新東京国際空港(現在は成田国際空港)が開港したのは1978年5月だ。 工事前の空港建設予定地は元の富里村の半分近くもあった。空港周辺の予定地も含めると、近代牧畜発祥の地や 農場経営モデルケースの村が消滅してしまうため激しい反対があり、今でも反対運動は続いている。2024年10月に三里塚芝山連合空港反対同盟北原派が、全国総決起集会を成田市の赤坂公園で開いた。全国から約480人(主催者発表)が参加して、約2・3キロのデモ行進もした。強制執行に対する批判や、空港の機能強化阻止などへの共闘を呼びかけている。 1960年代の当時は航空機の利用がまだ少なく、騒音が大きい空港は 単なる迷惑施設としか見ていなかったから、空港建設は他の地でも反対していた。成田では1963年に「富里・八街空港反対同盟」が結成され、政府がもたついている間に 革新政党が指導する反対運動がおきた。1966年7月に反対派は 建設内定を一方的に突きつけられたことで「何が候補地として最適だ!地元の調査も挨拶もないうちに一方的に決められてたまるものか!ここは日本一の農耕地だ!農地はわれわれのいのちだ!」とさらに激しい抗議活動を展開するようになった。それどころか、政府が発表するまで知らされていなかった地方公共団体からも反発が出ていた。反発があまりに大きいため閣議決定はいったん取りやめとなり、千葉県庁には脅迫まがいの電話や直談判が殺到した。 その後も抵抗運動が長く続いていたが、1993年(平成5年)9月からの「成田空港問題円卓会議」で、今後の新東京国際空港の整備の方向性を話し合うことになった。そして1995年(平成7年)当時の村山首相がそれまでの政府の強権姿勢を謝罪し、成田空港の土地強制収用を止めた。この謝罪が評価を得て 移転に応じる農民たちも出てきた。しかし、2002年に建設した暫定滑走路の供用を開始したが、反対派農家の未買収地を残したまま建設された為、農家の軒先数十メートルの誘導路をジェット機が通過するという状況が今だに続いている。また未買収地の滑走路側は迂回して建設されたため、誘導路が「く」または「へ」の字形に屈曲しており、航空機が離着陸する時には 他の航空機の移動が制限されている。そして現在も、反対派農家は、「現在の手法は当初からの政府のやり方と何も変わっていない」と批判し、「成田空港廃港」を頑なに主張し続けている。 農民は 歴史ある土地で余所者が勝手に振る舞うことは許容できないのだろうが、いつか 人ならば話し合いで解決ができるはずだ。 だが、鳥は人と話し合いが出来ない。だから、自分達の昔からのテリトリーに人が侵入してくる場合は、命懸けで抗議をするのだ。 …韓国へ行くなら、バードストライクに強いプロペラ機でいった方がよさそうだ。 |