら描きが残っていた。差し出された頭は掻き消されて最早見えなかった。業者が機械で樹を切り始める。その頭上を、一片の花弁が舞い落ちた。作業場の男たちは誰もそれを見ていなかった。女一人、それを見届けた。差し出されて失われた頭がいずこに消えたのか、と彼女は文学的に暫く考えたがそれも忘れられた。

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計約四六〇〇字。最終更新二〇一八年十月六日
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