徒花散華
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 “客の私事には踏み込まない”。

 

 それが此処の――花柳の鉄則だ。

 

 なのに―…

 

 なのに、どうして

 

 どうして自分は、男の上着の胸隠しに入っていた写真を、手にしているのだろう…。

 

 

 

=徒花散華=

 

 

 燭台の灯が揺れている。

 

 一間半の広くもない部屋は、ほの暗い闇と生ぬるい空気に満たされていた。遠くから

微かに聞こえてくる、歌舞の音と女たちの嬌声が嘘のように、此処は暗く、静かで、重い。

 

 奥の間に目をやると、濃灰色の闇の中に、男の広い背が見える。たかだか十歩に満たぬ

はずのその距離が、何故だかひどく遠い。

 

 待ち望んでいたはずの喜びは、今や急速に萎んでいた。怒りも嘆きも悲しみも、焼け付く

ような憎しみすらも消え失せて、あるのはただ、勢いよく燃え尽きた後の蝋燭のような、

ぽっかりとした虚しさだけだ。それは、客の相手をした後にはいつも感じている、肉体の

虚脱感よりも、ずっとずっと強烈で――それゆえにひどく、現実感のないものだった。

 

 抜け殻、という言葉が、不意に浮かぶ。そう、今の妾(わたし)は抜け殻だ。この

抜け殻から遊離した実の妾(わたし)は、一体何処にいるのだろう。ああでも、そんな

ことすらも、もうどうでも良い。妾(わたし)は空(から)であるという、その事実だけで

十分じゃないか。

 

 呆(ぼう)と彷徨う瞳が、もう一度、男を映す。ピクリとも動かぬ広い背中は、あらゆる

ものを拒絶するかのようだ。

 

 つい数刻前まで、自分が触れていたはずの背中。

 

 ――自分のものだと思った男。

 

 なのに、その口から漏れ出たのは――。

 

 自分のそれとは、似つかぬ名前。

 

 うわごとのように呼んでいた、誰か。

 

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 初めて見たのは、半年ほど前のことだったろうか。

 

 得意の客が連れてきた青年将校に、目の肥えた花街の女たちが、少し色めきたったのを

覚えている。長身を薄黒の軍服に包んだ目許涼しい青年は、酒で乱れるわけでもなく、ただ

淡々と杯を重ねていた。

 

 女たちに色目を使うわけでもなく、場を盛り上げる冗談ひとつ口にするわけでもなく。

いや、そもそも何か話をしていたという記憶すら無い。連れの言葉に時折、相槌を打つくら

いで、あとはほとんど黙りこくっていたように思う。

 

 「面白味がない」という女もいたが、紳士的だと思った。素っ気無いとすら言える態度を、

誠実さだと感じた。

 

 それはおそらく、ひと時の憧れとして終わっていたであろう感情――あの一度きりならば。

 

 その後、男が思い出したようにふらりと現れた時、正直ひどく驚いた。先の男の態度からして、

到底、興味があるとは思えなかったからだ。同時に、再び男に会えたことが、とても嬉しかった。

それが二度、三度と重なるにつれ、喜びもまた大きくなっていった。

 

 何度来ても、男の態度は相変わらず素っ気無かった。特に何か声をかけてくるわけでも、

まして色を求めることなど一度も無く、ただ黙々とひとしきり杯を空け、落ち着いたら背を

向けて眠る。…その繰り返し。

 

 それでも良かった。言葉をかけられることなど無くとも、ただの使い女だと思われて

いようとも。ただ、傍にいられるだけで幸せだった。その筈だった。

 

 いつからか、その先を求めるようになった。おそらく、自分が、自分だけが、この男の傍に

いることを許されているのだという優越感を自覚した時から。

 

 もっとこの男を知りたい、と。

 

 もっと、この男を独占したい、と。

 

 できるなら、特別な女として、独占してほしい、と。

 

 厭われる恐怖よりも、狂おしいほどの欲望が勝り始めようとしていた、ちょうどその時に。

 

 ――望みは叶ったと思った。

 

 なのに、真実は違った。

 

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 …この世界の暗黙の了解を破ってまで、何故確認したのか、自分でもよく分からない。

 

 あるいはやはり、嫉妬、だったのかもしれない。束の間得られたと錯覚した、だが自分には

けして向くことのないその愛情を、一身に受けられる幸せな同性への――。

 

 まず目に入ってきたのは、着物姿の娘の肖像写真だった。年は二十歳になるかならぬか。

黒髪を項の辺りで一つにまとめ、はにかむように微笑みながら、優しげなまなざしをこちらに

向けている。同性の自分でも見惚れるほどに美しいが、どこか儚げな印象の娘だった。

 

 その下に重ねられていたもう一枚には。

 

 思わず、目が眩みそうになった。

 

 咲き誇る花々に囲まれて、一組の若い男女が幸せそうに微笑っている。娘の肩を包み込む

ように回された青年の腕と、寄り添い並んだ距離の近さが、二人の親密さを表していた。

薄黒の軍服に身を包んだ青年は、間違いなく今、奥で眠っている男であり、その隣で笑っている

メイド姿の娘は――

 

(一枚目の…)

 

 あの娘だ。

 

 髪は下ろしており、服装も違うが、間違いない。少しはにかんだような、清らかな笑い方も、

優しげな光を宿した瞳も――見間違えようが無かった。

 

 その娘の隣で、男は、同じように柔らかな笑みを浮かべていた。

 

 初めて見る男の笑顔だった。

 

 世の幸せが、すべて自分たちに集まっているかのような。

 

 不安など何一つ存在しないような。

 

 幸福という言葉を表情にすれば、この二人のようになるのだろうか。

 

 あの男は、このような表情もできたのか――。

 

 それは素直な驚きだった。

 

 そして、その表情を共有できるのは、自分ではないのだという、染み入るほどに思い知ら

された、単純な事実だった。

 

 写真の上に、透明な雫が落ちる。

 

 ――ああ、ようやく妾(わたし)が還ってきた。

 

 滲む世界を感じながら、そんなことを想っていた。

 

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 濃灰色の闇の中で身支度を整えている男を、褥に横たわったまま、ぼんやりと見つめていた。

 

 燭台の灯を受け、陰影が深く刻まれた横顔からは、あの写真が嘘のように、何の感情も

読み取れない。それは、自分がよく見知った男の表情。

 

 無機的とすら感じられる手際の良さで支度を終え、こちらに一瞥をくれることも無く出て

行こうとする男の背を眺めていたら、不意に言葉が零れた。

 

 

「“あや”とは…写真の女性(ひと)の名前ですか」

 

 

 一瞬の間の後、男がこちらを振り返る。目が合う。男から目を合わせてきたのは、これが

初めてのことだった。

 

 声をかけるつもりなど無かった。黙って送るつもりだった。なのに、一度溢れた言葉は、

止まらなかった。

 

「……呼んでいました。何度も、何度も」

 

 男は何も言わなかった。一瞬だけ浮かんだ驚きと不審の光もすぐに消し去り、ただ黙って

部屋を出て行った。

 

 遠ざかる足音を聞きながら、目を閉じる。もう二度と自分の元へは来ないだろうと確信しな

がら。

 

 瞼の裏にいつまでも焼きついていたのは、愛しい男の面影ではなく、写真の娘の笑顔だった。

説明
ようやくできました。やっぱりとある青年将校がメインです。
何となく色っぽい…??

これまでの作品 (【】内は作品No.です)
*「寂しい花束」【106922】
*「空虚な独白」【107211】
*「熾火」【107484】
*「罪と罰」【113415】

※タイトル変えました。実は、前のは何となくしっくり来ておらず…;;もう流石に変えないと思いますが…;;
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