冬のぬくもり
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 秋の初め。妻が突然、亡くなった。

 仕事から解放された矢先。さて、第二の人生とやらをどうやって過ごしたらいいだろうかと、相談していた矢先。

 既に嫁いだ娘が「一緒に暮らそうか?」と誘ってきた。

 古い家を壊して広い家を建てたいと、娘は言う。

 庭を潰せば子供の勉強部屋ができる。お父さんは家事なんか何も知らないんだから、一人で生活なんてできないでしょう?

 妻がおっとりした性分のせいか、娘はそれを補うように、間逆に育ったようだった。

 遺影で微笑む妻を見ながら、悪いけれどしばらくは独りを楽しもうと決めた。

 二人で立てるはずだった計画は、実現しないけれど。

 青年時代から今日まで、妻を、娘を、養ってきたのだから。

 養う者のいない、ただ自分だけの時間を楽しんで、悪いわけもないだろう。

 

 木造平屋の、古い家。

 舞い落ちる紅葉に、庭は一面、赤くなる。雨に濡れた葉の上にサンダル履きの足を踏み出すと、ぬるりと、腐った表面に歩みをさらわれた。

 いつもなら紐に結わえて吊るされる柿が、鳥たちに突かれて地面に落ちる。

 これまではただ眺めるだけ、当然と思っていた美しい庭は、妻が日毎手入れをし、落ち葉を拾い枝を折った、その末の美しさだったのだと気が付いた。

 にゃぁ

 どこかで仔猫の声がする。

 ちらと見回すと、仔猫というには大きすぎる猫が一匹、壁の上からこちらを見下ろしていた。

 探るような、不審そうな、目。

 壁の上が猫の通り道になっているのだろう。

 この家の主は私だぞ。そんな気持ちを込めてシッシと手を振ると、太った猫は小首を傾げ、壁の向こう側に消えた。

 

 「お正月はどうすんの?」

 娘は電話口で聞いてくる。

「ハワイ行く予定なんだけど、一緒に行く?」

 私は和室を振り返り、すすけた畳と濁ったガラス戸、そして妻の遺影に目を向ける。

 今はゆっくりしたいよ。そう答えると、娘はつまらなそうに電話を切った。

 

 喪中葉書を準備して。妻のお骨は墓に入れて。

 隙間風の入る古い家に、独り座る。

 ガタガタと、ガラス戸が風に揺れた。

 

 ハワイから電話がかかってきた。気性の強い娘だが、一応の心遣いはしてくれる。

 受話器の向こう側からは、孫のはしゃぐ声。

 母親が亡くなったばかりだぞと、娘に文句をいう気にもならなかった。

 ガランとした古い家。寒々しい空気に背中を包まれながらコタツに入っていると、一挙に老け込むような気持ちになった。

――お父さんは家のことなんかできないじゃない。一人暮らしなんか無理でしょ。

 娘がことあるごとに持ち出す言葉。

 汚れた台所と、出来合いの惣菜と、一人きりの冬。

 ふてくされた気持ちで遺影を見上げると、妻の笑顔は空々しく、馬鹿にしているように見えてきた。

 

 テレビの向こう側で、にぎやかな年越しムードばかりが強調される。

 がらんどうのように空ろな家の中で、私は重い腰を上げていた。

 娘はハワイから帰国して一番に、訪ねてくると言っていた。

 少しは家の中の体裁を整えておかないと、また「一緒に暮らす。家を建てる」を繰り返すことだろう。

 新しい家は確かに、いいかもしれない。暖房のよく行き渡る、流行の家。

 けれど心のどこかが、躊躇している。

 独りは満喫というほど楽しいものじゃなかった。

 けれど心のどこかが、新しい生活をためらっている。

 私は何かを探すように家の中を一回りし、ガラス戸を開けて冷たい風を浴びた。

 庭の木々は殆どが葉を落とし、一本の椿の木だけが、濃い緑色の葉と、その中に転々と咲く真っ赤な花を誇っていた。

 縁側の床が、ざらりとする。最後に拭いたのはいつだろう? 妻が拭いて以来に違いない。

 私は家の中からたらいを探してきて、水を張った。

 風呂場から雑巾を取って縁側に戻ろうとすると、開け放したガラス戸から、のそりと足を踏み入れる姿が目に入った。

 それは太った虎猫。

 秋のあの日、壁の上から怪訝に視線を投げかけてきた奴だ。

 首輪が無いから野良だろう。なんとも図々しい限りである。

 野良公は、私が襖の陰から見ているなど知らぬのか、我が物顔で上がり込み、縁側から続きになっている居間までやってきた。

 コタツの横に無造作に積まれた三枚の座布団。その中から、一番薄汚れた一枚を咥えると、引っ張り下ろす。

 ずるり、ずるりと座布団は畳をこすり、縁側の、冬の弱い陽の中に落ち着いた。

 野良猫は座布団の上にどっかと身を横たえ、庭に顔を向けている。

 その人間臭さ。慣れた仕草。

 丸々とした柔らかそうな体。

 私は仏壇の、妻の笑みに目を向けた。

 猫は嫌いだ。家を汚すから。

 でも……妻は好きだったかもしれない。結婚してすぐ、そして子供が小学校に上がった頃、動物が欲しいと言っていた気がする。

 私は、面倒だから許さないと一蹴したけれど、妻は夫不在の独りきりの昼下がり、近所の野良を招き入れて、つかの間の逢瀬を楽しんでいたに違いない。

 でなければ、妻の使っていた座布団を選んで引っ張っていく理由がわからない。

 私はゆっくりと、野良の背中に歩み寄った。

 野良は逃げる気配も無く、目を細め、体を丸めている。

 私は庭に下りた。

 真っ赤な椿は縁起の悪い花。

 けれど植えたのは、妻だ。縁起が悪いと決めたのは人間で、本当はただ、美しいだけの花なのよと――嫁に来た頃、言っていた。

 椿を一枝手折って、持って戻る。

 野良はふいと、顎を上げた。

 その枝の所在に困り、私はたらいの中に放り投げた。

 それから……野良と並んで、縁側に胡坐をかく。

 年の瀬の風は冷たかった。憎らしいくらいに、静かだった。

「ありがとう」

 私は庭に向かって、頭を下げた。

「俺の嫁に来てくれて、ありがとう」

 新しい人生をどう過ごすか、計画している矢先だった。長い間お疲れ様と、定年した私を迎えてくれた、矢先だった。

 私は頭を垂れたままだった。

 目の端で、虎柄の柔らかな毛並みが動く。

 太った虎猫は、体を起こし、丸い瞳に表情を一杯に溜めて、私を見上げていた。

「にゃぁ」

 それは優しい声だった。

 

おわり

 

説明
妻を亡くした男の、冬。

冬の創作祭2010用に書きました。
インスパイア元はだぶねこ様の「椿と猫」です。
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