不思議的乙女少女と現実的乙女少女の日常 『ネクロノミコンsaint4-2』 |
早朝。何時もと変わらない朝。夏も明け、湿度が徐々に抜けていき、昼などは未だ暑い盛りだが、朝の空気は爽やかに涼しいものだった。
花刻家の…………というよりも、エリーザ・花刻・カルペンティエリに仕える、護衛兼メイド、小梅川久遠は通常通りの業務に励んでいた。
何時も通りのメイド服…………黒のワンピースにフリルの付いた基本的なエプロンドレスを重ねている。現在、日本で流行っているものとほとんど同じ様なものだったが、スカート丈はミニでは無く、膝下で落ち着いている。靴は一見、普通の黒いロングブーツを履いている様に見えるが、安全靴がそのままロングブーツになったかのような光沢が感じられた。
邸宅の窓拭き掃除を終え、現在は邸宅と玄関を繋ぐ、レンガで舗装された道の、掃き掃除をしていた。
花刻家には、大きく分けて、玄関が3つ有る。
1つ目は正門。外部と敷地を繋ぐ玄関。
2つ目は第2玄関。正門を抜け、邸宅へ至るまでの間に、必ず通らなければならない場所だ。巨大な円状の建物が、邸宅と中庭を取り囲むようにして建造されているので、この様な玄関が必要となった。
そして3つ目が、エリーの住まう邸宅にある、第1玄関である。前者2つは尋常では無い大きさを誇るが、この第1玄関は、まだ常識的な大きさを示していた。とはいえ、普通の住居の2倍以上は有るが。
久遠が掃き掃除をしているのは詰まり、第
第1玄関と円状の建物を繋ぐ部分である。
誰よりも早く目覚め、誰よりも多く働き、故に誰よりも屋敷の事を知り、その全ては誰よりも愛するエリーザのためであり…………久遠という女性はそんな人間だった。献身的に過ぎるその態度は、彼女の親が視れば、将来に不安を覚えるだろう。幸い、彼女に家族は居ないし、覚えてもいないが。
極端に言ってしまえば、エリーという人間は久遠が生きるための理由でもあるのだった。それはある意味、卑怯とも言える生き方では有ったが。
なので、轟音と共に、数キロ先にある正門方面の『空間が歪んだ様に見える』という理解を超越した現象に遭遇して。
「……………………!」
心臓が止まったかの様な衝撃を受けた。
エリーが危ない。
もちろんそれは何の根拠も無い直感に等しかったが、全身の毛穴から汗が吹き出る程に恐ろしい現実感を伴っていた。
動揺を後回しにして分析と理解に務めた。そして、更にそれよりも先に、エリーの部屋へと足が向けられていた。
エリーの住まう邸宅は、敷地に比べれば小規模では有るが、決して狭いわけでは無い。邸宅の第1玄関へ到達するだけでも、ここからでは2分程度の時間を要する。もちろん、普通の人間ならば、の話だが。
レンガに僅かな罅を入れながら疾走する人間を、普通の人間とは呼ばないだろう。
「コトネ」
通信機のスイッチを入れ、部下の1人に呼びかける。
『久遠さん! 正門方向が…………』
通信機の向こう側から、若い女性の驚愕した声が聞こえてくる。
「分かっている。監視カメラには何が映っている?」
「い、いえ、何も…………何も映っていません! 私には、その、宙に罅が入った様に見えたんですが、それも今は収まってます!」
久遠は内心、眉を顰めた。だが、どんな事態にせよ、するべき事は決まっている。
「湖錠(こじょう)に1、2班の指揮を取らせて、確認へ向かえ。不審者は拘束、あるいは射殺しろ。敷地内の全てに警戒を怠るな。…………賢想(けんそう)は居るか?」
久遠の冷静な声がコトネの動揺を落ち着けたのか、
『賢想さんは数人を引き連れて、ビーチェ様の元へ向かいました!』
つい先日より預かることとなった、小さな頃のエリーにそっくりな少女、ビーチェ。彼女はエリーの住まう邸宅から、やや離れた場所で過ごしていた。
コトネの声は、幾分落ち着いていた。湖錠も賢想も、やはり久遠の部下に位置する。
「良い判断だ」
そこで通信を切断し、素早く別の回線を繋ぐ。
『久遠様ですか』
しわがれた声が聞こえてきた。声の主が老人で有る事を想起させるには十分な程に、威厳と落ち着きが込められていた。
「賢想。ビーチェ様をお守りしろ。最優事項だ」
言うと、通信機の向こうから、やや意地の悪い笑いが聞こえ、
『…………フランカ様はよろしいので?』
フランカとは、ビーチェの母親だった。
「可能な限りお助けしろ」
言って、通信を切る。賢想の押し殺した笑いが、通信機の向こうから聞こえた様な気がした。
久遠は、正直な所、ビーチェの母親を好きになれなかった。
部下に最低限の処理を命じながらも走り続ける。務めて冷静を装ったが、そうである筈が無い。通信機など握りつぶして、全ての役割を捨て去って我武者羅に走り抜けたい程だった。コンマ1秒以下の時間すら無駄にしたくは無い。
そして、程なくしてエリーの部屋へと辿り着いた。正確にはその下。設置されたテラスを仰ぎ見る格好だ。
玄関はまるで反対方向。エリーの部屋まで来た、と言えば確かにその通りだが、これでは意味が無い。普通ならば入ることが出来ないからだ。梯子でも無い限り、数メートルの高さに有るテラスへなど、入る事は出来ない。
だが、久遠は普通では無い。
走って来た勢いそのままに地面を蹴り、跳躍。まるで、腰元ほどの柵を越えるかの様な気軽さで、テラスのそれを乗り越えた。
テラスに降り立っても勢いを弱める事無く、窓へと手を伸ばす。鍵は当然かかっているのだが、問題は無い。
実は、エリーの部屋とテラスを隔てるこの窓は、一定の方向に一定のリズムで一定の振動を与えると、簡単に開錠する仕組みになっているのだった。
緊急時に窓を壊す事無くエリーの部屋へ入るために、久遠が提案したものだ。
何千何万とテストを繰り返し、偶然で開錠される可能性は皆無であるとの解答を得た。そして、この開錠システムは久遠にしか扱えないものである。…………ちなみに、この窓ガラスは強化ガラスのトリプルガラス構造である。一枚一枚を繋ぐ層にはシリコン樹脂が挿入されているため、物理的な手段で破るのは難しい。
ともあれ、窓を難なく開けて、素早く閉める。鍵をかけることも忘れない。
「お嬢様!」
そして、それら一連の動作と共に、エリーに対しての呼びかけも忘れない。
恐怖には様々な形が有り、その意味も多岐に渡る。この場合、エリーが無事で無かった場合の恐怖。そして、護れなかった場合の恐怖。それらが、胃の辺りに重く圧し掛かっていた。
もちろんそれが、今回のケースにおいて、ほとんど杞憂で有る事は間違い無いのだろうが。それでもそれらの恐怖を拭い去ることは出来ない様だった。
そう。
「騒々しいわね。…………久遠、貴女、焦りすぎではなくて? 」
この眼で、その無事を確かめるまでは。
「申し訳ございません。…………おはようございます、お嬢様」
恭しく一礼する。
ゆったりとした、飾り気の無い、非常にシンプルな純白のネグリジェを身に纏い、部屋の中央で佇んでいた。昨日の就寝前と、当然ながら同じ格好だ。
部屋の中は薄暗い。カーテンは閉められ、電気も付けられていない。日は出始めたばかりなので、薄暗いのは当然か。
「…………何かありましたの? 凄い音でしたけど」
眠気を感じさない静かな声で、動揺の欠片1つ見せ無い。しかし、気のせいかも知れないが、何処か気だるげにも視えた。
「いえ…………」
己の主の泰然とした様子は、久遠に対して、常に1つの感情を奮い立たせる。忠誠という名がそれで有り、その感情が果たすべき役割は、それこそ多岐に渡る。
「いえ、お嬢様がご心配なさる事など、何一つございません」
無事で良かった。
やはり、感じた不安は杞憂だったのだ。全身を安堵感が包む。しかし、それに体を預けているわけにいかない。
「ですが、一応の避難をお願い致したく…………」
言いつつ、エリーの元へと歩く。足早に。春に1度、外部からの侵入を許してしまった。かつての失敗を繰り返すわけにはいかない。
この時、もう少し部屋が明るければ、久遠は気が付いたかもしれない。もちろん、気が付いたところで、どうなるわけでも無いだろうが。
「お嬢様、一先ずは地下に…………」
ご無礼をお許し下さいと、エリーの手を取った久遠は戦慄した。久遠の身体は一瞬硬直し、直後、電流が駆け巡ったかの様な震えが一度起きた。
冷たい。
異常に冷たい。異常。そう…………どう考えても異常事態だ。
「お嬢…………様……………………?」
額から頬を伝い、流れるのは冷たい汗。
思考が停止して、エリーの頬に手を伸ばした。頬に触れた指先から伝わってくるのも、やはり冷たい感触だった。
だが、すぐに生暖かさを感じる事となる。その暖かさは人間の原風景であり、源であった。
赤い液体。
血だ。
これは、血だ。
久遠の最も愛する人の、生命の源だ。
「はっ…………く…………ぁ?」
動揺で、久遠は声も満足に出せなかった。
元々白かった肌を蒼白にし、エリーは血を吐き出していた。大量に吐き出していた。
その血液はエリーのネグリジェを赤に染め、久遠の手の平を赤に染め、飛沫は様々な場所を赤で彩った。
「っっっつぁぁぁぁああぁぁぁあぁぁあああああああああああああああああああああああああっっっっっっ!?」
引きつった久遠の声が、屋敷に響いた。
あの時、感じた不安は正しかった。だが、不安を感じたならば、その瞬間に対処出来ていないと無意味であるという事を、久遠はこの時始めて知った。
気配を消して、慎重に。訓練された人間の動きで、彼らはこちらへ向かってきた。
「まあ、あれだけ大きな音を立てれば、それも当然かしら、ね」
人間が持つ、軍隊の動きに良く似ていた。彼らは、その練度や国柄による特徴は有れど、皆似たような動きをする。
この敷地に日本やアメリカの軍事施設が立てられているような痕跡は無いので、恐らく私兵だろう。現代日本で私兵と称するのは、笑ってしまうほど物々しいが。使用している銃器に際立った特徴は見られないが、どれも最新式らしい事は確認できた。
もちろん、ネクロノミコンと称された少女に、軍事的な知識を入手する必要は無い。だが、視ずとも、聞かずとも、知ってしまいたくない事でも理解できるのだ。
完全では無いにしろ、万能で有る、という事はそういう事だ。
この場所からでは正門の向こう側を正確に知ることは出来ないし、彼らは身を潜めている。それでも正確に人数と個々の装備、そして各人の身体状況等を知ることが出来るのだった。
どうやら指揮を執っているのは少年と呼んでも差し支えない男だ。だが、その集団の中では最も能力が高い。指揮される人間の思考に、淀みや迷いは感じられない。かなり優秀な兵士の様だった。
彼等は正門周辺に素早く展開し、油断無く周囲を見据えている。
その時、老人の夫婦が2人、正門の前を通りかかった。早朝の散歩らしい。普通に考えればそうだろうし、ネクロノミコンにしてみれば考える必要すら無かった。しかし、彼らはそう断定しなかった。彼等の攻撃的な意思が最大限に膨張するのを感じる。老人の夫婦は脳漿をぶちまけられても不思議では無かった。だが、そうはならなかった。指揮を執る少年が合図をすると、彼等の攻撃的な意思はしぼんでいった。
「……………………」
やがて、彼等は引き上げていった。少年には何処かしら焦った様な感情が見受けられる。何かが起こったのだろうか。引き上げるにしては早すぎる。彼らの目的は達成されていないだろう。
目的…………つまり、大音響を引き起こした現象の特定を。
「まあ、どの道、彼らに私を視ることは出来ないのだろうけど」
その現象の元凶は、どうでも良さ気に呟いた。
『殺してでも…………救った…………か?』
「…………何が、よ」
ネクロノミコンの思考に割り込んでくる声。反応しまいとはしていたが、つい反応してしまった。
『あの年老いた人間……2人が…………殺されそうに…………なっていた…………なら…………お前は…………彼等を殺してでも…………救った……か?』
「……………………」
ネクロノミコンは、黙って空を睨み付けた。
説明 | ||
邸宅まで響く大音響。異常を認めるが早いか、久遠はエリーの元へと走っていた。 | ||
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