不思議的乙女少女と現実的乙女少女の日常 『ネクロノミコン saint4−1』 |
それは数世紀も前の事。
「君は、世界を護る礎に、成りたくは無いか?」
海の視える小高い丘の上。男は少女に語りかけた。海沿いには小さな街が形成されており、少女はその街の出身だった。
…………出身だった。そう、だった、だ。というのも、それが過ぎ去った事実で有るからに他ならない。
街は壊滅していた。
戦争だった。隣国と別の隣国が少女の住まう国を巡った結果、戦争は起きたのだ。もちろん、少女の街を壊滅させたのは、少女自身の国の人間であったが。派閥や利害の一致は、少女の住まう国を大きな混乱に陥れていた。
並び立つ家々からは恐ろしい火が盛り、煙は立ち昇っていた。その香りは、丘に立つ少女の鼻を掠めていった。嫌な臭いだった。
あの場所には最早何も無い。少女の知人も、友人も家族も消し去って、少女の心に大きな傷跡を残した。懐かしむべき思い出すら、心を抉る。
だが、涙は出ない。少女の表情には何の色も浮かんで居なかった。だが、
「…………貴方様は、街をお救いになれないのですか?」
少女が男をそう詰ったのは、当然の事だった。権利は無いが、感情の前に権利は無意味だ。少女の声が震えていたのは、悲しみだけが理由では無い。
「私には無理だ」
「何故ですか。貴方様は奇跡を起こしたではりませんか」
「奇跡とは、なんだ」
「…………到底救いようの無い病人を、治されました」
その病人は少女の親友だった。今はもう居ない。瓦礫の下に埋まっているのだろう。それを思い出して、少女は泣きそうになった。
「…………私に出来るのは、所詮その程度だよ」
そんな少女に対して、男は淡々と語った。
だがその時、風が吹いた。鼻を突く異臭に、少女の心はまたも傷む。
「ああ…………いや」
男は一拍置いて、先刻の言葉を否定した。
「そうだ。私の力ならば、確かに出来ただろう。救う事が出来ただろう」
少女自身、あるいは、男がそんな事を言うと信じていなかったのだろうか。驚いて、
「ならば、何故…………」
「奇跡は人の命を奪うために、あるのでは無いからだ」
男の持つ力ならば、確かに街を救う事が出来ただろう。だが、それには犠牲が伴う。街を蹂躙した者達は、ただではすまなかっただろう。
「無法者どもの命を…………哀れんだと仰るのですか?」
少女は驚いた。
「街の人間と街を襲う人間。対立する両者。そのどちらをも救うことなど、出来ないのだよ。人を救うのは何時だって人自身なのだ。片方が滅びれば、もう片方は救われる」
「ならば、私の親友が、家族が虐殺されたのは、救いへの道だと仰るのですか。神は虐殺を肯定されるのですか?」
男は少女に見据えられた。強くも無く、しかし弱くも無い。激しくも無ければ穏やかでも無い。男には、少女の瞳に、何の色も見つけることが出来なかった。
男は深く息を付いて、地面に腰を降ろした。
「君の言う神とは、イエスの事か」
「…………他にありません」
少女は男に倣って腰を降ろす事無く、再び街に眼を落とした。聖堂ですら、燃やされている。
そんな少女に対して、男は重々しく口を開いた。
「そうか。だが、それは…………」
早朝。天に広げられた黒の天幕が緩やかに青へと変色していく時間。昇る太陽は生命の象徴か。朝の訪れと共に、あらゆる生物は行動を始める。体内には時計が存在し、太陽が出ている間、人々は精気を漲らせている。
そうすると、沈む太陽はどうだろうか? 沈む太陽は何の象徴だろうか。
「…………我ながら下らない思索ね」
眼を開けて、少女が呟いた。一部の人間からは、ネクロノミコンと呼ばれる少女だった。見た目は十代半ば、綺麗に整えられた金髪は、触れる事すら躊躇われるほどに美しかった。気だるげに細められた眼は何処か達観しているようで、あるいは不満を現している様でもあり、ただ眠たいだけにも見えた。
総じて美しいと言えた。不吉な程に。
だが、その姿も、青々とした葉が茂る木々に覆い隠されていた。そう、ネクロノミコンは高木の幹に腰を降ろし、背中を預けていた。もちろん、その姿を視認できるものは限られているだろう。視認して尚、生存できているものともなれば、さらに限られてくるだろう。
彼女が木の幹に座って眺めているのは、大きな屋敷。山を整備して作られたらしい土地は広大で、屋敷自体の大きさも日本にしては巨大に過ぎるだろう。海外の大豪邸と比較しても見劣りしない。恐らく、この豪邸を視た者は、まずその大きさに驚愕するだろう。彼女にとって、そんな事はどうでも良い事だったが。
「日本…………ね。考えて見れば、来たのは初めてかしら。ん…………、そうでも無かったかしらね?」
来日した事が有るかどうか、その辺りの記憶はどうも曖昧だ。来た事は有るのかもしれないが、記憶に残るような事は何も無かったのだろう。来日した事が有ったとしても、その当時はまだ世界的に民主主義の基盤が敷かれて居なかった頃かもしれないし、アメリカ独立戦争の頃だったかもしれない。
「いけないわ。興味が無いからと言って記憶の整理を怠るのは。悪い癖よね」
とはいえ、日本という国は今の今まで、彼女が作成した脳内世界地図では小麦の胚よりも小さな存在だった。はっきり言って眼中に無かった。彼女が探しているもののイメージからすれば、日本という場所は、あまり似つかわしく無い様に感じられて居たからだ。このイメージという概念は、彼女等の様な存在には実に重要なのだった。だが、もちろん当てにならない事も多々有る。だが、結果的に問題が無い事の方が多いのであった。まあ詰まる所、日本という場所に縁が無かったのは、先入観から行き先を決定して虱潰しに探していたためだろう。あるいは、時間をかけさえすれば、いずれ日本を通過する事もあったはずだ。これは詰まり、予定が前倒しになっただけに過ぎ無い。
彼女にネクロノミコンという名を与えた男が死んでから数百年。動き、時に休み、孤独を唯一の共に放浪した数百年。だが、結果としてこれまで何の成果も上げられていなかった。彼女が想像しているよりも世界は広く、時間の経過は容赦を知らなかった、という事なのだろう。まったく、本当に自然の力というのは素晴らしい、神ですら適わないかもしれない。
「どうなのかしらね」
その想像は実に楽しかった。結局、神というものは様々な人間の集合体に過ぎない。人間が想像できる以上のものを生み出すことなど出来ないのだ。
『…………どうだろうな』
何処かからか、声が聞こえた。しかし、ネクロノミコンはこれをスッパリと無視した。奴等に構うことなど、己が生きていること以上に無意味で有ると断じているかの様な、そんな無関心さが有った。…………いや、無関心を装いたいのだった。
眼前に広がる屋敷は大きな塀で囲まれており、これまた必要以上に大きな門扉が正門となっている。彼女が居るのは、まさにその辺りで有る。
門扉や塀、屋敷に土地の大きさとは反比例する様に表札は小さく、それには花刻と書かれていた。果たして、ここの主はこの土地の特殊性に気が付いているだろうか? 気が付いており、尚且つそれを利用しているとなれば、それは恐らく大層な人物なのだろう。この土地は、一個人が所有するにはあまりにも貴重過ぎた。
「聖域…………彼が此処に存在したのは偶然かしら?」
『必然以上の偶然など…………いくらでも…………起こりうる。気が付いて…………いないわけでは無い…………だろう?』
それを人は奇跡と呼ぶのだ。
無視、無関心に務めようとするが、声に割り込まれるとどうしても返答してしまう。その事にやや苛立ちながら、彼女は眼を閉じた。
(彼は恐れない…………。今の彼は記憶の集合体…………己の存在など、無意味と切り捨ているでしょうね。でも…………)
この聖域と、ネクロノミコンが探している存在が同調している事は甚だ厄介だった。
(私はこの聖域に入れない。中途半端な存在である私は、入る事が出来ない。そして、彼は当然の事ながら動くことが出来ない…………聖域に縛られていたなら、私と再び出会うことが出来なかったのも、当然ね)
『本当に…………そう……思うの…………か? 奴の…………気が変わった…………とは』
そこでネクロノミコンは葉を1枚千切りとって、
「……………………」
僅かに眼を開いて、指で弾いた。
距離、速度、質量。それらは全て無視された。弾いた物質は問題では無い。そこで起こったのは単純な結果だ。破壊のプロセスを世界に肯定させただけだ。その『力』で破壊を命令されたならば、どんな存在であっても必ず破壊されるのだ。そして、原因と結果はほぼ同時に起こる。どんなものでも瞬時に、破壊の結果を肯定するのだ。
だが。
起こる凄まじい轟音。
あらゆる物質を破壊する筈の『力』は、塀の上部でその効力を完全に失っていた。効力を失った葉が、宙を虚しく舞っていた。
どういった現象が起こったのか、空間が歪んでいた。紙を適当に丸めた様な皴だった。。その皴は、葉が命中したと思しき何も無い空間を中心にして、円状に、波の様に広がっていた。空間の歪みは塀にも及んでいたが、コンクリートの塀は破壊されず、やはりそれも皴の様に表現され、しかし、何事も無かったかのように元に戻った。
「やはり、私の力で聖域に手を出すことは出来ない…………。物質を介在しなければならない分、無駄なプロセスが多いのね…………以前にも、こんな事があったかしら?」
若干の既知感を覚えた。長く存在していると、要らない情報が多すぎるのだ。
聖域は世界に幾つか存在する。遥か昔、その1つに行き当たったかもしれない。しかし、自分には無意味であると切り捨てたかもしれないのだった。ともあれ、それは所詮それだけの事だ。学習能力が無いと言ってしまえばそれまでだが、そもそも学習する必要が無いほどに、彼女は万能なのだった。
『お前の……万能さは…………所詮、中途半端に…………過ぎない』
「…………黙れ。知っているわよ。この化物が」
思考に割り込んでくる声無き声に、彼女は遂に耐え切れなくなった。他のあらゆる声に耐えられたとしても、これだけは我慢が聞かない。
ネクロノミコンは宙を睨みつけて、歯噛みした。
彼もまた、こんな思いをしたのだろうかと、何度目かの、何億回目かの、眩暈にも似た疲れが押し寄せた。
…………正門の辺りが、騒がしくなってきた。
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